河瀬直美・大島渚対談1997.12.09

 1997年12月9日に札幌で河瀬直美、大島渚両監督の対談が実現した。

 「萌の朱雀」で、史上最年少、日本映画初のカンヌ国際映画祭カメラドール賞を受賞した河瀬直美監督と96年2月に脳梗塞で倒れて以来初の対談となる大島渚監督という貴重な顔あわせという意味だけでなく、現在の映画を考える上で、とても示唆に富む内容なので、ここに要旨を紹介する。なお、河瀬監督はプロデューサーの仙頭武則氏と結婚、今後は仙頭直美として監督を行なう。

 河瀬「この映画は、奈良県の西吉野村という過疎の村が舞台。いきなり撮影隊が行ってやったとしても、村人は恐怖感を抱く。それでは心の協力は得られない。映画を撮ることは第一の目的だが、その前に彼等との関係を深めることが映画を成功させる第一の鍵だと思っていた。自分の仕事をやめて、その村に通いつめ、一人の河瀬直美として彼等とつきあい始めた。空き家を借り、提供してもらった土地を自分で耕すところから始めた。大地に根を下ろした作物がそこに実らないと私は本当にある映画は描けないと思った。用意、スタートだけで始まる枠内だけではなく、その外側のことから深くやって行かないと、余裕のある映画は撮れない。スクリーンだけではなく、そこからはみ出す部分の思いを撮れないと思った。ほとんどの役者さんは村の人たちなので、その人の人生と向き合いながらある期間映画人生を歩いていただいた」

 大島「映画というものが、今大変なピンチである。今までの映画は駄目だと皆んな思っている。何が変える契機になるかというと、それは最後は映画の作り方だ。昔の撮影所でつくったような作り方ではなく、全く新しい映画の作り方をしているかということが一番大事だ。20世紀後半の映画を考え続けてきたが、映画の作り方そのものを変えなければ映画は変わらない。たとえば、イランのキアロスタミという監督がいる。主に子ども、あるいは知っている人々と一緒に映画を作っている。生活に根差している。ただ、用意、はい、といったところから始まるのではない。その前にすでに彼等の生活があって、その生活そのものを見せることで映画が成り立っている。そういうものを共通に感じる。世界的に映画が新しくならなければならない。映画は今第2世紀に入ろうとしている。僕らは1世紀目の途中から今までの映画というものに疑問を持って、いろいろと変えることをやってきた。最終的な結論、共通の良き監督たちの考え方が作り方そのものを変えなければ駄目ではないかというところに来ていると思う。そういうものとして、彼女の映画がある」

 河瀬「私やキアロスタミさんの映画は、ちょっと前までは、すごくクサイと言われていたような、力いっぱい生きるとか、精神的な部分とか、生と死とか、人間が何を考えて生きているとか(を取り上げている)。そういうものがものすごく求められていると思う。そういうものが求められる世の中は、実はおかしいかもしれない。人間の本当に豊かな心の部分が、日常生活の中から無くなってきている。私がそれを表現したときに評価されるというのはおかしいことかもしれない。生活の豊かさと精神の豊かさのアンバランスさが、この作品を生み、そして評価されたような気がする」

 大島「監督は何を撮るかが大事なのではなく、何を撮らないかが大事だ。その人の映画が決まっていく。皆さんは今日の映画を観て、戸惑われる部分があると思う。何でこういうところがないのか。こういうシーンがあるべきではないか。しかし、それを撮ったら常識的になってしまう。あえて撮らないで自分が撮りたいものだけを撮る。それが彼女の映画の最大の強みだと思う。そこで彼女の映画は始まっている。拒否する姿勢こそが、映画監督の生命線であり、その生命線を彼女のように最初から守っている方が、将来の日本の映画を背負うと思う」


点です大島渚氏VIDEO(Real Player) 点です河瀬直美さんVIDEO(Real Player)

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