戦前の日本人ジャズ・シンガーたち

瀬川昌久

レコード・コレクターズ(創刊号 昭和57年4月20日発行)より


戦前ジャズ・ヴォーカルの魅力再認識

 戦前の日本ジャズ・ヴォーカリストについて書くように、との御注文であるが、一般に戦前のポピュラー音楽全体の中から、狭義のジャズだけを取り出して、ジャズ・プレイやジャズ・ヴォーカルのルーツがどうで、それがどのように発展したか、というような点だけを問題にする観点を、私は好まない。最近コロムビアから出した『日本のジャズ・ソング』アルバムの内容が示すように、ジャズ・ソングとは、アメリカのジャズやダンス音楽を始めとして、ハワイアン、シャンソン、タンゴ、ルンバその他凡ゆる西洋伝来のポピュラー音楽を意味する日本独特の呼称であった。誰かが舶来流行歌といったのは、まことに呼び得て妙である。「舶来流行歌愛好会」という会があって、その推進者の牧野氏は、戦前日本で流行した米独仏の映画主題歌などを中心にしたコンサートを普及させたい、と意欲満々である。最近のスタンダード歌曲ブームで、進駐軍のもたらした『1001(センイチ)歌曲集』が脚光を浴びているが、戦前派『222ジャズブック』というのが東京音楽書院から五巻まで出ていて、勿論アメリカ製だけでなく、凡ゆる舶来流行歌が含まれている。
 そんな訳で、戦前にジャズだけ歌った歌手というのは極めて少い。人気ある歌手程タンゴもルンバも手がけた。又ジャズを歌うといっても、今のようにアドリブすることは稀で、精々フェイクする程度だった。だから、といって、彼等が拙劣であったとはいえない。むしろ、1920年代、30年代のエンタテインメントの雰囲気を甘美に表現し得ている魅力的な歌手が少なくないのである。


昭和初めジャズ創生期の歌手達

 日本のジャズ・ソング第一号として史上有名なレコードは、コロムビアとビクターから期せずして、同じ昭和3年に前後して発売された「青空」と「アラビアの唄」である。歌ったのは、両方共二村定一というのも、今日からは考えられぬ珍事であるが、コロムビア版には、天野喜久代の女声が入って二重唱になっている。二人とも浅草オペラ出身だが、大正末期から昭和5年位までは、帝劇オペラを始めとする歌劇出身者でなければ、外国の曲を歌えるだけの技倆がなかったと見える。二村定一は、エノケン一座で長く舞台に立ったので有名だが、昭和3年井田一郎の率いるチェリーランド・ジャズ・バンドが大阪から上京して浅草電気館に出演して、初めて劇場のステージからジャズを演奏した時に「青空」や「アラビアの唄」を歌ったのも彼だった。二村は、ジョージ・ラフトに似た美男子で口を大きく開けて、歌うクルーナー唱法の元祖ともいうべく、ビクターに数十曲の吹込みがある。その中には、「雨の中に歌う」「アマング・マイ・スーヴェニア」「乾杯の唄」「洒落男(ゲイ・キャバレロ)」、「ウクレレ・ベビー」など馴染みの歌が多い。しかし何といっても初期の人で、さしずめアメリカでいえばルディ・ヴァレーといったところ。昭和5年を過ぎると、マイナーの色々なレーベルに流行歌を沢山吹込んでいるが、エノケンとの舞台は兎も角、レコード歌手としては次第に忘れ去られていった。『二村定一ー君恋し』(ビクター SJX8520)には彼の最大のヒットの和製ジャズ「君恋し」や、「浪花小唄」も収録され、前記のジャズ曲は、ビクター10枚のアルバムの中に含まれている。
 女性では、天野喜久代の名前は是非記録しておきたい。井上起久子らと並んで帝劇オペラ出身だけに、声もよく音程もしっかりしている。昭和3年末に、来日した黒人と比人混合6人編成のディキシー・ミンストレル・オーケストラと組んで吹込んだ「月光価千金」「都はなれて」「赤い唇」「愛の古巣」などは外人ジャズメンのアドリブ・ソロの中で、ピアノのコードだけをバックに堂々とスウィングして歌う姉御振りを発揮している(コロムビア『日本のジャズ・ソング』新旧両アルバム収録)。天野は伊庭孝の門下で
、後に川畑文子が来日した時の指南役として付き添って世話をしている。
 この頃の学生バンドの活躍は実に目覚しかった。三越ホールで昭和2年頃既にコンサートを開いた法政大学生中心のラッカンサン・ジャズ・バンドには、渡辺良や津田純がいたが、ドラムを叩き歌った作間毅のヴォーカルを忘れてはならない。作間氏は今も健在であるが、自らアレンジもやり、「月光価千金」「フー」「フレジエート」「バルセローナ」「ラモーナ」など、英語の歌詞も入れて一番バタ臭く歌っている。作間氏は後に鉄仮面という芸名でビクターと契約し昭和7〜8年頃、小関ローイという二世バンドと、「与太オンパレード」と「家へなんか帰るかい」の2曲のコミック・ソングを吹込んだが、これは当時流行った英国のジャック・ヒルトン楽団のヒット曲である。
 ポリドール・レコードが昭和5年に発足した時、ジャズ・ソングを沢山吹込んだ青木晴子の名も記しておきたい。エノケンのカジノ・フォーリーにいた園春枝のことで、「雨の中に唄う」を始め「キャラバン」「思い出」「アフガニスタン」などを唄っている。(ポリドール『不滅のジャズ・ポピュラー史』収録)


二世歌手の登場

 昭和7年末にアメリカから来日した日系三世娘アリス川畑文子  を皮切りに、それから数年の間に多数のアメリカ生れの日系歌手やミュージシャンがポピュラー芸能界に登場する。彼ら日系とフィリピンの人達の果たした役割は、戦前ジャズ界の顕著な特色をなすものであるが、特にヴォーカル界における日系歌手の活躍は目覚しかった。これには相応の理由があった。昭和初期のオペラ出身者達のジャズ・ソングが出た頃は、それが大変にハイカラな感覚の音楽として大衆に愛好されたのであるが、その中にコロムビアやビクターが洋楽レコードをどんどん国内で発売して、欧米のダンス物や唄物を紹介するようになると、インテリやモダン好きの層は、洋盤の方にとびついていった。いかに歌唱力があるとはいえ、ジャズのリズムや英語の歌詞に馴染まぬオペラや音楽学校出身者では、耳の肥えてきたファンを満足させることは出来なくなった。そこで考え出されたのが、アメリカに生まれてハイスクールやカレッジでバンドをやったり歌ったりした二世三世を連れて来て、日本語と英語の両方の歌詞で歌わせよう、ろいうアイデアである。そしてその意図にピッタリ合ったようななかなかに魅力的な男女ヴォーカリストが何人か相次いでレコードでデビューした。女性では川畑文子に続いて、ベティ稲田、ヘレン隅田、チェリー宮野、宮川はるみ、ヘレン本田、男性では、リキー宮川、森山久、タフト別府、ジェリー来栖、ティーヴ釜范など、何れも個性ありチャーミングなバタ臭さをもっていた。彼等は何れも日本語は殆ど読み書き出来なかったが、話すことは出来たので、外人のアヤシゲな日本語よりは遥かに判り易く歌えたし、英語で歌うことによってハイカラな雰囲気を生み出した。
 川畑文子は直ぐにコロムビア専属となり、昭和8年〜9年にかけて、三十数曲もの吹込みを行った。選曲も、スタンダードが多く、後に東宝副社長になった森岩雄が、若き日のアルバイトかせぎに傑作な訳詞をものにして、デビューは大評判だった。まだ17歳だった川畑のあどけないコケティシュな唱法が当った「泣かせて頂戴」は、当時パーロフォン・レコードで人気のあったコーリーなクラリネット奏者、ボイド・センターでヒットした「Sigh & Cry Blues」というインストルメンタル物に歌を入れたもので、奇抜で頭の良い企画が成功した。「いろあかり」は「In A Shanty In Old Shanty Town」、「三日月娘」は、「Shine On Harvest Moon」、その他「セントルイス・ブルース」「ワバッシュ・ブルース」「ロンサム・ロード」「恋人よ我に帰れ」「スイート・ジェニー・リー」「ユカレレ・ベビー」などよく売れた。彼女の歌い方は、声は可愛いいが音程がややフラット気味なので評論家からはよく言われないが、コロムビア・ジャズ・バンドの松本伸さんなどは、高く評価していた。服部良一がホットに編曲した「フー」は傑作である。彼女は昭和10年に一度帰国したがその直前テイチクに移籍し、ディック・ミネのプロデュースで二十数曲を吹込んだ。この頃から音程も正確になり、「バイ・バイ・ブルース」「月光価千金」などフェイクしたジャズ唱法を身につけている。日活映画「うら街交響楽」(渡辺邦男監督)という音楽映画にディック・ミネやテイチク・ジャズ・バンドと出演して、得意のタップ・ダンスやハイ・キックを見せ、主題歌として歌ったのが、「貴方とならば」で、ダンカン・シスターズがコーラスで歌った「I'm Following You」が原曲。このレコードを聞いた自由劇場の吉田日出子が、これを「上海バンスキング」で歌って大ヒットとなり、日出子さんが出るステージで必ずリクエストされる程である。昭和10年頃は、どこのダンスホールでも大変流行って戦前ジャズメンは皆知っているが、戦後は全く顧られなかったのを、日出子さんが掘り出して再び流行したという何とも嬉しい話。今のプロの歌手も、馬鹿の一つ覚えの1001だけを追っかけないで、たまにはこういう佳曲を掘り起こしてみたらどうだろうか。
 さて川畑文子は昭和12年に再来日し、13年にコロムビアに又数曲吹込んだが、「バイ・バイ・ブラックバード」「グッディ・グッディ」「ワー・フー」「グッドナイト・マイ・ラブ」などぐっとジャズ色の濃い唱法となった。彼女の唄は、コロムビアの両アルバムに20曲、テイチクのアルバムに数曲収録してある。
 川畑のすぐあとに来日したベティ稲田は戦後も長く滞日し、最近も時々来日してディナー・ショーで歌っているので一番馴染みが多い。彼女もコロムビアに二十数曲の吹込があり、自由奔放な性格そのままにフィーリングに富んだ唱法で「シュッド・アイ」「ハッピー・デイズ」「月光と影」「ラ・クカラチャ」などがきける。戦後はディック・ミネと渡辺弘とスターダスターズ専属歌手として活躍、テイチクに、「マニヒレ・メレ」と「スー・シティ・スー」を入れてヒットした。
 本格的ジャズ歌手としてミュージシャン仲間に最も人気のあったのは、昭和10年にデビューした宮川はるみである。「はあやん」の愛称で親しまれた色白の美人で、ややハスキーで都会的な哀愁味のある声とリズム感が抜群。「ブルー・プレリュード」と「シング・シング・シング」は、コロムビア・バンドの松本伸のホーキンス張りのテナーと共に、史上に残るジャズ・ヴォーカルといえよう。殊に「シング・シング・シング」の軽快な乗りと、鮮やかなフェイクを是非聞いてほしい。他にも「ジプシー・ドリーム・ローズ」「ブルー・リッジの山々」「恋人よ我に帰れ」など彼女のレコードはみな一聴の価値がある。昭和13年の松竹歌劇団の発足時に、帝国劇場の広い舞台で歌ったバラードのうまさは語り草になっている。今は慶応大学出身の元ギター奏者飯野文武夫人として、アメリカ西海岸で幸福に暮らしている。
 コロムビアに対抗してビクターは昭和9年やはり17歳のヘレン隅田を華々しくデビューさせた。彼女もタップと踊りの出来る二世スターで自らピアノも弾いた。ビクターに吹込んだ16曲の中には、「ザッツ・マイ・ベイビー」「ファイン・ロマンス」「スイートハート・オン・パレード」などの他、「If You Know Suzie」「I'll Spring Along With You」「The Day You Came Along」など昔の粋な曲が入っており、やや玄人向きだが悪くない。唯、彼女は昭和12年に帰米してしまったので、その印象を記憶する人が殆ど無いのが残念だ。
 川畑文子の弟子に当たるのが、昭和10年に15歳で来日したチェリー宮野だ。テイチクに吹込んだ10曲には、「スイート・スー」「ザッツ・マイ・ベイビー」などホットなジャズ調で、歌ったものが多く、タップもうまかったが、やはり数年で帰米してしまったようだ。
 その他、コロムビアがニッポン・ベティ・ブープで売り出したアリス・ハマダ、昭和13年頃二世バンドの歌手として来日したダリー藤岡などのレコードが出た。
 男性は数も少なく、リキー宮川が一番有名。昭和9年に、「朗かに暮らせ(ホエン・ユー・アー・スマイリン)」と、「浮世の旅(アイム・フォロイング・ユー)」でデビュー、続いて、ビング・クロスビー張りの甘いクルーナー唱法とスキャットを見事に演じた「ダイナ」、「マージー」をもじった「マーちゃん」がアカ抜けた良い出来を示した。「アレクサンダース・ラグタイム・バンド」や「スイート・スー」もある。ハンサム・ボーイで、燕尾服にシルクハット、白い手袋にステッキという舞台姿がよく似合ったショー・シンガー。映画にも度々出演し、PCL「すみれ娘」(白井鉄造原作)というジャズ・オペレッタの主役を演じた。戦後も暫く日劇ショーに出たりしたが間もなく非業の死を遂げた。
 タフト別府という人が、「セントルイス・ブルース」と「牧夫の別れ(ラスト・ラウンド・アップ)」の2曲だけを昭和9年に吹込んでおり、やはりクロスビーを真似た歌い方だ。
 唄は余技だが、コロムビア・バンドのトランペッター、森山久の一寸ルイ・プリマに似たヴォーカルも、棄て難い味があった。服部良一が最初に作った和製ブルースの「霧の十字路」、映画「ハリケーン」の主題歌「マナクーラの月」、ルンバで流行った「南米の伊達男(サウス・アメリカン・ジョー)」など、太いシワがれた声でジャズ奏者らしいフィーリングを発散させる。戦後もニュー・パシフィック楽団で長く活躍し、今も森山良子の父君として健在の好々爺である。
 ギター弾きのジェリー来栖もなかなかの美男で吉本興業のショーに参加、コミックなジャズ漫才ザツオン・ブラザーズの一員としてあきれたボーイズに対抗し、得意の英語の唄で人気を呼んだ。その片鱗が、レコード化されている。
 戦後、歌手として盛んに活躍したティーヴ釜范、フィリピン出身の今も健在なレイモンド・コンデも、戦前から歌ってはいたが、レコードは戦後になってからだ。
 二世歌手達のレコードがもてはやされたのは昭和10年前後がピークで、本場のジャズが洋盤で続々きかれるようになると、英語でわざわざ歌うことの有難味が次第に薄れくるし、それに時局の重圧もあってレコード会社のカタログからは段々と少くなっていった。しかし今改めて彼等の唄をきき直して見ると、やはり日本生れの歌手に無い本場のフィーリングが漂っていることに、そこはかとない魅力を感ずるのは、私のみであろうか。


三大個性的男性歌手現る
ディック・ミネ、岸井明、エノケン


 昭和10年頃から、日本生れの歌手の中にも、優れたフィーリングをもった個性的シンガーが何人か育ち始めた。ディック・ミネ、岸井明、エノケンの3人は、ある意味でアメリカの物真似でない独特のキャラクターを打ち立てた点で、戦後出も比肩し得ない偉大なパーソナリティであった。
 ミネさんについては、74歳の今日もカクシャクとして第一線で歌っているので説明の要もなかろう。昭和9年テイチク専属となって以降、ジャズやポップスの吹込は、恐らく数百曲に上ると思われる。立教大学生時代からジャズがメシより好きで、毎朝キャブ・キャロウェイやミルス・ブラザーズのラッキー盤を枕元で鳴らして目を覚ました、という位、天衣無縫の大豪傑で、ダンスホールで育ち、自らもドラムとギターを弾いたのでプレイヤーと同じフィーリングを持っている。テイチクには、シャンソン、ハワイアン、タンゴも含めて凡ゆるポップスを吹込んでいるが、純粋のジャズ・ヴォーカルといえるものも沢山ある。昭和10年吹込のエリントン作の有名な「スイングが無ければ意味ないね」をきくと彼がいかに卓越したセンスをもっていたかが如実に判る。「ダイナ」「セントルイス・ブルース」は南里文雄の不朽のトランペット・ソロとの絶妙のコンビが素晴らしい。意欲的だったミネは、当時フロリダに来演していた黒人A.L.キングのバンドと契約して、そのジミー・ランスフォード張りのサウンドをバックに同曲を英語で再び吹込んだレコードもある。何といっても彼の若々しいバリトンが最高にのっている昭和10年代の唄が最高で「マイ・メランコリー・ベイビー」「君微笑めば」「ワバッシュ・ブルース」「恋人よ我に帰れ」「インディアン・ラブ・コール」「君いづこ(サムボディ・ストール・マイ・ギャル)」「チーク・トゥ・チーク」「ケヤレス・ラブ」「唄は廻る(ミュージック・ゴーズ・ラウンド)」「ウィスパリング」「アバロン」などなど、今もスタンダードとして広く歌われているナンバーを網羅している。杉山泰蔵や中村寿士の編曲したテイチク・ジャズ・バンドも、アドリブ・ソロがフンダンに出て来るかと思えば、ハル・ケンプやガイ・ロムバート風の甘いアンサンブルも満点で、当時の日本ジャズ界の水準の高さに目を見張るであろう。ミネの傑作ばかり集めた2枚組みのアルバムは残念乍ら廃盤になってしまったが、テイチクの3枚アルバムにも10曲位入っている。現在ミネの全歌唱百曲を集めた記念アルバムの制作が進行中で、従来未収録の傑作が多数陽の目を見ることを期待したい。
 岸井明、愛称アーちゃんは、3枚目の喜劇俳優としてPCL映画で多くの音楽映画に出演、太った巨体と童顔で親しまれたが、根っからのジャズ好きで、センスも抜群だった。兎に角外国のジャズ・レコードの大コレクターで、自らも歌いたくてたまらず、昭和10年頃、PCLジャズ・バンドの指揮者谷口又士にせがんでは、ビクター・レコードの吹込を促進した。全部で十数曲の吹込の中には、ジャズ・センスの溢れた傑作が多い。「ダイナ」で後半テンポを早くして、ミルス・ブラザースに範をとり、口に手を当ててトランペットの真似をきかせ、「プリーズ」は、クロスビー張りののんびりとしたクルーナーで歌う。「スイート・スー」を「スーちゃん」という迷訳で自家薬籠中のものとして歌い込み、「マイ・メランコリー・ベビー」のセンチメンタルな表情、ミネも歌った「ミュージック・ゴーズ・アラウンド」の楽器とのかけ合い、「アレクサンダー・ラグタイム・バンド」のスウィンギーな軽快さ、谷口の見事なアレンジとあいまって、実に立派な個性あるヴォーカルが楽しめる。
 次にエノケン、これは又大変なジャズ歌手である。何しろ自ら日劇の舞台に後藤博をリーダーとするエノケン・ディキシーランダースを出演させてジャム・セッションをやった位のジャズ好き。栗原重一の指揮編曲するピエルブリアントの劇団所属バンドは、毎週アメリカから新しい譜面をとりよせて、新曲をステージに発表した。舞台や映画のエノケンの芝居には、数々の外国曲の旋律が巧みに使用されていた。しかしレコードとなると、昭和11年にポリドール専属になってから、戦前5年間に僅かに三十数曲を吹込んだのみ。その中には、有名な「ダイナ」「月光価千金」「南京豆売り」から、「トカナントカ言っちゃて」など和製コミック・ソングまで色々あり、「エノケンの浮かれ音楽」は、「ミュージック・ゴーズ・アラウンド」で、岸井明、ミネ、コロムビア・リズム・ボーイズと四者競演になっている。何れにしても、エノケンの唄は調子を外しているようだが、抜群のセンスで独特のアドリブをやっているわけで、まさに空前絶後の日本的ジャズ・シンガーと言えると思う。ポリドールから1枚のLP(14曲)が出ているが、全曲収録のアルバムを絶対に出すべきだろう。


個性的女性ヴォーカリスト
最高のショー・シンガー笠置シヅ子その他


 戦前の最も個性的なジャズ・シンガーは笠置シヅ子であろう。昭和13年大阪松竹レビュー(OSSK)から抜てきされて、新生松竹楽劇団(SGD)の看板娘となり、鬼才服部良一の指揮作編曲とのコンビで、帝国劇場の広い舞台をところ狭しと、ダイナマイトのようにホットに歌いまくった。双葉十三郎氏をして『スター』誌上に感歎おく能わざる讃辞を呈せしめた彼女こそ、戦前戦後を通じても、ジャズを最も日本的に体内に消化してナチュラルに具現した殆ど唯一の歌手であった。彼女がコロムビア専属となったのは昭和14年で、既に時局の弾圧が激しくなりかけた頃とて、舞台で発表した傑作の五分の一もレコーディング出来なかった。それでも、「セントルイス・ブルース」「ペニー・セレナーデ」「美わしのアルゼンチナ」をホットに歌った他、服部良一のオリジナル作品「ホット・チャイナ」「ラッパと娘」「センチメンタル・ダイナ」を残した。勿論恩師服部の指導宜しきを得たとはいえ、奔放に歌いまくる迫力と、驚くべき広音域の声量、身についたリズム感は今きいても素晴らしい。「ラッパと娘」における「ドデジタドデジタ‥‥‥」というスキャット、映画「画家とモデル」におけるルイ・アームストロングのトランペットとマーサ・レイとのかけ合いを模したくだりなど、戦前ステージ・ショーと和製ヴォーカルの一つの頂点を示すものだ。戦後の「東京ブギウギ」に始まるブギ旋風が笠置の成果のようにいわれているが、戦前の若々しいバイタリティ溢れる時期の笠置の唱法と服部の作品にみる自由の抵抗精神の方にこそ、ジャズのスピリットが躍動している。この他終戦直後の服部ー笠置のコンビになる「コペカチータ」「ボンボレロ」「ハイハーイ」「タンゴの話」などには、一連のブギとは違った個性がつらぬかれており、優れた日本的ポップスのオリジナルとして記憶さるべきだ。
 戦後もジャズとブルースを歌って大活躍した水島早苗は、戦前トニー相良の名でタイヘイ、テイチクに何曲かの吹込があり、ハワイアン物も含めて、後の個性の片鱗をうかがうことが出来る。
 ジャズ歌手ではないが、ポップス歌手としての淡谷のり子の偉大さを忘れることは出来ない。タンゴ、シャンソンを主流とした彼女の若き日の美しく表情に富んだ唄声は、戦後の越路吹雪にも比せらるべきであろう。アルゼンチン・タンゴの吹込などには、コレクターにとって貴重な曲が多数含まれており、専属のタンゴ・バンドを率いていた頃の充実した歌と演奏が多くのレコードに残されている。


ジャズ・コーラスの最高は戦前の
リズム・ボーイズとシスターズ


 コーラスは日本人の最も不得意とするところといわれるが、昭和10年頃からコロムビアに誕生した中野忠晴とリズム・ボーイズ、リズム・シスターズは、和製ジャズ・コーラスという一分野を確立した特筆すべき存在だった。リズム・ボーイズの方は、「ミュージック・ゴーズ・ラウンド」「タイガー・ラグ」「サンライズ」「ビギン・ザ・ビギン」「グッドバイ・ブルース」「支那街」など、スタンダード曲をミルス・ブラザース張りに見事に歌っており、バリトンがしっかりしているので、低音のハーモニーが立派だ。昭和12年頃から服部良一の日本調オリジナル「山寺の和尚さん」「お江戸日本橋」を始め、多数の傑作をものにした。戦後ダークダックスやデューク・エイセスがよく歌っているが、スイングすることにかけては元祖の方が遥かに優れていると思うのは私の思い過ごしだろうか。それにも増して素晴らしいのは、服部先生が自ら気合を入れて育成したリズム・シスターズの女声コーラスの魅力である。メンバーは色々変ったが、豊島珠江、高杉妙子、奥山彩子、鈴木芳枝などソロイストとしても卓越したポップ歌手の能力を持つ人達が揃って、「もしもし亀よ」「日の丸数え唄」「アホダラ心経」「月に踊る」などなど、ボスウェル・シスターズかくもやとあらんばかりにきれいに揃って分厚くスイングするハーモニーをきかせてくれる、兎に角よくスイングしていることは驚くばかりで、いかに指導者服部先生の感覚が良かったか、という証左であろう。今のニューミュージックのコーラス・グループも、マンハッタン・トランスファーなどに憧れる前に、とくとこの方をきいて勉強して貰いたい位だ。


戦前のヴォーカル物のきける
SP復刻アルバム


 最後に今までお話した戦前のヴォーカルの入った復刻アルバムを列記しておく。
(1)『日本のジャズ・ソング戦前編』(コロムビア SZ7011〜5=1976年)廃盤
(2)『日本のジャズ・ソング戦前・戦中・戦後のポピュラー史』(コロムビア AZ7130〜6=1982年)
(3)『淡谷のり子名唱集』(コロムビア AL5075〜6=1972年)廃盤
(4)『中野忠晴とリズム・ボーイズ「山寺の和尚さん」』(コロムビア NZ7066=1977年)廃盤
(5)『日本のジャズ・ポピュラー史戦前編』(ビクター SJ8003-1〜10=1976年)
(6)『若き日のディック・ミネ』(テイチク SL116〜7=1974年)廃盤
(7)『日本ジャズ・ポピュラーの歩み』(テイチク SL511〜3)1978年
(8)『戦前日本のジャズ・ポピュラー傑作集』(キング SKM1471〜2=1977年)廃盤
(9)『不滅の日本ジャズ・ポピュラー史』(ポリドール MR9163〜5=1975年)
(10)『唄うエノケン傑作集』(ポリドール MR4025=1977年)廃盤