生薬歳時記 12月


 乳香と没薬

約二千年前、パレスチナの寒村ベツレヘムで、旅行中の貧しい大工の子としてイエスと呼ばれる赤子が生まれた。東方にあって占星術の研究をしていた三人の学者が星に導かれてこの赤子を訪ねあて、三種の宝物を捧げた。それは黄金と乳香と没薬であった。新約聖書はそのように、後にキリストと呼ばれる人の誕生の物語を伝えています。

幼いころにこの話しを聞いて、乳香、没薬という見たことも聞いたこともない宝物の名に、とても神秘的、異国的な印象を受けたことを覚えています。それが一体どんな物なのかわからないまま、記憶の底に沈んでいました。

歳月は流れ、乳香が突然私の前に現れたのは、昨年のことでした。患者さんの一人が持ってきてくれたそれは、切り取った親指のような形をして、乳汁と果汁をかき混ぜたような不思議な半透明の色をしています。彼の言う方法で加熱してみると、芳香を含んだ白煙が、ふつふつという微かな音とともにたちのぼります。その香りは、深い森に抱かれたような安心感と清々しさを呼び起こすのでした。

その患者さんの身内の方が、アラビアから乳香の輸入をされている、ということで、私もその後ときどき譲っていただき、乳香を焚くようになりました。不眠や喘息などに効果がある、とのことでしたが、私の使い方はリラックス目的のアロマセラピーというところでしょうか。

乳香はカンラン科のニュウコウジュという木の樹脂が固まったもの、没薬のほうも、ごく近い種類の木の樹脂が固まったものだそうです。

私たちの生活にほとんどなじみのないこうした物に「乳香」と美しい日本語の名前がついているのが不思議に思えて、いろいろ調べてみたら、驚くことがたくさんありました。

だいいち、漢方治療のための生薬の事典に、乳香も没薬もちゃんと載っているではありませんか。シルクロードを通じて古くから西方と交易のあった中国では、乳香も没薬も古くから薬物として導入され、中国での生薬の名として、西方でいうオリバナムを「乳香」と、「ミルラ」を「没薬」と呼んだのでした。聖書と漢方薬がこんなところで結びついていました。

専門書によれば、中国では乳香、没薬とも外科・整形外科の常用鎮痛薬で、両者を併用することが多い、とあります。しかし現在の日本では、漢方治療に乳香や没薬を使うことはまずありません。

驚いた、というよりは不明を恥じるべきなのかもしれません。意外のもう一つは、ミイラです。ミイラって、没薬の原語に当たるミルラがなまって、しかも名前と物がズレたまま固定して日本語化してしまったものだそうです。古代エジプトでは、遺体を防腐処理してミイラ化するのに没薬が使われたのですが、その薬の名がミイラという名になってしまった、というのです。

異文化の出会いにこうした混乱はつきものでしょうが、混乱といえば、「カンラン」もコンランしています。乳香も没薬もカンラン科の木から採れます。「橄欖」と書いてカンラン、これをオリーブのことだと思っている方が少なくないのではないでしょうか。オリーブの実とカンランの実が似ていることから、中国で聖書を訳す時にオリーブを橄欖と書いてしまったのが混乱の始まりだそうで、日本語の聖書でも昔は混同されていたし、旧制高校の寮歌などでも、橄欖と書いてオリーブとルビをふったものがあるそうです。

異文化を導入するときの言葉の混乱は、医学に関してもみられます。漢方で言う五臓六腑、「肝、心、脾、肺、腎」の五臓と「胆、小腸、胃、大腸、膀胱、三焦」の六腑を、江戸時代、西洋の解剖学が移入された時、エイやっとばかりに解剖用語の訳語として採用してしまったばかりに、とんでもないズレがたくさん生じました。その代表が「脾臓」です。

今の医学で脾臓といえば、左脇腹にあって、血球の破壊、新生や、リンパ腺の親玉のような免疫機能を担う臓器。ところが、漢方でいう「脾」は、「胃」とセットになって、食物を消化吸収して生体のエネルギーである「気」に転化する、ということになっています。なんて非科学的、なんて言わないでくださいね。解体新書が訳された時に、英語のスプリーン、ドイツ語のミルツ、ラテン語のリエンに相当する言葉として、漢方の「脾」を当ててしまったのが間違いだったのですから、非は漢方の側にはないのです。

今回は、ややこしい話しになってしまいました。ともあれ、メリークリスマス、そしてよいお年を。


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