汚名に塗れた人びと  (『みすず』1998年8月号)

市野川 容孝

 一九四八年七月に制定された「優生保護法」は、周知のように一九九六年六月「母体保護法」に改正された。改正の主な点は、@第一条(法律の目的)にあった「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という文言が削除され、「優生手術」という表記が「不妊手術」と改められた、A不妊手術ならびに妊娠中絶の事由として、遺伝性の疾患や障害をあげていた条項が削除された、B不妊手術に関して、これを本人の要請にもとづくことなく行うことを認めていた条項を削除し、そのための認可機関であった「優生保護審査会」を廃止した、などである。一言でいえば、戦後の日本社会において優生学、優生思想を正当化してきた法的根拠が、今や姿を消したということである。

 すでに指摘されているように、この改正はさまざまな課題を残している。例えば、改正にともなって参議院でなされた付帯決議、すなわち「この法律の改正を機会に、国連の国際人口開発会議で採択された行動計画および第四回世界女性会議で採択された行動綱領を踏まえ、リプロダクティブヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康・権利)の観点から、女性の健康等に係わる背策に総合的な健康を加え、適切な措置を講ずること」という課題は、いまだ現実のものとはなっていない。刑法の堕胎罪に関する条項が依然として残されているという現状においては、出産に関する女性の自己決定権はいまだ完全な形では認められていないという批判が出されている。また、確かに「優生」という文字が法律から消えたとはいえ、一九世紀末に優生学者たちが待望していたであろう諸技術、例えば障害や疾患をもつ子どもの出生を「予防」するための診断技術は今日、そして今後も次々と開発され、臨床で応用されようとしている。こうした事態に、どう対処していくべきなのかという問題がある。

 しかし、「優生保護法」の「母体保護法」への改正は、もう一つ重要な課題を私たちに突きつけていると私は思う。それは、きわめて単純なことなのだが、かつて「優生保護法」の下で、これによって直接、間接に根拠を与えられながら、何が行われたのか、それを明らかにするということである。眼差しを未来に向けて、あるべき施策を考えていくことは無論、重要なことである。しかし同時に、眼差しは過去にも向けられるべきだろう。


 去る六月二十六日、私は何人かの方々とともに厚生省におもむき、私たちとしては二通目の要望書を提出した。

 昨年の夏にスウェーデンにおける強制不妊手術の問題が報道されたのを一つのきっかけとして、日本でも優生保護法下でおこなわれてきた同様のことがらに関する実態解明と然るべき国の対応を求める市民グループが結成され、私自身も非力ながら、このグループに名を連ねている。グループは昨年十一月に、三日間という非常に短い期間ではあったが、ホットラインを開設し、強制不妊手術あるいはその他の被害を受けた人びとから直接の声をつのった。これに先立つ九月十六日に、私たちは厚生省と第一回目の交渉をもったが、厚生省側の回答は「不妊手術は、たとえ本人の意思に反するものであっても、当時としては合法におこなわれたものであるから、謝罪も実態解明もするつもりはない、もし違法なケースがあるのなら教えてほしい」というものだった。つまり挙証責任は国にはなく、私たちの側にあるというわけであり、私たちのホットラインも厚生省のこうした「無関心」を一つの理由として開設されたのである。去る六月の交渉は、右のホットライン等を通じて、わずかながらも私たちがこれまでに知り得た事実(朝日新聞、一九九八年六月○○日付、参照)を厚生省に報告し、実態解明を重ねてお願いするというものだったが、厚生省は前回と同様の「無関 心」を繰り返した。

 私たちが知り得たことは「氷山の一角」と形容することさえ憚れるような、本当にわずかなものにすぎない。しかし、それでも、それを一研究者として書きとめ、人びとに伝えることは私の義務ではないかと思う。以下は、新聞報道を通じて私たちの活動を知った方から私が頂戴した手紙であり、支障のない範囲内でご紹介する。

 「朝日新聞(一九九七年)九月十七日付の記事を読み、大変、突然で恐縮でございますが、どうしても報告したく書かせて戴きました。私は某精神薄弱者施設で働いておりましたが、新聞に掲載された手術は七一年に行われたと記憶しております。Kさん(当時二十五、六才、ビネーIQ四〇位)、細面の綺麗な方、感情のコントロールがうまくいかず、ハイパーな状態が続くと落ち着かず、キャーキャー騒ぎ、男性を追いかけ、特定の男性との性的関係が度々、職員の目にとまり、管理上監視しきれないという主任と看護婦の意見で、家族を説得、事後報告として職員会議で知らされました。『お腹の病気なんだって』と本人は帰宅できることでウキウキ荷造りをし、十日間ほど退所、子宮全摘(腹部十センチ以上の傷)を受けて、『お腹良くなったヨ』と戻って来ました。腹部を押さえて『痛いよ』と時々訴えに来るようになり、更に一、二カ月すると『先生、生理来ないヨ』と毎日、職員室のドアをノックしては繰り返し訴えるようになりました。その都度『おかしいね』、『今に来るかもしれないよ』等と誤魔化した対応をしていました。物品の貧しい当時の施設生活では、生理用品を職員から貰う事でさえ、喜びの一つだったようにも思われます。次第にふっくらとした頬も痩せてきて、皺も増え、年齢よりも老けてき始め、感情面も沈みがち、ハイパーなとりとめのない行動は減少してきたように記憶しています。男性との接触も管理上、心配のないため放っておかれたのでしょう。Kさんの手術以前にもすでに一人(子宮を)全摘された方もおられました。性関係が見つかるとすぐに、この話が職員間で持ち上がったように思います。職員は、少年院からの人、中学教員からの人、社会福祉専門の人などでしたが、誰一人として、この件について疑問を投げかける者はおらず、むしろ当然の事と、事後承諾していました。私自身も全く同様で、考えますと強い自責の念に苛まれます。このような記憶も薄れた時点での報告では、とてもお役に立つとは思いませんが私自身、長い間かかえ込んでいた心情の吐露としてお読み戴ければ幸いに存じます」。

 このケースは、当時の優生保護法にさえ違反するものである。なぜなら、この法律が認めていた「優生手術」は「生殖腺を除去することなしに」(第二条)おこなわれるものに限られており、不妊の方法として子宮摘出など認めていなかったからである。事実、例えば性転換を望む女性に対する子宮摘出手術は、この優生保護法の規定に違反するものとして、これまで認めてこなかったのである。しかし、精神障害者や知的障害者に対して、右のように「お腹の病気」と偽って、本人の同意もなしに不妊手術をおこなうことは認められていた。確かに、優生保護法そのものには「強制」という文字は一つも出て来ないが、優生保護法の制定とともに厚生省が各都道府県知事に宛てて発令し、九六年まで効力を有していたガイドライン「優生保護法の施行について」は、はっきりこう記している。「審査を用件とする優生手術[=医師の申請にもとづき、その可否を都道府県の優生保護審査会が決定する不妊手術]は、本人の意見に反してもこれを行うことができるものであること。……この場合に許される強制の方法は……真にやむを得ない限度において身体の拘束、麻酔薬施用又は欺罔等の手段を用いることも許される場合があると解しても差し支えないこと」。私たちとの第一回目の交渉にあたってくださった厚生官僚の方々は、そもそも優生保護法は問題となるような強制措置を認めておらず、だから実施もされていなかったという口ぶりだった。しかし、身体をがんじがらめにしたり、麻酔で眠らせたり、あるいはだまして、不妊手術を実施してもいいと現場に指導してきたのは、他ならぬ厚生省だったのである。なるほど子宮摘出は認めていなかったとしても、本人の同意なしに、いや文字通りの強制によって、精神障害者や知的障害者から生殖能力を奪ってもよいのだという理解を福祉や医療の現場に植えつけたことに対する厚生省の責任は大きいと私は思う。右のKさんのケースは優生保護法から逸脱しつつ、しかし優生保護法が形づくっていた社会空間の内部でのみ可能な出来事だと言うべきだろう。


 かつてM・フーコーは、一七、一八世紀のフランスで施療院等の収容施設に監禁された人びとに関して当局側が残した記録を資料集の形でまとめながら、この来るべき書物の序文として「汚名に塗れた人びとの生」と題する一文を書いた(Foucault 1977)。「あたかも実在しなかったような生、それらを根絶するか、少なくとも消去することのみを意図した、ある権力との衝突によってしか生き延びはしなかった生、多様な偶然の所産を通してしか、われわれが知るところとはならなかった生、これこそが汚名(infamie)なのであって、私がここに採集しようとしたのは、そのわずかばかりの名残りにすぎなかったのである」。汚名に塗れた人びとの生は、本来ならば、その他の無名の民衆と同様に、たった一文字の記録さえ残されずに忘却の淵に飲み込まれていくはずのものだった。しかし、それが何かしらの形で、例えば「ジャン・アントワーヌ・トゥーザール、一七〇一年四月二十一日、ビセートル城砦に収容、……憎むべき本物の鬼畜であって、野に放つよりは押し込める方が差し障り少なかるべし」という形で書きとめられ、しかもその記録に私たちが現在、接することができるのはなぜなのか。それは権力、しかも彼ら、彼女らの生を「根絶するか、少なくとも消去することのみを意図した」権力が、まさにその目的のために、彼ら、彼女らの生を、一瞬ではあれ、鷲掴みにしたからに他ならない。彼ら、彼女らの生を否定しようとする権力が、にもかかわらず、いやそうであるがゆえに、その生を書きとめ、それに記憶という名の命を吹き込んでしまうという矛盾、それが「汚名」を産み出す。

「彼らを永遠に人間の記憶には値せぬものにするはずであった、わずかばかりの恐ろしい言葉を通してしか、彼らはもはや存在してはいない。……彼らの現実への回帰は今、彼らを世界から追放した形式そのものにおいてなされている」。私が右の手紙によって偶然、知ることになったKさんの生、一般社会から施設へと隔離され、その生の再生産を完全な形で禁じられた生、それはまさに「汚名」である。彼女が、他の人びとには認められていたような自由を享受していたならば、右のようなことは起こらなかったし、私自身も右のような手紙を受け取ることはなかっただろう。私たちが厚生省に求めている実態解明とは、要するに、優生保護法の下で、こうした「汚名」を産み出した言葉、「彼らを永遠に人間の記憶には値せぬものにするはずであった、わずかばかりの恐ろしい言葉」を白日の下にさらし、彼ら、彼女らの生を私たちの記憶にとどめるということなのかもしれない。

 しかし、私たちの取り組みに重ね合わせてみるとき、汚名ならびに権力に関するフーコーの見解には、いくつかの補足ないし修正が求められる。まず第一に、私たちが出会う、あるいは出会おうとしている「汚名に塗れた人びと」は、決して過去の人間ではないということ。彼らは一七世紀、一八世紀の人びとではなく、われわれの同時代人である。どれくらいの人びとがすでに亡くなっているのか、あるいは存命なのかは、まだはっきりしていないが、少なくともそのうちの何人かの人びとと私たちは今も同じ社会の中で生きている。

 第二に、このことと深く関係するのだが、私たちは「汚名に塗れた人びと」に対して権力の側が与えた言葉ばかりでなく、「汚名に塗れた人びと」が自ら発する言葉にも耳を傾けることができるし、またそうしなければならないということ。件の資料集でフーコーは、おそらく扱う対象そのものに由来する制約から、前者の言葉(当局が残した収監者に関する記録)にのみ焦点をあてているが、それでも次のような反論の可能性を自覚していた。「人は私にこう言うだろう。――あなたはいつだって、敷居を跨ぎ超えて反対側に立って、そこから出発するということができないし、他の場所から、あるいは下から発せられる言葉を聞いたり、聞かせたりすることができない。そしていつだって権力の側に立ち、それが言ったり、言わせたりしたことから始めようとする。どうしてこれらの生を、それ自身が語っている場所において聞こうとしないのか、と」。支配する者とされる者、抑圧する側とされる側という二分法に立脚した従来の権力論を解体するために、フーコー自身はこの仮想された反論に対しても否定的に、少なくとも曖昧に答える。しかし、「汚名に塗れた人びと」が自らの「汚名」について紡ぎ出す言葉に耳を傾けること、それは私たちのグループにとってきわめて重要な課題である。Kさんをはじめとした多くの人びとが発する声に私たちはまだ到達できていないが、当事者自身の声の発露なしには私たちの問題は決して解決しないだろう。一九八〇年代になってドイツでは、ナチズム期におこなわれた強制不妊手術の被害者に対する補償が実現し、現在では月額最低一〇〇マルクの年金が支払われている。しかし、もっと重要なことは、被害者たち自身が自らの経験を互いに語り合うことのできる自助組織が結成されたということである。被害者たちは戦後ずっと互いに孤立し、過去に自分に対してなされた不正について固く口を閉ざしていた。なぜなら、不妊手術の経験を口にするということは、たとえナチズムという圧政の下でではあれ、自分がかつて「低価値者」と認知されたことを告白することであり、それは「低価値者」というスティグマを現在、再び身に引き寄せる危険性をはらんでいたからである。そうした沈黙から訣別し、自らの経験を語っていくことは、当事者にとって大きな苦痛をともなうものだったに違いない。しかし、そうした声の発露なしには彼ら、彼女らの汚名を(例えば補償金の支払いという形で)雪いでいくことも不可能だった。ケルン市の保健所が現在、発行し配布している『ナチズム医療の犠牲者(Opfer der NS Medizin)』というパンフレットには次のように書かれている。「私たちは次のようなとき、あなたのお力になります。……あなたが、あなたと同じ問題をかかえている他の人たちと話してみたいと思うとき。(ケルンには、あなたと同じ問題をかかえた人たちが、自分の考えやこれまで経験してきたことを話し合い、互いにアドバイスしたり助け合うため、定期的に集まるサークルがあります)」。私たちの日本での取り組みも、この地点にまで到達することが必要だろう。

 そして第三に、汚名と、これを産み出す権力に対して私たちが取りうる姿勢は、二つに分かれるということ。すなわち、これを追認ないし是認する側に立つのか、それとも批判し告発する側に立つのかという選択を私たちはせまられているということ。それは言い換えると、あらゆる権力論は、何が正義であり、何が不正であるのかという規範論を同時にそなえざるをえないということでもある。ハーバーマスはフーコーの権力論に対して「隠れた規範主義」という批評を下している(ハーバーマス、一九九〇、四九八頁)。フーコーは一切の規範論、何が正義であり、何が不正であるのかという価値判断から自由であるかのように、権力について語っているが、しかし、それは見せかけのことであって、フーコーの権力論には、明示されていないものの、やはり何かしらの規範的価値判断が持ち込まれているはずだというのである。この指摘は正しい。そして、問題が一七世紀や一八世紀の出来事ではなく、私たちの時代の出来事であれば、規範的な意識はそれほど一層、強く要請されるように思う。右の手紙は、単にある事実を伝えているだけではない。そこには二つの規範意識の相剋がはっきりと示されている。「誰一人として、この件について疑問を投げかける者はおらず、むしろ当然の事と、事後承諾していました。私自身も全く同様で、考えますと強い自責の念に苛まれます」。Kさんに対する処遇を「当然の事」と考えた自分と、それに対して「自責の念」を強く抱く自分。しかし、この相剋は、手紙をくださった方ばかりでなく、本来ならば、優生保護法を是認してきた私たちすべてが共有すべきものである。優生保護法が改正されたことは一体、何を意味するのか。それは、この法律が認めてきたいくつかの処置が法的正義(Recht)に反するものであるとの規範的価値判断がはっきりと下されたことを意味する。そうであるならば、法律に関する不遡及原則があるとしても、私たちには、今日の観点から不正とされる過去の出来事に対して、正義を修復するための措置を可能にしていく義務が課せられているのではないか。

 そればかりではない。療養所内で暮らすハンセン病患者の多くは、結婚を承諾してもらうための交換条件として、不妊手術を受けることが求められた。また、施設に入所していた少なからぬ女性障害者は、生理時の介助が困難であること等を理由に、子宮の摘出に同意することを迫られた。施設に入所する条件として、本人や家族が福祉事務所から子宮摘出を求められ、それにやむなく同意したというケースも存在する。確かに、これらは形式的には本人の同意にもとづいてなされた処置である。しかし、これらは、人びとの弱さを根拠になされた同意や沈黙の強要であるだけに一層、不当な暴力と言うべきではないだろうか。ある女性障害者は、自分の存在が理由で身内の縁談が破談になったことを知って、子宮摘出手術を受け、施設で暮らそうと決意した。「どういう運命で、こうなったのか私にもわからない。でも、私のような者がいたということを、せめて皆さんに知っておいてほしい」――昨年十一月におこなわれたある集会で、彼女は障害をおして、ゆっくり一語ずつそう語ったが、私はその場でただ絶句するしかなかった。


 Kさんをはじめとした多くの人びとに対して「汚名」を刻印してきた権力、それは差し当たり優生学と名付けることができる。しかし、この権力の不正を断定するのにかくも長き時間を要したのは何故なのか。かくも長きにわたって、この権力が私たちの社会で是認されてきたのは何故なのか。

 優生学は、常にヒトラーと結びつけて語られ、その傾向は優生学を告発の対象とするときに一層、強い。しかし、そうすることが逆に、優生学そのものの理解を歪め、その射程の広がりを見失わせてきてしまった。ヒトラーと結びつけられるとき、優生学は自動的に、戦争、人種差別、そして国家主義といったものとの観念連合に入れられてきたが、この観念連合が実は優生学の正確な理解を妨げてきた(市野川・立岩、一九九八)。

 ここでは優生学と戦争に関係に限定して論じてみよう。

 「社会帝国主義」という概念に依拠しながら、R・センメルは優生学を戦争の思想として理解している(センメル、一九八二)。社会帝国主義とは、過剰生産の捌け口を海外植民地に求め、その争奪戦をくりひろげる帝国主義が、同時に、国民全体を戦争に動員するためにも、一連の社会福祉政策によって労働者階級を資本制の内部に取り込んでいく形態のことである。そして、センメルはK・ピアソンに注目しながら、優生学の広がりがこの社会帝国主義の確立と軌を一にしており、優生学が何よりも戦争と不可分の関係を取り結んでいた点に注意をうながす。「一九〇〇年十一月にピアソンは講演を行ない、社会進化論について最初の勇ましい説明を施した。当時のイギリスはボーア戦争の真只中にあり、ピアソンは愛国的な感情と戦闘への意気込みにあふれていた。……戦争が絶えれば『人類はもはや発展しない』。なぜなら、そうなれば『劣等種族の繁殖を抑止するものが何ら存在しなくなり、冷厳な遺伝法則が自然淘汰によって制御・支配されなくなくからである』」(同書、三七頁)。戦争はピアソンにとって、ダーウィンが示唆した「淘汰」の機能を果たすものとして位置づけられる。

 しかし、これとは全く逆の結論を導き出す優生学もまた存在した。

 スイスの精神科医A・フォーレルは社会主義者として有名な人物であり、さらに注目すべきことは、彼が第一次大戦の勃発と同時に反戦・平和運動に身を投じ、「倫理的社会主義」の実現に尽力したということである。大戦の勃発と同時に各国の社会主義政党が自国の参戦を支持し、第二インターが崩壊したという事実を踏まえるならば、フォーレルは明らかに極左に属する人物である。しかし、その彼が一八九二年という非常に早い時期に、自分の勤務するチューリッヒの大学病院にいた精神病患者に対して不妊手術を実施しており、歴史的に見ればナチスの優生政策に一つの基礎を与えることになったのである。フォーレルにおいては反戦・平和活動が、しかし優生学的実践と併存している。しかも、この併存は単なる偶然ではなく、両者はある一貫性した思考によって結びつけられている。彼は第一次大戦が終結した後に、それがもたらした帰結を次のように告発する。「戦争をおこなう国民のうち健康な男性が戦場で死ぬよう定められ、一三〇〇万人の支社という途方もない血の犠牲が払われた一方で、戦闘の役にも立たず、したがって生殖にも不適切な人間は、性的な競争も全くなしに故郷にとどまった」(Forel 1931, S.340)。つまり、戦争というのは、兵役検査によって選りすぐられた健康な男性を大量に死に追いやる一方で、戦闘の役にも立たない「低価値者」の人口比率を逆に高めるだけのもの、すなわち「淘汰」ではなく「逆淘汰」をもたらすものだというのである。フォーレルは、ピアソンのように戦争のために優生学を動員しようとしたのではなく、その全く逆に、優生学の立場から戦争に反対したのである。

 フォーレルのこうした思想を下敷ききにすると、歴史がこれまでとは別の見え方をしてくる。昨年の夏に報道されたスウェーデンその他のヨーロッパ各国で優生政策が本格的に論議されていくのは一九二〇年代であり、二〇年代末から三〇年代に前半に断種法が制定されていく。フォーレルの危機意識を参照するならば、その背景にあるのは、やがてくる第二次世界大戦ではなく、第一次大戦とそれがもたらした廃墟の経験の方だと言うべきだろう。つまり、戦後の廃墟の中で社会を再建していかなければならないときに、社会の負担になるとされ「低価値者」と呼ばれた人びと、第一次大戦という未曾有の「逆淘汰」によって、ただでさえその人口比率が高まった「低価値者」がこれ以上、増えてはならないという危機意識が優生政策の本格化に一つの動機を与えていたと考えるべきだろう。

 そして、その延長線上に見えてくるのは、ヨーロッパが第一次大戦後に経験した廃墟の経験を、日本は第二次大戦後に経験しただろうということである。なるほど日本の優生政策はナチスの断種法を翻訳した「国民優生法」(一九四〇年)に始まる。しかし、国民優生法にもとづく優生手術は一九四五年までの五年間で約四五〇件にすぎず、しかも第六条に規定されていた強制措置は結局、実施されないままだった(松原、一九九七)。日本の優生政策が本格化するのは「優生保護法」の制定以降であり、それは、遺伝性(とされた)疾患を、あるいは遺伝性ではなくとも精神障害、知的障害を理由になされた不妊手術は、ピークをむかえる一九五五年前後で、一年に約一五〇〇件のペースで実施されており、しかもその七割以上が本人の要請にもとづかないものだった(江原、一九九六、三七九‐三八六頁)。

 太田典礼の『日本産児調節百年史』に寄せた序文の中で、国井長次郎は次のように述べている。「昭和二十年、すなわち敗戦の年から現在まで僅か二十余年である。この時間の間に、日本は絶望の渕から立上がり、ついで世界の注目を集めながら、すばらしい発展をなしとげた。それは経済的な面だけでなく、国民生活の面でも同じ飛躍が見られた。日本の家族計画運動も現在、全世界からは『奇跡の成功』と見られている。敗戦直後の日本は、焼土と化した四つの島に七千数百万人がひしめき合い、なお低開発国なみの高い出生率を保っていた。日本はこの重圧のもとで、世界歴史の上から、永久に姿を没し去るかもしれなかった。当時の日本人には、ひとしくそのような危機感があった」(太田、一九七六、三頁)。この敗戦後の「危機感」が、人口の量的抑制ばかりでなく、優生学そのものを後押ししていた。優生学は、敗戦後の思想である。もしそれが戦争の思想であったならば、それは戦後すぐに批判的意識の俎上にのぼっていたはずである。しかし事実は逆で、優生政策は憲法第九条と何ら矛盾しないばかりか、むしろそれと密接に連動しながら本格化していったとさえ言えるだろう。そうであるがゆえに優生学は、優生保護法は、障害者や女性たちの告発にもかかわらず、かくも長きにわたって私たちの社会で生き延びてきたのである。

 「戦後五十年」という言葉が何やら虚しく通りすぎつつあるが、この言葉が指し示す課題の一つは、戦争そのものの新たな問い直しと同時に、戦後というものを一つの歴史として、厚みをもった不透明なものとして、一つの謎として検証するということだろう。私たちのグループの取り組みも、その一つの試みなのかもしれない。

文献

Forel,A. 1931 Die sexuelle Frage. (14 Aufl.) Erlenbach-Zurich.

Foucault,M. 1977 “La vie des hommes infames” Dits et ecrits. 3 pp.237-253

市野川容孝・立岩真也、一九九八「障害者運動から見えてくるもの」『現代思想一九九七年二月号 特集 身体障害者』青土社。

江原由美子(編)、一九九六『生殖技術とジェンダー』勁草書房。

太田典礼、一九七六『日本産児調節百年史』出版科学総合研究所。

センメル、R.一九八二『社会帝国主義史――イギリスの経験』、みすず書房。

ハーバーマス、J.一九九〇『近代の哲学的ディスクルス』2、岩波書店。

松原洋子、一九九七「〈文化国家〉の優生法」『現代思想』一九九七年四月号。

市野川 容孝


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