5.風の行方

風は、空気の動きである。
風は、雲を動かし、雲は日光をさえぎる。
飛行機の窓から下の景色を見下ろすと、雲の陰が大地を走っているのがわかる。
風は目に見えないが、物を動かすことによって、風の動きを見ることができる。

風は、旅人の友である。
風の流れを汲み取ることを風流という。
風の動きで物が削れて行くことを風化という。
砂漠の岩は、風に流される砂の無数の衝突によって、次第に削られ、砂に帰っていく。
風化とは、人間の歴史でもある。
長い歴史における一人の人間は、どこからとなくやってきて、どこかへ消えて行く風である。
風の記録はない。
同じ時代の人とともに行き、時間の中で風化して行く存在である。

風が時代を流し、時代のなかで風は流れて行く。
「日月は百代の過客なり」といったのは、奥の細道を書いた芭蕉である。
時間を旅人とするなら、旅人の友としての風は、人間とみることができる。
風の流れの意味を汲むことが風流で、その風流を楽しみとすることを風雅という。
風流とは、自然の中に、風としての人間の姿を映すことであるとも言える。

風はWINDで、風が入ってくる口(くち)をWINDOWという。
窓とは風を受け入れる口であり、光を受け入れる口である。
窓は心の玄関であり、開くことにより、光も風も自由に入ってくる。
風をたとえた、このHPの名前“HIGH WIND”は、新たな世紀のなかで吹き荒れる空気の動きをイメージして名づけている。
風は、否応無しに吹き荒れ、高なりそして止んでいく。
老子いわく、「午前中にどんなに吹き荒れた風も夕方には衰えて行く。」
高鳴った状態を、生の証と考えれば、“HIGH WIND”はTHIS IS A LIFE.と同義であろう。

THE BEATLESのアルバム“ABBEY ROAD”に BECAUSE という曲がある。
そのなかで、“Because the wind is high, it blows my mind.”という部分がある。
風が強いので心が定まらないとでも訳せようか。
実は、生きていることは、「心が定まらない状態」にいることであり、生きていることは、“風”のように流れていることであり、生きていることは、“HIGH WIND”にあることであると思っている。

つまり、風の流れを知ること、人生を知ることが風流であり、風が強ければ強いほど、誰にも味わえない自分だけの人生を味わっていることにならないだろうか。

今ある自分の人生は、地球の一生( 地球の年齢は46億年 )の中では一瞬である。
いや地球の歴史において、 人類の歴史 (人類の祖先出現が300万年前)そのものが最後の一瞬でできたのである。
宇宙のいかなる星にも寿命がある。
地球の死は、宇宙から降って来る星の衝突がなければ、太陽の寿命で決まる。
太陽の寿命(余命) は、あと50億年と言われている。
つまり、地球は半分まで生きたことになる。
80年の人生でいうと、40歳の働き盛りだ。
まさしく自然環境の視点では、春が訪れている。

地球の余命50億年に比べると、自分の人生80年は、一瞬の出来事である。
一瞬の風だからこそ、全体の風の中の一瞬の意味を追ってみたい気になる。
全体の風はどちらに流れて、自分の風はどこにはみ出すのか?
全体の風はどちらに消えて、自分の風はどちらに消えるのか?

風の行方を読むことは、風の来る方向を知り、風の意味を読み、風の行方を決めることである。
地球が春の状態にあって、 時間的にも空間的にも砂粒みたいな存在である人間は、自身を「風」と捉え、春一番の行方を自らデザインしてはいかがだろうか。

もちろん、自分の風は全体の風のなかで思うように動けないかもしれない。
しかし、はみ出すことに惧れを抱かずに、自分の風の自分にとっての意味づけをするのも、また風流なことである。
自分流を見つけることが、風流であり、他人流を見出すことがまた風流である。

風の行方は天のみぞ知る。
いつ風が止んでもよいように、今の風を楽しむがよい。

風は、空気の動きである。
空気は止まることがない。
自分が止まっていても空気は動く。
自分が動いても空気は動く。
動くことで自分の風を作れば、天の気まぐれで、人生半ばで命を落とすことになっても、その風は、次の風を生み出していくだろう。

一瞬の風の連続が、全体の風を生み出していく。
地球がある限り、空気がある限り、風は吹きつづける。
風の行方を決めるのは、砂粒の存在の個々の人間であることを忘れないで欲しい。

最終更新日: 2002.1.05

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