読書録

シリアル番号 1126

書名

旅は驢馬をつれて

著者

スチーブンソン

出版社

岩波書店

ジャンル

紀行文

発行日

1951/11/5第1刷
2006/2/23第7刷

購入日

2012/12/8

評価



岩波文庫 2006リクエスト復刻

原題:Travels with a Donkey in the Cevennes by Robert Louis Stevenson

TVの旅番組で南仏ラングドック地方(Languedoc)セヴェンヌ山脈での山羊の放牧を観た。このとき「宝島」の作家スチーブンソンの「旅は驢馬をつ れて」(岩波) に描かれて以来、セヴェンヌ山脈越えの道はスチーブンソンの道と呼ばれれていると知った。この地方の山羊のミルクから造るチーズは絶品だそ うである。早速復刻版を手に入れ読む。翻訳者は吉田健一だ。セヴェンヌはフランス中央山塊の東南の端にあり、地中海の農耕・牧畜の文化的景観として UNESCOの世界遺産に登録された。重い荷物を鞍に乗せられた騾馬を人間並みの速さであるかせることに苦労するところがおかしい。

ラングドック平野・丘陵とかセヴェンヌ山脈という地名はブローデルの地中海で読んだことがある。


旅は驢馬をつれて

後に宝島を書くことになる若きスチーブンソンはル・ピュイ(Le Puy-en-Velay)の南15マイルのル・モナスティェ(le Monastier)でモデスティイヌという牝の騾馬を購入し、スリーピングバッグを鞍にくくりつけて出発。徒歩で南下するのだ。南仏なのにここは海抜 1,000m以上の高原でロワール河の上流に当たる。分水嶺を越えると新教のセヴェンヌである。以下ドゴール空港で購入したミシュランのフランス全図を見 ながら読破し、整理した結果である。

第1日(9/22日);St Martin de-FugeresとUssel通過。道に迷ってle Bouchet St. Nicola村につき、この村の宿で一泊
第2日(9/23月);Pradellesで昼食。LangogneでAllier河を渡り、Cheylard l'Evequeに向かって坂を登るが日が暮れて野宿。
第3日(9/24火)戻って再度案内人のおかげでCheylard l'Evequeにつき、更にLucにゆき、そこの宿に泊まる。
第4日(9/25水)Allier河と鉄道にそって河を遡る。la Bastideで左手の丘の上にあるTrappe de-Notre-Dame des Neiges(我が雪の聖母というトラピスト修道院)にゆきそこで2泊。
第5日(9/26木)Trappe de-Notre-Dame des Neiges泊
第6日(9/27金)Chasseradesの村の宿に泊まる。
第7日(9/28土)Chasezac河を渡り、le Estampe村を過ぎMontagne du Gouletに登り、le Bleymardに下り昼食をとる。MONT LOZEREに上り始める。山腹で野営。
第8日(9/29日)le Pont-de-Montvertに下る。ここはフランスでも珍しいカミサール宗という新教の土地だ。このTarn河のある渓谷でクリ畑に野宿。ねずみとアリに悩ませられる。女の乞食にあう。
第9日(9/30月)la Vermede村とCocures村を経由しFlorac町に着き昼食。ここで1泊
第10日(10/1火)Tarnon河をさかのぼり、東西に走るCEVENNES山脈の南側のMimante渓谷に入り河原に野営。ここでは犬の怖さを語る。私も山で犬に出会い怖い思いをしたことを思い出す。
第11日(10/2水)Cassagnas村経過。ここもカミサール宗の根拠地のひとつ。深夜St. Germain-de-Calberte着。ここの宿で1泊。
第12日(10/3木)午后、St. Jean-du-Gardに向け出発。
第13日(10/4金)St. Jean-du-Gardの町も新教徒の街だ。フィロキセラ病が蔓延して、困った農民はリンゴからサイダーを作っていた。12日間、120マイルを一緒に 歩いたモデスティイヌを売って自由になりALESに馬車でゆく。

道中モデスティイヌがいうことをきかず手こずってばかりいたが、パンや草を手で与えれば喜 んで食べたことを思い出し、一人涙を流すのだ。

セヴェンヌというフランス語にケルト語の影響が残っているのだそうだが、フェルナン・ブローデルの「地中海 I 環境の役割」にもセヴェンヌ山地には栗のパンがあると書いてある。たしかにこの山塊の急斜面は栗の木だらけだ。

全行程の鳥瞰図をみるにはGoogle mapのEarthを選んでle Pont-de-Montvertを検索すればみることができる。


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内地の船旅

同じ岩波文庫には他一篇として内地の船旅(An Inland Voyage)が含まれている。これはカヌーをこいでベルギーのアントワープを出発し、シェルト河、ルウベル河、ヴィレブウク運河 (Willebroek)でブラッセルに向かう。ヴィレブウク運河はブラッセルの中心部を南北に走っている。しかしブラッセルか らシャルルロアまでは水門が55もあるというのでカヌーを水から上げ、フランス国境を越えてMaubeageまで汽車で移動した。古戦場ウォータールーな どは汽車でパス。Maubeageはまだ第一次世界大戦の前なので、要塞都市であり、パスポートコントロールも厳しかった。Maubeageからオアズ運 河を下り、セーヌ河に合流する直前の街Pontoiseでカヌーを降りるまでの紀行文である。オアズ運河は柏村勳の「素晴らしいヨット旅行」でも通過している。ベルギーとフランスの国境の高地をロックで上り、下るのである。柏村勳は4ページで片付けている。

ブラッセルの手前のヴィレヴルウク運河でいまでは使われなくなった奇妙な推進法を使う荷船がでてくる。それは運河の底に敷設してある鎖を船首で引き揚げて取り込み、船尾から降ろしてすすむ船である。

このカヌーの旅は驢馬を連れて歩いた旅の後らしく、フランスの軍楽隊が騾馬皮で作った太鼓につき、面白い考察をしている。以下引用。

「大体、この騾馬の尻を打つということほど無益な仕事はないのである。その実生活での効果から言って、騾馬という愚鈍な動物をいかに打ちのめしても、それで 騾馬の歩みが少しも早くならないことを我々は皆知っている。しかし太鼓の皮に用いられるという、このミイラも同様にもの悲しい死後の状態にあっては、空ろ な皮が鼓手の手首の動きに応じて響き渡れば、その一撥毎に人間の胸は掻き立てられ、そこに狂気と、我々が好んで大袈裟な言い方をして英雄的な感情と呼ぶも のが生じるということは、これはかってその驢馬をいじめたものに対する一種の復讐だとということができないだろうか?・・・私の古皮が一度打たれる毎に、 あなた達の仲間の一人が前にのめって倒れるんじゃないか」

Rev. May 7, 2014


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