はしがき
近代百年を生きぬいた思想家のうち、牧口常三郎は、最もユニークな者の一人であるということがいえよう。即ち、彼は、一教師の立場から、終始、庶民大衆の中にあって、どんな人間にも価値のあること、その価値を実現するために、何人にも学問が必要であるばかりでなく、何人にもそういう学問が可能であることをその生涯を通じて論証しようとつとめた思想家である。
いいかえれば、福沢諭吉、中江兆民、北村透谷のような人権論者、自由論者、平等論者ではなくて、彼は、人権、自由、平等を具体的に存在する庶民大衆の中に発見していくとともに、庶民大衆自身が、自らの中にそれを発見し、定着させることのできる思想を創造していこうとしたのである。
ということは、今日、大学紛争、学問革命の争点となっている人間と学問の関係、更には学間は誰のためのものかという問題を、既に数十年前に鋭く指摘し、その解決の方向をさししめしていたということである。
このように考えるとき、牧口は、現代日本の誇りうる思想家であると同時に、現代日本が深く学ばなくてならない思想家である。しかし、彼ほど忘れられ、軽視された思想家はない。そのことは、戦後、数多く出版された百科事典、人名事典に、牧口の名が殆んどのっていないということをみても明らかである。
牧口の思想が、そして彼の学問、教育論が長い間、一部の人を除いて、殆んどかえりみられなかったということは、日本の学問と教育にとって大きな不幸である。幸いに、羽田孝文氏の理解と協力を得て、牧口研究の第一歩を踏みだすことができたのは、非常な喜びである。今後さらに、研究の歩を進める方、その思想の発展、創造にとりくむ方が現われることを期して待ちたい。
最後に、この本を書きあげるについて、辻武寿、小平芳平、柏村信、石附忠平、石原重保等の諸氏に深くお世話になったことを心からお礼申しあげたい。
第一章 出発
一 生の発見
二 北海道への旅
三 価値へのめざめ
第二章 教育の世界
一 「人生地理学」出版のころ
二 教師の時代
三 「創価教育学体系」前後
第三章 宗教と政治
一 日蓮正宗との出会い
二 創価教育学会の発展
三 獄死……権力との対決
第四章 死後の生
一 創価学会の再建
二 公明党の進出
三 創価大学と牧口
現代日本の学問は、今、次の三点で、鋭くその意味を問われている。
その一つは、学問は一体誰のものかということをめぐって、今迄通り、学問はごく一部の秀才のみがなし得るものであるという考え方に対して、学問は本来庶民大衆のものであり、庶民大衆すべてがなさねばならないもの、また、なし得るものであるという考え方が確立できるものかどうかということ。
その二つは、学問と人間の関係において、どのような教育、どのような知識が、単なる物知り的知識の枠をこえて、人間の感覚、情念と深く結びついた主体的知識、更には、生きた歴史的知識、逞しい行動的知識になり得るかということ。
その三つは、専門化し、特殊化した今日の科学は、せいぜい現代社会を維持するに必要な部分的知識を人々に授けるに終わって、トータルとしての世界(人間。社会。自然)を認識し、批判し、発展させる知的能力を与えることができないでいるが、そういう専門科学が再び、学問としての統一。総合を取り戻し、その機能を十二分に発揮することができるかどうか、ということである。
学問がこういう状態にあることは、必然的に、大学の学問と教育が混乱するということであり、したがって、大学の予備校と堕している小。中・高校の教育もまた、混乱し、空白化をつづけるしかない。これが、今日の大学の現状であり、小。中・高校の教育の実態である。
勿論、戦後、大学は一般教育の理念を、小。中・高校は社会科の理念を導入することによって、現代の学問が当面する三つの課題のうち、第二第三の課題に積極的にとりくもうとした。しかし、学者、教育者の多くは、一般教育や社会科の理念が何であるかを深く追求するということもなかったし、また、それが現代の学問と教育とが直面している、根本的な問いに通じているということも理解できなかったために、一般教育や社会科を形骸化し、空洞化してしまった。学問と教育の再建のチャンスを逃がしてしまったといっていい。
今日、大学革命や教育改革のノロシが、大学生や高校生の中に燃えあがろうとしているのも、そのためである。だが、現代の大学生がつきつけている問題は、第二、第三の課題だけでなく、同時に、第一の課題をもふくんでいる。そこに、今日の大学革命、教育改革を求める動きの深刻さがあるし、また、すばらしさもあるのである。
学問の意味が、今日、本質的根本的に問いなおされようとしているというのも、このこと以外にはない。しかし、学問が当面するこのような問題は、決して、戦後に始まったことではなく、実は、明治以来つづいているものである。それを福沢諭吉は「飯をたき、風呂の火をたくも学問なり」というように明治の初めに表現し、三木清は、「知性が創造的になるためには、パトスの中を潜ること、直観と結びつくこと、直観をふくむことが大切である」と昭和十年代にいい、更に、河合栄次郎は、「学者の多くは専門科学を知るが、学問を知らない」と同じく昭和十年代にいいきっている。
彼等は、現代の学問が当面している三つの課題をそれぞれ一つづつ指摘し、その解決にとりくんだ思想家であるが、今、ここでとりあげる牧口は、これら三つの課題にとりくみ、それを同時に解決しようとした思想家である。これほど、独創的で創造的な思想家は、明治以後の思想界では、全く、稀な存在であったというしかない。しかも、彼が一介の小学校教師であったということは、その思想をいよいよ屹立させることになっているといってもいいすぎではなかろう。
牧口がその生涯に書きあげた著作のうち、主なものは「人生地理学」「教授の統合中心としての郷土科研究」「創価教育学体系」であるが、中でも、彼の四十二歳の時の著作である「教授の統合中心としての郷土科研究」は、「人生地理学」を発展させるとともに、次の「創価教育学体系」の基礎となったもので、彼の思想の全貌が最もよくあらわれているものである。同時に、先に述べた、現代の学問が当面する三つの課題に、真正面からむきあったものということができる。即ち、牧口はその中で、子供の直観と感覚を基礎にし、それを発展させるものとしての郷土科という教科を考えたばかりでなく、郷土科教育をなしていくならば、どんな子供でもすぐれた智力を発揮できると考えたのである。彼は、そのことを、教師も時として、子供達の指導を受けなくてはならないというように表現している。
しかも、バラバラに、相互の連関をなくしている各教科を総合し、統一するのが郷土科であり、郷土科こそ各教科の起点であり、終点であるともいっている。
くわしくは後で述べるが、牧口が「郷土料研究」の中で述べたことの意味は大きい。ことにそれを小学校教育の中で述べた意味はあまりにも大きい。
ということは、大学の学問と教育における根本的欠陥は既に小学校教育の中に胚胎しているし、大学の学問と教育のあるべき姿、三つの課題を解決した学問は、小学校教育の段階でとりくまなくてはならないこと、また、とりくめるといいきったことである。
いいかえれば、学問は一にぎりの学校秀才のみがなし得るものでなく、何人もなし得るものであるし、また、なさなくてはならないものだということを、「郷土科」という教科を通して、具体的に明らかにしたのである。人間が歴史的存在、政治的、社会的存在である以上、何人も、そのことを深く意識し、広く明確化することが必要であるが、郷土科教育によって、容易にそれらが可能になるというのである。彼が、「郷土から出発して、世界に拡大していくことは誰にも簡単である」というとき、人間の知力の最低が何であるかを見透していたということができる。
牧口にいわせると、人々の中にみられる非常に劣った知力も、唯々、教育されず、放置されたままということになるのである。
それこそ、好ましい教育法によって教育されたなら、即ち、郷土科という適切な教材で指導されるなら、自分自身が、歴史的、政治的、社会的存在であることを自覚することも、また、そういう存在として生きるに必要な知識を身につけることも至極容易であるというのである。
今日、学問は誰のものかと問われている。しかし、学問は社会に、庶民大衆に還元されなくてはならないと考える人々が徐々に増加したといっても、学問が庶民大衆に出来るものだと考える者は殆んどいない。学問を庶民大衆に解放すれば、学問は発展しないと考える者が殆んどである。また、庶民大衆自身も、学問が自分達にできるものだとは殆んど考えていない。せいぜい、学問を自分たちに還元してくれればいいと考えている。
しかし、牧口は、既に数十年前に、学問は一人一人に必要なもの、ことに、しいたげられて生きている者にこそ、学問は必要であるし、学問は本来その人たちのためにこそあると強調したのである。
一人一人が自らの学問で武装しない限り、人権といい、自由といい、平等といっても、そんなものは、本当には実現しないと牧口は考えたのである。郷土科を考えていったのも、更には教師一人一人が、自分の教育理論を自分自身で作りあげる以外にないと主張したのも、そのためである。彼ほど、一人一人の人間が真に独立することを強く求めた者もいないし、また、そのために、教師一人一人が大学教授や教育学者に対して、思想的に独立することを求めた者もあるまい。それこそ、大学教授に隷属した教師が、独立した人間、独立を求める子供を育成することはできないと考えたからである。
牧口が意識したかどうかは別として、彼は「郷土科」を考えることで、福沢のいう「飯をたき、風呂の火をたくも学問なり」という考えを発展させ、具体化していった。庶民大衆にできる学問の内容と方向を大胆に明示した。勿論、彼がさししめした学問の内容と方向は、今後更に明確化し、発展させなくてはならないとしても、このことをこれほど明確に、しかも強く主張したことは、全くすばらしい。
更には、子供たちの直観力や感覚を郷土科を通じて磨き、鋭くしようとしたことも卓見といえよう。牧口は、郷土そのものが子供たちの直観力や感覚そのものを作り、さらには、その延長にあるということを見透したのである。ということは、郷土科を通して得た知識は主体的知識であり、それはそのまま、行動的知識、批評的知識になるということである。これは、今日のように、科学とか客観的知識という名の下に、学問と人間が遊離し、知識と行動が分離し、何のための学問、何のための知識かという、学問と知識の大前提になるものが全く忘れられてしまって、終には、学問が人間を奴隷にし、人間を不幸にしている状態から、人間と学問の関係を正常化する第一歩である。人間と遊離したところで、学問が発達し、知識が進歩する現代の悲劇をなくするためには、人間の学問、人間のための学問、人間による学問が復活する以外にない。
牧口は、人間の学問、人間のための学問を復活させようとして、郷土科を考え、郷土科を強調せずにはいられなかったのである。
更に、牧口が、郷土科によって、各教科を総合し、統一しようとしたということは、河合が「学者の多くは専門科学を知るが学問を知らない」といったことを、小学校教育の段階でいったものである。相互に有機的連関もなく、各専門科学が併存している学問の現状、それが学問だと錯覚する学者の現状は、小学校教育の結果である。彼等に、各教科、各学科はあっても、学問として統一され、総合されたイメージは全くない。人間、社会、自然を統合したトータルとしての世界を認識し、分析する学問が、真に、学問の名に価するものであるという認識と自覚がない。
だから、現代文明が今日どのような危機にあるか、また、どのような問題をかかえているかという、本質的全体的な問いを発することも出来ないし、現代の人間がどんな不安にさらされているか、また、何処からきて、何処に向かっているかということについての根本的な省察ができない。絶望も恐怖も感じない。勿論、現代社会への批判もなければ、未来社会についての全体的構想も殆んど出来ない。これでは、学問としての使命と機能を果たすことはできない。
牧口は、既に、当時の学問がそういう荒廃を始めていることを先取し、その解決の方向を小学生の段階で感じとらせようとした。感じとらせることができると考えたのである。彼は、荒廃した学問、学問の名に価しない学問が存在できないような思想的風土を全国民的広がりで実現しようとしたのである。国民教育の次元でやらねばならないと考えたし、それが出来ると思ったのである。
このように、牧口の夢と構想は非常に大きい。まさに、庶民大衆全部の思想革命、意識革命を願い、その実現の具体的方法を明らかにしたのである。
第一章 出発
「砂浜を構成する細砂は、暴風に伴いて飛散し、所々に砂の堆積より成れる小丘を成滅移動し、もって植物の発生を妨げ、その害に抵抗する勢力の強き松柏類の数種のほかはほとんど有用植物をして発育に耐えざらしめ、田畑を荒し、耕耘を圧し、生産を害し、人家を埋め、いたずらに所在の住民を困阨に陥らしむるは、実に尠少なりとせず……。
しかれども、砂岸には、水産業に特殊の影響を与うるものあり。すなわち、砂岸は、鰮の特産地たることその重なるものなり。本邦の水産肥料としての鰯粕の供給地は、ことごとくこの荒涼たる砂岸地ならざるはなし。これ多くの砂浜住民をして砂のために種々の迫害を受くるをもってしても、この寂寞たる生地を見捨てて、他に移住する能わざらしむる所以の最重なるもの……。しかるに、それらの生産物に多額の収獲をみることあるも、おのずから一定の時期に制限せらるるを免れざれば、他の陸上生産物のほとんど欠如せる砂岸地方においては、それのみをもって、住民に終年間断なき生業を与うるに足らず。反言すれば、一方のこの利益は、もって砂岸が他方において与うる妨害を償うるに足らず。ここにおいてか、砂岸地方の住民は、その生活の路を他にもとめざるべからず。
これしばしば古来幾多の済民特志家がその方法に苦心焦慮したる所にして、また往々奇蹟を奏したる所のもの、彼の荒涼たる砂浜に往々その土地となんらの直接関係なき特殊の産業がおこり、中には著大なる名声を天下に博せるものあるがごときはすなわちこれにして、常陸の銚子に産する銚子縮、伊予三ヶ浜付近に産する伊予綛のごとき、はたまた越後の荒浜に産して北海道全道の漁業の需用に供する漁網のごときは、その著しきものなり。
しからば、これ実に砂岸の消極的効果とみるべきものにて、造化の配剤の巧妙に驚歎せざる能わざるところなり。もしそれ、特絶せる船乗りを出し、もって貿易の人民はた膨張的人民とならしむるがごときも、またその消極的功績の一つと算すべきものなり。」
これは、牧口常三郎が、「人生地理学」のなかで、「砂岸と人生」について書いた文章だが、彼自身、その荒浜(新潟県刈羽郡)に、船乗り渡辺長松の長男長七として、明治四年六月六日に生まれた。荒浜は、その名のしめすように、日本海の荒波をもろにうける砂岸地帯で、ことに一年の半分は、毎日のように、風が吹き荒れ、砂塵が天をおおうという荒涼地帯である。そのために、田畑は少なく、村人の多くは北海道に出かせぎするか、船乗り稼業で生計をたてる者、村に残った者は漁網をつくるという有様であった。
明治六年以後、新潟県になっているが、牧口が生まれた明治四年当時、荒浜村は柏崎県に属していた。信濃川分水工事に従事していた農民七万人が労働過重を訴えて柏崎県庁に強訴して、死刑七人を出したのはこの頃のことであり、日本中に徴兵令反対の声がわきおこっていた。
牧口は、こういう時代の空気を吸いながら成長していったが、少年牧口の人生は、その時代状況、その自然状況と同じほどに、荒凉としていた。
即ち、牧口の父渡辺長松は、彼の三歳の時、彼の母いねを離別し、自分は単身、樺太にわたった。いねは子供可愛さで、上野堂という小祠で牧口と会っていたが、ある日、思いあまって、幼い牧口を抱いて、日本海に入水しかけたこともあったという。それ以後、この親子は永遠に生き別れ、再び会うことはなかった。太陽の光に接することの少ない北陸海岸のように、彼の人生もまた、重苦しいものであったということができよう。
しかし、それは、多かれ少なかれ、この地方に住む庶民たちの運命に、共通するものであった。その意味では、牧口は、生まれながらにして、最も北陸の庶民らしい星の下にあった。
さて、二百十三章からなる「学制」が公布されたのは明治五年、その前日には、「学事奨励に関する被仰出書」が出され、その中には次のようなことが書かれていた。
「学問は士人以上の事とし、農工商及び婦女子に至っては、これを度外におき、学問の何物たるかを弁ぜず、また、士人以上の稀に学ぶ者もややもすれば、国家のためにすと唱え、身を立てるの基たるを知らずして、或は、詞章記誦の末にはしり、空理虚談の末に趨り、その論高尚に似たりといえども、これを身に行い、事に施すこと能わざるも少からず。是すなわち、沿襲の習弊にして、文明あまねからず、才芸の長ぜずして、貧乏破産喪家の徒多き所以なり。この故に、人たるものは学ばずんばあるべからず。これを学ぶには、宜しく、その旨を誤るべからず。……自今以後、一般の人民必ず、村に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す。人の父兄たる者、宜しく、この意を体認し、その愛育の情を厚くし、その子弟をして、必ず学に従事せしめざるべからざるものなり」
これは、幕藩体制の時代、学問、教育が一部の人々の独占になっていたのを、全国民に解放しようとしたもの、更には、学問、教育は全国民のものでなくてはならないと宣言したもので、全く、画期的なことであった。明治維新をなしとげた当時の政府は、非常に理想に燃えていた。だから、教科書もその地方地方の実状に即し、子供の能力にみあうように、自由発行、自由採択であった。
だから、明治八年の「文部省年報」には、
「これまで、文郎省は、小中学校でつかう教科書を編集してきたが、それは教科書の体裁をしめしただけで、民間で教科書を編集する人がでてくることは、文部省がもっとも要望するところである」と述べ、翌九年の「文部省年報」には、
「地方の小学校では、師範学校附属小学校でつかっている教科書とおなじものを採用し、その土地民情については深く注意していないようだが、地方によってそれぞれの事情がちがうのだから、それをよく考えて教科書をきめ、教育の仕事を空遠なものにしてしまわないようにしてほしい」と書いている。
この「学制」、この「小学校則」に従って出来、運営されていた尋常小学に、牧口も祖父母のもとで暮しながら、明治十一年に入学したと思われる。
更に、明治十二年には、「学制」にかわって、新しい「教育令」が公布され、これまでの政府による学校取締りを廃して、市町村民の選挙した学務委員に学校を管理させている。当時の学校制度がいかに意欲にみち、発展的開放的な道を歩んでいたかということがわかる。
しかし、明治十三年を境として、教育行政は大きく転換しはじめた。まず、自由発行、自由採択であった教科書が大きく制限され、文部省は、教科書として使用してはならぬ書物名を発表した。かつて、「学制」の思想を支えた福沢諭吉の書もその中に含まれていた。そして、教科書の自由発行、自由採択は認可制にかわっていく。学校管理に任ずる者を市町村民の選挙によって選ぶという制度もわずか一年実施したのみで、再び任命制にかわり、その管理指導の実権は府県知事がにぎるという有様であった。
こういう思想状況、教育状況は、第二次大戦後のそれと非常によく似ている。初期の理想に燃え、意欲的能動的であったものは徐々に影をうすめ、真に教育の名に価する教育はどんどん消滅していった。そういう推移を牧口は、子供ながらにも鋭く感じとり、それなりに考えていったに違いない。
そこから、大人たち、とくに、指導的な位置にある人々への不信が彼の中に大きく芽生えたということができる。とくに、後年の牧口には、教育学者とか教育評論家への根深い不信があったが、それは、少年牧口の受けた傷が、当時の教育環境の中で、如何に生々しかったかということを物語っている。
暇さえあれば、書物にむきあい、書物を読むという牧口、一人静かに考えるという牧口になっていったとしても不思議ではない。勿論、そこには、雪につつまれた北陸、荒海にのぞむ北陸の風土が、いよいよ、そういう人間にしたということもいえようし、幼くして、生みの母に別れ、父ともはなればなれになったということも無関係ではあるまい。十歳の時に、彼は、叔母トリが嫁いでいた牧口善太夫の養嗣子となっている。
ここで、今一つ書き加えておきたいことは、荒浜から七里ほど離れた所に、寺泊があり、水平線上にははるか彼方に佐渡が望見されるということである。
寺泊は、その昔、日蓮が佐渡に流されるときに足をとどめた所であり、その日蓮には、日興が随従していた。その関係で、このあたりには、日蓮の遺跡もいくつかあり、その縁で、日蓮信者も多い。
ことに、寺泊では、日蓮は富木常忍にあてて、重要な手紙を書いた。彼はその中で、「今日は末世に入ったばかりの過渡期であり、その時代を指導するためには、数々の思想・宗派を統一できる思想がなくてはならない。しかし、それを今、自分は法華経の中に発見した」という意味のことを書いている。
とくに「日蓮はこの経文を読めり、汝等何ぞ、この経文を読まざる」と弟子を叱咤している。
牧口は、当時そういうことは知らなかったにせよ、孤独で、思索的な子供であったから、日蓮の遺跡をたずね、佐渡を望みながら、いろいろ考えたということは想像できる。
こういう土地に生まれ、こういう文化に接して育った牧口が、次第に、「地理学」ことに、人生と地理との関係に、深い興味をいだくような芽をそだてていったとしても不思議ではなかった。
尋常小学四年を卒業した牧口は、その頃、海産物の商いと漁網をつくっていた家業の手伝いをした。しかし、彼の中には、次第に、荒浜を出て、もっと広々としたところに飛びだしたいという気持が芽生えていった。 それでなくても、周囲には、北海道に出かせぎにいく者、船乗りになって、大海をのびのびと航行している者などがいっぱいいた。
牧口が書いたように、砂岸地方の者には膨脹的人間が多いが、彼もまた、その一人であったのである。そのように考えだすともう一刻もじっとしておれない。 父長松の弟渡辺四郎治をたよって、小樽に行くことにした。彼の十五、六歳の頃である。
その頃の小樽は、新興都市で、とくに明治十五年、札幌との間に鉄道が敷設されてからは、小樽に集まる者の数は急上昇し、中でも、北陸地方からの移民がとくに多かった。おそらく、叔父四郎治もその中の一人であったろう。そういう空気に、牧口が影響されたということも考えられる。
牧口が小樽にむかって出発したのはいつであり、また、どのような航路をとおったか、どのくらいの日数を要して着いたかということは一切わかっていない。しかし、おそらく、春から秋にかけて、大阪、瀬戸内海、下関、北陸、北海道を一往復した北前船とよばれる北陸商人の持船に乗ったと思われる。
この北前船は一本柱の帆船で、風がよければ北陸ー北海道間を15〜20日間ぐらい、風が悪ければ三ヵ月もかかるという船旅であった。その中で、牧口は、この船に乗って、海外にのびていく人々のことを、新天地を求めて苦難の旅をつづけざるを得ない人々のことを自分とからませて、いろいろと考えたことであろう。
小樽に移った彼は、すぐ、働きだした。貧しい彼にとっては、まず、生活者として存在することが至上命令であった。いかに読書が好きで、思索的な彼も、そのことに専念し、没頭することは許されない。いいかえれば、彼が存在し生きるということは、衣食住を求めて働くということであり、それ以外ではなかった。彼にとって書物の世界と現実の生活とは常に深くかかわりあい、交錯したということである。
その後、牧口は、小樽警察署の給仕として勤めはじめたが、この頃、養父母の牧口善太夫夫婦も小樽に移ってきている。といっても、彼がいつ頃勤めはじめ、いつ頃までいたかということはわかっていない。当時の署長が、彼の向学心に感動して、札幌に転勤する時、彼も一緒につれてゆき、師範学校を受けさせようとしたということであるが、その年月もはっきりしていない。ただ、森長保という小樽署長が明治二十二年三月に札幌に出ているから、恐らく、その頃に札幌に移ったということになろう。
この時、署長が警察官採用試験を受けるようにすすめないで、師範学校を受験させたということは、彼の向学心もさることながら、署長の人をみる眼もなかなかのものであったということができる。というのは、当時北海道には、中学校も女学校もなく、学校といえば、札幌農学校(現北海道大学の前身)と師範学校しかなかったし、それも三年の編入試験を受けさせているのである。署長の助言がなかったら、彼は、師範に行くこともなく、従って教師になり、「創価教育学」を書きあげるということもなかったであろう。彼のその後を考えたとき、署長との出会いがいかに大きな意味をもっていたかということが今更のように思われる。それに、牧口が師範の三年生に編入できたのは明治二十四年四月であるから、その間、彼が受験勉強できるように協力したのは署長だったのではなかろうか。
牧口の人生は、署長と出会うことによって大きく開かれはじめたということができる。
牧口の入った師範は、当時、北海道尋常師範学校といっていたが、生徒数はせいぜい、一学年十名前後であったから、牧口が三年生の編入試験を受けて合格したということは、彼の学力がかなりのものであったことを示している。
しかも、その当時の生徒は、大抵、郡長の推薦によるもので、最初は仮入学を許され、三か月後に試験を受けて、初めて本入学を許されるが、約半数が試験に通らなかったのである。それが更に、四年間に落第していく。その点では、当時の教育はなかなか厳しかったともいえるし、生徒も相当に勉強したということがいえよう。
しかし、当時の師範学校は、明治十九年四月に出された「師範学校令」第一条に、「師範学校は教員となるべきものを養成する所とす。但し、生徒をして順良信愛威重の気質を備えしむることに注目すべきものとす」と規定しているように、この三気質を生徒の中に形成するために、すべて、軍隊の訓練法をとりいれ、食物、衣服、日用品などを支給したばかりでなく、週間手当てとして、金十銭を賦与していた。いうまでもなく、軍隊同様に、全寮制を採用、それも陸軍の内務班の組織をとりいれ、厳重な監督規律のもとにおいたのである。
それは、文字通り、人間の自由とか自立の精神、思う存分思索することを抑圧して、一つの鋳型に人間をはめこもうとする教育であった。そして、信愛、順良、威重の気質とは、政府の命令の忠実な遵法者であり、政府の命ずることは、どんなことでも、無批判に踏襲することを意味していたし、政府もそういう教員を求めたのである。
「学制」や「教育令」が出た当時とは、あまりにも後退した教育状況であった。また、政府のそういう要求が、どんなに、教員をスポイルさせ、その意欲をなくさせるものかということを考えきれないほど、当時の政府の要人たちは荒廃していた。更には、三気質を強く求めるために、教員を二重人格にし、空いばりさせることになると考えきれないほどに幼稚でもあった。
明治二十四年七月に卒業した片岡隆起は、当時の寄宿舎生活を次のように書いている。
「寄宿舎は、古建物を改造したお粗末極まるものであった。真中が廊下で、左右に二室づつ四部屋あった。一室に十二、三名宛、四分団に編成、各団に什長一名と伍長が二名居った。分団長即ち什長だ。什長殿の徽章は羅紗でつくった天保銭位の大きさの、赤色の六角星に細い縁をつけたもの、伍長殿は只赤色の六角星、これを勲章でも吊したつもりで得意然と左の胸に下げていた。
何様、森文部大臣が盛んに軍隊式を唱導された御時勢だ、一から十まで軍隊式。何でも順良、信愛、威重とくる。下級生に対し、無理に威重をしめした途方もない奴もいた。
夕闇せまる校庭で軍歌の稽古、……“ああ正成よ正成よ”とか“我は官軍我敵は”とかいう奴を、四列縦隊で、運動場をグルグル廻りながら三十分どなる」
次は、北海道師範でなく、秋田師範のことであるが、明治二十二年当時のことを、
「朝夕の寝おき、学科時間、食事時間、外出等一切ラッパで合図をする。イヤハヤ規則が厳重で、何も彼も規律一点張り、外出も一週三度か四度で、その時の制服などはなかなかやかましいものです。やれ、ボタンがはずれたということまで小言を言われる。寝室では洋服、シャツ、靴下等被服のたたみ方、かさね方、寝具の整頓悉く物指で、キチンと定められる。自習室では、本、硯箱、文具のおき方もきまっている。……夕食後、夜になると黙学時間というものが二時間課せられる。此の時間中は、如何なる事があっても離席は絶対に出来ない。音を出す事は絶対に、禁ぜられているから、引出を開けて物を出すことも、クシャミや咳をすることも出来ない」と書いている。
一週三度か四度あった秋田師範と違って、北海道師範では、外出は、土曜の午後と日曜にきまっていた。それも、午後五時までという厳しさ。だから、多くの師範学校が新聞をみることも禁じていた以上、北海道師範でも当然禁じていたであろう。
牧口が師範学校の生徒になったのは、そういう学風、そういう伝統が師範学校に確立しようとする時代であった。二十一歳にもなった彼が、それに批判的なものを感じたとしても不思議ではない。
しかし、牧口は、より以上に、師範学校に入学したことを喜び、好きな勉強に没入できることを感謝した。それに、三年編入のため、語学には、相当苦しんだということもあって、そういう学風に不満をのべている暇もなかったという有様である。
十二人いた同級生のうちには、牧口同様に、貧しい家の者が多く、支給された靴下、鉛筆、紙などを節約して、休暇に帰省する時のみやげにする者、あるいは、十銭の手当てをためて、母親の小遣いに送る者がいるのをみて、牧口は、猶更に、考えねばならないことが多いという感じであった。彼が人間と地理の関係、人間と風土との関係に、いよいよ強い興味と関心をいだくようになったのもそのためである。しかも、彼には、風雪のきびしいところに育ち、村人の多くが出かせぎにいくしかないような土地に生まれて、人間と土地との関係は一体何なのかと深く考えざるを得ないような原体験があった。
後に、牧口が指導を受けた柳田国男も、
「長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし、私の家は二夫婦の住めない小さい家だった。母がきつい、しっかりした人だったから、まして、同じ家に二夫婦住んでうまくゆくわけがない……。わずか一年ばかりの生活で、兄嫁は実家へ逃げて帰ってしまった。兄はそのため、ヤケ酒を飲むようになり、家が治まらなくなった……。私はこうした兄の悲劇を思うとき、“私の家は日本一小さい家だ”ということを、しばしば人に説いてみようとするが、じつは、この家の小ささという運命から、私の民俗学への志も源を発したといってよいのである」とか、
「飢饉といえば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかりたて、かつ農商務省に入らせる動機ともなった」
「私の故郷では、よく、“津の国は七分の飯”といって、摂津の国は麦七分に米三分の混合率の食事をとる所として、貧しさの譬えに引いたものである……。ところが、十三歳の時、長兄のいる茨城県布川に移ってみると、驚いたことに、まだ、この地方に裸麦は伝播しておらず、麦といえば大麦のことであり、引割麦という名称すら知る人もなかった……。私はこうした播州、下総両国間の距離を子供心に考え、ひいては、女性労働の問題や民謡その他の事柄に目をひらいていったのである」
と書いているように、その研究が、柳田の幼少年期の体験と深くまじわっていることを明らかにしているが、牧口の地理学への興味も、それと同じであった。その研究が彼自身の生活をふくめて、多くの人々の生活の内容を見究め、それによって、人々を貧しさから解放しようとする方向にむかったということは、彼自身の内発的要求と深く結びついていたということであって、このことは特記すべきことである。
ともすると、普通、学者の研究が、単に、書物の中に発見した興味から出発し、そのために往々、観念的抽象的になりがちであるのに対して、牧口の場合は、彼自身の生活の中から問題意識が生じ、その研究はたえず、彼の生活、更には、人々の生活にかえっていった。それ故に、その問題意識は、常に、現実的で、具体的であった。有効的、発展的でさえあった。単なる思弁家、観念論者にならなかったのもそのためである。
しかし、牧口が入学した北海道尋常師範学校は、その年十二月九日、午後十時三十分、本校玄関より出火し、本校、寄宿舎、附属小学校の全部を焼失した。そこで、元札幌区役所跡と町会所跡を借り受けて校舎とし、寄宿舎は民家を借りるという有様で、やっと一週間後に授業を再開している。
翌年五月には、市内に火事があり、そのために、借りていた民家が焼け、寄宿舎を更に他に移している。
牧口の同級生、工藤金彦は、
「吃驚しましてな。いそいで生徒を起こしにでかけました。何しろ寝鼻です。殴りつけても起きない者がいるのですからね。それにその頃よく盗難があったので、窓へ鉄格子をはめたものだ。それが邪魔になって外へ出られない。廊下一面は煙にまかれているのでどうなるかと思いましたよ。でもやっとまあ、全部外へ出た。一人も死んだ者がいなかったのはしあわせでした。
その翌朝は未明に丁度向いの札幌農学校へ避難して、朝食の接待をうけ、色々御世話になりました。それから仮校舎、仮寄宿舎の生活という訳で、卒業まで、とうとうそのまま随分難儀したものでした……。移転といっても丸やけですからね、何もありません」
と、その時の様子を語っている。
だから、牧口の二年間の学校生活は決して恵まれたものということはできない。しかし、彼は一生懸命に勉強し、在学中に、地理と教育の文検(中等学校教員資格試験)をとるほどに勤勉であった。彼が卒業したのは、明治二十六年三月三十一日。これまで、卒業式は七月におこなわれてきたが、この年から三月三十一日にかわったのである。
卒業生は、卒業と同時に、直ちに任地に向かって出発するというのが、その頃のならわしであった。どこまでも非人間的なところが、当時の師範学校教育の姿であった。
只、牧口がそれをどのように受けとめていたか、何も資料がないので知ることが出来ない。
なお、牧口は、卒業前に、どういう理由でか、長七という名前を常三郎に変えている。
牧口は、卒業と同時に、附属小学校の訓導になり、教育活動に専念した。
当時、教生として、牧口の指導を安けた柏村信は、彼のことを次のように語っている。
「その頃の師範は四年であったが、四年生になると、その半分が半年間、教生といって、附属小学校にゆき、先輩の先生達の指導の下に教鞭とり、半年たつと、あとの半分と交代したものである。
牧口先生は、私達教生を指導するのに、非常に親切丁寧であり、いつも、笑顔で語られるという風であった。そのために、わからないことがあると牧口先生牧口先生といって、教えを受けたものである。人望の高い先生であった」
他方、附属小学校の教師としても、子供たちの教育に意欲的にとりくんだ。とくに、二十三歳の青年教師であったから、その精進ぶりも想像できるというものである。
だが、教育界は、明治二十三年の「教育勅語」の発布、それにつづく、明治二十七・八年の「日清戦争」の勃発という状況の中で、徳育と国家主義的な教育の傾向が強まっていった。それは、知育との関連を考えない形式的な教育、一つの型に強引にはめこもうとする教育であり、人間の自発性、内発性を抑えることによって、徳育的人間、国家主義的人間をつくろうとする教育で、人間性を知育によって磨き、育てることによって、理想的人間をつくろうとするものではなかった。いいかえれば、知育以外に徳育があるという考え、そういう徳育が考えられたのである。
その傾向を一層、助長したのが、ドイツの教育学者ヘルバルトの教育思想の輸入であった。教育学界は、その流行熱のために、血眼になるという有様であった。
当時の牧口は、そういう教育界の情況をはっきりと批判できるだけのものをもつところまではいっていなかったが、知育とかかわりあわない徳育というものには疑問をもつことができた。知育が悪いのでなく、知育の内容に問題があるのではないかということを、彼が主として、とりくんでいる地理教育を通じて、漠然と感じはじめ、そこから、彼は、地理教育について、自分で、じっくりと考え、研究してみようと思いはじめた。
それに、地理学というものは、明治初期から中期にかけて、最も斬新な学問として、青年たちを魅了した。というのは、江戸時代には、せいぜい伊勢神宮におかげ参りするぐらいで、人々は自由に旅行することもできなかったが、明治になってからは、自由に旅行できるようになったばかりか、外国にさえ、いくことが出来るようになった。地理に人々が興味をもったとしても当然である。ことに地理学は、新しい天地、新しい世界を求めていく青年達の夢をみたし、夢をふくらましてくれる学問であった。既に述べたように、牧口の出生、牧口の人生そのものがすぐれて、地理的であったから、猶更、彼はそれにひきこまれたといってもいい。
しかも、そういう牧口に対して、彼の地理学への興味と関心を、更に、学問的研究的興味と関心にたかめていったのは、内村鑑三であり、志賀重昂であった。彼等は、牧口に、学問としての地理学を再検討し、自分で、地理学を構想するところまでいかないかぎり、地理教育そのものをどうすべきか、どうあるべきかを見究めることはできないということを教えた。
即ち、明治二十七年に、内村の「地人論」(発表当時は「地理学考」と題した)、志賀の「日本風景論」が相ついで出版された。内村、志賀といえば、ともに、札幌農学校(現北海道大学の前身)に学んだものであり、その頃の札幌農学校は、官学的臭いはなく、フロンティア精神にみちあふれた庶民的な学校であった。そして、彼等もまた地理学に魅了された青年であったということができる。
内村は、「地人論」の中で、日本の位置を人文地理的に述べ、そこから、日本の使命が東西両洋の媒介者たるにあると主張し、志賀は、「日本風景論」の中で、風景を単なる美としてでなく、それを西欧の風景よりも美しいもの、より誇るべきものとして論じた。それらが強く、内村・志賀と牧口を結びつけ、それ故にまた、牧口の地理学を、人間を中心にみる地理学、人間生活との関係で追求する地理学にもしたのである。
そればかりか、牧口が将来、地理学者になろうと決心したのも、内村、志賀の地理学に深く啓発されたためである。彼が、漫然ともちつづけたもの、模索していたものが、彼らに接して、明確になったのである。しかし、学閥、藩閥が横行した明治時代では、彼のように、大学で地理学を専攻したことのない者が地理学者として社会的に認められるには、著書を出版し、それによって評価される以外にない。こうして、牧口の一大著書を出版したいという決心が生まれる。そのように決心すると、彼は早速、そのための準備を始めた。休暇を利用して、関係の書物を購入するために上京するということも何度かした。そして、紙をつねに懐にし、気のついたこと、考えついたことを、すぐさま、書いておくという生活も始まった。
明治二十七年から明治三十四年の数年間は、文字通り、それにうちこんだ。その間の事情を、牧口は次のように書いている。
「不肖、教育の職に在ること多年、その間、地理学の教育上、重要の地位にあらざるべからずして、しかも甚だ軽んぜらるること久し。而して、嘗て思えり。もし、この学の教授法にして、今少しく改良せらるるを得ば、現今における教育上の痼疾の大半は除去せらるべしと。
爾来、性癖の興味にかられ、揣らず、この学の研究に志し、教授の案をおこすにつけ、諸家の著書をひもとくにつけ、あるいは、新聞雑誌を読むにつけ、あるいは、老練なる実業者の雑話を聴くにつけ、あるいは、四周の天然、人事を観察するにつけ、即ち必要に応じ感ずるにしたがい、手記し、抜抄したるもの、積り積りて一冊子をなすに至れり。
されど、仮初にも、一科の学を云為するが如きは、固より企て及ぶべきにあらざれば、筐底におさめて、多年の後を期したりき。然るに、愚にも、興味は次第に深くなり、予が鈍き脳髄に次第に、これによりて拘束せらるるに至り、遂に、他の何事に従事するも、多少の隙さえあれば、忽ち、それが意識を占領して意の向う所を妨ぐるに至れり」と。
しかし、牧口が地理書を書きあげようとしたのは、単に地理学者として名をなそうとしたのではなく、社会的に認められようとしたのでもない。彼の地理書を書こうという試みは、あくまで、教育材料としての地理学を子供の知識として、もっと生きた知識、活用できる知識にしようという願いから出発していた。子供の生活、子供の行動に地理学的観察と地理学的思考が本当に役立つことをねらうものであった。
その意味では、どこまでも、教育者としての立場から、地理学の書物を書こうとしていたのであり、当時の教育状況に対する批判的な態度から書かねばならないと決心したのだった。価値にめざめ、価値といえるものを自ら創造していこうとする生活を始めたといってもいい。
この間、牧口は、二十五歳の時、牧口熊太郎の二女クマを妻として迎えた。その時、クマは十九歳である。子供が次々と生まれるという中で、地理書の原稿を書きあげるのは、非常に骨のおれる仕事であったろう。
しかし、明治三十四年には、とうとう、牧口はその原稿を書きあげた。行李一杯の原稿であったという。
牧口は、その頃、小学校の訓導をしながら、師範でも教鞭をとり、寄宿舎の舎監もしていたが、おりもおり、その師範と寄宿舎を舞台にして、ストライキとそれにからんだ刃傷事件がおきた。そのことを当時一年生だったある卒業生はこう書いている。
「三十三年の秋晴の日でした。僕等にとっては最初の宿泊旅行で、実にうれしくって前夜など禄々眠れませんでした。旅行といっても、行軍隊形をとった演習で、南北両軍にわかれ、僕等は南軍で、中隊長は中村さんでした。当時は四年生を除いた、全校生徒の行軍ですから、なかなか大仕掛けのものであったのです。第一日は当別で演習して泊りました。第二日目はいよいよ石狩につきました。夕食がすむと、中隊長の訓示がありました。
“本隊は、明早朝銭函にむけて出発の予定であったが、都合により之を変更し、当町に滞在する。集合喇叭が鳴っても集合するにおよばない。今晩の門限も午後五時までであるが、特別に九時まで許す。自由外出差支えなし”僕等は拍手喝采しました。
翌日喇叭が鳴っても集まりませんでした。学校では初めて気がついて交渉が始まりました。僕等は石狩浜をぶらぶら歩いて、銭函に出て一泊し、翌日帰校しました。勿論、演習は滅茶々々になりました。
三年生は石狩に泊り、隊伍堂々と帰校しました。模範級といわれたほどあって、統制のとれた事、結束がかたく、態度の立派な事等今でも忘れません。
査問会、放校、無期停学、寄宿舎は流言蜚語人心恟々となりました。声涙共に下った校長先生の訓話は未だに耳に残っています。先輩の御尽力で、翌年一月に帰って参りました三年生は、何処となく落着きがありませんでした。これはよくある過激派と穏健派とに分離したからであります。そして、刃傷事件という世に悲しむべき不祥事がおきたのでした。
それはある大吹雪の夜でした。消燈喇叭も鳴ってから、週番の提灯が廊下を右往左往します。病室の窓は赤毛布でおおわれ交通遮断です。喧嘩だそうだ? いや斬合して、大した怪我人が出たそうだ。殺された者もあるんだとよ……。
噂は噂を生んで、上を下への騒動となりました。翌朝格闘した附属小学校の運動場に行ってみました。血痕散乱、血の手形などもありました……。関係者はことごとく放校処分となりました……。青年と老人、新思想と旧思想、静と動、世の常とはいえ、留意すべきでしょう」
この前後の卒業生は、大抵三十名前後であったが、この時の三年生に限って、七名しか卒業していない。いかに、その事件が大変なものであったかを物語っている。
牧口も舎監として、この事件の責任を問われて、北海道長官より、一応、辞表を差出すよう命ぜられている。これが、札幌を離れて東京に出ようと決心した第二の理由であろう。
地理学の原稿を世に出すチャンスでもあった。その意味では、事件は、彼にとって、一つの転機となったといえる。こうして、牧口が行李一杯の原稿と妻子を伴なって上京したのは、同じ年の春である。上京を決意した彼は、もう一刻も札幌に、じっとしているということはできなかったのである。彼は三十一歳であった。
しかし、三十一歳の彼が、それも妻子ある彼が、生活の見透しも全くない東京に出ていくということは、なみ大抵のことではなかった。中年になって、職業をかえるということだけでも大変なのに、知人も殆んどいない東京に出るということは、非常に勇気がいることであり、決断力のいることでもあった。
だが、牧口は、それを敢然とやってのけた。そこには、出嫁ぎに生きた北陸人の逞しい生活力、精神力、庶民の雑草のような根強さがあった。砂岸に生きた者の膨張的姿勢であった。それを不安や恐怖と受けとめないだけの積極性、能動性があった。それは、かつて、十五、六歳の彼を、荒浜から小樽に行かせたエネルギーや生活姿勢と同じものであった。
上京した彼が、親子四人で、三畳一間の生活をはじめたことにも、それは、あらわれている。それをなしとげた彼、それに、黙って、後からついていった彼の妻、ともに、敬服するしかない。
第二章 教育の世界
牧口は、「人生地理学」の原稿を書いていく過程で、明治三十三年頃から、坪井九馬三の指導を受けている。坪井といえば、歴史学界の長老的存在で、明治三十三年当時は、東京帝国大学の少壮教授として最も精力的に活躍していた。その坪井に、参考書を買い求めるために上京した彼は面会を申しこんだ。勿論、誰の紹介状もなかったが、坪井は喜んで彼にあい、彼が率直になげつける疑問に、一つ一つ、丁寧に答えたのである。おそらく、当時の牧口は、地理学を誰の指導も受けないで、学んでいたから、幾多の疑問があった筈である。彼は、その疑問を当時の代表的な歴史学者に、大胆にぶっつけ、一方、坪井も、それをいやがることなく、解答したのである。
それ以後、数回、牧口は、坪井を訪ねて、研究方法などいろいろと質問した。恐らく、東京に出てからは、札幌にいた時と違って、より度々、訪問したことであろう。しかし、坪井は歴史学者であり、地理学を志向する牧口には満たされないものがあっただろうことは容易に想像される。
そこから、牧口は、かつて地理学の研究を啓発された、志賀重昂を求めていくようになる。二人の最初の出会いは、明治三十五年のことであったが、この時も、坪井の時と同じように、誰の紹介状ももたずに面会を求め、厚さ六寸もある原稿を彼の前にしめして、この原稿をなんとか書物にしたいと思うが、現在のところ、まだ満足のいくものではない、今後いろいろと御指導いただきたいと申し出たのである。
志賀の「日本風景論」に啓発されて、地理学の著述を志したこと、昨年以来、教職を離れて、この一年間、原稿の推敲、整理に専念したことを述べたことはいうまでもない。既に述べたように、志賀は、フロンティア精神にあこがれて北海道に学んだ程の男で、人生の意気には、大いに感ずるというタイプ。一小学校の教員の立場にある者が地理学の研究に専念したばかりか、これほど厖大な原稿を書きあげたことに、心から感動した。彼は、喜んでできるかぎりの協力援助をすることを約した。ことに、経済的に窮乏する中で、あくまで、その志を貫いていこうとする姿勢には、同志のような共感さえおぼえたのである。心からの激励の言葉を送りさえした。
牧口が志賀の言葉に、どんなに勇気づけられ、強い希望をもったことか。また、そのことが、意外に早く、牧口の出版したいという希望を実らせることにもなった。
というのは、志賀は、当時の代表的地理学者であり、明治三十年には、農商務省山林局長の地位にあった者、そして、その当時は、衆議院議員である。その彼が認め、協力を約したということは非常に心強かった。しかも、牧口が数年間、休みを利用して、札幌から書物購入のために通いつめた富山房の主人、生沼大造も協力を約したのである。生沼は、この若い小学校教員に、真底から、ほれぬいていた。一冊の書物にしあげるということは、生沼自身の願いともなっていたのである。
文会堂という書店が、その出版をひきうけたときには、牧口は勿論、志賀も生沼も欣喜した。そのことを、志賀は、次のように書いている。
「君、この著を出版せんとするや、一は、君が名声の未だ世に知られざると、二は、草稿の浩澣なるとを見ば、東京市中、数百の書肆、恐らくは、これが出版を断ずるものなからん。独り、文会堂なるもの、君及び予と何等の縁故なく、且つ未だ世に知られざる書肆なりと雖も、奮って出版の事を諾し、遂に、この大部の著述を公行す。片々たる小冊子を遍述する著者、これを出版する書肆の間にありて、かくの如き著者と書肆とあるは、また以て、人意を強うするに足れり。」
まさしく、一千ページに近い大冊、それも全く、無名の人間の書物を出そうとするのである。志賀が、口をきわめて、ほめたのも当然である。生沼は、富山房で、その本の発売元をひきうけようといいだした。そういうことになれば、彼の本の出版はいよいよ確実になる。
牧口の原稿を推敲する作業にはますます、力がこもり、その仕事もどんどん進んだ。明治三十六年初めには、彼は、選挙運動で、静岡に行っていた志賀を訪ねて、原稿の校閲をたのむということもしている。志賀が多忙な時間を割いて、その原稿を丹念にみ、批評を加えたのはいうまでもない。
その頃の彼は、駒込の自宅から、神田の富山房に、雨の日も風の日も、原稿の後を追って、日参したということである。
こうして、牧口の長い間の悲願は終に実って、明治三十六年十月、「人生地理学」となったのである。彼が地理学の本を出版しようと決心して、丁度十年目である。この本が、当時いかに歓迎されたかということは、同年末までに三版が出、三十七年から四十一年まで毎年、版を重ねていることでも、明らかである。農商務省地質調査所の小川琢治(後、京都帝国大学の教授、貝塚茂樹、湯川秀樹の父)も、
「余は、この一千ページの大冊を完成せる著者牧口常三郎君の真摯と勤勉とを驚歎して措く能わざるものにして、読み来たるにおよび、その渉猟の該博、その着想の斬新、その論断の妥当、また、滔々たる操觚者流のおよぶところにあらざるに服せり」
と批評をしている。
そればかりか、この本がでてからは、文検をうけようとするものの必読文献にさえなったのである。
では、「人生地理学」の中で、牧口は何をいわんとし、何を人々に訴え、知ってもらおうとしたのであろうか。
牧口は、まず、その序文に、
「“人生”の語は、その結局は同じからんも、一見、二様の意味に用いらるるもののごとし。“人の一生”と“人間の生活”とこれなり。ここのは、その後者の意味に従いたるものにて、人類の物質的および精神的の両方面の生活を意味し、したがって、その中には、経済的、政治的、軍事的、宗教的、学術的等、諸般の生活を包含す。人類社会の生活のこれら諸方面と地理との関係を論ずることは、これ本書のいささか予期したるところ。
吾人の四周を囲繞せる自然は、絶えず吾人の物質的、精神的、諸般の生活に影響す。されば、吾人もし精細に、その各要素と吾人の生活との関係を観察せば、これによりいわゆる地誌に記載する各地各国の状況を了解するの基礎は得らるべし。はたしてしからば、これすなわち、地理学の通論たるべきものにして、これに対すれば、地理学の各論と名づけうべき各地、各国の地理は、その原則を適用するによって、ほぼ、解釈せらるべきなり。不敏、はからずもいささか努力したるところのものは、この基礎の幾部分を得んとしたるにほかならず」
と書いたように、彼は、地理的事象、現象がどのように深く、人間の生活とかかわり、人間の生活に強い影響をあたえているかを観察し、究明しようとした。
そのことは、これまでの地理教育が単に、どこに、どういう山があり、平野があり、河川があり、そこには、どういう産物がとれるかを教えるだけで、それが自分や自分の生活とどういう関係にあるのかという視点が欠けていることに対する牧口の強い批判から出たものである。
彼にとって、地理教育とは、人間と自然の関係、人間と社会との関係を知ることであり、自然と社会を利用し、活用できる人間に、子供たちがなるということ以外にはなかった。自然と社会の中に生きる人間を把握することであったといってもいい。牧口は、そのことを次のようにもいう。
「五尺の痩躯にまとう一襲の絨衣、これは、これ粗なりといえども、けだし南アメリカもしくはオーストラリアの産するところにして、イギリス人の勤労とその国の鉄と石炭とによって成るところ。五寸の痩蹠にうがつ一足の短靴、これはまた、陋といえども、けだしその底皮は北アメリカ合衆国の産するところにして、その他の皮は英領インドのいだすところ。これを記して、頭をもたぐれば、耿々たる一穂の寒燈、また無言のうちに語る。コーカサス山端、裏海の畔に湧出し、一万浬外に運搬せられてここに至ると。燈光を調節して視力の欠を補う眼鏡の小玻璃片、またドイツ国民の精巧と熟練とを想起せしむ。細民の寒夜、一瞬の生活、多く思慮を用いずして、なお、かつ心頭に浮かぶところのもの、すでにかくの如し。
今もし、これらの原料が、牧畜せられ、採掘せられ、蒐集せられ、製造せられ、運搬せられ、売買せられ、ようやくにして吾人の身辺に達するその間の力と時とを想像するとき、またこれら有形の物に警醒せられて、さらに無形の影響に想及するとき、すなわち、平素において、いささかの感覚だもなくして経過したる単調なる半生が、この広大なる空間と時間との絶大の影響の焼点において遂げられたりしことに想到するときは、驚倒せざらんとするも得べからざるなり……。
吾人は、生命を世界にかけ、世界をわが家となし、万国を吾人の活動区域となしつつあることを知る。しかして、これは実に二十世紀の開明に際会したる吾人のなさざらんとすとも、ほとんどうべからざるところにして、また、まさに、なすべきところのものなるを知る。しかるを何等の痴漢ぞ、敢えて自らその限界を狭限し、徒に古来の障壁に拘泥し、蝸牛角上の小斗忙殺せられつつありや」と。
人間というものは、その生存と同時に、世界にかかわるものであるというのである。自然と社会を離れては、人間は一刻も生存できないというのである。そして人間が、そういうものであることを知るのは、郷土を通じてしかないし、その郷土の観察を世界にまでひろげていけばいいのだと彼は考えるのである。
ここから、牧口の郷土観察が始まるし、郷土観察が人間の立脚地点を自覚する第一歩であるという考えも成立する。それが、本当の地理教育であると断言するのである。
牧口は、更に、郷土が人間にとって一種不可思議の勢力をもっていることを、
「嗚呼、この不可思議の勢力や、ただに、人間の懐郷心を刺激する吸引力たるのみならず、同時に、“男児志を立てて郷関を出ず、学業成らずんば死すともかえらず”というごとき、丈夫をして憤然起たしむる反発力たるなり。しかのみならず、かれは暗々裡に絶えず笈を他郷におうの遊士を刺激し警戒し、彼をして成功せしめずんばやまず……。人はこれによりて奮励し立身し、栄誉と幸福とを荷うて帰らんと孜々たり。すなわち知る。郷土の不可思議なる勢力は、吾人をして、他日国家的、世界的の活動をなさしむる源動力たることを。吾人が郷土におうところ、重かつ大なりと云うべし」
と指摘して、郷土を究明することの必要を力説する。これは、郷土というものが人間と物質的に結びついているだけでなく、人間にとって、精神的宗教的存在であることを述べたものである。
ことに、牧口は、くりかえし、
「広大なる天地の状態は、実に、この猫額大の一小地において、その大要を顕わせり。されば、万国地理に現わるる複雑なる大現象の概略は、ほぼこれを僻陬の一町村において説明すること難からず。すでに、一町村の現象によりて郷土の地理を明かにせんか、よってもって万国の地理を了解すること容易なり。これ吾人が、地理学研究の順序として、まず郷土の精細なる観察をなし、一般の地理的現象に適用せらるべき原理を帰納し、確定せんとする所以なり。これを以て、卑近浅薄なる地理学初歩の課業と軽蔑し去るなかれ」
と地理学の意味を強調する。しかし実際には、「われら多数の凡人がこの深趣ある基礎的観察を怠って、ただ書藉にのみこれこだわり、いたずらに記憶力のみを労し、したがって読み、したがって忘れる」ことしかなかったとこれまでの地理教育を鋭く攻撃する。そして、地理を真に学んだ者として、吉田松陰をあげている。松陰といえば、幕末の思想家であり、明治維新実現の路線をひいた人であるが、彼が当時の観念的政論、空漠たる政論の横行する中で着実で有効なる見識を展開できたのは、その郷土を深く観察し、更には、他国を仔細に旅行して観察した結果であると彼はみているが、おそらく、地理を学ぶものは、すべて、松陰のようにならなくてはならないといいたいのであろう。しかも、こういう牧口の主張の中には、地理学こそ学問の基礎であり、中心であるという考えがあったのではないかと思う。後に、彼は、郷土科を各学科の起点であり、各学科の統合の中心と考えるのであるが、既に、この頃に、郷土の観察を中心とする地理学を学問の起点であり、中心であるとする考えが芽生えはじめていたということができるのかもしれない。
「人生地理学」は、三編三十四章からなる。第一編は、「人類の生活処としての地」という観点から、日月及び星、地球、島嶼、半島および岬角、地狭、山嶽および谿谷、平原、河川、湖沼、海洋、内海および海峡、港湾、海岸にわけて、それぞれを説明すると同時に、それぞれが人生とどういう関係にあるかを述べている。
牧口は、まず「日光と人生」と題して、
「もしそれ、三千八百万里という空間の距離よりすれば、最遠のものなりといえども、太陽が吾人の生活に最も親近の関係を有することは、吾人が日常朝夕の挨拶の言詞によっても知るを得。いわんや、地上一切の事物の根本原因とみるべきものなるをや」
と書きおこして、太陽が人間生活にとって、如何に深い関係があるかを、次のように述べる。
「けだし、生物の酸化作用は、その生命の大原因にして、光線は実にその作用に欠くべからざるものたり。このことは、また直接においてよりも、生物の発育に影響するによって、間接に、人類に関係することを思えば、さらに肝要なるをみる……。
もし、それ旭暉の燦爛たる、夕陽の煌燿たる等、美的影響において、したがってまた、修養上の影響においての浩大なることは、ことさらに論をまたざるところ」と。
更にまた、太陽の温熱については、
「太陽の温熱は、その分景変動の序列およびその変動の速度の三点において人生に影響す。吾人および吾人の生活の資料たる一切の生物が生存し殖繁するは、この三要件の適度をうるがゆえなり」
と説く。
こういう説明をきけば、太陽は人間が生きる上で親しむべきものであるとともに、崇敬すべきもの、恐ろしいもの、それ故に、究明しなくてならないものという考えがおこり、無関心でいることはできなくなろう。しかも、牧口は、人間はすべて太陽の子であるという。また、太陽の子である故に、人間はすべて、太陽の恩恵を同じようにうけなくてならない。太陽を活用しなくてならないともいうのである。
そのことが、牧口がまず、太陽から筆をおこしたという理由でもある。太陽についての鎖なる知識でなく、太陽についての生きた知講、活用できる知識をもつことによって、人間が人間として、どうあるべきか、どうあらねばならないかを考えさせようとしたのである。人類の一員、世界の一員としての人間の共通性、一般性を考えさせようとしたのである。そういう視点の必要なことを強調したのである。
さらに、牧口は、島嶼と人間、半島と人間というように、人間のもつ個別性、特殊性をみていく。とくに、島嶼と人生について書く場合、彼は日本と日本人を深く意識しながら、
「島民は、鞏固なる愛国心、はた愛郷心に富み、一朝外患の迫るに当たっては、一致団結その身を君国に捧ぐるの慨あり。これ実に吾人島国民が、その独特の気象として、大陸国民に誇るところにして、大陸民のすこぶる畏敬するところ……。けだし、島の卓然、大陸の騒乱以外に超立するところ、したがって島内の融和統一に便宜なるところ、したがってまた、島民各自が協力もって外敵を掃攘するにあらざるよりは、他に逃避もしくは依頼の手段なき孤立無援の窮境に陥るところ等は、おのずから、この特質を生ずるものならん」
と島国人的長所をあげるとともに、反対に、その短所を鋭く指摘することも忘れない。しかも、その長所とみたものも、深く観察してみると、それは、結局、
「いわゆる“島国根性”なるものこれなり。何をかいう、度量の狭隘なるにあり、自負心に富むにあり、小成に安ずるにあり、偏僻的はた孤動的なるにあり。反面よりいえば、寛容ならざるなり、雅量ならざるなり。されば時に応じて表わるる愛国心といえども、まったく外部の強圧に反動して起こるものにして、退嬰的のものなり。故に、外敵の圧力去れば、依然として孤動的性質を表わし、かえって団結心に乏しく、いたずらに蝸牛角上の小争をなして、遠大の目的のために、寛容に堅忍に相結合することなし」
といわなくてならないものであるというのである。更に、
「島が従来とかく大陸の開化におくれし事もまた短所の一に数うべきもの、けだし未開人民に対しては、海洋は一つの交通遮断物なり。島はすなわち遮断物をもって大陸と隔離するが故に、一方に大陸擾乱以外に卓立するをうるの益ありとともに、また大陸の文明におくるるは自然の勢いなり。大陸文明におくるることは、島民の思想界の狭隘とその低度とを意味す」
と述べると、島国的人間はいよいよ絶望的になる。絶望的になる以外にない。こういう短所が、そのまま、日本人のものとしてうけとめるしかないというのが、日本人を観察した後の結論である。
しかし、牧口は、島国は同時に海洋国であるということに注目し、海洋を征服するときは、思想界の狭隘も拡張に転じ、退嬰的な心も進取的発展的心になりうると強調する。それは、イギリス国民をみても明らかであるという。だから、島国人的特色とか短所というものも、それが固定したもの、永久のものと考える必要はない。固定しているもの、永久のものと考えることは逆に間違っていると断言するのである。
そのことを証明するために、牧口の観察は、海洋にむかっていく。
「海洋は、未開人民の智力に対しては、あまりに隔絶したりき。この障礙は、彼等の胆力を奪い、彼等を恐怖せしめ、失望せしめたり。しかれば、この広大なる自然力は、これらの人民に対しては唯唯畏縮と嫌忌とのほか価すべからざる魔力たりしなり」
と、昔は考えられていたが、一度、その蒙をひらく慧智と勇気が人間のものになると、海洋は一転して、平坦なる道路とかわったのである。
勿論、そのために、海洋を克服することのできた人々は利益をもたらし、相変らず、それの出来ない人々には、大きな害をまねくことになった。巨大なインド国が島国イギリスに支配され、ビルマ、アンナンが独立をうしない、中国、韓国が独立をうしなおうとしているのも、みな、海洋よりきたもの、島国日本が、その仲間入りをしかけたのも、すべて同じだと彼は、いうのである。
要するに、海洋は、人々をいよいよ畏縮させる働きをすると同時に、いよいよ発展させる働きにもなるというのである。だからこそ、牧口は、ドイツのフリードリッヒ・リストの言葉「海洋は世界の大路なり。万国民が活動する原野なり。万国民がその実力をあらわし、その企業心を伸ばす所以の場所なり。民権もこれをもって揺籃とすべし。世界の経済もこれをもって乳母とすべし。この理を解せざるは、吾人の尽すべき分を忘るるなり。天が吾人に命じたる大業を成さざるなり。国民にして、船舶を有せざるのは、あたかも鳥にして翼を有せざるがごとく、魚にして鰭を有せざるごとく、獅子にして牙を有せざるがごとく、軍人にして武器を有せざるがごとし。実に、国民にして船舶を有せざるは、みずから他国民の奴隷となるなり」に強く共鳴する。
その言葉をわがものとして生きなくてはならないと感ずる。
おそらく、その時、牧口の頭の中にあったものは、船乗りの子としての自分のことを考えていたかもしれないし、海に面しながら、荒海を制御できる智力、能力のないままに、漁業を発展させることの出来なかった荒浜村民のことを考えていたかもしれない。
しかし、いずれにせよ、彼が島国人としての日本人の生きる道は、海洋国民となる以外にない、海洋国民として発展する以外にないということであった。また、それ故に、荒浜村民をふくめて、日本人の将来に、洋々たる前途を確信することができたということもできる。
しかも、牧口が「人生地理学」を書いた当時は、殆んどの地理学者は、陸上観察を主として、海洋観察をしていない。中には、海洋観察をする者があったとしても、彼のように、島国と海洋国、現在の日本人と将来の日本人という視点からする者は全くない。彼が、この「人生地理学」を、如何に自信と誇りをもって出版したかということが、このことでもよくわかる。
「吾人は疑う、地理学者は、日本地理書中に、何故に“日本海”“瀬戸内海”“太平洋”等の章を設けざるかと。地理書をして、多少の実用に資せんとし、ことに、海国民の心意開発に資せんとならば、これらの事項は決して軽視すべからざるのみならず、とくに、観察記載すべき幾多の材料と価値あるものならん」
と牧口が相当に気負って書いたのもよくわかる。彼は、「人生地理学」一冊によって、日本人の変革をなそうとしたのである。日本人に、自信と希望をあたえようとしたのである。
牧口は、日本を島国とみ、将来、海洋国になることに、日本の発展をみたが、島国と同様に、日本が山国であるということで、山国にも鋭い観察をしていった。ことに、「山国が封建制度発達の一大主要の原因である」という指摘は非常に面白い。それはともかくとして、彼は、山を次のようにほめる。
「山は、すでに、美術的思想を人類にあたう。あに、人心をして好まざらしめんや。吾人の幼時においてや。いまだ、自己の身体の機関につき、十分なる知識を得ざるに、もはや山水の寵児となる。この時期におけるわれらの遊園は周辺なり。われらの漁場は山間をいずる渓谷なり。……人間生涯中、山ほど親しきものなし。諸君、それこの鴻恩を忘るべけんや。山はかくのごとく吾人を楽しましめつつある間に、知らず識らず、われらの心意を開発す。ここにおいてか、山は人物の育成所となる。」
「山の民の山を視ること、あに一般の外界におけるがごとき、無情なる経験材料たるにとどまらんや。いわんや、山は人情を和らげ、人心を啓発するの天師たるをや。かならずや、山によりて愛護せらるる国民は、山をみること、あたかも子の親におけるがごとけん。誰か山を愛せざるものあらんや。ここに至りて、これまで、自己と相対峙し、自己と異なりたるものとせる山は、今や自己と同じく世界の一部員となり、自己と相関の交際あるものとなり、ここに、まったく有情物と化す」
と書いて、山地の人間が山と一体になるともいうのである。
しかし、彼は同時に、山国に育った者の欠点をみる。短所を考える。
「山は天然の城壁をなすとともに、国を狭隘ならしむ。狭隘なる山国に養成せられしもの、あに、広闊なる気象を得んや。思想狭隘なれば、したがって他を嫉妬し、他を排斥し、その極終に、内訌争斗したる封建時代の風は、実に、山の影響を多しとす。その風や現今においてもなお、滅却せず。もっておのずから島国根性をあらわす」と。
牧口の頭の中では、山国的根性は島国根性と同じものである。当然、島国に対して、海洋国を考えたように、山国に対して、平原を考えた。平原的要素をとりいれることの必要を説いた。そのことを、志賀重昂の著書から引例する。
「平原は境界をなさず。故に、識見の広闊にしてだいたいに通暁する人材は、おのずからこの間より発し、したがって歴史上に残るべき最も大なる資料は常にこの間よりおこるものとす」
そして、平原に生れ、平原に育った人間の代表例に、アメリカ人とロシア人とをあげる。それは、山国的日本人が平原的要素を吸収していくには、どうすべきかということであった。
ここに、牧口の考える地理教育、あらねばならない地理教育の姿があった。だから、次に、半島と人間の関係を述べたところでも、
「欧州近世の文明が、その源をギリシャ、ローマの半島に発し、……キリスト教および回教が、アラビア半島におこりたる、仏教がインド半島に発したる、あるいは、儒教の起源が中国において山東半島にありしがごとき、……もし、それ同一の例証を本邦に求めんか。島根半島に太古文化の一起点の存するは史上において争うべからざる事実なるべく、伊豆半島の下田港はアメリカ使節を歓迎したる最初の地として、新日本文明の一起点と見なすをうべけん。
同じ半島に、わが国における西洋形船舶の始造の事実と、これにあずかりて文明の発達に大なる貢献をなしたる江川太郎左衛門の生じたるとは、つとに世に紹介せられたところのものなり……。維新の改革の先導者にして、かつ主動者たる、いわゆる薩長肥土の輩もまた半島の性質となんらかの関係なしとは思われざるなり。けだし、薩や九州南端の半島形をなすところ、長や中国半島の西端と見るをうべく、肥前に至っては、著かに半島の形状をなすところ。ひとり土佐に至っては、半島形を失うがごとけれど、しかも薩とならんで南海に斗立するところは、まったく半島形ならずというべからず」
と書き、半島が昔から今に至るまで、文化の伝送者の役割を果たしたことを指摘しながら、最後には、彼は、島国は、これらの文化を結合し、大成するところであると強調することを忘れない。島国、日本の文化的使命を更めて、確認するのが彼である。
第二編では、「地人相関の媒介としての自然」と題して、無生物という項目から書きはじめる。その場合、彼は、無生物が人間にとって、物質的にも精神的にも、いかに関係が深いかを、「岩石が単に吾人の物質的生活に関係するのみならず、直接に精神的生活に密接の関係を有することは、また吾人が日常起居する居室の内外を一瞥するによりて容易に感じうべきところ。庭園の美景、室内の装飾、衣服の装飾等にいかに多く鉱物質の存するかは、すなわちこの感を惹起せしむる卑近のものなり」
と述べた後に、無生物と文化の関係にふれて、
「無生物の各種類が各種の方面より人生に関することは、実に社会の文化と無生物との関係を推定せしむべきところのものなり。
吾人の安固なる生活上、まず居住のためにある程度の岩石を要することはいうまでもなし。しかのみならず、吾人は、その生活の伴侶たる動物および植物の生活とともに、厳密に、飲料水の天然存在に依頼せざるべからず」
と説いていく。
無生物は、人間にとってのみでなく、動物、植物に不可欠のもの、しかも、そういう不可欠のものが無生物のみでなく、大気もそうだというのである。
そして、人間、植物、動物の三者の関係はもっともっと深いという。
そのことを、植物のところでは、植物の人生に対する実用的関係、栽培植物と人生および地、森林と人生および地、海藻類と人生、植物の人生に対する精神的方面、植物と文化、陸生植物の分布、植物の土質および地勢に対する分布、海藻類の分布、植物分布の原因の各項目について述べ、動物のところでは、動物と人生、獣類と人生および地、鳥類と人生、魚類と人生および地、軟体類および棘皮類と人生および地、爬虫類と人生および地、昆虫類および甲殻類と人生および地、珊瑚および海綿と人生および地、動物と心情、動物と文化等について、具体的にふれる。
例えば、「植物の人生に対する精神的方面」という説明では、
「植物は吾人の美情を興奮し、吾人の殺気を緩和し、吾人の詩趣を発酵し、もって吾人の心情を涵養するものなり。
しかるに、植物と人生とのこの精神的交渉の機会は、文化の進むにしたがい、人口の増殖するにしたがい、生存競争の激烈となるにしたがって減少するもののごとく、しかして、これとともに、彼等植物に対する恋愛の情は濃厚となるがごとし」
と書き、今日の文化、今日の文明というものは、もう一度再検討をしてみる必要があると説いている。警告を発しているといってもいい。そして、人間にとって、真に豊かな生活とは何かと、植物と人間の関係に鋭い観察をすることによって、その解答をさがそうとしている。
こうしてみると、この本は、明治三十六年に書かれたものであるが、今日になって、いよいよ、そのいっている意味が重さをくわえてくるといえよう。
動物と人間の関係についても、最近は、いよいよ、人間のための動物、人間に利用される動物という傾向が強くなっている。牧口が「動物と心情」という項目で、
「吾人の従順なる伴呂とし、また親愛なる慰藉者として、日常の生活に纒綿する諸種の動物によりて吾人の心情が涵養せられ、叙暢せらるることのすこぶる多大なるは、少しく自省するところにより、また古来の詩歌を通覧するによりて容易に首肯しうべきところなり。想うに、かれらは造化の特命を帯びる天使として、あるいは、忠実に吾人の使役に服し、あるいは、臨時に吾人の慰訪をなすものに似たり」
と書いた動物は、動物それ自体のために存在し、人間とは対等、それ故にまた、動物と人間は深い関係、精神的交流をなすことができたのである。その点では、今日、動物の経済的意味だけが人間にとって大事になりつつある。これもまた、人間の退歩、文化、文明の後退としかいいようのないものと断言してよい。動物を人間が支配すればするほど、動物には逆に見放されてきたのが今日の人間の姿とすれば、牧口でなくても、人間よ、お前はどこにいこうとしているのかと反問せずにはいられまい。
このようにみてくると、牧口の「人生地理学」は、いよいよ警世の書になってくる。彼が、その序文で、「吾人観察の対象は、常に現在の活社会にあるが故に、正当に解せんとせば、勢い時事の問題に接触せざる能わず。されば、本書の目的上より常に戒めつつも、時に筆端の主題外に逸したるところなきにしもあらず。これまた読者諸君の諒察をこわんと欲するところなり」と書かなくてはならなかった理由でもある。
更に、第三編は、「地球を舞台としての人類生活現象」の名のもとに、社会、社会の分業生活地論、産業地論、国家地論、都会および村落地論、人情風俗地論、生存競争地論、文明地諭の各論を展開する。
その中で、牧口がとくに、社会という項目を最初にあげて論述しようとしたところには、人間の社会生活というものの役割と意味とを国家的生活以上に重くみたということ、しかも、その社会についての学問が、その当時まだ十分に発達していないという配慮からである。それは、「人生地理学」を最初「社会地理学」という書名にして出版しようとしたこととも無関係ではない。
牧口は、社会を次のように考える。
「家族も学校も一つの小社会なり。そして、町村も都市も、はた、その他の地方団体も、みなそれぞれ一つの社会を形成するなり。もしそれ国民に至って最も完備整然たる社会たるなり。社会なる語は、なお、これらに留まらず。時に民族と同一の範囲に用いられ、また近来は一層広汎となりて、ついに世界の全体に適用せられんとす」
島国的人間から海洋国的人間、山地的人間から平原的人間へと常に、脱皮発展することを考えた牧口として、家族、国民、民族、世界を包括する社会を国家以上にみたとしても当然であろう。人間は出生とともに世界にかかわる存在であると考えた彼が、社会を社会生活を何よりも重視したとしても不思議ではない。
しかも、その社会には、あたかも、人間に知的生活があり、感情生活があり、意的生活があるように、三つの生活があるというのである。例えば、その感情生活を、
「社会の感情生活の最も顕著に表わるるものにして、かつ莫大なるものは、恐慌、一揆、騒動および革命等の現象にしくはなし。これらの場合においては、あたかも一個人の非常なる恐怖、憤懣、強怒等におけるがごとく、他の心意作用はまったく情緒作用に制伏せられ、ひとり感情作用のみが社会の心意の全部を占領せるものにて、かの感情を制禦し、調和すべき理性の作用のごとき、まったく心意外に放逐せらるるが故に、かかる場合においては、その行動は殆んど過激に失し、狂暴に陥り、正鵠を誤らざるものははなはだ少し。いわゆる社会の盲動なるものにして、一種の流行病の性質を有するなり。これらの感情が発動するや、その初めは意識的なれども、これが群衆中に伝播するときは、あたかも波動の輻射するがごとく、ついにまったく反射運動を惹起す」
と説明する。そして、人間に精神のあるように、社会にもそれらを合したものとして社会の精神があるが、その人間の精神はその人間の死とかかわりなく、社会の精神に合体し、社会の精神を支えることによって永遠に生きつづけ、発展しつづけるというのである。
これが牧口のとらえた人間と社会の関係である。だから、人間の経済的、政治的、宗教的、学術的、美術的、道徳的、教育的、娯楽的活動等の活動を社会的活動とみなし、社会そのものは、人間のそれら諸活動によって充実され、発展されるものと考える。しかも、牧口は、明治三十年代当時において、人間の社会的活動の中で、経済的活動を最も重視した。経済的活動が一切の人間活動の基礎であると強調した。そのことを彼は次のようにいう。
「吾人が知能的、道徳的および宗教的等の高尚なる精神活動をなしうるは、ただただ欠乏の窮迫、飢餓、恐怖に対して保護せらるるの安心ある時にあるのみ。 この故に、他の社会的活動の性質およびその発達の程度は、この活動の進否によりて決定せらる。経済的活動は社会の真正なる基礎なりというをうべし。
もしも、社会、国家がこの基礎的経済的活動を等閑にふして、政治、軍事、教育等の機関の拡張をはからんかただただ破産あるのみ」と。
このことは、当時としては、非常に鋭い発言であり、卓見であったということができる。 そして、この経済活動がいよいよ進むためには、学術的活動を大いにおこす以外にないというのである。彼がいかに学術的活動を重んじたかは、東洋が西洋に比して、学術進歩せざる理由として、
「ある事情によりて、一局部の学術に偏せしと、社会組識に基づく階級的圧制政体に主として帰因すると解すべきものの如し。いう所の一局部に偏せしとは、自然現象に対する交渉にもとづく自然科学の方向に向かわずして、ほとんどまったく人事界現象に対する人倫道徳の方面に向かい、その内にありても、ある階級が他の階級の多数を無為に治むる方便として採用せるある一派の学派に偏することに余儀なくせられて、豪も自由研究の精神の発揚の機会なかりしを言うなり。
階級的圧制政体の生ぜし所以、したがいて、自由研究の圧倒せられし所以は、また主としてその地勢に基づく」
と指摘し、それをとりのぞくならば、日本においても、学術的活動は大いにおこりうると述べたことによってもわかる。彼がここで主として書きたかったのは、日本人には、学術的能力があるということであり、島国から海洋国に、山国から平原国に脱皮するためには、学術の力をかりる以外にないと断言したことである。すぐれた学術的活動ができるかどうかということは、それこそ、日本の今後にかかる問題である。
だから、牧口は、国家地論を書いて、国家の国民に対する役割、職能を強調しないではいられなかった。彼はいう。
「一は、国民相互の間に生ずる妨害に対して、個人の権利を認め、その自由を保護するものにして、他は、国家それ自身の発動機関たる政府の侵害に対して、個人の権利を認め、その自由をして神聖侵すべからざるものたらしむるのみならず、個人に対して、政治的権利を保証し、かつ両者ともにその権利を行用し、また強行するの方法を与うることこれなり」
個人の権利、個人の自由を神聖にして侵すべからずと書いた意味は大きい。昭和二十年以前に、このような表現で、断言した者はいない。この表現は、かつては、天皇にのみ通用し、天皇にのみ使用されたものである。そればかりか、この時すでに、国民全部の参政権を強調したのである。ということは、国民の権利、自由をまもろうとしない国家、政府自らの手によって国民の権利、自由を侵害するような国家は、国家としての役割、職能を果たさないものとして、存在の意味は認められないということである。
国民の権利、自由を神聖にして侵すべからずとする国家をつくっていかねばならないということでもある。ここから、国家そのものは、常に生成し、発達しなくてはならないという考えも生まれてくる。生成し、発展しない国家は衰弱し、滅亡していくしかないともいう。
そういう観点から、当時の日本をみたとき、牧口は、まだまだ、日本はおくれている、国民の権利自由を十二分にまもっていないのみか、国民の智力を開発しきっていないといわざるをえなかったのである。
だが、牧口は、国民の権利、自由を拡大し、国家が国民の権利、自由を保護するように、日本国家が変貌することを強く期待したし、その契機となるのは産業であり、都会であると確信したのである。産業と都会が人間の智力を開発し、国民の権利、自由を最大限に確立していくと考えた。
即ち、産業は、人間の欲望を基礎とし、その欲望を充足させるためにおこったもので、その欲望が無限であるということが、産業の限りない発達をうながし、また、産業の限りない発達は、国民の権利、自由の保障のないところには生まれないということから、大きく、国民の権利、自由を求めていくことになる。智能の裏づけなしに、参加なしに、産業が発達しないということを考えても、産業の発達は智能を開発し、更に進んで、国民の権利、自由を求める心を強大にしていく。産業の発達が国民生活を豊かにし、自らのための教育を求め、自らのための宗教、美術、政治を求めていくようになるといってもいい。
また、都会というところは、市民の智識を開発する機会に富んでいる。牧口は、そのことを
「知識の発達は、衆個人の特殊経験の集合し、融化するによりて成る。都会はその特殊の引力によりて、それに直接関係を有する者、およびこれに附随するものにして、各々特殊の経験を有する者を会合触接せしむ。ここにおいて、都人と村民との間に智力発達の著しき差異を生ずるに至る。要するに、田舎は個々の経験の発生地なれども、村民のこれによりて得たる知識は断片にして、具体的にして盲目的なるに反し、都会は個々の経験の綜合所なれば、ここにおいて具体的の知識は抽象的原則となる。断片は全体となり、盲目的たりし経験は明瞭なる見識となる」
と書いている。彼が都市が発達し、膨脹することに、大きく期待したのも当然である。
明治三十年当時、既に、牧口は、都市の発達、膨脹によりて、国民の権利、自由が拡大するという意見を提出しているのである。
最後に、牧口は、
「時に日本人はすでに東洋文明の粋を集めたる上に、西洋文明に接触してわずかに三十余年の間に、かの地における百年間に発達せし頂点に近づけり。しからば、島国は文明統合に大なる便宜を備うというより考うるも、これを文明中心点移動の経路に見るも、たしかに、文明渾成の地点にありというも決して溢美の言にはあらざるべし。
ただここに一の逸すべからざる事は、地勢移動の経路なり。この点よりみれば、将来の文明統合地は、まさに米国にありと言わざるべからず……。米国はたしかに一の島国なり。実に、引き延ばしたる島国なり……。
ともかくも吾人はここに至りて、将来の文明における日本の位置の多望なるを認めざる能わず。知らず、四千五百万の大和民族は、はたしてよく、この天与の地位を指導しうべしや否や」という文明地論を書いて、本論を終わる。このことを言いたいために、彼は、一千ページの本を書いたといってもいいのかもしれない。牧口の自信、牧口の抱負が六十年後の今日も強く伝わってくるように思うのは、決して私一人ではあるまい。ここで、今一つ、書いておかねばならないのは、彼が吉田松陰の「地を離れて人なし、人家離れて事なし。人事を論ぜんとせば、まず地理を究めよ」という言葉で結んでいることである。
既に書いたように、吉田松陰は、日本史上における代表的思想家であり、教育者である。当時の牧口がその吉田をいかに崇敬したか、そして、そのあとを継承しようという思いがどんなに強かったかということを、このことは示しているといってよい。
こうして、牧口は、この一冊をもって、世の中に登場した。だが、この書物が売れたほどには、また、騒がれたほどには、彼の経済生活と社会的地位が確立するということはなかったらしい。
だが、「人生地理学」を出したことにより、彼は一人の知己を得た。それは、新渡戸稲造である。新渡戸は、志賀、内村と一緒に、札幌農学校を卒業し、当時は、台湾総督府技師をしていた。その彼から、牧口のところに手続がきたのである。新渡戸としては、現に、明治三十一年に、「農業本論」を著し、農漁村の研究、地方の研究の重要性を強調した者として、牧口の「人生地理学」執筆の姿勢に、深い共感をおぼえたのである。だから、その手紙がこの本に対する感動と激励の言葉でみたされていたであろうことはいうまでもない。
これ以後、新渡戸が京大教授となり、第一高等学校長を経て、東大教授になった後も、二人の親交はますます深まっていった。そして、柳田国男を牧口に結びつけたのも、おそらく、彼であったろう。
柳田は、当時農商務省の役人として、農政学の研究に没頭していた青年で、牧口よりは四歳若い。その柳田と一緒に、牧口が山梨県南都留郡道志村の調査をしたのが明治四十二年であった。電報でも、東京から三日もかかるという山村を調査するとともに、農村調査の方法をいろいろ研究してみるというのが、この調査の目的であったという。
日本民俗学の母胎となった「郷土会」が、新渡戸を中心に創立されたのが翌明治四十三年秋のことである。参加したのは、柳田国男、草野俊介、中山太郎、前田多門、尾佐竹猛、小野武夫、那須皓、小平権一、小田内通敏、小此木忠七郎、正木助次郎、田中信良、中桐確太郎たちである。牧口もその一人であった。研究会場には、常に、新渡戸の家が使用され、研究会は毎月開かれた。機関誌「郷土研究」も出した。そのために、牧口の研究も大いに進んだといえよう。
しかし、先にも書いたように、牧口には経済的安定がなかった。経済的生活を人間の活動の基礎と書いた牧口であったが、彼自身、いよいよ、そのことが真なることを痛感させられるような生活であった。
そのために牧口は、明治三十八年頃、生活費を求めて、いろいろの職業につくことになる。最初は、茗渓会館内にある高等師範関係の出版事務、次は、金光堂発行の少女雑誌の編集、最後は、「大日本女学講義」を仲間と一緒に始めたが、これも、二年ぐらいで資金難におちいり、なげだす以外になかった。その後、文部省の嘱託として、地理教科書の編集に従事したこともあるという。
この頃は、子供も五人にふえていたので、生活はますます苦しくなっていたといえる。牧口が小学校教員の生活を再びはじめたのもそのためである。十数年間にわたる苦闘も、経済的には実らなかったということである。しかし、彼が経済的に実らなかったということが、また、地理学者として社会的に成功しなかったことが、かえって、彼がその後ずっと、日蔭の人間、貧しい人間に理解と関心をしめすことになったということも出来るのである。そういう人たちとともに生きていこうとする決心と姿勢を強めることにもなったのである。そこにしか、自分の生はないと思いさだめたといってもよい。
明治四十二年、牧口は、東京麹町の富士見小学校首席訓導になった。その時、三十九歳であった。しかし、彼の地理学への興味と関心は多忙な教師生活の中で、うすれるどころか、ますます強まっていった。明治四十三年四月には、病気のため、一時、退職し、八月に文部属(地理教科書編纂にたずさわる)になったが、その夏、九州の山村の生活調査をおこなっている。
そこには、牧口の、小学校教師といえども、教師たる以上、常に自分で学び、自分で研究していることが必要だという確信があった。自分で学び、自分で研究しようとしない教師は教師たるの資格を欠いていると考えていた。
こういう考えの下に、牧口の第二作、「教授の統合中心としての郷土科研究」が、大正元年十一月に生まれたのである。勿論、彼がこの本を書いたのは、こういう理由だけではない。ことに、彼が、「教授の統合中心としての郷土科研究」を書くには、それだけの理由があった。
一つには、日本の教育界が、明治初年以来ずっと、外国の教育思想の模倣に終始するという状態がつづいていることに対する牧口の強い不満と怒りであった。ことに、教育学者たちは、次々と、西洋諸国の教育思想の翻訳紹介に狂奔するだけで、それが日本の教育界の現実とどうかかわっているか、その現実を改造し、発展させるためにどうあるべきかを時間をかけてじっくりと追求しようとしない。教師たちも、教育学者の紹介する教育思想にひきずりまわされて、教育思想の定着化にとりくむということがなく、常に、新しい学説を追い求めている。彼にとって、これほど苦々しいことはなかった。
二つには、こういう教育界の思想状況の中で、郷土教育の思想がめばえたということは、教師の自発的研究が、少しずつ始まったものとして、非常に喜ぶべきことであったが、それも文部省の命令であるからやるとか、流行におくれまいとしてやるということになりかねない。それでは、折角の郷土教育も子供の中に生きてこない。全国の子供のために、ぜひとも、郷土教育の真の姿をしめしたいという願いが牧口におこったということである。
三つには、郷土教育の真の姿ということと関係することであるが、実際におこなわれている地理、歴史の授業と全く無関係におこなわれている郷土教育を是正しようとしたことである。ことに、地理、歴史の授業は、むずかしい言葉、子供の興味、関心とは全く縁のない事柄でみちみちている。牧口はそのような地理、歴史の授業を郷土科を通じて、子供自身の生活に、興味に、結びつけようとしたのである。
郷土における土地と人生、自然と社会等の復雑な関係を直接に観察せしめることによって、家庭、学校、市町持を把握させ、それを更に、国家、世界に結びつけようとしたのである。それというのも、人間は誰でも郷土をもっている。そして、殆んどの人間は、その郷土に生き、そこで死ぬ。とすれば、人間は郷土に対する知識をもつことによって、郷土を発展させ、自らの生活を豊かにしていく以外にはない。たとえ、郷土を離れて生活する者も、郷土を発展させる姿勢と心のない者に、自らの住む社会を発展させることはできない。それが、ひいては、国家、世界を発展させることにもなる。
牧口は、郷土の発足にとりくむのを人間の初歩的な責任と義務とみ、その能力を与えるのが教育であると考えた。また、そういう能力は誰にもあるし、可能であるとみた。それが、牧口にとっての初歩的な生きた知識、役に立つ知識であったのである。
ということは、郷土科は、人間にとって、最も基礎的で、最も中心的な教科であるということである。彼が心をこめて、郷土科を書いたのも当然である。彼のいうところを辿ってみよう。
牧口は、「児童の生活に没交渉なる修身科と郷土科」という中で、
「とかく、修身科の教材は、概ね児童の日常生活にはなはだしく懸け離れた、したがって教師がことさらに注意し、解説して結びつけてやらないと、ほとんど彼等と没交渉な、大人むきのしかも非常の場合の事柄をもってみたされているものが多いのであります……。
かような稀にあらわれる非常の場合を日常卑近の場合にあてはめ、……非常の事変に遭遇し、初めて、外部に現われる敬服すべき行為を、平常の場合にもかならず同様の事のあらんと推測するように心理的分析をなし、児童に感動させるような注意をなすものが、はたして幾ばくあるでしょう。修身科教授の効果のあがらない原因の大部分は、この点に存するのであります。この点からも、基礎的観念を整理するところのある予備的教科の秩序的作業を要求するのは、当然の順序であらねばなりますまい。修身科から郷土の人生現象を直観させる必要のあることは、教授した教科目を実地の生活に応用するようにしむける点において、さらに重大なること、と存じます」
と書き、また「標本模型に囚われたる理科教授と郷土科」と題して、次のように書いている。
「近時東京市内の新設の小学校等において、理科教室等を設けて、特殊な設備をなし、多額な費用を投じて完全に近いという誇りをもって電気に関する教授をなしている……。
しかし、電動機は一体いかほどの効用すなわち生産能力を有するか。またいかなる生産価値を生みだすか、それに投じた資本はいつ回収できるか、それがいかなる影響を社会に与えるか。かつこの電気のあらゆる業界進出は、いかなる社会状勢を作るか。すなわち英国の産業革命が英国に、否世界経済界に与えた影響を、今日本の経済界にいかに、いかなる形をもって与えているかは、単に教室の中で教えられるものではない。すなわち言を換えれば、わずかばかりの電気知識を習得せる教師によって、その単なる学理や操作だけを教えられても、その能力、価値、影響はいかにして教えられますか。いかにして知りうることができましょうか。しからばこれを使用することが得策なりや否やを判断するだけの知識をも与えることはできますまい。しからば他の機械を利用して大いなる生産を生みだすような端緒を作ってやることなど、思いもよらぬことではありませんか。
ここにおいて目をあげて環境に注意せよ、すなわち、実際に工場について見学せしめよというのであります……。たとえば、農村においては、動物および植物の実物観察の材料はたくさんあり、水車、唐箕、犂、噴霧器等の物理学的教材は日常の道具となっており、肥料、殺菌剤等の化学的教材もまた卑近に備わっています。その他、風雨寒暖の変化と作物の豊凶との関係等の題目によって、天文、地文等に関する直接観察をさせることができましょうし、また附近の市街においては、かならず多少の工業が今は大概行なわれているから、物理学的および化学的の教授資料をうけることも、あえて困難ではない」
牧口は、更に「卑近なる活用方面を通した国語教授と郷土科」「直観の基礎なき名数の計算と郷土科」と題して、国語教育、算数教育が生きた知識として働かないように教育していることを鋭く指摘する。勿論、「砂上楼閣の地理教授」「基礎的観念なき歴史教授」についてもふれる。
ここから、牧口は、準備的教科としての郷土科のない各科ばらばらの学習と知識は、相互になんの連絡もなく、また、有機的な結びつきもないために、その学習は不経済であり、その知識は生きてこないと結論するのである。それに、人間の観念や感覚の発達過程を考えるとき、彼は、人間は生まれおちた幼年時代から、日々何回となく、郷土における四囲の現象で、その観念や感覚を刺激し、それをくりかえすことによって、次第にそれらを確立し深化していくことを発見する。とすれば、子供の基礎的観念や感覚は、学校教育を通じてうるものというよりは、むしろ、彼等が郷土の四囲の現象を通じて、学校教育以前にすでに確立しているということになり、学校教育は、子供たちのそういう基礎的観念や感覚をいかに拡大し、明確にし、整理し、発展させるかにあるということになる。彼が郷土科は、各教科の起点であり、教育の出発点であるといったのもそのためである。
しかも、牧口は、郷土科を各教科の起点で、教育の出発点と考えただけではない。同時にそれは、各学科の終点であり、教育の到達点でもあるというのである。彼はそのことを、
「修身といわず、読本といわず、歴史、地理、算術等の諸学科ともことごとくその授けた智識を児童の日常生活に応用するようにしむけて、これを指導してこそ、始めて有効であり、有力である……。応用指導の第一歩は、いうまでもなく、児童が日常親炙するところの郷土における四囲の現象であります。何となれば、郷土はその狭い範囲内においても、着眼点のつけようによっては、世界のあらゆる現象を、ほとんどことごとく網羅しているものであることは、つとに先輩の道破したるところであるからであります。郷土科の存否が教授の終点の緊縮に、大なる関係のあることは、もはや事々しく論ずるまでもありますまい」
といいきったのである。
そればかりか、牧口は、更に、郷土科に各教科の連絡統合の位置、中心的位置を与えんとしたのである。各教科も、子供の直観的知識に結びつけられたとき、一つの綜合的統一的知識になるというのである。ことに、当時の教育界は、修身科に各教科の統合の役割をになわせようとしたり、郷土科を単に各教科と並行させればよいと考えていたのに対し、彼は、郷土科を各教科の中心点におくように強く提案したのである。彼はいう。
「児童が生まれ落ちて以来、永い期間、毎日刺激され、心意に固着してはなるべからず、忘れんとして能わざるほどの郷土に関する智識を整理して、一系統のものとなし、これを郷土科と命じて、諸教科の連絡統合の起終点もしくは中心点とするならば、……自然的で、些かの無理がなくて、一切の知識、観念の統合連絡がうまくいく」と。
そうすれば、子供の智能は一様に開発され、郷土の発展は間違いないというのである。それが、すべての人間にとっての生きた知識、役に立つ知識の第一歩であるというのである。牧口のいうような郷土科教育が、理科教育、算数教育、国語教育、地理教育、歴史教育を郷土科で統合したような教育が、もし、その後、おこなわれていたなら、今日のように、自然科学の発達が逆に人間を支配し、征服するということもなく、人文科学、社会科学が人間や社会の発展ということと無関係に成立するということもなく、あくまで、人間のための学問、生きた人間のための科学として、人間に役だつものになったろう。そして、今日、学問が学問としての機能を失い、今日の学問は再検討しなくてならないという問題をめぐって、大学が荒れ狂うということもなかったであろう。その意味では、牧口の郷土科教育は、単にその当時、あるべき郷土科教育を提唱したばかりでなく、教育内容の本質にふれたものであり、今日の大学紛争とも深くかかわっている。
更には、第二次大戦後、社会科教育に、日本中の教師はその眼をうばわれ、その心を強くゆりうごかされたものだが、牧口の提唱した郷土科は社会科の理念を上回るものであったといってもいい。今日、その社会科もその本来の姿をうしなって、形骸化し、ゆがみにゆがんでいる。とすれば、彼の提唱した郷土科は、今日猶更復興させなくてはならない。発展させなくてはならないものといえよう。それが米国からの直輸入である社会科でなくて、日本人自身の発想になり、日本の教師の自主的自発的研究であるということにおいて、より重要である。
牧口が、郷土科教育によって、次のような目的を達成することは、それほどむずかしくないという時、全く、自信と誇りにみちあふれている。彼はいう。
一、被教育者の観念界に能類化的観念群の基礎を得せしむ。
二、児童に直接に自然界、人事界の現象を観察するの興味と、能力と勇気とを得せしむ。かくて書籍その他の人為的指導また障碍物をさしおいて直接に造化の真髄に接触するの機会を得せしむ。
三、児童の観念界における有機的体系の安固なる統合中心点を得せしむ
四、児童の脳中に、全国および世界の事物を比較して了解するの基礎観念を与え、したがってこれを了解するの能力を与う。
五、将来において学習する諸教科の智識を応用し、または諸教科によって得た理想を実現するの帰終点を与う。
六、児童の日常生活に関係ある事項を知らしめるが故に処世上に必要な知識を得せしむ。
七、郷土における自己の地位を自覚せしめ、また国家における郷土の位置、世界における自国の位置を知るの素地を与え、もって公平にして着実なる処世の方針をたてることの素地を与う。
八、郷土の各要素および全体が児童各自に対して大なる多方面の影響を与えることを認識せしめ、これに対する愛情を濃厚ならしめ、もって、愛郷心を養成し、延いて愛国心養成の基礎を築かしむ。
九、郷土の利害関係その他の多方面の観察によって外界を弁別し、軽重を判断し、緩急を明らかにし、順序を整頓し、事物の取捨選択の能力を得せしむ。
牧口のいうように、こういう態力がすべての人間にそなわるとすれば、この人間界は非常にかわってくる。かわらざるを得ないということがいえよう。それは、同時に、惨めな人間、劣等生的人間がこの世の中から消滅することである。彼が自信にあふれて、「教授の統合中心としての郷土科」の設置を強調したのも当然である。
牧口は、以上のような郷土科論をのべた後、郷土科の実際的方案として、当時の教育制度の中で、まず、「修身科を中心とせる統合教授案」、「国語科を中心とせる統合教授案」というように、各教科を中心とした統合教授案をつくることを提唱し、次に、「器械標本を中心とせる統合教授案」「学校園を中心とせる統合教授案」「校内の現象を中心とせる統合教授案」「郷土科を中心とせる統合教授案」最後に、「児童の訓育を中心とせる統合教授案」「実業を中心とせる統合教授案」をつくるように要求する。
そのような教授案を教師すべてが作成することを求めたことはいうまでもない。そこから更に、牧口は、郷土科の理想的教授案を書いてみせる。
しかも、彼は、それを作成し、それを教育していくとき、教師は、次のようなことを発見すると書いている。
「試みに、子供と蜻蛉指しの競争をしてごらんなさい。わずか六歳の子供が、蜻蛉の種類を八、九種は列挙します……。近所の事柄の精細な観察は、わが子にさえも時におよばぬものを。いわんや飛び入りの教師においておやです。生まれ落ちると肥料の臭気に慣れた百姓の児に、うっかり農業の話などできるもんですか。なまなか知ったふりをせんとするから、かえってボロを出して信用を失墜するのです」
だから、郷土科の教育をする教師は、
「決して教師の口より児童の耳に訴えてくだくだしき説明をなすべきにあらず、教師のこの際における態度は、決して主動的ならず、あくまで傍観的批評的なるべく、しかしてたまたま指導的なれば足る。指導的とはいうも、児童の進行する道路の上に岩石溝渠のごとき障碍物の横たわれる場合において初めて彼等を警戒し、それを避けしめ、または目標点を略示し、もしくは明示すべきのみ。かくのごとき目的を指示する等の場合の生じたときにおいて、初めて先導者たるべきも、一度しめしたる以上は、この際における教師の任務の大概は、すでに果たせるものとして、それより先は、彼等の活溌なる自由行動に一任し、しかして教師自身はふたたび児童の隊伍中に仲間入りをなし、なるべく彼等の隊列、歩調の整一を謀るにとどめ、心中ひそかに警戒もし、注意もし、いつにても必要の生じたる瞬間において、指揮官たる地位に躍出するだけの注意と覚悟とをゆるめざるべくも、努めてみずから韜晦し、決して、主人らしき言動はなさず、ひたすら児童の成すがままに自由にせしむるだけの忍耐なかるべからず。けだし天真爛漫にして最も自然の本体、造化の真髄に親しみやすき児童の天性の発露を邪魔するに、無用なる教師の言語をもってするよりは、かえって彼等の自由行動をとらしむるを得策とし、捷径とするをもってなり。要するに、教師は児童をして堅忍自重をもって発見の経路を辿らしめ、発見の功名とこれに対する愉快とをなるべく彼等に快喫せしむるにあり」
ということを心がけねばならないといいきるのである。
「常に、先生というよりも、長兄のつもりで討論しなくてならない」ともいう。
牧口は、小学生を相手にする教師でも、教師が必ずしも、小学生の知識よりまさっているとは限らない。したがって、小学生と討論する姿勢をもつべきだといいきったのである。それは、教師も小学生と同じように、学ぶべきもの、学ばなくてならないものということである。彼のこういう考えにたてば、今日の大学で、教授と学生の関係を教えるものと教えられるものというように固定して考えることが全くまちがっていることに気づくであろう。
ここにも、牧口の考えは、今日の大学における教授と学生の関係について、一つの在り方を教えている。
ということは、教師は郷土科案を作成する過程で、子供と同じところにたって、学びはじめ、研究生活を開始しなければならないということ、教師として、そういう姿勢こそ、一番必要なものであるということを牧口は、いいたかったのである。
牧口が「郷土科教授の取り扱い」で述べたところは、彼が「人生地理学」で書いたところと非常に共通するし、その要的であるとさえいってもいい。ただ、その記述が郷土科という視点から、子供に理解しやすいように書かれたものにすぎないともいえる。
だから、ここでは、「人生地理学」には書かれていない学校についての観察を彼がどのように考えていたかを述べ、それが村の政治、経済とどうかかわるかということを述べてみたい。
牧口はまず、学校の観念について書き、つぎに、学校の位置、学校の敷地および家屋にふれ、更に学校の人とその分業について書く。そして、学校が一つの社会である以上、そこに、学校の政治、経済があり、そのことを知ることが村の、県の、国家の政治、経済に対する開眼の第一歩であるというのである。
彼は、そのことを、
「鐘が鳴ると全校の生徒も教師も一度に集まるのは何故か、……時間がすむと鐘の音に応じて運動場へ出て来るのは何故か、この規律をおかす者がある場合にはどうなるか、……ここから学校に一の規則が定まっていて、教師も生徒も校長もことごとくこれに服従し、これをまもって行くために秩序がたもたれている。これがすなわち政治というものだというような事から、国家の政治現象を了解する基礎観念を与える必要がある……。
次に学校のいろいろの費用は誰が出すか、いかにして出てくるか。学校の校舎の建築にはいかほどの費用がかかっているか、年々の費用はいくらか、それは主として何に使われるか、援業料は何のためか等の注意から、学校の経済を直観させ、国家の財政を了解する一つの基礎としなければならない」
と書いている。そして、彼は郷土科の理想とするところと同じことを現に実験しているところがあり、それは、アメリカのジョージ少年共和国であると紹介する。
「ジョージ少年共和国は、アメリカ共和国の縮少した一個の模写的国家として、その中に立法部および司法部よりなる共和的政府を設け、生徒中より大統領を選ぶ。大統領は判事、検事、巡査等を任命して、国内の安寧、秩序、風紀をまもる。生徒は市民と呼んでいる……。
学校には、一般に労作は人生の根本義なりとの精神が横溢して、自治自活の風紀があまねくゆきわたっている。小学と中学の普通教育は十分に施された上に、午後の半日はもっぱら職業教育をうけて、実際の労作に従事せしむ……。この教育によって、自ら守るべきことと、国家に対する義務、社会の制裁とを目の前にみて、一方に自治の精神を養い、職業教育をうけて自活独立の精神を鼓吹せらる」と。
折角、参政権を得ても、今日、猶、選挙権を有効に行使できないのは、学校の政治、経済を観察することを怠った教育の結果であると牧口は考えるのである。さらには、新聞が各家に配達される今日、第一、第二、第四ページの政治、経済記事に注意を払うものが少ないのは、畢竟、それを了解する基礎観念、いいかえれば学校の政治、経済を観察する能力に欠けているためであるともいうのである。
そして、学校の政治、経済を観察することの出来た子供には、容易に、村や町の政治、経済も観察できるし、またその観察限、観察能力を応用してみるということも、大事な教育ということになる。
とくに、郷土の政治現象を観察する場合に、牧口が注意し、強調したことは、子供達に権力の観念、権力の実態をしらせるということであった。そのためには、まず、学校にも権力があり、それは誰にあるか、また、その権力は最上最高のものかどうか、もしそうでないとしたら、最上最高の権力は誰がもっているのかと観察させることによって、村の権力、町の権力から国家の権力までを比較対照のうちに理解させる。
警察官の役割から裁判官のもっている力を観察させることによって、子供達が権力の内容をもっと拡張して考えていくようになることも必要である。それに対して、国民一人一人がもっている権利、それは、学校や国家のもっている権力とはどのように異っているかを観察させることも必要になってこよう。
牧口がそのようなことを子供達に観察させようとしたのも、結局は、国家権力のあるべき姿を彼等に掴ませようとしたためである。ということは、あるべき姿をとっていない国家権力の行使は肯定できないということを言外にいったことでもある。それは、彼が、常に人民の権利と自由を拡大し、確立することを志向し、教育もまたそのことを少しでも達成すること以外にないと考えていた立場からみても、全く当然の意見でもあった。だから、彼は、国家権力が行使する課題は、一にも二にも、人民の権利を承認し、それを保護することであった。
牧口は、それを、
「人民相互間の権力関係すなわち国家が国民の権利を蹂躙せず、その自由を尊敬する。たとえば、憲法にいう住居、宗教、言論などの自由を認めること、また人民相互間の争いの生じた時に民事訴訟をおこし、これを判断しうるということ、あるいは盗賊などが他人の権利を害する時にそれを捕縛し、これを罰し、良民を保護する。
更には、国民の幸福を増進するため、産業に対する方法を奨励する働き、たとえば農業の奨励、林業、漁業等の種々なる規則等により人民の幸福を増進するように保護する」
と書く。そのためにこそ、国家は権力を行使することを許されているし、そこに初めて、国家の意味もあるし、愛国心も国民の中にわくと彼は考えたのである。
いいかえれば、牧口は、この「郷土科研究」で、子供一人々々が権利と自由にめざめ、その権利と自由を最大限に行使することによって、幸福なる生活をいとなめるようになることをねがうのである。と同時に、国家権力は、ともすると、人民の権利と自由を侵害することになりがちであるが、国家権力の課題はそれをまもることであり、進んで、人民の権利意識、自由感覚を育てることであるということを主張したのである。郷土科教育による以外、人民は、その権利と自由を有効に行使できる智力を自分のものにすることはできないと考えたといっていい。ここに、彼の「郷土科研究」が当時は勿論、今日でも猶通用する劃期的な意味がある。
牧口の教育活動は、「人生地理学」についで、「郷土科研究」をもつことによって、更に充実していくことになった。彼は教師として、借りものの教材にたよることなく、彼自身が自主的に自らの力で考えだし、作りだしたものを生徒に教えていった。生徒に教えるべきもの、伝えなくてはならないものをもつことによって、その教育活動を展開した。
小学校の教師というとき、昔も今も、その教える内容は、多くの場合、大学教授か文部省に依存するのが普通であり、誰もそのことに疑問をいだかないが、牧口はその風潮が間違っていると発見したし、それ故に、教育成果もあがらないと考えた。そのことが、小学校の教育、小学校の教材を大学の教育、大学の学問に従属させ、その予備校的なものにしていく理由でもあるし、小学校を出ると、そのほとんどがすぐ実社会に飛びだした当時において、実社会を生きてゆく上で役にたたない教育になってしまうことにもなったのである。
小学校を出るとすぐ実社会に放りこまれる大多数の子供たちの立場と非常に類似していた牧□として、当時の教育に鋭い批判をもったのはむりもない。牧口が「郷土科研究」を出したということも、教師が大学教授や文部省から自立して、自分で学び、自分で研究する姿勢をもつようになることをねらったものである。そして、郷土科の学習は、その自立を教師たちに与えうると考えたのである。
その点では、牧口が、「人生地理学」を研究していたから非常に都合がよかったともいえる。子供たちがその人権と自由にめざめる先に、教師たちがまず、その人権と自由にめざめ、その行使ができるようになることが先決であった。彼の「郷土科研究」の著述には、こういう裏の意味もあったのである。そのことは、彼が教育界の本質的変革をめざして、「人生地理学」を書いたときと違って、更に大きく進みはじめたということであった。
牧口は、その後まもなく、大正二年九月に台東区の東盛小学校(今の東泉小学校)の校長になり、更に、大正五年九月には、新設の大正小学校校長になっている。彼も初めての小学校校長になったことや、新設小学校校長になったということで、いよいよ張りきったことであろう。だが、彼のこの間の教育実績をしめすものは、今日何も残っていない。それは、関東大地震と第二次世界大戦の二度の火災をうけて消滅したためであるが、「人生地理学」「郷土科研究」の二書を出している牧口の国民教育、とくに、小学校の経営管理が非常に独創的であったことは容易に想像される。
ことに、この頃の教育界には、第一次大戦後の世界的な自由主義の風潮をうけて、新教育運動が巾広くおこった。それは、一言でいえば、児童の生活や個性を尊重し、それをのばしていく教育であり、模倣でなくて、創造につとめる人間の育成を考える教育であった。だが、模倣を否定し、創造をうちだそうといいながら、新教育運動は、そのよりどころを外国の教育思想に依存していた。それは教師の中にある救いがたい奴隷根性であったということもできる。そのことを深く鋭く凝視し、反省するものもいなかった。牧口はそのような風潮に同調できなかった。
だからといって、牧口は、それらの教育思想を頑固に否定したわけではない。学ぼうとしなかったのでもない。それらを、自分の思想、自分の教育思想をふとらせることに役立つように学んだ。しかし、中心はあくまで自分自身に、自分の思想にあった。そこが、当時の新教育運動を推進した人達と全く違うところであった。
この新教育運動に対して、大正六年に開かれた臨時教育会議にあらわれた思想が当時の教育界をひろくまきこんでいった。即ち、内務大臣をしたことのある平田東助を総裁に仰いだ臨時教育会議は、国家主義的教育体制をつくりだそうとした。彼等にとって一番大事なのは、国体の精華を宣揚し、皇猷を翼賛することであり、それは、牧口の一番関心事である人民の権利と自由、人民の幸福な生活ということとは関係がなかった。とすれば、彼は、この動きにも参加できない。牧口の歩む道は、自然どこからも歓迎されない。孤独をかみしめる以外になかった。だが、彼は、彼自身の発見した最も困難な道、日本の教育界を底の底から変革していこうとする道を歩んでいこうという決心をかためた。かためるしかなかったというのが、当時の彼の心境であったろう。
そういう牧口の教育姿勢が地もとの有力者と激しく対立することになり、大正八年十二月には、とうとうその職を去らねばならなくなったのである。このあと、彼が赴任したのは台東区の西町小学校である。
大正九年、北海道札幌で、小学校の教員をしていた戸田城聖は上京して牧口を訪ね、西町小学校に採用してくれと依頼した。彼は石川県の生まれであるが、牧口と同じように、小さい時に北海道に移り、小学校を卒業した後に独学で小学校教員の資格をとった努力家の青年であった。この時、戸田は二十一歳、牧口は五十歳であった。牧口はその時、かつて無名の青年である自分に快く会い、指導してくれた坪井九馬三や志賀重昂のことを思いだしたかもしれない。彼は快く、戸田の願いをいれ、西町小学校に就職できるようにしてやった。ここから、牧口と戸田との深い関係が始まるのである。
まもなく、牧口は西町小学校から三笠小学校に移った。戸田も牧口と一緒に三笠小学校に変わった。二人の関係がなみなみでなかった証拠である。三笠小学校というのは貧困児童を対象にした特殊学校で、明治三十六年に四校、同三十七年に一校、三十九年には更に一校、四十二年にも一校設立された小学校の中の一つである。
この特殊学校には、大正十年当時には在校生が八千名あまりいたということである。明治三十九年の「東京教育雑誌」には、そこに通う児童の様子を次のように書いている。
「児童はほとんど皮膚病とトラホームにかかり居らざるものなく、為めに学校にては、日常、薬品を備えて教師自ら治療を施しくれ、また浴室ありて、一週間一回の浴を取らしむ。理髪器械もありて、教師は理髪の任もかね、降雨の折は欠席者多きを以て傘をも備つけて児童に貸与し、草履もまた学校に備えつけありという模様なり」
こういう三笠小学校の校長になった牧口がその教育に情熱を感じたのも、また、戸田が牧口を一生懸命に援助したのも当然である。児童への給食制度もここで初めて、牧口が実施した。彼の給料が子供たちの食料になったことも度々であった。
しかし、教育方針では、視学と衝突して、もう少しで馘になるというところまでいったという。その真相を説明する資料がないので、これ以上はわからない。ただ、想像できることは、人民の権利、自由とか、人民の幸福な生活を強調し、それらをまもるのが国家の職能であると断言する牧口としては、子供の教育だけでなく、その親達をなんとかしなくては駄目だといって、視学と対立したのではないかということである。当時の視学のみでなく、そういうポストにいる者は、昔も今も、それは私達の仕事ではない、私達にできることでもないというのが普通であった。牧口はそういう言葉を全身で怒った。そして、親の直面する問題をも解決しようとするのが、牧口の考える教育活動であった。一歩もゆずろうとしない彼が馘になりかけたのも当然であった。
その彼を救って、港区の白金小学校の校長にしたのは、「郷土会」の仲間であった前田多門である。前田は当時、後藤新平東京市長のもとで、第二助役をしていた。
戸田は、牧口が三笠小学校をやめた時、教員をやめて、大正十二年には、時習学館という学習塾をひらく。
この白金小学校時代は、それ迄常に二、三年の在任で転任していたのに対して、十年近くもいたので、牧口はじっくりと自分の信ずる教育に没入することができた。いうまでもなく、それは、彼の「郷土科研究」を中心として、明治四十二年以来十数年間、彼が考えに考えた教育理論にもとづく教育実践であった。 それは、当時の劃一的な注入主義の教育に対して、子供の基礎的な観念、感覚を基調にして、それを発展させようとする教育であったといってもいい。そのために、従来は、暗記力や記憶力に秀でた子供たちが成績のよい子であったのが、牧口のこの教育では、どんな子供でも一様に知力を発揮出来る子供に変っていった。能力が劣っているとみなされた子供たち、教師から見放されていた子供たちまで、一定の能力、学力をもてるようになった。
このことは、知能障害症状の子供をのぞいて、すべての子供が、人間として、社会人として更には現代人として必要な能力、学力をもっているし、また、教育如何によっては、それらをつけうるということを証明した。だが、牧口は、どこまでも、全身全霊をうちこんで教育活動に専念するタイプ、そのためにはどんな犠牲を払うことも眼中にない男である。教育のことだけを考え、教育をするためにのみこの世に誕生してきたような生真面目そのものの男。このような校長につかえる教師は、教育に情熱を感じていればよかろうが、そうでない場合全く窮屈である。不幸にして、彼を助ける教頭はそれを喜ばない教師のタイプが多かった。職員会議では、唯丹念に記録をとることにだけ情熱をもやすような教頭であった。途中で変った教頭も、紙屑ひろいに精を出すような教師であった。
これでは、牧口の教育成果はなかなかあがらない。しかし、彼が白金小学校を、番町小学校、誠之小学校、青山小学校などとならぶ有名校に育てあげることができたのは、彼の独特な教育法を長年白金小で実践したことによるが、それとともに、すぐれた教育能力をもつ教師を次々に地方から導入していったということがあった。
当時、白金小学校には、約三十名の教員がいたが、その半数近くが地方出身であった。今一つ、牧口は、保護者会を改組し、子供の教育に大人達を積極的に参加させようとしたし、更に、大人達の教育をも可能なかぎりやろうとしたということである。
即ち、従来の保護者会の役員は、その地方の有力者、名士にかぎられており、学校長からその人達に依頼するのがたてまえであった。牧口はそれをやめて、選挙をやろうとした。しかも、母親の進出に大いに期待したのである。
これが後に、牧口と、名士に牛耳られた保護者会とが対立する遠因となったものであるが、選挙によって保護者会の役員をえらぶようになった結果、保護者会の協力がだんだん盛んになったのである。
保護者会のある日など、その前日に、ビラをくばって、それに参加するよう呼びかけるという有様であった。これが、白金小学校の教育を成功させることにもなったのである。そのために、一学年三クラスの白金小学校は、一クラス以上、越境入学者でしめられるようになり、それが今日までつづいているという。
これは、すべて、牧口がきりひらいたものである。しかし、牧口のねらいは、その小学校を有名校にすることでも、子供たちを一流中学や一流女学校に入学させることでもなく、あくまで、子供たちが人間としての自由や人権にめざめ、幸福な生活を実現できるような能力や学力を自らのものとすることにあった。
彼のこういう態度は、立身出世のことしか考えていない同僚の校長の嫉妬の種子となった。更には、有名校になった白金小学校校長のポストを手にいれたいと策謀する者も現われるようになった。そんな時期に、白金小学校の女教員の中から盗みを働く者がみつかり、彼は監督不行届ということで遣責処分をうけるという事件が起った。白金小学校長の後釜をねらって、一段と策謀が激しくなった。
中には、区長や区会議員、視学に讒訴する者まであらわれた。それでなくても、日頃、視学無用論をとなえて、視学にきらわれている牧口である。とうとう、東京市の白上助役までが、彼を馘にしようとはかり、彼の反対派である保護者会の連中も動いた。
こうして、昭和六年、牧口は廃校ときまっている新堀小学校長に転任となり、その一年半後には自然退職になってしまう。当時、こんなデタラメな教育行政が行なわれていたのである。
当時、保護者会の動きを強く怒っていた牧口は、保護者の持って行った記念品を決して受取ろうとしなかったという。
次節で書く「創価教育学」第一巻は、彼が白金小学校長をしている時に書きあげたもので、この本が出た時、教師と父兄を講堂に集めて、その説明会をしたが、「教師の中にもそれを理解できる者は少なく、まして、父兄達はチンプンカンプンであった」と、その頃白金小学校の教師であった石原重保は語っている。彼の孤独がわかるような気がする。
だが、彼を陰に陽に助け、協力する者もいた。それは、戸田城聖であった。彼は、時習学館において、牧口の教育理論を全面的に実践した。それは一言でいえば、小学生に対しても、人生体験から出発して、人生の目的と意味を知るように、学習を指導したということである。小学生個々の理解力をもとに、具体的なものから抽象的なものに、徐々に、その認識を高めていく教育法であったといってもいい。
同時に、牧口も、機会あるごとに、教師や生徒に時習学館に通うことをすすめた。それが、生徒と戸田の両方にいいというのが、彼の持論であった。
戸田自身も大正十五年には、その教育実践をまとめて、「推理式指導算術」を出した。当時のベストセラーとなり、百万部以上も売れたという。そのおかげで、戸田の学習塾の基礎が固まったばかりでなく、出版業、印刷業に進出していく基礎もでき、同時に牧口のライフ・ワーク「創価教育学体系」も出版する運びになったのである。
牧口は、三十年間の教育体験と思索をもとにして、「創価教育学体系」全十二冊を書きはじめ、その第一巻を昭和五年十一月、第二巻を昭和六年三月、第三巻を昭和七年七月、第四巻は昭和九年六月に出版している。第五巻以後の各論は沢山の教師の体験をもとに牧口がまとめる計画であったが、うまくいかず、第五巻以後は計画のみに終わって、出版されなかった。
第一巻を出すときに、初めて、「創価教育学会」の名が、その奥付にみえる。牧口は、「創価教育学体系」の出版を基礎にして、教育改造運動にのりだすことを広く一般に宣言すると同時に、心ある人々の協力を要請したのである。教育改造運動を志す人々の母胎に「創価教育学会」がなるつもりであるともいいきっている。彼の思いがいかに大きく、且激しかったということが出来る。
この「創価教育学体系」も、牧口の頭の中では、「人生地理学」「郷土科研究」の基礎の上に、彼の教育理論を発展させたものであることはいうまでもない。それは、彼が、その序論に「創価教育学とは、人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する方法の知識体系を意味する。人間には物質を創造する力はない。われわれが創造しうるものは、価値のみである。いわゆる価値ある人格とは、価値創造力の豊かなるものを意味する。この人格の価値を高めんとするのが教育の目的……」
と書くのにはじまって、
「全国の教育者は、その数において二十余万を算し、少なくとも明治維新後、六十余年を経ている今日では、その経験の蓄積によって非常な勢力を実際教育上に有すべきであり、そして、真にこれが綜合統一されたならば、有力なる教育上の宝典が得られておらねばならない筈である。しかるに惜しいかな、未抽象なる、具体的概念たるの域を脱せず、その経験的成果によって成り立つ原理から、教育の事業を批判し、指導し、さらに、新たな経験を築きあげる域には達しない。
したがって多数の教師は、貴重な経験の産物をもちながら、欧米の学説を輸入する学者に対しては、非常に無力で、おのずから不安の状態にいるものの如く、したがって教育思想の方面においては、ひとり理論派の新学説が傲然と実際的教師にむかって指導者たるの権威を独占しているのである……。
日本の教育学説が過去六十余年に絶えず変転し、時にはヘルバルト主義が天下を風靡し、時には実用主義説が謳歌され、著書に講演に、動的教授、自由教育、プロジェクト・メソッド、ダルトン・プラン等と、その動揺は猫の目のごとくアジアの政局のごときものである。かように険悪に、上層の気流は動揺していても、下層は動かずにいる気界の状態のごとく、実際の教育方法に対しては、何等多数の経験的産物を批判し修正するという状態にまでには達しないのである。もっともこれがために、学者間では種々の論戦もあり、動揺も烈しいにもかかわらず、教師にはほとんど何等の影響もなく、したがって大なる危険もなかったのである。この現象をわれわれは幸といおうか不幸と呼ぶべきか……。
ねがわくは、諸君等の仕事の効果に着目したまえ、諸君等の経験を反省したまえ。
毎年夏季冬季等の講習会へ集まってくる者の費用だけでも莫大である。しかも講習の内容が新学説の紹介などで、一般教育家の注意と好奇心を喚起するに十分であるにもかかわらず、郷里へ帰ってこれを実施せんとするや、ほとんど茫然自失せざるを得ぬという経験は、誰人も有するであろう……。
ここにおいて、われわれは研究の着眼点および態度の一大転向を促すことを慫慂しなければならない。すなわち教師はこれまでの如き、実際生活に迂遠な学者の理論のみに囚われず、自分自身の日々の経験から研究の歩を起こし、その経験から帰納し確立した原理によって、次の経験を更新し、もって従来の盲目的不安の生活を脱して、意識的、明目的の教育生活の域に進まなければならないのである」
と述べたことによっても明らかである。
彼は、「郷土科研究」によって、教師が人間としての人権と自由にめざめることをはかったように、「創価教育学」によって、教師がまず、価値にめざめ、価値を創造する人間に自己変革してくれることを求めたのである。人権と自由は価値の中の小価値と考えてもよかろう。
だからこそ、「郷土会」で、彼を指導した新渡戸稲造や柳田国男も第一巻に序文をよせたといってよい。
新渡戸は、その序文で、まず、「今日の日本の難局を打開する道は教育によるしかない。しかも、現在行われている教育には、それを打開する力はない。それは明治以後の西洋の教育の模倣に終わり、独創性が全くなかったためである」とまえおきして、
「この時に当たり、かつて『人生地理学』の一書を著し、一躍その卓越せる思想を謳われし牧口君は再び起って多年の体験と思索とを綜合せる『創価教育学』をこの混沌として帰趨する所を知らざる現代教育界に贈らんとしている。余は君の『創価教育学』梗概をみるにおよんでその卓越せる識見と事実を基とせる該博なる研究に驚き、『人生地理学』の著者いまだ老いずの感を深くし、その健在を祝福したのである。
君の『創価教育学』は、余の久しく期待したるわが日本人が生んだ日本人の教育学説であり、しかも現代人が誕生を久しく待望せし名著であると信ずる。
『創価教育学』はその目的論において、過去現在の教育目的論に厳粛なる解剖のメスをふるい、その根本的誤謬を指摘し、その清算の上に教育の母胎たる現実社会に即せる新しきいわゆる独創的教育目的論を建設したものである」
とほめたたえ、柳田は同じように、
「創価教育学の内容とその価値に関しては、遠からず、世評のおのずから定まるものがあるであろう。ただ、君のこの大著が単なる学究的教育学者の机上の空論、もしくは欧米学者の翻訳紹介ではなく、数十年の貴重なる体験の結果であることと、そしてまた、一般教育実際家のもつ経験のみでなく、一見学校内の教育には直接関係のないような、その実大切なる実際社会の実地踏査、ならびにこれに基づいた独特の研究法などのすこぶる広汎なる基礎的知識によって成り立ったもので、したがって他には、容易に得難き独創の価値は、あるいはこの行詰まった現代教育界を打開するに足ると信じ、改めてこれを推奨するに躊躇しないものである」
と讃辞を送っている。これらの言葉は、同時に、「創価教育学」が「人生地理学」や「郷土科研究」をのりこえたことを意味していた。新渡戸、柳田にならんで、もう一人序文を書いている。それは、社会学者の田辺寿利である。彼はいう。
「われわれの国民教育は、模倣の教育より創造の教育へと飛躍しなければならぬのである。しからば日本社会の時代的要求たる創造の教育は、いかなる点にその基底を置くべきであるか。かつて一切の文化は、特異なる個人の独創によってつくられたと考えられた。しかしながら今日においては、すべての人間文化、すべての社会制度が社会そのものによってつくられたものであることが明らかになった。かくて教育に関する理論は一変しなければならぬ時勢に立ち至ったのである。過去の教育は抽象的個人を対象とした。今後の教育は具体的社会人を対象としなければならぬ。過去の教育においては、その重要なる要素的科学として倫理学と個人心理学をもっていた。今日の教育学は、社会学と社会心理学を重要視しなければならぬ……。
価値の創造者は個人でなく、社会である。個人は社会という偉大なる組織中の単なる技師である。個人は社会の一成員すなわち社会人たることを深く意識することによってのみ、創造者たり得る。この技師の養成、すなわち創価教育である……。社会的価値を造る者、能動的有為人物、これを目標として進み行かんとする『創価教育学』は現代の日本が最も要求する教育学である……。
一小学校長たるファーブルは、昆虫研究のために黙々としてその一生をささげた。学問の国フランスは、彼をフランスの誇りであるとして親しく文部大臣をして駕をまげしめ、フランスの名において懇篤なる感謝の意を表せしめた。
一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害、あらゆる苦難と闘いつつ、その貴重なる全生涯を費して、ついに画期的なる『創価教育学』を完成した。文化の国日本は、いかなる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」
田辺のこの言葉は、今後の教育学の方向を牧口が目指していることを適切に指摘したものである。それ故にまた、「創価教育学」への評価が最も鋭かったということもできる。それに呼応するかのように、東京府立高校(現都立大学)教授甘蔗生規矩は、雑誌「環境」に、次のような批評をのせている。
「『創価教育学』全十二巻ようやく第一巻が発行されたばかりで、いまだ批評の時機ではない。けれども市内の小学校長という激職にいて、よくこの大著述を完成しえたこと、それだけですでに驚嘆に値するものがあるのではないか……。わが国二十余万の教育者のために真に気を吐くもの、しかしその全経験を照らして、これに真に進歩の生命を吹きこみうるもの、これがこの書の真面目であることを思うと、吾人は一日も早くその全巻が刊行される日を鶴首してまつと同時に、いわゆる役に立つ教育が行なわれる日の遠くないことを感ずる。
氏は小学校の校長である。ついに、十字架を負う士は現われたのだ」
この他にも、雑誌「改造」「教育週報」や「中外商業新報」「東京ニュース」等の新聞に、「怯惰なる無気力なるわが日本の教育界、ことに醜聞渦まく東京市の教育社会にあって、氏の存在はまさに泥中の蓮である」とか、「現代ややもすれば、幇間者流の校長の増加せんとする折柄、氏のごとき学識深くかつ人情に富む真の教育家は稀有であるといっても過言ではない」という批評が書かれ、当時、この本に対する期待がいかに大きかったかをしめしている。
このように、教育界以外からの牧口に対する期待は非常に大きかったが、教育界内部の声は大変冷たかった。そのことは、この本の出版記念会が昭和六年一月十二日、神田の教育会館で開かれたとき、出席者は十余名にすぎなかったことでもわかる。だからこそ、牧口自身、「創価教育学」第一巻の「教育学組織論」を、
「“小学校長ふぜいが教育学なんどと、世界的大哲学者でも容易に企てないことを……おこがましくないか。生意気千万な”とは、傲然とおのれが縄張りとしている学者側よりは、かえって同業者仲間の冷笑ではなかろうか。それほどに教育学は大袈裟にむずかしく、したがって縁遠いものと教師たちに考えられてはいないか……。余にもし小学教員ふぜいなるが故に、こんな大それた企図の資格がないと言うならば、同じ理由によって、全国の小学校教員にも資格がないことになり、自ら自己の侮蔑の愚に堕するわけになるが如何。新教育の経験を始めてからもはや半世紀、余の寡聞、いまだわれわれ教員仲間から、一つの教育学体系の生まれたことを聞かないのは、しらずしらずのうちに、この卑屈に陥っていたからではないか」
ということから書きはじめたし、その故に、「これまでの教育学は、もっぱら教育学者にゆだねたために、哲学的に人間の性質を観察し、その本質から教育の方法を演繹するということに終わるしかなかった」と指摘したのである。
牧口は、そのような時代はもう終わったと考えた。これからの教育学は、教師全部がその経験をもちより、それを比較対照し、そこから教育的真理や理法をつくる時代であると考えた。しかし、彼のこういう考えが教師仲間に簡単に、うけいれられるとは思わなかった。だから彼は、教師の学者依存の姿勢を打破し、教師自身の自信をとりかえすために、くりかえし書きつづける以外になかった。
牧口は、まず、明治以後の日本人の学問的態度が間違っていることを、
「明治維新六十年来、欧米の文化の翻訳的輸入、もしくは翻案的受け売りに慣らされた結果、創作、発明の辛酸苦心を抜きにして、できあがった成果のみを、精神的にもらい受けるか、窃取するか、はた掠奪して、自分のものにしようとする怠惰なる虫の良すぎる手段をもって、真理の探求に対していた……。果実の収得のえられないのは当然である……。翻案的受け売りに歩を発した人が、ことごとく自己の精神内に、はた生命の一部に、その翻訳的思索、創作発明の苦心を抜きにした成果を、消化し同化しえたと思うと大間違いである……。いやしくも他人の苦心惨憺した精神的成果を同化し尽すには、少なくとも、その成果ができあがった過程と同じ程度の経験をなすことを必要とするのである」
と述べたあと、
「学問発達の過程を大観すると、科学はいつも実際経験のあとから発達する……。帰納的態度によるならば、現在の教師の手によっても、立派に要求するところの方案が発見されうる。しかしてその偉大なる発見は、ただ自分みずからの仕事を反省して、その効果を測定し、これを正しき教育的見地に立って総合統一することによってのみ可能であろう」
と断言するのである。
牧口は、この問題を次のようにも説明している。
「従来、学者ならざる一般人は、自分の頭脳では、とてもむずかしい理窟は考えられないから、考えることの上手な人、すなわち学者として尊敬する人々の考えを、無条件に承認し、これに服従するのが、生活上に間違いない方法であると断念して生活した。一方、学者たるものは、汝等の低い頭脳では、とても覚えるはずはない。いつまでも煩悶しているのは、可哀想なことだ、なまじっか種々の疑問を起こして考えて無益な煩悶をしているよりは、むしろ自分等のいうことには間違いないとして信頼するのが、最善の方法であると説く。
こうして学者と無学者との階級が非常に遠ざかっていて、その間に調和伝達の便がない時代がすなわち一切万事を宗教的信仰によって、生活問題を解決していた時代であって、今なおその継続たることをまぬがれないのである……。
これに比して、現在は教育の普及発達とともに、社会の大多数が、われわれは今やいかに崇拝する人格者の言でも、そのいう事を何等の理解なしに承服することは、理性の上からできないようになった」
大多数の教師は、教育学者の教育思想に、無条件に、また無批判についていくことはできなくなってきたのが現代であるというのである。しかも教育学を本当に必要としているのは教師であって、教育学者でない以上、教師自身がつくっていく以外にないし、今日では、教師にそれだけの能力と責任があるとも断言するのである。
勿論、牧口は、このように書いたからといって、すぐさま教師たちが自主的姿勢をもって学習と研究を開始するとは思わなかった。思わなかったから「創価教育学会」を誕生させ、教師たちの力になろうと考えたのである。
第一巻には、「教育学組織論」の外に、「目的は手段を生む。曖昧な的にむかって放たれた矢が当たるわけはないし今の教育の不成績は計画の不十分に基づき、それは目的観の不確立に基づく。盲目的、妄計画の教育活動は人の子を賊うもので文化国民の恥辱である」という書き出しで始まる「教育目的論」というのがある。彼は、そこで、「教育の目的をいかにして定立するか」という問題にとりくむ。
だが、牧口は、その時、これまでの多くの教育学者がなしたように、思弁的独断的に考えていくことをせず、人々の生活事象の観察から、万人共通の生活方向を統観することによって、それを考えていくという方法をとった。特別の人間の要求でなく、非常に個性的な生活方向でもなく、平凡ではあっても、誰もが希望する最低の要求を人間一般の要求として考えていったのである。
その結果、牧口が見出したものは「幸福」ということであった。彼は、幸福には、人によってその内容は異なることがあっても、それにおきかえられるものはないといい、道徳的生活、芸術的生活、経済的生活といっても、要するに幸福なる生活の一部にすぎないといいきっている。とくに、政治家や支配的立場にいる者が勝手に、自分達に都合よく人間の目的と要求を考えるべきでないといっている。
そこから、牧口の、幸福についての究明と思察が始まる。財産や健康の関係から幸福を考えるということもやってみる。哲学者カントがかつて、幸福を教育の目的とすることに反対した事実に対しては、それは、彼が幸福を個人的幸福のみに解して、社会的幸福を全く考えなかったことからきており、たとえ、カントの意見でも反対しなくてはならないともいう。
要するに、牧口は、幸福には個人的幸福と社会的幸福があり、最高の幸福はその二つが一致した幸福であるというのである。
いいかえれば、教育の目的は、被教育者に何が幸福であるか、何が最高の幸福であるかを考えさせ、知らせることに始まって、最高の幸福を追求し、創造できる能力、学力を附与することであるということになる」しかも、世の中には、幸福でないものを幸福と錯覚して血眼になっている人が如何に多いか。そのために、如何に激しい戦いが、憎しみあいが行なわれているかを発見して彼は慄然とする。
そのことを考えたとき、牧口は、唯、一人でつかむ幸福なんて、最高の幸福には全く程遠いものであるということを知った。最高の幸福を求めて、それを意識した人々が戦闘的創造的生活を始めなくてはならないことを知った。
牧口は、現代は、まさに英雄や政治家や学者が民衆を自己生存の手段とするのでなく、民衆自身が自分の生活のために、社会的存在を意識し、充実した社会的生活を各人送ることが最高の幸福、真の幸福と考える時代にさしかかっていると結論したのである。これこそ、平凡ではあるが、人間であるなら誰でも理解でき、誰もが追求していく人生の目標であると考えたとき、彼は、もう誰にも動かされ、迷わされることはないという自信をもつことができたのである。
しかし、このように、唯一筋に、幸福を考えていった牧口であったが、その説明だけでは、彼はもう一つ、確信がもてなかった。その幸福観を更に衛底させたかった。それが真理であると断言できる証明が欲しかった。その結果、生まれたのが、第二巻「価値論」である。
牧口は、「価値論」を述べるにあたって、ここでもまた、「人生が価値の追求である以上、何人でも価値問題は回避の許されない前提。いかに難解であろうとも、実生活に縁遠い哲学者などに委任して暢気にその解決をまっていられるものではあるまい。これすなわち余が敢えて難題と知りつつも没頭せざるを得ずして、ここまで引きずられてきた所以であって、同じ理由によって、読者諸君にもこれを強いざるをえない所以である」
と書いて、読者に自覚と自信をもつことを、まず、促している。英雄や政治家や学者のための生活、彼等の生存の手段としての生活から民衆が脱皮しなくてはならない今日、人生の根本問題である価値について、自分達自身で可能なかぎり考え、研究していかなくてはならない、たとえ、日々の生活に追われていても、自分達なりに考えることはできるし、また、そういう姿勢が是非必要だというのである。
価値の追求と創造は、誰のためでもなく、自分自身のためであると強調した後、真理と価値の関係を次のように説明する。
「真理とは、ありのままの実在を表現したもので、対象相互間の関係概念である。故に、真理は人にも時代にも環境にも関係なく不変であり、ただわれわれが見出すものである。これに対し、価値は対象と我々の関係性を表現したもので、人により時により環境によって変化する。
だから、価値は我々が創造しうるもの、見出しうるものということになる。
このように考えるとき、牧口は、真、善、美という従来の価値の体系から、真をはずさなければならないということに気がついた。真は認識の対象で、評価の対象でない。真ではなくて、利が善と美とならんで評価の対象にならなくてはならないし、むしろこれまで、利がはずされていたことに強い驚きを感じた。
それに、価値という概念を導入し、考究してきたのは、経済学者であり、彼等のいう経済的価値は結局利ということである。その利を価値のなかからおとすということはナンセンスに近い。そこから、彼は真、善、美にかわって、利、善、美という価値体系をつくったのである。
そして、利、善、美と価値の関係を、
「美の価値とは目、鼻、耳、口、皮膚のいわゆる五官によって獲得するところの感覚的、一時的価値。利の価値は各個人がその生命を維持発展するに足る対象との関係状態であり、善は各個人が要素となって統一されている社会の、生成発展に寄与する人間の有為的行為を評価したもので、すなわち公益を善という。これらとは逆効果を生ずる価値を醜、害、悪といっているのである」
と説明し、利、善、美の相互関係について、
「善悪は社会を評価主体として、利害は個人を評価主体とする。故に評価主体たる社会に対して害をくわえる個人の行為は、個人には利であっても善ではありえない。また一つの社会に善の行為も、これと対立する他の社会では善として通用せず、かえって悪と判定される場合もある。この場合に国家との対立のごとき社会対社会の関係は、あたかも各個人間の論争のごとく利害で判定される。
利と美と善とは、ある程度共通する概念である。この三者は相互間に混淆すべからざる個性を各々特有してはいるが、その裏に価値という概念に等しく包容せられてさしつかえない類似の性格をもっている」
と書いている。
牧口は、ここで、美の価値を五官によって獲得するところの感覚的、一時的価値というだけに終わり、善悪と利害の関係を述べても、美醜と善悪、美醜と利害の関係については少ししかふれていない。
「審美的価値」について述べたところで、
「善行かならずしも美行ならず、美行必ずしも善行ならず、ふたつの行が甚しくそごする場合がある」
などの説明があるが、それは、十分とはいえない。
牧口が、「利、善、美は共通する観念で、価値という観念に包容されている」ものといっている点から考えると、一つの社会で善として通用するものが、他の社会では悪と評価されるという場合に必要な観念は美ということになる。それは、世界とか人類という視点から考えるということであり、美的価値は、窮極にはそのことを志向する
牧口が「利、善、美の価値体系を考えて、それから真をはずし、人間は真理を創造することはできないが、価値は創造し、見出しうるものである」といったことはたしかに卓見である。私は彼が価値は見出さなくてはならないものといったことに特に注目する(それは、利、善、美が創造しなくてはならないものである以上に、何が利であり、美、善であるかを考え、見出さなくてはならないということである。そのことを彼は、利、善、美には客観的価値があるというふうに言ったのである。
いいかえれば、利、善、美の価値は、価値として統一されなければならないということであり、真理に裏づけられた利、善、美が初めて客観的価値といえる。
牧口は、一応、美は審美的価値で、部分的生命にかんする感覚的価値、利は経済的価値で、全人的生命にかんする個体的価値、善は道徳的価値で、団体的生命にかんする社会的価値という三段階の価値体系をたてたが、それは、同時に、統一された価値としての、利、善、美を考えなかったということではない。そして、利、善、美の統一的価値を創造することがそのまま幸福を追求することであり、それが、人生の目的だと説明することによって、彼の幸福観は確固不動のものになった。
牧口は、この価値論をふまえたとき、利、善、美の価値実現にむかって、捨身の闘いをおこした。それが後半生の彼の人生であった。
第三巻、「教育改造論」は、「価値論」を展開した牧口にして初めていい得るといえるほどに、大胆な提案にみちていた。しかし、そのことを述べる前に、当時の教育界に対して、彼の発言したことがそのまま、今日の大学紛争について言ったのではないかと錯覚させるほどのものであるので、それを次に抜き書きしてみよう。
「階級闘争も思想混乱も、現時のように大規模に瀰漫したことはないとはいえ、昔からどこの国にもないことではない。ただ、近来のごとく、先輩なる指導階級の者が、指導力をうしなったことはあるまい……。
ただ、われわれの憂うるところは、思想を指導する教育、乃至教化機関の麻痺である。教育教化の源泉枯渇こそ、真に憂うべく恐るべしとなすのである」
「文部省のいわゆる学生思想問題展覧会なるものを見た……。しかれども、高等刑事の捜索功績以上の何物にも接せず、何がそこに至らしめたかの本質的探求にまで至らざるを遺憾とした。かくのごとくして結局のところ、思想を暴力で取り締まるよりほかには、いかなる善導をもなしていないのに失望せざるを得ぬ」
「政治家が実業家の鼻息をうかがうがごとく、学者も宗教家もまたその政治家の頤使に甘んずる曲学阿世の類ではないか。教育家は、はたして如何」
昔も今も文部省の考えていること、政治家、学者、教育家の考えていることは全く変わっていない。指導とか善導とか一番躍起になって騒いでいる連中が実は、誰よりも指導をうけなくてはならないような行動をしていることに気づいていない。気づいていても、あつかましく、学生を指導しようとしている。学生を指導できると錯覚している。
牧口は、こういう現実に絶望して、教育改造に情熱をもやしていった。教育に一縷の希望をいだいたといってもよかろう。その時、彼は、まっさきに、教師のことを考えた。教育の成否が殆んど教師にかかっている以上、それは当然である。
牧口は、教師の資格として、第一に、教師としての職業的能力、すなわち教育学をその職業に生かしうる学力と世の中の進歩におくれまいとする研究心と理解力、第二には、学校という社会において、みんなと共同生活をしていくだけの社会的意識と専制的統督に甘んじないで、立憲政体の社会を実現していけるだけの意識をもつことを要求した。それというのも、三十年間の教師生活を通じて、自己本位で他人のことを省みようとしない教師、無気力で、政治家や文部省のいうことを無批判にうけとめて、何の苦しみも感じないような教師をあまりにも多くみてきたからである。
牧口は、無気力の教師は悪であり、言行不一致の教師は子供にとって害であると断言した。ことに、今日のように、往々、悪人が指導階級にたつ時代に、おとなしくそれに追随する能しかないのは、悪人と五十歩百歩だといいきる。
更に、つぎのようにもいう。
「悪人の敵になりうる勇者でなければ、善人の友とはなり得ぬ。利害の打算に目がくらんで、善悪の識別のできないものに教育者の資格はない。その識別ができていながら、その実現力のないものには教育者の価値はない」
「余は教員間の姑息な平和を希望せぬ。万一不幸にして甲乙たがいに扞格を生ずるならば、むしろ進んで徹底的の衝突をなすべく、しかして、あくまで理非曲直を明らかにすべし。かくしてしかるのちに真の平和に達することを期すべきものと信ずる」
牧口にいわせると、教師の資格は一にも二にも悪と闘うことであり、悪と闘う勇気と姿勢のない者は教師としては失格ということになる。
次に牧口は、教師の待遇改善を提案する。勿論、このことは誰でもいっていることで珍しいことではないが、彼のいうところは少しばかり違っている。「問題は、現在にではなくて将来にある。教師の三十年後の待遇はどうかということを考えるとき、大いなる失望を味わう」というのである。このことを解決しないかぎり、人材を教育界に集めることは出来ないと考える。
もう一つに、教師に対する精神的待遇である。ことに、校長となって学校を管理運営するのに適している教師と、子供の教育指導に卓越した能力を発揮する教師の二種類がある。それぞれの適性、能力を生かしてゆけるように考えることは必要なことである。昔も今も教師の中には、監督官庁の方ばかりをむいて子供のことを見向きもしない者が多い。それは、校長というポストが最高であると教師もそう思い、世の中もそう考えるからである。
こういう状態をなくすることが先決だというのが彼の意見である。加えて、世の中の人間は、尊敬しない教師に自分の子供を委ねるという愚を平気でなしていることにも、彼は非常に問題があると考える。
このように、教師の物質的精神的待遇改善のことを考えると、どうしても、師範教育の問題にぶつかる。最初にあげた教師の資格とか能力、姿勢ということも結局師範教育の問題になる。
牧口が師範教育改革論を、そのあとに提案したというのも当然であろう。彼はまず、師範教育改革にあたって、教師の任務は、子供に知識を供給するところにあるのか、それとも、子供が、知識し、研究する能力をもつように指導するのに必要なる知識をさずけるところにあるのかを、明確にする必要があるという。
その点を明確にしないままに、師範学校の程度をたかめても、効果はあがらない。目的を達成することはできない。それに、教師という仕事は、相手が子供であるために、批判能力が低いために、いい加減のことをしていてもごまかせる。十年二十年、同じことをくりかえしても、なんとかなる。
教師ほどに、自分と対決していく姿勢、惰性を克服していく強い克己心を要求される職業はないといってもいいすぎではない。今日まで、教師の多くが無気力で、惰性的な生活をくりかえしてきたということは、教師の任務が子供に知識を供給することだと信じていたことを証明する。子供が知識し、研究することを指導しようとするときには、停滞することができないものである。
牧口が第四番目にあげた改革案は視学制度を廃止すると同時に、学校自治権を確立するということであった。彼はいう。
「視学制度は教育社会からいえば、有難迷惑で、国家経済からすれば、無用の贅沢である。ただしこれは将来のことで、現在のごとき教育社会の程度では、残念ながら、多少の存在の理由があるところに、初等教育社会の恥辱があるのである……。
一般的に知識経験の大差なく、中にはかえって、ある点において低い階級の人物が視学の位置にあって、監督権を笠に着、かじりかけの新学説などを押し売りする……。
もし、有益なるものがあるとすれば、それだけそこの校長、教員の低級無能を立証するもの、それは校長登用試験制度の必要を意味している……。
現に役人が校長権を無視し、侮辱し、世話やきをなしていても、敢えてあやしむもののないほどに、校長というものが無能を表明している」と。
これは、自立性、独創性のない教師が自立性、独創性をもった子供を育てようとすることに矛盾があること、教育が真の教育になるためには、できるかぎり早く、視学制度を廃止すべきことを彼は鋭くついたのである。そして、それには、自主性、自立性をもった教師、それを助ける保護者会、父兄会の総合責任のもとに、学校自治権を確立していくことが先決であるというのである。
従来の無理横暴の視学権力と戦って、学校自治権を確立していくということ、学校自治権の確立によって教師の地位が安定するということ、そこに、生き生きした教育社会が出来、教師も芸術家のように、独創によって、価値を創造することができるようになる。彼はそのことを強調していく中で、あらためて、師範教育の重要であること、その教育の改革が焦眉の急であることを考えたに違いない。
最後に、牧口のあげた教育改革案は、学校半日制度であった。それは、既に、「郷土科研究」の中に述べたことであったが、彼の三十年間の教師生活の中で、いよいよ、その必要を痛感した。彼はそれによって、試験地獄を解消するだけでなく、その当時の教育の弊害ともいえる勤労精神、自学自習の精神の欠如の問題を解決せんとしたのである。彼はそれを次のようにいっている。
「小学校より大学までの学校における学習生活を半日に制限し、従来の一日分を半日で修めしめる。勿論、これには、能率増進のための教授法の改革が必要である。次は、国家経済の目的から、校舎および教師を、午前、午後、および夜間と利用し、もって、現在の学校に殺到する多数の学生生徒を収容して、試験地獄を一掃する。
被教育者をして、半日は学校生活に、他の半日は生産的の実業生活を送らせ、普通教育と専門教育、職業教育を並行するとともに、学生生活の期間を少青年の時代に限定せず、成年期まで廷長する。それによって、勤労嫌悪の心がおこるのをふせぐ。また、一定の時間、教師がつねにいなければならない、また、教師の指導をうけなければならないという常識や慣習をやめて、自学自習の姿勢をもって自主的に生活するように指導する」
おそらく、牧口は、学校時代は、試験のために、あるいは就職のためにガツガツ勉強し、学習すること自体、学生、生徒、児童が奴隷的勉強であることに気づかず、そのことにいつのまにかなれてしまって、監督指導する者がいなくなると、勉強や学習を全く、やめてしまうことを歎いたためであろうし、更には、教師や大人達がそのことを不審に思わないことに対する彼の怒りから発した意見であったろう。価値にめざめない教師と大人達、学生、生徒、児童を価値にめざめさせようとしない教師と大人達、そういう現実をまえにして、彼はいよいよ、教育界改革の情熱をたぎらせていったということがいえよう。
「教育材料論」と「教育方法論」をおさめた第四巻を出版したのは昭和九年六月であった。牧口はこの時すでに、六十四歳になっていた。その頃の教育界は、小学校の欠食児童はふえるばかりで、教員の月給未払、延滞も、全国では三千校におよぶという有様であった。日本の教育は深刻な危機にさらされていたということもできる。
このような社会の影響をうけて、農村の貧困に眼をむけた「郷土教育」がにわかに盛んになってきた。それは必ずしも、牧口の「郷土科研究」と同じものではなかったが、その思想、その精神と深くかかわりあうものであった。そのために、長らく絶版になっていた「郷土科研究」もその十版が発行されている。彼は、そのような動きをみつめながら、やっと、第四巻を完成させる。彼には、一見迂遠ともみられる教育学の完成によってしか、教育を軌道にのせることはできないと思われたのである。
では、牧口が「教育方法論」で述べようとしたことは何であったか。彼はまず、教育方法をめぐって、いろいろの考えが並存し、対立していることに激しい怒りを感ずる。このようなことが、もし医学上にあったら大変なことであるが、教育界には、それが平然と存在する。それもつまるところは、教育が実際生活に没交渉に行なわれているところからきている。それに、子供がそれを評価する十分なる能力をもっていないし、しかも、その効果が数十年後にあらわれるところからきているという。それを是正しようとするところに、初めて、「教育方法論」は確立すると考える。
とくに、子供を一番よく知っているのはその親であり、その教師であるという迷妄から脱することが第一であり、親をふくめて、教師が真剣に「教育方法論」を確立していこうとしないのは、その迷妄のためであるという。
その点では、教師は親とともに、子供のことについて、非常に無知であり、怠慢であったということができる。それでいて、彼等は教育愛を口にし、親の愛を強調する。その愛を押しつけたりする。今日では逆に、子供のことがわからないといって教師も親も右往左往している有様だが、要するに、教師は何物にも学ばないことをもって得策とし、親は徒らに沢山の教育書を読みあさって、読まないのと同じ状態になっている。無知であり、怠慢であることについては昔も今も全く変らない。
牧口は、そういう中で、教師は、普遍妥当性のある「教育方法論」が医学のように成立し、存在することを信じて、「教育方法論」を求めて、模索する行動をおこす以外にないと断言している。たしかに、医者が医学の知識をもって病人に対するように、教師が教育方法論をもって、児童に接しなくてはならない。医学知識が誤っていれば病人は死ぬか、それとも長患いする。児童の教育でもそれと同じことが非常にしばしば起っている。
その教え子を戦場に送って殺すことだけが人を殺す教育でなくて、教え子を精神的人間的に殺す教育の方が、結果が明白に出ないから一層こわい。医者の誤診とそれにもとづく治療は非常に問題になるが、教師の誤った教育に対しては、世の中は非常に寛容である。
牧口が医学を例にとりながら、「教育方法論」の確立を強調したことは、大変意味深いことといわなくてならない。彼が強調したことも、教育方法論の内容よりも、それを求めて、教師が行動をおこすことであった。
ついで牧口が「教育材料論」でくりかえし、主張したことは、
「四民平等の世となり、何人でも経済生活が日常の大部分であり、経済的の独立が人生の第一基礎である以上、これを意識して、……現在の教科以外に、系統だった幾多の教材が攻究されねばならない」
ということにつきていた。要するに、人間生活が利を中心とし、人間の関心が利の追求にむかっているといっても過言ではない今日に、利的価値を直接にうみだそうとする学力、能力が考えられていないというのである。彼があらためて、自分の「郷土科研究」を推奨したことはいうまでもない。
「郷土科研究」は、利的価値を中心に、同時に、善的価値、美的価値の創造にむかっていく学力、能力を付与するもの。それを欠いた教材は、一番肝腎なもの、重要なものを欠いたものということになる。「武士はくわねど高楊子」式の偽りに満ちた教材、きれいごとで飾りたてた教材におさらばすることが牧口の真意であったろう。
以上が、「創価教育学」全四巻の中で、牧口が書いてきたものの要約である。六十歳から六十四歳にかけての五年間の労作、それも、かなり年をとってからの仕事としては大変なことであったろう。
このあと、第五巻から第十二巻までは、牧口のもとに集まった若い教師たちの共同研究によって書きあげさせることを彼は意図して、積極的に指導したが、とうとう、それが本になるところまではいかなかった。しかし、牧口には、第五巻「道徳教育の研究」第六巻「綴方教導の研究」第七巻「読方書方教導の研究」第八巻「地理教導の研究」第九巻「郷土教育の研究」第十巻「算術教導の研究」第十一巻「理科教導の研究」第十二巻「歴史教導の研究」の構想はできていた。
牧口は、その一つ、道徳教育について、
「道徳教育の考察の基礎的問題は智育と徳育とは相反するものか否かということである。ソクラテスの知徳合一の思想が果して何人によりて拒否されたか。悪を善化せんとする徳育の目的を達するに、愚を賢化せんとする知育以外に古来如何なる教育方法が案出されたか。利および美の創造にこれ等に関する知識と行為の合致が要すると同時に、善という道徳的価値の創造についても善悪の標準たる道徳的知識とこれらの実践窮行との合致が肝要ではないか。
知識の上にたたない道徳があるか。悪人といえば万人の悪むところであるが、憐むべき偏知ではないか。勿論、愚痴といわれる一般的知能の欠乏とは異る種類には相違あるまいが、善をなす方が悪をなすよりは結局人生の目的を達するに良いという知能の欠乏者たることは異議あるまい。人として幸福を望まないものはあるまい、しかるに、悪人のあるのは如何なる理由か。善悪識別の不明瞭と之に達する手段の知識の欠乏とが主要原因で、結局人生の目的観の不明瞭に起因するものではないか」
と書いている。「知識の上にたたない道徳があるか」という意見は、昔も今も変わらない文部省の考える道徳教育に対する鋭い批判である。
ただ、道徳教育と美育との関係、感性、感覚の発達と陶冶は文学、絵画、音楽などの芸術教育とどういう関係にあると考えていたかについては、彼は殆んど述べていない。
いずれにせよ、第五巻以後第十二巻まで完成されなかったということは非常に残念なことである。
第三章 宗教と政治
これより先、昭和三年六月ごろ、白金小学校の校長をしている牧口のところに、業界新聞の記者が訪れた。いろいろと話しあっているうちに、彼は記者にむかって、教育のむずかしさ、校長の責任の重さなどを語った。それを聞くと、記者は信仰の話をはじめ、目白商業学校校長の三谷素啓に会って話をきけば、その悩みも少しは解消するのでないかと熱心に会うことをすすめた。しかも、その翌日またやってきて、三谷に会うことをすすめたのである。
あまりの熱心さに、牧口も終に三谷に会うことを承諾し、彼に連れられて三谷の家を訪れた。三谷は日蓮正宗の信者で、東京池袋の常在寺に属する講社、大石講の幹部であった。
それからの牧口は、毎夜のように、三谷を訪ね、彼の話に聞きいった。元来、牧口家は日蓮宗であったが、大抵の者がそうであるように、牧口もその家が日蓮宗であるというだけで、それ以上の関心を日蓮宗にしめさなかった。むしろ、内村鑑三や新渡戸稲造を通じて、キリスト教にふれることが多いという状態であった。しかし、「人生地理学」のなかでは、日蓮や親鸞のことに度々ふれ、人間と宗教、土地と宗教の関係については関心をしめしていた。
それに、三谷の話を聞いているうちに、牧口は、自分の書いた「人生地理学」を貫いている思想が、三谷の語るところに共通していることを発見した。ことに、「法華経」に説かれる一念三千の思想にしても、彼のいう「郷土は即ち世界」という考えに近いと思われたし、「人間は世界にかかる存在」という考えとも共通しているのではないかと思われた。
更には、法を奉じて、その実践に取りくむ菩薩にしても、彼が郷土を基盤にその改革向上に捨身の行動をおこさねばならぬという考え方とあまり違わぬと感じられた。
牧口は急速に、三谷の説くところにひきこまれていった。しかも、牧口は、これまでの長い教員生活の中で、自ら考えることを実践しようとして、度々人と衝突し、思うようにならないということを経験していた。その度ごとに、もっと強い自分、もっと逞しい自分であったらと考えていた。ことに、日蓮の積極的で強い意志に貫かれた生活態度、法華経を信ずることの激しさ、深さ、そこからほとばしり出てくる旺盛な生命力の話を聞けば聞くだけ、ぐんぐんと日蓮の思想と生活にひきつけられていった。
日蓮の思想と生活について学習することが、まがりなりにもこれまで教育界の改革を叫び、それを実践していこうとしてきた自分の理想を実現するには、決定的に必要だと思われだしたとき、牧口は明るい希望につつまれた。五十八歳という年齢は少し遅すぎた感じがしないでもなかったが、日蓮正宗に出会い、日蓮の教えと信仰にめぐりあったということは、彼にとって大きな歓喜であった。その喜びを早速戸田に伝えるとともに日蓮の思想を、「法華経」を学びはじめた。
三谷に折伏された牧口が次には戸田を折伏し、入信させたのである。
御承知のように、日蓮は、日本に独自の宗教をつくりあげた思想的巨人である。とくに、日蓮が仏教創始者の釈迦と同じように偉大であるとされるのは、釈迦が波羅門、沙門と新旧思想が入りみだれて思想界が混沌としているときに、深くそれらの思想を学び、批判することによって、一つの仏教思想をつくりあげたように、日蓮は鎌倉時代の思想混乱のなかで、それらの思想を一つ一つ吟味していくことによって、一つの思想をつくりだしたためである。日蓮の思想創造の態度はまことに徹底したものであった。徹底していた故に、一つの思想を創造することが出来たといえる。
即ち、彼は、平安時代からつづいている仏教諸派に絶望し、新しくおこった親鸞、道元の思想にも絶望した。それらの思想では、自分もまた救いを求めている多くの人も救われないと確信した。そういう結論に到達した彼は、人生の意味と価値を自分で発見していくしかなかった。
ここで注意しておかなければならないことは、当時の仏教は、今日いうところの宗教の中の一仏教でなく、学問そのもの、思想そのものであり、人間、社会、自然を究明するものであったということである。いいかえれば、今日、政治学、社会学、経済学、哲学、歴史学、地理学、医学、生物学などの専門科学を萌芽の形であったにせよ、すべてふくむものであった。総合の学、統一の学であったということである。
日蓮は、そういう学問、思想としての仏教聖典を自分自身で丹念に読みなおす作業にとりかかった。誰かの解釈をたよりとして、仏教書を読むのでなく、あくまで、彼自身を中心に彼自身の頭で主体的に考えていった。それは、仏典の中に自分の悩みと疑問を解決していく作業であり、思索であった。
こういう生活が三十二歳までつづいた。十数年の学究生活ということになる。この間、彼は京都や奈良の寺にでかけ、直接、倶舎宗、成実宗、律宗、禅宗などを深く学ぶということもしている。安易な批判、軽々しい批判をしないためである。漢学、国学などを学ぶことも怠っていない。無智無学を彼は最もおそれただけでなく、そこに、彼自身の悩みと疑問を解決するてがかりはないかという気持が強く働いたためである。
その結果、日蓮は、「法華経は諸経にすぐれ、諸経は法華経のためにあること、今の日本に必要なことは、法華経を弘通することである」という結論に到達した。それは、彼自身の人生に目的と意味を発見したということであり、その目的にとりくむということがそのまま、人々の悩みを解決することになるという発見でもあった。それも、十数年の研究の結果、万巻の書を読みあさった後に到達した結論であったから、彼の自信は強烈であった。誇りにさえ満ちあふれていた。
だからこそ、その結論に到達した後の日蓮は、単独で、当時の幕府権力とも対立し、何度も殺されかかっている。そのエネルギーとファイトは全く凄まじいの一語につきた。しかも、時の権力を思想的に批判して、一歩も退かなかったのは、日本史上、日蓮が最初である。彼の権力に立ちむかっていく烈々たる気魄には、あまり悲壮感がみられない。あらゆる危険、妨害に阻まれれば阻まれるほど、彼の体内をかけまわる血は熱狂的に湧きたち、それを楽しんでいたとさえ思われる。
それが信仰というものであるかもしれない。
牧口は日蓮を知れば知るほど、自分のこれまでの生き方が日蓮の生き方、学び方に共通しているものを見出さないではいられなかった。「人生地理学」を書くまでの自分が、一つ一つ丹念に、多数の地理学者、教育学者の意見に学びながら、最後には、それらを批判し、それらを克服することを企図した。彼等に学びながら、いかに強く、彼等に絶望していたかも発見した。
今一つ、日蓮の思想を学んでいくことの中で、最も驚いたことは、日蓮がすべて、人間の生を中心に、それとの関連で、社会、自然、宇宙を考えていることであった。それは、牧口自身の基本的立場と一致していた。おそらくその時、牧口は日蓮正宗の信仰をもつなら、日蓮のような実践力、生命力が自分のものになると思ったに違いない。強く逞しい自分が生まれると思ったに相違ない。
そして、それは彼の期待したように、「創価教育学」の大作を書きあげることのできた戦闘力、生命力となって、彼の中に燃えあがったということができる。その意味では、日蓮正宗の信仰に入ってから出した「創価教育学」は、その信仰とも深く結びついていた。また、それ故に、「創価教育学」第一巻を出したとき、「法華経と創価教育」という一文を書いている。
牧口は、その中で、そのことを証明するかのように、書いている。
「日蓮大聖人のおおせが私の生活中になるほどと肯かれることとなり、言語に絶する歓喜をもってほとんど六十年の生活法を一新するに至った。
暗中模索の不安が一掃され、生来の引込み思案がなく、生活目的がいよいよ遠大となり、畏れることが少くなり、国家教育の改造を一日も早く行なわせなければならぬというような大胆なる念願を禁ずる能わざるに至った。……創価教育学の研究にもこれから大なる信念を得て一大飛躍することとなり、遂にかような大胆な表現を敢てするに至ったのである」
牧口が志賀重昂を訪れ、坪井九馬三に教えを乞うた姿勢、「人生地理学」を書きあげた姿勢、どの一つをとってみても、彼のいうように、引込み思案であったとは思われないが、教育改革を願う彼の心がより積極的になり、「創価教育学会」を発足させて、それを改革の母胎にしていこうと思い、覚悟することになったのは、日蓮正宗の信仰をもつことによってであろう。
「創価教育学」にあらわれた発言が、「人生地理学」「郷土科研究」当時より、積極的となり、確信にあふれたものになったということはいえよう。要するに、自信にみち、誇りにあふれている。教育改革の志士であり、革命家をもって自任しているということがいえよう。これは、彼にとって、非常に大きな変化であった。
牧口の筆は更に続く。
「信仰は宗教特有の基礎のごとく見做されているが、実は一切の学術においても、はた世間の生活においても、いやしくも前途に軌道を見出して安全なる進行を希望するものにとって欠くベからざる根底であり、信仰乃至信用の基礎の確立しない生活は畢竟砂上に楼閣をきずくに等しいものであることを知らねばならぬ。果してしからば、その学習指導乃至生活指導を使命とする教育において、信の確立が何よりも先決問題であることは言うまでもない……。
教師が教え子を信用し得ずして、教え子をして自分を信用させんとすることは無理な注文である。かくして、自他ともに互いに信じ得なければ、赤の他人、路傍の人と同様であり、ともに提携し、結合し得ないのは当然である」
信のないところに、教育も共同生活もなりたたないというのである。信に裏付けられない教育は虚妄でしかないともいう。そして、最後に、彼は、信を得た人間、信を得た生活は生活力が増大すると結んでいる。行動力が倍加すると書く。反対に、不信が生活力の減退であるといったことはいうまでもない。
牧口は、戸田と一緒に、日蓮正宗への信仰を深めるとともに、彼のもとに集まってくる若い教師たちにも積極約に入信を説いた。入信によって、豊かな生命力、たくましい実践力を自らのものにし、それを教育改革にむかってぶっつけることを期待した。
こうして次第に、牧口を中心に、創価教育学会が動きはじめる。彼が「創価教育学」四巻を完成しただけでなく、各論を若い教師たちの自主的な共同研究によってつくろうと計画したことにより、にわかに、若い教師たちの研究活動は盛んになっていった。
ことに、政治家古島一雄、元外交官の秋月左都夫の協力援助などもあって、昭和十一年八月には、懸案の研究生制度を発足させるとともに、大石寺で、夏期講習会をひらいた。研究生制度というのは、教育に熱心な日蓮正宗信者の教員六名を選んで、月額十円を給付し、自主的研究活動を行なわせるというものであった。その第一期生には、寺坂陽三、木村光男、木村栄、渡辺力、三ツ矢孝、林幸四郎、第二期生には、金子純二、中垣豊四郎、小塚鉄三郎たちがいた。毎土曜日夜には、戸田の経営する時習学館に集まって、実験の結果を討論したり、夜学の子供を相手に研究授業などをやり、その活動は大変盛んであった。
そうなると、ここに集まる教師たちも徐々にふえてきたし、研究費を支給されなくても、自分で研究し、実験していく教師たちも増加した。
この傾向を背景に、昭和十二年には、東京麻布の菊水亭で、創価教育学会の発会式が挙行されたのである。昭和五年以来、創価教育学会の名はあったが、それが正式に、世の中にむかって存在を宣言したのである。当日あつまった者が六十名あまり、古島一雄と秋月左都夫を顧問に、牧口が会長、戸田は理事長であった。
古島は、犬養毅とつねに政治行動を共にした男で、明治四十四年以来昭和三年まで衆議院議員、護憲運動では大いに活躍した。昭和十年代には憲兵隊に召喚されたこともあり、不遇な時代であり、牧口に協力したのは、この不遇時代である。戦後は、政界の指南番といわれた男。秋月は、明治時代に活躍した外交官、オーストリア特命全権大使の時など、各国の小学校を視察してまわるほどに教育問題に強い関心をしめした男で、牧口の「創価教育学」に感動し、それ以後、彼ならびに創価教育学会の強力な後援者となった。
だが、ここで、今一つ忘れてはならないことは、昭和十一年の初め頃より、雑誌「新教」を半年間にわたって出していることである。この雑誌が、「創価教育学」とならんで、若い教師たちを牧口に結びつけたものである。しかも、この雑誌は、教師の教育上の疑問、人生上の悩みについて相談にのるというものであったから、猶一層、牧口と教師たちを結びつけることになったと考えられる。
恋愛して苦しんでいるという文章もある。その質問に対して、牧口は、
「互いに通ずる前に今少し慎重にされたならば、心配もなかったであろうに、惜しいことをしたと思う……。校長さんも町の評判を気にして、困っていることであろうが、それだけの理由で、首にするということもないと思うから、何とか校長さんに頼んで、転任の取り扱いをして貰うことが、一番便宜であろう……。
この問題ばかりは、無い事でもあったと噂され、あった事でも無いといいはられ、当局者としては、いずれにもしようのないものであれば、県視学が来たとしても、他に案もあるまいと思われる。都鄙いたるところに少からずある例である。おとなしくお頼みなさるとしたらよもやきいてくれぬことはあるまい……。
失策は自覚するとともに、暫らく慎重にし、やがて転任のときに、正式に結婚されるがよい。恋愛そのものは決して悪いことではないのを強いて隠そうとするところが、かえって噂の種子となるのであるから、もっと大胆に校長または内部の親友にやるせなき心情だけを打ちあけて力になって貰うのも一法であろう」
と答えている。
まことに、親切な身の上相談である。
なお、この「新教」四月号には、
『「光瑞縦横談」と教育・宗教革命』と題して、
「光瑞師が社会意識の加わった全体観にたつ“大乗の世界”を闡明し、宗教は感情からでなく、理智から入らねばならぬと言われるのは、従来の既成宗教に愛想尽かしをしている少壮者に対しては適切の啓蒙である。
文部省あたりのいわゆる“宗教心の涵養”などは、恐らくは盲目的感情の鼓吹から一歩も出ないように見受けられるが、それらに対して真に頂門の一針であらねばなるまい」
「光瑞師は思想の善導は宗教と教育で達成されると思ったら大間違いであるといっているが、それは、むしろ、宗教本質観の相違からきている。なるほど、従来の宗教と教育とでは思想善導はできないに相違ないが、これは既成宗教の無力有害をもって言うので、それ以外に善導の証明される宗教があるなら、これほど経済約な方策はないではないか。われわれが宗教革命を標榜する所以である」
と述べている。
光瑞師とは大谷光瑞のことで、真宗西本願寺派の管長で、海外伝道を積極的に展開した男。牧口は、厳しく彼を批判していくことを忘れない。とくに、大谷が宗教そのものに革命、教育そのものに革命が必要なこと、必至にしていることを気づいていないことに強い失望をいだく。どんなに警世的発言をしても、宗教革命、教育革命のことがわかっていない以上、それは砂上の楼閣だといいきるのである。
ついで「新教」五月号では、
『石原純理学博士の「科学と宗教」を読んで』と題して、大谷につづいて、石原を批判している。牧口はまず、石原の宗教についての説明は、西洋哲学者の批判の対象になっているキリスト教とそれに類似せる宗教についてであって、そこには、仏教が全く包含されていない。これでは、宗教と科学の関係を論じたことにならない。ことに、仏教そのものは、宇宙の法則、自然の法則、人間の法則を究明することを最大目的としているということを知れば、宗教と科学は同一線上にあることを知る筈であると反論する。
石原といえば、理論物理学の権威であり、日本の科学論の発展普及につとめた男。しかし、牧口が批判したように、彼には仏教についての知識は皆無に等しかった。というのは、彼はキリスト教牧師の家に生まれ、神学者を弟にもつような環境におかれていたのである。彼が鋭く石原を批判したのもむりもない。
だが、当時、牧口の批判の正しいことを認めた者が幾人いたであろうか。それほどに仏教は間違って理解されていたし、宗教といえば、キリスト教ぐらいに考える傾向もあった。それに元小学校長の牧口と元東北帝大教授石原というだけで、石原の発言がすぐれているとして、その内容を理解してみようという人は少なかったのではあるまいか。それはそれとして、こういう実践力、行動力が入信によって、牧口のものになったのである。どんな権威もおそれない勇気のある人間に変貌したのである。
ただ、牧口は、彼のもとに集まってくる若い教師には、積極的に入信をすすめたが、白金小学校長としての彼は、その職員に対して、入信をすすめるということをしていない。それは、自ら意識しないで、校長という立場が職員の上に重くのしかかること、更には、職員が自主的に自分で選択し、入信するのでないと全く意味がないと考えたからであろう。ことに、教師の自主性のなさ、権威や権力の前に弱いことを愁えていた彼としては当然の態度であったろう。
白金小学校の教師たちは、彼が入信した頃、「校長先生はあんなに子供さんが次々になくなられた上に、入院している子供さんもいられては本当に気の毒、入信されるのも御無理はない」と話しあっていたという。牧口の入信は、周囲からは、その程度に理解されていたのである。
他方、家庭における牧口は、子供たちには煙たがられ、敬遠されたらしい。そうなればなる程、子供たちに強く入信を求め、信仰が深まることを求めたという。こんなにいい教え、すぐれた教えがどうして、子供達にはわからないのかというのが彼の心境であったようである。
それは、日蓮が寺泊から、弟子たちにむかって、「日蓮は此の経文を読めり、汝等は何ぞ読まざる」と叱咤した心境にも似ていた。
昭和十年代に突入した日本は、国内的にも国際的にも、その矛盾をいよいよ激化し、一路、破局にむかってつっぱしったという時代である。日本政府はその中にあって、昭和初年以来の経済恐慌にはじまる都市労働者の窮乏、農村疲弊を解決できないばかりか、かえって、その矛盾を国民の眼からそらすために、軍部のつくった満州侵略、大陸侵略にのっかかっていった。
こういう暗い空気を反映して、大本教、生長の家、ひとのみち、霊友会などの宗教運動がさかんになっていった。それは、人々の不安と苦悩をしめす一つの姿である。
創価教育学会の活動もその空気の中で発展していったということができる。昭和十二年に六十名で発会式をあげた創価教育学会も、昭和十五年の第二回総会では、会員も五百名にふえた。
春秋二回の総会も軍人会館、教育会館を会場に開かれるようになり、学会の組織は京浜地帯を中心としてぐんぐんのびていった。昭和十六年七月二十日、機関誌「価値創造」も創刊された。それを必要とするほどに、教勢が確立した。
牧口は、その第一号につぎのような創刊の辞を寄せている。
「損よりは得を、害よりは利を、悪よりは善を、醜よりは美を、而して何れも近小よりは遠大をと希望し、遂に無上最大の幸福に達せざればやまないのが人情であり理想である。いう所の価値創造の生活とはこれを意味する。
この希望に応じて、最大の価値の生活法を証明されたのが仏教の極意で、妙法と称しまつり、他のあらゆる生活法と区別された。吾々は大善生活法と仮称して、世間在来の小善生活法と区別せんとする。さればいかなる人でも知らねばならず、依らねばならぬ性質の法であり、不知不識の中に、幾分は信頼して居る所であり、それが吾等の生活しうる所以である。
ただ無意識なるがために往々間違いがおこり、損害罪悪と現われ、不幸の生活に陥る。のりといい、道といい、規、則、律、憲、理、道理、道徳などというも、同じ意味で、生活の実相に現われている。この最大価値の創造を現実の生活において、生活によって証明し、研究し、指導せんとするのが創価教育学会の目的であり、そのために結果を発表して交換しあい、相携えて無上最大の幸福に達し、以て国家社会の隆昌を企てるのが吾等の期する所で、本誌発行の趣旨である」
この時既に、彼は七十歳であった。だが、彼は、世界における日本の現状を直視すればする程、かつての日蓮のように獅子吼しないではいられなかった。既に、日中戦争はもうどうにもならぬほど泥招にはまりこんでいたし、そういう状態の中で、大阪府知事は地方長官会議で、首相近衛文暦に「吾々のゆく道を力強く教えてもらいたい」と発言する始末である。牧口があきれるのを通りこして、強く怒ったのも当然である。
牧口は「目的観の確立」と題して書かずにはいられなかった。
「目的なしの行動は暗中模索で成功しない。……何もわかっていない地方長官が人民を指導しているのである。生活の行き詰まりが各方面にあるのは当然である。国難突破のむずかしい所以でないか。
いかにしたら目的観が確立するか……。一度戻って出直さねばならない。人生の行路もその通りである。究竟の目的が確定せずして中間の目的は定まらない。世界がわからずに国家がわかるものでない。国家の生活が立たないでは一家の生活が立とうはずはない。故に一家の生活を確立せんとするには、国家の生活が確立せねばならぬ。世界の生活が確立せねば国家の生活は定まらない。その世界は現在だけでは分からぬ。世界は過去、現在、将来の三世が分からなくては分からぬ。三世にわたる因果の法則が解ってこそ、初めて現在の各自の生活の確立ができるのである。それは現世に限られた科学の力では出来ない。宗教がなくては国家も個人も生活が確立しない所以である」と。
日米戦争開始を前にして、暗い絶望的な日々を送っている日本人、目的と方向が定まらないためにゆきあたりばったりの生活をしている日本人が、そういう状態から脱出し、人間らしい生活を送るためには、真の目的をしっかりと定める以外にない。とくに、独ソ戦争、独仏戦争が始まっている今では、それこそが人間の世界的使命でもあると牧口はいうのである。そこにしか、人間の人間としての救いはないとも断言する。
その時、牧口が目的の定まった生活、最も人間らしい生活として、大善生活法を考えていたことはいうまでもない。こうして、彼が機関誌「価値創造」に、大善生活法について精力的に次々と書くという生活が始まった。それは、「大善生活法の提唱」であり、更には、「大善生活法即ち人間の平凡生活」「大善生活法の実践」「大善生活法の根本原理」などであった。
牧口の大善生活法についての説明をみてみよう。
「大善生活法とは多少でも余裕のある生活力を意味することにおいて、欠乏や人並みだけの小善生活と区別される。借り方の生活を脱し、借貸なしのそれにも安んぜず、貸し方にまわることともいえる。孜々汲々、自分だけの目前の生活に生命力の悉くを消耗して不安に悶える寄生的な餓鬼道の生活を離れて明日の用意をなすと共に、他人を助けるだけの余裕を持つ生活に安住することである……。
この意味の大善生活は、個人主義生活や独善主義の生活ではなく、まして臆病なる寄生主義の生活でもなく、勇敢なる全体主義の生活なることが解るであろう。全体主義とはいえ、己を忘れるがために、言うべくして行なわれないような空虚なる偽善生活ではなく、自他ともに共栄することによって初めて、完全円満なる幸福に達し得る生活のことである」
また、つぎのようにも言っている。
「一身一家の小さな生活を目的とする小善生活を続ける限り、いつまでも、天下国家の大きな生活を目的とする大善生活法は実証しうるものでない……。区々たる地位や名誉や財産を気にかけているだけの小善生活力の生活では、不惜身命の大善生活法はやはり出来るものではない」
牧口は、小善生活は自分のことしか考えない生活、大善生活は、自分が世界にかかる存在であることを知って、自分と他人が同時によくなることを考える生活であるという。しかし、自分と他人が同時によくなる生活は、いうのはやさしいが行うことはむつかしい。とくに、民衆のことを考えない指導者や政治家、民衆を自分の手段程度にしか考えない支配者のもとでは特にむつかしいと強調する。しかし、彼は、そういう支配者に反対するよりも、もっと、人のため、世のためになろうとしている人たちを助けることがむずかしいというのである。そのことを次のようにいっている。
「小善に安んじて大善にそむけば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる。大悪に反抗するはもとより困難であるが、大善に背かず進んで尊敬するはさらに至難である……。
大善をねたみ、衆愚にほめられることを喜び、大悪に反対する勇気もなく大善に親しむ雅量もない所に小善たる特質がある。けだし、悪を好まぬだけの心はあるが、善をなすだけの気力がない」
しかし、昭和十六年十二月、非常に恐れていた日米戦争がとうとう始まり、国民を修羅道、餓鬼道におとしいれるのをみたとき、牧口は更に、激しい言葉をぶっつけずにはおれなかった。
「同じ小悪でも、地位の上がるに従って次第に大悪となる。況んや大悪においてをや極悪となり、その報いとして大罰を受けねばならぬ……。
同じ罪悪でも、市民と巡査と署長と知事と大臣との各階級に応じて、それぞれ罪報は異り、同じ理由によって、地位は低くとも、善を教える教師には罪報は重く、これを監督する官吏はまたそれぞれ重かるべし……。
果たして然らば、これらの更に上流に立って害毒を流す僧侶神官等の教導職の罪悪はさらにさらに重大であらねばなるまい。たとえ、小悪でも最大罪となり、極悪の果報を結ぶことを思わねばならぬ。況んや、大善に反対し大悪に加担するをや。大悪に迎合し大善を怨嫉するにおいてをや。この法則は悪人よりは善人、善人よりは大善人として、社会の尊崇をほしいままにし高位高官に位する高徳先覚の深く警め、慎重に反省すべき所であろう」
牧口は、公然と東条英機を首班とする日本政府に戦いを挑み、その政策、その方針を批判したのである。その批判は直接的具体的ではなかったが、決してなまぬるいものではなかった。「罰をうけるぞ」といわずにはおられなかった心境であっただろう。どうみても、そんな非道が許されていい筈はなかったからである。
昭和十七年五月には、政府の高官にむかって、「法罰論」をたたきつけた。彼はまず、
これからの宗教は、法罰を下すだけの力があるかどうかによって、その存在がきまる」とまえおきして、
「関係者の罪根の軽重の程度によって遅速の差があり、甚しきはいかに強く誹謗しても、現世において何等の法罰のない者もある。これは何故か。既に法罰の観念が転倒し、悪みにあらずして慈悲の表われであることがわかるならば、容易にその理由はわかるであろう。すなわち速かに懺悔滅罪によって変毒為薬の安全生活にしてやりたいというのが、大法の慈悲にもとづくのであれば、早いだけ重荷をおろさせていただくことが願わしいことであるからである。
反対に、箸にも棒にもかからぬような悪人ならば、いくら罰を与えても、何等の効能もないから、仏は時の至るまで放任されると解すべきであろう」
というのである。いいかえれば、君たちは仏に見捨てられた大悪人か、それとも、仏の慈悲を受けるに足る小悪人か、この辺で徹底的に反省する時であるというのが牧口の意見である。
その当時の政府がこれをみのがすわけはない。政府の命令で、機関誌「価値創造」も第九号をもって廃刊においこまれた。その時、彼は、「仏教の極意、法華経の信仰によって大善生活を実証しようとするもので、国策に必ずしも反するとは思わないが」と語ったという。
機関誌「価値創造」の主要な目次は、
第一号 価値論抄(戸田城聖)、安産と無産との実証、対仏立講問答録
第二号 臨終の相(有村勝次)、亡妻記(藤生千代三)、猫の成仏か(阿部一極)、靴の裁判(川室茂)、子供の大善生活法実証
第三号 第六回折伏法研究会(大石寺で七日間)、変毒為薬の余が実証(矢島周平)、地獄から極楽へ(阿部一極)、子供の性格変化(原島精子)、弱虫が強虫に(寺阪京子)、地方だより
第四号 総会の意義とその盛況、信仰は正行薬は助行(原十郎)、軟禁の折伏法(金川末之)、酒癖の全治(高杉博)、本山丑寅の勤行に流涕す(江刺マサ子)、罰則利益(白木よし子)、秩父の奥より(辻賢太郎)、青年の大善生活(片山尊)、婦人部の使命(木下夏子〕、日本人の生活目標の覚醒(国富倫雄)
第五号 旧体制の信仰(神尾武堆)、赤化思想から日本晴れの喜び(杉山亀吉)、憎い継母が今は仏(寺阪陽三)、登山のあと(小塚鉄三郎)、井中の学生と大善生活法(小平芳平)、岳父折伏の手紙(原島鯉之助)
第六号 女子師範校長との問答(辻武寿)、旧体制の信仰を拝読して(兵頭次男)、一番欲しい物(斎藤薫)、謗法の罪障録(一)、地方だより、各部報告
第七号 謗法の罪障録(二)、都会人と社会性、各部報告
第八号 実業家団体の大善生活道場記、出版クラブの大善生活実証、大酒癖矯正の実証、謗法の罪障録(三)、各部報告
第九号 正信者の法罰、不死身の信仰、安産の実証、不良少年善化の証明、各部報告
というようなものであった。
この前後から、会員の折伏運動も非常に盛んになっていった。当時の様子を辻武寿(現創価学会総務)は、次のように語る。
「その頃、私は、二十三歳位でしたが、それはもうはりきっていたものです。入信によって、すごい実践力、行動力が身についてきたのでね。今でもはっきりおぼえていますが、文部次官を折伏しようと次官の家を訪ねて、十一時半頃までがんばったことがあります。若造の小学校教員が文部次官をたずねるなんて、昔は想像もできません。それをやったのです。
話の内容は、歴史の教科書にある忠孝両全の人平重盛というのは間違った記述だから訂正してほしいというものでした。“孝ならんとすれば忠ならず、忠ならんと欲すれば孝ならず”といったという重盛の言葉はおかしいし、まして“自分を殺してから、天皇を改めてほしい”という言葉は全く間違っている。“あくまで、親をいましめる姿勢こそ、忠であり、大善である”と申しあげたのです。小善、中善、大善のわからない者には、忠と考の関係も、忠孝両全の道もわからないという私の意見にも大体共鳴してくれましたね。かえる時は、玄関先まで送ってくれました」
この直後、辻は、埼玉県女子師範校長を折伏しようとはりきってでかけているが、こういうことは、何も辻にかぎったことでなく、全会員が多かれ少なかれ、全力をあげてとりくんだ。
昭和十六年八月には、一週間にわたる夏期講習会が大石寺でおこなわれ、延百八十三名が参加、東京神田の教育会館で開かれた秋の総会には、約四百名が集まるという盛況だった。この日、稲葉伊之助は開会の辞で、
「創価教育学会は最初先生一人、お弟子一人、即ち、牧口先生と戸田先生のお二人から始まったのでありまして、この会が今日、約二千名にのぼる大会員をもつことになり、支部も東京に十三、地方に九つ、あわせて二十二ケ所の多くを有する程盛大になり、熱心なる会員の夜を日についでの折伏教化により、同志は日毎に増加を見つつあります……。
わが創価教育学会の会員は、ことに牧口先生および戸田先生から直接に御指導をいただいている者で、同じ信徒の中でも、更に選ばれた幸福者であります。
この自覚を持った場合、我々は実に一日一時と雖も、ボンヤリしては居られないのであります。御承知の如く、今や時局はいよいよ緊迫して参りました。丁度それは、日蓮大聖人様御在世の時代とよく似た時勢であります。吾々は、自分等のもつ信仰の尊さを自覚し、それぞれの職域において、お互に小日蓮としての任務をハッキリ認識して勇猛精進……」と述べ、会員一人一人が小日蓮になることを訴えた。そして、牧口の「大善生活法」、戸田の「弟子の道」という講演の後、会員の体験談が報告されている。
創価教育学会の性格が、次第に教員を中心とする団体から、宗教団体の色あいを濃くしていったのも、この総会前後からである。
東京、神奈川、福岡などの各地の支部も活発に座談会、研究会をもったし、教育研究部、婦人部、青年部などの活動もとみに盛んになっている。とくに、牧口は、婦人部、青年部などを直接に指導し、婦人、青年の決起をうながしている。
即ち、婦人部に出席しては、家庭内にまず立憲政体をしくことを強調する。彼は女性が社会的政治的にめざめることを何よりも希求した。また、青年部では、明治維新は二十代の青年によってできたこと、広宣流布は青年がリードする以外にないと激励したのである。
また、機関誌「価値創造」には、昭和十七年二月一日に開かれた幹部会の決議をのせている。
「☆ 牧口会長総論、「依法不依人」の精神を以て、一家も一社も各支部も専制的指導を誡めよ。
☆ 新支部長決定 かくて支部数は二十五となる。
☆ 野島理事の提案に基き、次の如く決定
一 折伏強化運動 各支部は会員を倍加すること。各支部毎に一人が一人以上を折伏すること、第一期は六月末とし、増加会員を理事長に報告する。各支部は地域的に会員を定めること。各支部長は各支部会員名簿を整理し、三月一日までに理事長に報告する。
二 挺身隊の設置 各支部より挺身隊員候補者男子二名以上を推薦し、本部理事会により決定する。
目的
1 各職域の指導的地位にある者を折伏する
2 特別会員の獲得
3 退転者の再折伏
4 当宗の害虫的信仰者の再折伏
5 僧侶の諫暁
三 婦人部の活躍
婦人部も挺身隊に準じて、各支部より挺身隊二名以上を推薦する。
四 地方支部は右に従う」
これは、学会の活動がその頃すでに、相当熱っぽかったことを示している。
この学会の活動を、主として財政面で支えたのは、理事長の戸田である。稲葉から、学会は、牧口と戸田の二人から出発したといわれたが、その彼は、時習学館が軌道にのると、今度は出版社経営にのりだした。彼は、まず二割の配当を約束して、教員から小銭をひきだした。しかし、投資する教員の数は尨大であったために、彼の所には、おもしろいようにかなりの額の金が集まった。
年二回、東京目黒の雅叙園で、出資者に配当金をわたすのが当時の戸田の喜びの一つであったという。それに、彼の経営する出版社は、四海書房、北海書房、岡書房、秀英舎と次々にふえたし、昭和十八年一月には、証券界にのりだすという盛況ぶりであった。
戸田はそれからあがった利益の一部を学会の活動に惜しみなくつぎこんだのである。学会の発展は、牧口と戸田のコンビの中で生れたといっても過言ではない。
戸田の事業の発展に呼応するように、牧口のこの頃は、思想的にも精神的にもその成長充実はめざましかった。晩年になってからの入信であったが、それ故に、彼は追われるものの様に激しく吸収した。ゆっくりかまえるということも出来なかったようである。とくに、昭和十五、六、七年頃の彼の飛躍は相当なものだった。
当時の牧口を、戸田は、「三月会わないと、三月だけ進んでいるのを発見した」といっている。
昭和十七年八月には、前年につづいて、大石寺で夏期講習会を開いているが、その席上で、牧口は次のように語っている。
「人間はいかに他にむかっては強がりを示しても、いざとなると命が惜しいのが人情である。“命あっての物種だ”との生命欲こそ、一切の生活現象の基因であり、原動力たる生物の偽らざる運命だから仕方がないとあきらめねばなるまい……。
しからば、大善は人間の世には永久にできない謎でしかないのか。ここに極めて少数なる志士仁人が生命の危難を顧慮する暇もなく、奮然とたって世のために謀り、その貴重なる生命を犠牲にして大善生活を行ない、万世に範をたれ永く人民の崇拝の的となっている者があって、人生に一道の光明を与えている……。
とはいえ、普通の人間には極めて縁の遠い存在であって、……普通の人間には永久のなぞとしかなっていないのである。
この時にあたり、その僅少希有の実例に生命安全の保証をあたえて、万人共通の真理を実験証明するものがあるならば、そこに生命の危険の疑惑が一掃され、恐怖の観念が除去されて万民共同の現生活対象となるであろう」
この時の牧口には、日蓮正宗の信仰がそれをしめしており、創価教育学会がこれまで実験証明につとめてきたものであるということになるのであろう。しかし、こういう課題の前にたつ牧口には、限りない実験証明の仕事が猶のこっていた。それに、すべての人間が世の中のために捨身の勇気をもって行動するように自己変革をとげるまでは、実験証明ができたということはできない。ことに、庶民大衆を相手にし、庶民大衆が大善生活を送るようになることを念じ、求めてきた牧口の本当の苦悩、悲しみがここにある。釈迦が日蓮が全身で希求しながら、実現できなかった課題に、もう一度初めから再検討し、体当りしてみようとする者の孤独と厳しさがある。
その点では、日米戦争下の暗い状況の下で、それの実験証明をやらなくてはならなかった牧口は、気の毒でもあったが、非常に意欲のあることでもあった。まさに、昭和十八年という時代は、信の重さ、知の重さ、それをひっくるめて、宗教の重さを考えさせてくれたし、宗教とは人間にとって何なのかという根本問題を教えてくれる時代であった。
彼は、それをどのように受けとめ、彼なりの結論をどのように出したのであろうか。
昭和十六年冬頃から、牧口が正面きって、鋭く、政府の戦争政策に対決しはじめたことは既に書いた。それは、人間の幸福を考え、自己と他との充実した生活を同時に求めつづける思想家の宿命である。
しかし、既に、政府が昭和十五年四月、宗教団体法を施行して、宗教統制をはじめ、日蓮正宗に日蓮宗との合同を求めたことにより、牧口と政府の戦いは始まっていたということができる。いうまでもなく、政府が宗教統制によって、思想統一を行ない、戦争政策を強力におし進めようとしたのに対して、牧口は日蓮正宗の立場から反対したのである。
この政府の要求に対して、日蓮正宗の中にもこれに応ずる動きがおこり、布教監小笠原慈聞がその中心であった。彼は神が木地で、仏が垂迹であるという「神本仏迹論」という異説を唱え、日蓮宗との合同に動き始めたのである。政府は強く小笠原の動きを支持した。
そうなると、日蓮正宗総本山大石寺でも、この問題を明らかにすることを迫られた。急遽、僧俗護法会議が大石寺で開かれた。この時の様子を、戸田は「人間革命」の中で次のように述べている。
『「諸君、今もし日蓮大聖人が御出現になったらどうされるだろうか。蒙古の襲来とは比較にならない、この重大な時局を迎えて、七百年前の大獅子吼が今なされないと断言する者があろうか。
大聖人は断じて、国家諫暁をなさるであろう。また、弟子どもも不惜身命の心をもって、大聖人に従うであろう。
いや、大聖人が今御出現になって、われわれ弟子檀那の姿を御覧遊ばされたら、どのように強くお叱りを蒙るか。
どのようなお顔をして、大聖人にお目通りできるか。
日蓮正宗の潰れることをおそれてなにになる。仏法の力によって日本を栄えさせることこそ、大聖人はお喜びになるのではないか。本山の安泰のみを願うのは弟子の道ではない。」
と牧口が述べたとき、大石寺のある僧は、
「今は、その時期ではない。時期が早いといってよい」と答えた。
すると牧口は、きっとなって、
「時期はむしろ遅い。国家がこの大戦争をするに当って、強く尊い生命が把握されなかったらどうするのです。国家諫暁を猊下に申しあげて下さい。
あなたは宗内宗内というが……
大聖人の御意志をそのままに実行しようというのに、なんの障りがありましょう……。仏法は観念の遊戯ではない。国を救い、人を救うものです。救わねばならないときに、腕をこまねいていて、救わないのは仏意に背くものです」
といいきった』
この時、牧口は、七百年前、国家諫暁にたちあがった日蓮の徹底した姿を深く思いおこしていたに違いない。そして、一歩も退かなかったことを思い出していたに違いない。
御承知のように、日蓮は当時、執権北条時宗を始め、政界、思想界の指導的立場にある十一人にむかって直諫している。彼は、時宗に送った文章の中で、
「諫臣国に在れば則ちその国正しく、争子家に在れば則ちその家直し。国家の安危は政道の直否に在り。仏法の邪正は経文の明鏡による。
それ、この国は神国なり。神は非礼をうけたまわず。天神七代、地神五代の神々、その他、諸天善神等は一乗擁護の神明なり。しかも法華経を以て食となし、正直を以て力となす。
法華経に云く。“諸仏救世者、大神通に住して、衆生を悦ばさんがために、無量の神力を現ず”と。一乗棄捨の国に於ては、豈善神怒りをなさざらんや。仁王経に云く。“一切の聖人去る時、七難必ず起る”と。
かの呉王は、五子胥が詞を捨てて、吾が身を亡ぼし、桀紂が竜比を失って、国位を喪う。今日本国既に蒙古国に奪われんとす。豈歎かざらんや、豈驚かざらんや。
日蓮が申すこと御用いなくば、定んで後悔これあるべし。日蓮は法華経の御使なり。経に云く、“即ち如来の使、如来の遣わされたものとして、如来の事を行ず”と。三世諸仏の事とは法華経なり。この由方々へ之を驚かし奉る。一所に集め、御評議あって、御報にあずかるべく候。所詮は万祈をなげうって、諸宗を御前に召合わせ、仏法の邪正を決したまえ」
と書いている。
日蓮は更に蒙古軍が壱岐、対島を侵し、筑前に上陸した年に、次のようにも書いている。
「我が国の亡びん事は、あさましけれども、これだにも虚事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を謗じて、万人無間地獄に堕つべし。かれだにも、強くなるならば、国は亡ぶとも、謗法はうすくなりなん。譬えば、灸治にて病をいやすが如く、針治にて人をなおすが如し。当時は難くとも、後には悦びなり」
これほどに厳しく激しい国家諫暁はない。正法の行われない国など亡びてもいいと断言するのである。正法をそしる人々、正法を圧迫する政府などなくなる方がよいというのである。ということは、敗戦と滅亡を契機にして、正法にめざめるかもしれないという期待がそこにあったのである。
牧口は、その事を考えたのである。法華経に説き示す末法の正法を奉じて、捨身の実践突入したことを。そして、日蓮正宗が大事なのでなく、法華経の三大秘法を奉じて、日蓮が生き行動したように、戦争政策をすすめる政府を直諫することが一番大事なことを確認したのである。もしそれをしないならば、有名無実の日蓮の教え、日蓮正宗があるにすぎないことを知ったのである。
牧口のこの強い主張、激しい抵抗にあって、総本山大石寺側でも一部に小笠原等の身延と合同の動きはあったが、結局は日蓮正宗の流れを濁すことなく押し切ったのであった。
しかし、各宗各派は次々に、皇大神宮の大麻(神札)をまつって、神道への従属、天皇への崇拝をみとめていった。日蓮正宗総本山大石寺も動揺した。
その当時のことを、池田大作(創価学会会長)は、「人間革命」の中に、
「昭和十八年六月、学会の幹部は、本山に登山を命ぜられた。そして一人の僧侶から“神札”を一応、うけとるようにしては……との話があった。
牧口会長は、深く頭を垂れたが、日興上人の遺誡置文の厳しい一条を思い起こしていた。
……時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
彼は、頭をあげると、はっきりと言い切った。
“神札は、絶対にうけません”
こうお答えし、沈痛な表情で下山した。これが彼の最後の登山であった。
彼は帰える途々、押しつつんだ感情を激して、戸田に語った。
“わたしが嘆くのは一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることだ。宗祖大聖人の悲しみを、私はひたすら恐れるのだ。
今こそ、国家諫暁の時ではないか。いったい何を恐れているのだろう?戸田君、君はどう考える?”
戸田は、即答する術を知らなかった。七十歳をこえた恩師の老躯を思いやったからだ。激昂した恩師の毅然たる心をいたわりたかった。彼は、やさしい弟子であった。
牧口は重ねて、戸田に呼びかけた。その声はいつかやさしくなっていた。
戸田は、空を仰いだ。ギラギラと照りつける午後の太陽があった。眼前には、富士が聳えている。彼は、我にかえったように静かに、力強く答えた。
“先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生のお伴をさせて頂きます”
牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた」
と書いている。
日蓮正宗大石寺では、牧口を先頭にする「創価教育学会」の動きが日蓮正宗弾圧の口実になることをおそれて、学会員の大石寺参拝を禁止した。牧口はこの時あらためて、かつて、
「衆生の済度を目的として起った宗教を一宗一派の生存繁栄に利用する職業宗教家のごときは悪の最大なるものではないか」
と書いた彼自身の言葉を思いだしたであろう。そして、世のため、人のために捨身の行につきすすむことが、如何に困難なものかも考えないではいられなかったろう。
この一か月後の昭和十八年七月八日、牧口は伊豆下田の旅行先で逮捕され、戸田はその日、東京兜町の会社から高輪署に連行された。この時に逮捕された者は東京十四名、神奈川四名、福岡三名で、会長以下、主だった幹部は殆んどつかまり、学会は事実上壊滅した。五千名の学会員の多くは政府の激しい弾圧の下に四散していったのである。それほどに、当時の弾圧は残酷であり徹底していたのである。
勿論、牧口の逮捕には、それなりの理由、たしかな根拠が必要であった。だから、特高警察はそのきっかけとなるものをさがしており、たまたま、近所の人を折伏した言葉の中に不穏の言葉があったという理由で、六月五日につかまった陣野忠夫と有村勝次の供述が牧口を逮捕する理由になったのである。ことに、有村は学会の理事でもあったから、警察にとって都合がよかったということが出来る。
八月二十五日には、巣鴨拘置所に移され、山口検事の係りで本格的な取調べが始まっている。しかし、治安維持法違反と不敬罪ということで、弁護士もなかなかきまらず、そのために、取調べもなかなか進まないという有様であった。予審請求が東京地裁になされたのは、昭和十八年十一月二十日、それには、次のように書かれていた。
「被告人は明治二十六年、北海道師範学校を卒業し、爾来小学校訓導、師範学校教諭、文部属、小学校長等を歴任し、昭和六年東京市立麻布新堀小学校長を退職したるものなるところ、昭和四年頃従来の教育学にあきたらず、自己創案にかかる生活の科学と称する創価学説に基き、人類をして最大の幸福を得しむる為の最良の方法を考究することこそ真の教育学なりと做して、創価教育学なる独特の学説を提唱するに至り、更にその頃日蓮宗の一派なる日蓮正宗の研究者三谷素啓より同宗に関する法話をきくや、これを右創価教育学の学理に照合理解して痛く共鳴し、同宗の教理こそ末法時における一切衆生の帰依すべき唯一無二の正法なるのみならず、創価教育学の極致なれば、人間をして最大の幸福を得しむるには同宗に帰依せしむるの外なしと思惟し、昭和五年頃、同宗の教理に特異なる解釈を施したる教説を宣布する為、創価教育学会なるものを創設したるが、右教説たるや妙法蓮華経を以て仏法の根本宇宙の大法なりとして、弘安二年日蓮図顕に係る中央に法本尊たる南無妙法蓮華経及び人本尊たる日蓮を顕し、その四方に十界の諸衆及び妙法の守護神を配したる人法一箇十界互具の曼茶羅を以て本尊とし、一切衆生はこの本尊を信仰礼拝し、同本尊の題目たる南無妙法蓮華経を口唱することによりてのみ成仏を遂げうべしと做す日蓮正宗本来の教理を創価教育学の見地より解釈したるものにして、日蓮正宗の法門こそ無上最大の善にして、該法門に帰依し、その信仰に精進するにおいては、最大の善果を施すこととなり、因果の理により、最大の善果を得、最も幸福なる生涯を送りうべく、爾余の神仏を信仰礼拝するは、該法門に対する冒涜にして所謂謗法の罪を犯すこととなり、法罰として大なる不幸を招くべしと説き、右本尊以外の神仏に対する信仰礼拝を極度に排撃し、畏くも、皇大神宮を尊信礼拝し奉ることも亦謗法にして不幸の因なれば尊信礼拝すべからずと做す、神宮の尊厳を冒涜するものなるに拘らず、実験証明と称し、入信者が忽ち幸福を得たる反面謗法の罪を犯したる者が恐るべき不幸に陥りたる実例をあげて該教説を説明する等の手段を用い、未信者を強硬に説伏入信せしむる所謂折伏を行い、該教説の流布につとめ来りたるものにして、昭和十五年十月にいたり、同会組織の整備を企図し、約二百名の信者を糾合して、これを会員とし、綱領規約を決定し、自ら会長に就任するとともに、理事長以下各役員を任命し、本部を同市神田区錦町一丁目十九番地に設けて、前記教説を流布することを目的とする結社創価教育学会の組織をとげ、爾来同会拡大の為活発なる活動をつづけ、現在会員千数百名を擁するに至れるが、その間、昭和十六年五月十五日、改正治安維持法施行後も前記目的を有する同会の会長の地位にとどまりたる上、同会の目的達成のため昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、同会の運営ならびに活動を統轄主宰したるが
第一 (一) 昭和十六年六月一日頃より昭和十八年七月一日頃迄の間、毎月約一回前記同本部に於て、幹部会を開催し、これを主宰して同会の運営ならびに活動に関する方針を決定し
(二) 昭和十六年十一月二日頃より昭和十八年五月二日頃迄の間四回にわたり、同市神田区一橋教育会館に於て、総会を開催し、その都度、講演、実験証明などの方法により、参会者数百名に対し、折伏または信仰の強化に努め
(三) 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間、二百四十余回にわたり、同市中野区小滝町十番地陣野忠夫方等に於て座談会を開催し、その都度、説話、実験証明等の方法により、参会者数名乃至数十名に対し、折伏または信仰の強化に努め、
(四) 昭和十六年五月十五日頃より昭和十八年六月三十日頃迄の間、毎週一回面会日を定め、その都度、同市豊島区目白町二丁目一六六六番地自宅に於て説話、実験証明等の方法により、身上相談の為の来訪者数名乃至数十名に対し、折伏または信仰の強化に努め
(五) 昭和十六年十一月五日頃より、昭和十八年七月五日頃迄の間十回にわたり、地方支部または地方に在住する信徒の招聘に応じ、福岡県その他の地方に赴き、約十五回にわたり福岡市二日市町武蔵屋旅館その他に於て、座談会または講演会を開催し、その都度、講演、説話、実験証明等の方法により、参会者数名乃至数十名に対し、折伏または信仰の強化に努め
(六) 昭和十七年九月前記同会本部に、同会員三十数名を委員とする退転防止委員会を設け、昭和十八年七月六日頃迄の間、全委員を七班にわかち、信仰を失い、脱会せんとする同会会員の再折伏に努めしめ、かつその間六回にわたり、同本部に報告会を開催し、委員より再折伏の実際に関する報告を徴し、爾後の方策を考究指示する等委員会の指導に任じ
第二 昭和九年頃より昭和十八年七月六日頃迄の間、東京市内その他に於て、同市王子区神谷町三丁目三六四番岩本他見雄外約五百名を折伏入信せしむるに当り、その都度、謗法の罪をまぬがれんが為には、皇大神宮の大麻を始め、家庭に奉祀する一切の神符を廃棄する要ある旨強調指導し、同人等をして何れも皇大神宮の大麻を焼却するに至らしめ、以て神宮の尊厳を冒涜し奉る所為をなしたる等、諸般の活動をなし、以て神宮の尊厳を冒涜すべき事項を流布することを目的とする前記結社の指導者たる任務に従事したるとともに神宮に対し不敬の行為をなしたるものなり」と。
日本政府はこれだけの理由で、牧口を逮捕し、牧口を起訴したのである。理事長の戸田が懲役三年、執行猶予五年の判決をうけたことを思えば、彼は実刑になったかもしれない。その点では、幸というべきか、不幸というべきか、私にはわからないが、牧口は、昭和十九年十一月十八日、老衰と栄養失調のために拘置所で倒れ、再びたつことはなかった。
かつて、学生の思想を刑法で取締まることの愚劣さを強調しつづけてきた牧口であったが、彼もまた、その思想を刑法で取締まられるというところに追いこまれたのである。
だが牧口にとっては、一宗一派が亡びさることに関心がなかったように、自分達が刑法によって裁かれ、政府の強い弾圧を受けることそのことは問題ではなかったであろう。そういうことは、日蓮当時からあったことであり、別に騒ぐことではなかった。彼にとって一番大事なことは、日蓮の教えをまもって、その弟子たちが捨身の行動を貫きとおすことであり、その教えを捨てることによって、日蓮を悲しませないということであった。それ以外にはなかった。それ故に、三十数名を委員とする退転防止委員会を作って活動したのである。
しかし、拘置場内で牧口はまもなく、拘留された幹部のうち、戸田と矢島周平を除いて、あとはその思想、信仰を捨てて転向したということを聞かされた。その時の彼の驚き、彼の受けたショックは、彼の生涯を通じて最大のものであったろう。信仰のむつかしさを更めて痛感したであろうし、その信仰が本物かどうかということも、こういう最悪の情況の中で初めてためされるものであり、また、こういう状況の中で、信仰を深める者、捨てる者いろいろあることを痛感したはずである。それこそ、実験証明が本当に意味をもち、必要になるのはこういう時である。
牧口は、七十三歳の老齢であることをも忘れて、これらの問題にとりくんでいった。時には、尊敬する吉田松陰が幕府にむかって、自分の意見を述べ、取調べにあたった人達の思想改造を試みたことを思いいだして、自分にもそういうチャンスが訪れたと考え、喜んだということもあったかもしれない。取調べ検事に「価値論」を読んでもらったのもその為である。
七十三歳から七十四歳という彼の年齢で、一年四か月もがんばり通し、抵抗できたのも、入信による激しい戦闘力、逞しい生命力を自らのものに出来た結果であるということがいえよう。文字通り牧口は、自分自身によって、自らの説く思想の実験証明をしたということがいえよう。入信していなければ、また、それだけの確信がないなら、彼はとっくにまいっていたかもしれない。
そして、更めて、日蓮が「日本第一の智者となし給え」といって、深く広く主体的な学問をすることによって、知に裏づけられた信、道理に合致した信、すべてを可能なかぎり知りつくした後に到達した信をもったことを牧口は思いだしていたに違いない。自分自身がその信を貫きとおすことができたのも、日蓮に近い主体的学問をした結果によると考えたであろう。学問する意味、思索することの意味を知って、拘置所生活を通じて、カントの哲学を読みつづけたのもそのためである。
カントといえば、十八世紀にドイツに生まれた世界有数の哲学者であるが、彼のように貧しい家庭に育ち、家庭教師をしながら苦学する。そして、最初は自然科学に興味をしめし、そういう著書があるのも牧口に似ているといえよう。後、哲学に移り、「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」などの著書を通じて、理性、道徳、自由、人間を追求した。さらに、「永遠の平和のために」というような著書もある。カントは謹厳のなかにも座談にとみ、ユーモアにとんでいたというが、牧口にもそういうところがあった。
牧口の拘置所生活は、三畳一間の部屋で、読書と読経にあけくれる静かな生活であった。激しい闘志と、逞しい生命力があったといっても、もう相当年とっている。
牧口が拘置所から、息子の妻貞子に送った手紙を二、三抜いてみよう。
「貞子さん 本日布団、毛布、夜着等の七点が正に差入れされた。ありがとう。さぞ面倒であったろう。幸に胃腸を少しいためて、それは夜の寒さだと思うていた矢先で、喜んで居ます。……それからは風邪と喰べ物とに気をつけて治そうと努力して居ます……。
前の手紙で申したが、もう一度、左の不足品をいうから差入れして下さい。ももひきかずぼん下だけは大急ぎです……。
物のありがたさを七十になって初めて体験したよ。チリ紙一枚を三つに切り、それを折って用いて居る……」
「別だん変りはないか。四日と十一日の手紙が来たきり、あとは来ないが、どうしたか。当方が、先月一日、十一日、二十二日、本月四日、十五日と五回はいった筈だが、それがとどいているか。返事を下さい。一週間に一、二回来て、受付に宅下げ物があるかどうかをきいて下さい……」
「貞子ちゃん、私も無事に、ここで七十四歳の新年をむかえました。ここでお正月の三日間はおもちも下さいましたし、ごちそうもありました。心配しないで留守をたのみます……。
大聖人様の佐渡のお苦しみをしのぶと何でもありません。過去の業が出て来たのが経文や御書の通りです。御本尊様を一生懸命に信じておれば、ここに色々の故障がでて来るが皆なおります」
「あたたかくなりましたね。五日の手紙十日に見た。あんな手紙こそくりかえしよんでいます。上手にお前の心中があらわれています。疎開が古河にきまって安心です。私も丈夫で寒中をこしたから心配せずに、留守をたのむ。お前が一番役者じゃ。身体を大事にして頼む……。」
「こちらは十日毎に一回のハガキしか書いて出せないが、そちらからは何べんでもよこせるはずだから、もっと一つ一つ細かく知らせてよ。……」
十月十三日付けの彼の最後の手紙には、
「十月五日付、洋三戦死の御文、十一日に拝見。びっくりしたよ。がっかりもしたよ。それよりも、御前たち二人はどんなにかと案じたが、共に立派の覚悟であんどしている。貞子よ、御前がしっかりして居てくれるので、誠にたのもしいよ。実の子よりは可愛いことがしみじみ感ぜられる。非常に賢い洋子を立派に育てあげて、吾等に孝行してくれること、二人とも老後の唯一つの慰安とする。手紙は牧口家の永久の記念にすること。頼むぞ……。
私も元気です。カントの哲学を精読している。百年前およびその後の学者どもが望んで手をつけない“価値論”を私が著わし、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、下数千に実証したのを見て、自分ながら驚いている」
と書いている。
死を目前にひかえて、彼の誇りと自信はいよいよ、高い深いものになっていった。しかし、彼は、大正十三年に二男善治を二十三歳で失い、昭和三年、四年と続けて、四男長志、長男民城をそれぞれ、十九歳、三十一歳で病死させている。更に、四女きみも昭和七年に十四歳で病死している。男ではたった一人残った三男洋三の死は、彼にとってあまりにも残酷であったといえよう。しかも、洋三は三十八歳にもなっていた。
息子洋三の死を聞いてから、急に元気をなくし始め、三十八日目に亡くなったというのもわかるような気がする。それに、洋三の妻貞子は牧口の心を理解し、よくつくしたが、娘たち三人は、それぞれ小栗、尾原、渡辺に嫁いだまま、彼の留守宅を見舞うことも、彼のところに手紙をよこすことも殆んどなかった。その不満を貞子にあてた手紙には何度か書いている。
手紙を読むことをその喜びの一つとしていた彼には、娘たちの態度はどんなに寂しく、悲しいことであったことか。ある意味では、娘達に強い信仰を求めつづけた彼の態度が娘たちにその父を敬遠するようにしむけることになったとはいえ、肉親の縁にうすい彼であった。幼くして実母に生きわかれ、実父との縁もうすかった彼は、その晩年まで、徹底して、肉親の縁にうすかった。その点では、思想家牧口、宗教家牧口の一生が豊かであったのにくらべて、人間牧口の一生は大変寂しかったといえるかもしれない。
牧口は亡くなる前日の朝、身体の調子が悪いから病室に移してほしいと看守に申し出たが、その時すでに死を覚悟していたのか、洗いたての下着にすっかり着替えていた。そして、嫁貞子が、「チチキトク、スグコイ」の電報を受け取って拘置所に駆けつけたときには、ただコンコンと眠りつづけているだけで、終に一言もかわすことなく翌朝の午前六時すぎに、息をひきとった。
彼の枕の下には、貞子から寄せられた一年四ヵ月の手紙がその心をあらわすように、日付順に重ねられていたという。
なお、彼の妻クマは、たえず夫と子供との間にはさまって心労し、特殊学校、三笠小学校の校長時代など、彼が給料の多くを子供たちにさいたために、大変苦労したということである。その妻は、昭和三十年になくなっている。
第四章 死後の生
昭和二十年七月三日、戸田は豊多摩拘置所を保釈出所した。丁度、まる二年間の拘置所生活であった。その間、彼は法華経を熱心に読みなおしていった。二年間というもの、唯々、それだけをくりかえし、くりかえし、読む以外に、他のものには眼を向けなかったといってもいいぐらいの生活であった。ことに、崇敬してやまない師牧口の獄死を聞いて以来、法華経にとりくむ彼の姿勢はなお一層真剣さと情熱をおびていった。
戸田が牧口の死を知ったのは、昭和二十年一月八日のことで、その時、彼は、この仇を必ずとってやると心に誓ったという。牧口が「価値論」の中で、
「美の価値も利の価値もわれわれの生命力が弱体ならば、いかほどの価値も生じえない。いわんや善の行為すなわち社会に貢献するなどとは考える余地もないのである。故に、生命論の立場から、生命の実体、生命の本質を追求してゆくことがさらに重要であり、これこそ真実の宗教の分野である」と述べながら、彼はその生命論を殆んど追求しないままに柊わっていることを考えた。自然、彼の関心と追求は生命をいかに考えるかということに向かっていった。勿論、その問題を解明することは彼自身の内発的な疑問を究明することであったが……。
こうして、戸田は法華経をてがかりとして、拘置所生活中も保釈後も必死にとりくむ生活が始まったのである。
昭和二十年十一月十八日、東京中野の日蓮正宗の歓喜寮で牧口の一周忌追善法要がいとなまれた。牧口の遺族、親族を除くと、集まったものはわずかに二十数名。戸田はあらためて、牧口の思想と精神は生きつづけているが、創価教育学会は四散してしまったのだと思わずにはいられなかった。逮捕されて、さっさと転向した男たちが、何の反省もなく、また恥ずかしげもなく、座に連っている様子に、彼はいたたまれない思いを感じたし、絶望感も味わった。
しかし、その中で、戸田は、逮捕されたあとで牧口が、その息子洋三の妻貞子に語ったという言葉を思い出していたに違いない。
「わしが死んでも何も心配することはない。あとは総て、戸田がうまくやってくれる。しかし、わしの葬式の時には、お前達の誰よりも先に、戸田に焼香をさせるんだよ。このことは忘れんように、しっかりおぼえておくんだよ」
これほどに、師牧口がその弟子戸田を信じ、心を通わせた言葉はあるまい。この信頼、この期待にこたえるためには、「しっかりしなくてはならない」と戸田は、おそらく、その時、深く思ったであろう。
これからは、だら幹を中心にした、昔の創価教育学会であっては駄目だ。また、牧口もそれを望んでいないのではないかと考えた。とすれば、新しい学会の創造と出発以外にはない。
挨拶にたった戸田は、この二年余究明してきた彼自身の「生命論」をいつのまにか語っていた。語らずにはおれない心境であった。
「われわれの生命は、まちがいなく永遠であり、無始無終であります。われわれは、末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせて、われわれの位を判ずるならば、所詮、われわれこそ、正しく本化地涌の菩薩であります。
四信五品抄には、
請う国中の諸人わが末弟等を軽ずる事勿れ、進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり。豈熙連一恒の者に非ずや、退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備うべし。天子のむつきにまとわれ、大竜の始めて生ずるが如し。蔑如することなかれ、蔑如することなかれ
と説かれて居ります。
話に聞いた地涌の菩薩は、どこにいるのでもない。実にわれわれなのであります。」
そして、最後に、
「広宣流布は誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。
地下にねむる先生、申し訳ございませんでした。
先生……先生の真の弟子として、立派に妙法流布にこの身を奉げ、先生のもとに参ります。今日よりは安らかにお休みになって下さい。」(人間革命)
といいきった。それは、彼の強い覚悟をしめした言葉であったということができる。
その時に述べた彼の「生命論」について、戸田は、
「われわれが、強い清らかな金剛不壊の幸福境涯に立つためには、自分の意思だけではどうしても出来ない。仏の生命の顕現すべき対境が絶対になければならない。どんな境涯といえども、必ず縁によって生ずるからであります。この対境が、結論していえば、大御本尊なのです。この妙法の力によって、醜を美に、害を利に、悪を善にかえ、永遠に滅びざる仏の生命を我々に湧現させてくださるのです」と述べたこともあるが、要するに、彼は、生命の本質を色心不二とみ、宇宙そのものが生命であり、その故に永遠であるという「生命論」をうちたてた。この「生命論」と牧口の「価値論」によって、新しく発展させようとする学会の教学をうちたてようとしたのである。
昭和二十一年元旦、戸田は、仲間と一緒に大石寺に参詣し、そこで、法華経の講義を始め、東京にかえってからも、ひきつづき、その講義をやっている。これに参加したのは、岩崎洋三、西川喜方、本間直四郎、藤森富作の四名で、四月から六月までの第二回目の法華経講義には、奥山和平、矢島周平、原島宏治、小泉隆、辻武寿、小平芳平、柏原ヤスの七名が参加した。
そして、五月一日には新発足した「創価学会」の第一回幹部会、同二十二日には、第二回幹部会が開かれ、徐々にその組織を整備、六月には機関誌「価値創造」が復刊された。
八月、大石寺における夏季講習会が復活し、九月には、栃木県、群馬県の地方に対して、折伏活動もはじまった。
これらの活動に更に力強いものを注入したのは、十一月十七日牧口の三回忌を契機として、東京神田の教育会館で、牧口の学会葬があり、そのあと、第一回の総会が開かれたことである。
この学会葬に出席した堀日享猊下は、
「宗祖日蓮大聖人の御一生は、大慈悲をもって、この大良薬、大諫言を敢然として言い出されたのであります。
今、牧口会長は、信者の身でありながら、通俗の僧分にも超越して、国家社会の為、大慈悲心を奮い起こして、釈迦仏の遺訓、章安大師の論釈、宗祖日蓮大聖人の御意を体して、上下に憚りなく、折伏大慈の手を緩めず、為に有司に誤解せられ、遂には、尊い大法に殉死なされたのであります。何時の時代であっても、偽りの心を捨て、真の愛情を以て世人に接すると、却って、憎まれ怨れるのであります……。
何卒、諸氏は、牧口会長の心中を、よくよく推察して、国家の為、社会の為、広宣流布を目標に大いに敢闘せられ、相共に、名声を、仏宝の聖海に、流されんことを切望いたします」
と述べ、また、堀米日淳は、
「私は今日、牧口先生の学会葬に加わり、感慨新たなものがあります。私は、かつて牧口先生と、五年間、毎週一緒に仏書の研究をいたし、信仰に励んで来たものであります。……
先生は価値論の完成を期し、信仰の上にも立脚され、自分の生活上に如実にあらわして、それを他に説いていった。その先生の労苦を深く考えなければなりません。
この労苦が、解決されるならば、道は開けてくるのであります。牧口先生は、これを一人で解決されて逝かれたのです」
と語ったと池田大作の「人間革命」には書かれている。
戸田は、この時、次のような追悼文を読んでいる。
「思い出しますれば、昭和十八年九月、あなたが、警視庁から、拘置所へ行かれるときが、最後のお別れでございました。
“先生、お丈夫で……”
と申し上げるのが、私の精一杯でございました。
あなたは、御返事もなく、うなずかれたあのお姿、そしてそのお目には、無限の慈悲と勇気とを感じました。
わたくしも後をおって、巣鴨にまいりましたが、あなたは御老体ゆえ、どうか一日も早く、世間へ帰られますようにと、朝夕、御本尊様に、お祈り致しました。しかし、私の信心いまだ足らず、また仏智の広大無辺にもやあらん、昭和二十年一月八日、判事より、あなたが、霊山にお立ちになったことを聞いた時の悲しさ。杖を失い、燈を失った心の寂しさ。夜ごと、夜ごと、あなたを偲んでは、私は泣きぬれたのでございます。
あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで、連れていって下さいました。そのおかげで、“在在諸仏土、常与師倶生”と、妙法蓮華経の一句を、身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながら身読することが出来ました。なんたる幸せでございましょうか……。
この不肖の子、この不肖の弟子も、二か年の牢獄生活に、御仏を拝し奉りては、この愚鈍の身を、広宣流布のため、一生涯を捨てる決心をしました。
ごらん下さいませ。
不才愚鈍の身ではありますが、あなたの志を継いで、学会の使命を全うし、霊鷲山会にて、お目にかかる日には、必ずや、お褒めにあずかる決心でございます」(「人間革命」)
この興奮が、学会のその後の活動のエネルギーとなっていったのである。しかし、戸田は、新しく出発した学会は、どこまでも、若い青年達が中心でなくてはならないと考えていた。戦争中に転向したことを痛切に感じとってゆかないような旧幹部の時代はもう完全に去ったと思っていた。だから、彼は、青年達に非常に期待した。期待した故に、彼等を鍛えることに仮釈しなかった。
戸田に鍛えられた青年達は、次には、折伏活動に挺身した。その中で、彼等がぐんぐん成長していったことはいうまでもない。現会長池田大作もそういう青年達の中の一人てあった。こうして、青年たちが学会発展の基礎をつくっていった。
昭和二十四年七月には機関誌「価値創道」にかわって、「大白蓮華」が出た。
しかし、この間、戸田は、戦争中の彼がそうであったように、戦後も同じように、学会組織活動と事業経営の二つにとりくんできた。そしてその一方の事業経営がうまくいかず、そのために、学会の理事長のポストを矢島周平にゆずらざるを得ないところにまで追いこまれたのである。しかも、この時、窮状にたった戸田を見限って、彼のもとを去る者が次々に出た。こうして彼は人間というものをもう一度見なおさなくてはならなくなったし、同時に、全力を集中して、学会の発展にとりくまなかったことがこの結果を招いたことを知った。
戸田は、この約一年間の苦闘の中で、創価学会の会長として専念する準備をすすめていた。そして、二十五年十一月十二日におこなわれた牧口の七回忌には、亡き師の前に彼の今後の決意を披瀝した。
「想い返せば三十年前、私が数え年で二十一歳、先生五十歳の御年の時、先生にお目にかかりました。それ以来、先生とは、師弟とも親子とも、主従ともつかぬ仲でした。また、四回の先生のご難にお供しました。第一回は西町小学校より左遷の時、第二回は三笠小学校より左遷のとき、第三回は芝の白金小学校より、校長として退職を余儀なくせられた時であります。第四回目は昭和十八年、軍部の圧力により、法のため、巣鴨拘置所にお供した時であります……。
先生のお葬式はと聞けば、学会の同志三名と外一、二名。しかも、巣鴨から、先生の遺体を背負って帰ったとか。その時の情なさ、くやしさ。世が世なりとも、恩師の死を知って来ぬのか。知らないで来ないのか。“よし、この身で、必ず、法要をしてみせるぞ”と、誓った時からの私は、心の底から生き甲斐を感じました。
先生の生命は永遠です。先生は今、どこにおられるか。猊下の御導師により、門弟らがともどもに唱える題目、先生はこの仏事につながっております。ここは寂光土です。先生の生命は忽然としてここに現われております」
それは、生命のあらん限り、広宣流布にむかって、邁進するという誓いであったということも出来る。
戸田がその決意に従って、自ら会長に就任したのが昭和二十六年五月三日。十三日には、
「一国大折伏の時機である」といいきった。彼が大勇猛心をふるいおこして、一国折伏の大目的にむかって歩みだしたことを意味する。
その直後に出した「青年訓」には、
「新しき世紀を創るものは青年の熱と力である……青年諸氏よ、闘おうではないか」と訴えている。青年部を中心とした折伏活動は、これより一段と熱をおびてくる。
昭和二十七年四月には、青年部は、かつて、日蓮正宗を神道のもとに屈伏させ、恩師牧口逮捕のきっかけをつくったといってもいい小笠原慈聞を牧口の墓前で謝罪させるということもやっている。
昭和二十八年七月には、青年部の幹部四十三名を以て、水滸会をつくり、さらに、女子幹部で華陽会をつくり、特別指導をはじめた。会員一人一人が署名捺印した宣誓文には、つぎのようなことが書かれていた。
一 われら水滸会員は、宗教革命にこの身をささげて、異体同心にして、東洋の広宣流布の大偉業を完遂せんことを、大御本尊様にお誓いいたします。
一 われら水滸会員は、戸田城聖先生の大目的たる人類救出の御意志をうけつぎ、その達成には、身命をささげて戦い抜くことを誓います。
一 われら水滸会員は、学会の先駆であるとともに、戸田会長先生の無二の親衛隊なることを自覚して、いかなる事態になろうとも、かつまた、いかなる戦野に進もうとも、絶対に同志を裏切ることなく、水滸会の使命をまっとうせんことを誓います。
水滸会は月二回の会合を開き、戸田を中心に、人生、社会、国家の諸問題を討議し、翌年九月には、戸田を囲んで、奥多摩でキャンプをしている。
その夜、戸田は訴えた。
「諸君! 広宣流布は二十数年にて必ず遂行する。私の真の弟子であるならば、最後まで続け。三類の強敵の嵐は、いよいよ、はげしくおそいかかってくるであろう。
しかし、断じて負けてはならぬ。日本の救済も、東洋の救済も、日蓮大聖人の生命哲学以外に、絶対にないのである。諸君よ、良く学び、自己を研鑽してゆけ。私は諸君を信頼している。広宣流布の実現の夜あけのときに、十年たったら、もう一度、この地に集まれ。その時に諸君に頼むことがある」と。
こうして、青年部は、ある時は、学会の尖兵となり、ある時は、学会の中核となり、さらにある時は、学会の頭脳となって活躍した。学会が世の中から異常と思われるほどに組織がすすみ、発達していったのも当然である。
しかも、この世界には、世の中一般で尊重され、重視される学歴とか家柄とか富とかは殆んど通用しなかった。すべては、彼等自身の実力がものをいった。それも、世の中で通用しているような記憶力、理解力などを中心にした学校秀才的な能力でなく、人間としての全人的能力であった。いいかえれば、広宣流布に必要な能力、実力であり、利善美の価値の創造の能力、実力である。ということは、記憶力、理解力以上に、事実を認識し分析しそこから推理し判断する力であり、更には、それに即して実践してゆく行動力、活動力ということになる。
生命力や魅力や統率力である場合もある。いずれにせよ、こういう能力、こういう実力が評価されるところには、最も青年らしい青年が集まってくる。その青年を鍛え、思う存分に、その力を発揮させたところに、創価学会の発展の秘密がある。
日蓮は、その思想、その信仰の中心に、民衆をどうやって救うか、日本をどのようにして正しい国とするかという問題をおいた。彼の関心はそれに尽きていたといってもいい。だからこそ、当時の政治権力に向かって、どうあるべきか、どうすべきかということを堂々と直言したし、正しい国にならないなら、外国の攻撃をうけて亡んでもやむを得ないとさえ断言したのである。彼は、正しいことの行なわれないような国よりも、むしろ、亡国をえらんだのである。それが、彼の国を愛するということであった。その意味で、日蓮の思想と信仰は、すぐれて政治的なものであったということができるし、政治権力を正しく指導しようという視点を喪失すれば、それはもう、彼の思想と信仰を継承し発展させたものということは出来ない。
牧口はそのことを学び、知っていた故に、戦争中、国家諫暁にむかってたちあがり、終に獄死したのである。時の政治権力との対決は、日蓮の思想と信仰を受けつぐ限り、いやおうなしに直面しなければならないものである。
だから、戸田が、昭和二十四年一月の衆議院選挙をみながら、周囲にむかって、
「いずれは、われわれも選挙で戦わねばならぬ時がくる、今のところ、拝んで折伏すれば、それで信心は完壁だと思っているだろうが、また、それが根本なことに間違いないが、それだけではすまなくなる時が必ずくるだろう。政治は好きだとか、きらいだとか言っておれない段階が必ずくる。ぼくは政治は好かん。だが、大聖人の御遺命であってみれば、そんなことは言ってはおれない。御書にちゃんとあるからだ。広宣流布の最終段階では、いかにすべきかをちゃんとお認めになっている。それを拝読し、現代の国家組織を考えていくと、どうしても、まず、政界に進出せざるを得ない」
と語り、昭和二十五年、「大白蓮華」七号に、
「ただ悲しみと苦しみが一国に充満し、業を失い、業に従うものも楽しむことができない。平和と幸福と希望を失った民衆ほど、哀れな存在はないと思う。国民に耐乏生活を求めるなどということは、言葉では立派であるが、これが国民生活にあらわれる時には、種々な悲劇を生み出す結果となる。政治を執る者もその時代としてやむなき事情にあり、それ以外に方法はないとするなら、その民衆も宿命的なものとする以外はあるまい。
しかし、この劣悪な政治を、吾人はその時代を忍ばねばならぬとしても、それでよいとして泣き寝入りすることは出来ない……。
慈悲の理論が王法に具現するならば、前に述べたような劣悪はなくなるものである。政治史において我々が尊敬をはらう政治は、その政治を執った人たちが、仏法を知ると知らずとに関せず、仏法の極意が王法に具現されたのに他ならない。
この理論を、大聖人様が、次のように仰せられているのは、政治の極意を喝破せられたものである。
“王法仏法に冥じ、仏法王法に合す”
この一句のお言葉は短いけれども、政治を執るものの心すべき事柄ではないだろうか。また、仰せには、
“大衆一同の異の苦しみは、日蓮一人の苦しみ”と。
慈悲の広大をうかがえるとともに、政治の要諦は、この一言に帰するのである。わが国において、何時の日にか、正しく王法仏法に冥じ、仏法王法に合する時が来るであろうか」と書いたのも、全く当然であったのである。
しかし、戸田のこの立場は、日蓮の思想と信仰を更に発展させ、明確にしたものであるといってもいいものであった。しかも、学会は、これ以後、戸田を中心に、学習を本格的に始めた。彼等の学習は、数年間も着実にすすめられたのである。
学会が初めて、地方選挙にのりだしたのは昭和三十年四月、理事長の小泉隆が都議会議員になったのをはじめ、合計五十二名が当選した。翌年七月の参議院選挙には、「税の合理化、公明選挙、一千万移民、政治、労政の明朗化」をかかげて戦った結畢、辻武寿たち三名が当選した。
昭和三十二年九月八日、横浜三ッ沢グランドで行なわれた第四回東日本体育大会で、原水爆問題について、初めて、戸田は所信を表明した。原水爆問題が日本国民にとって最大の政治問題の一つであることはいうまでもない。
「核あるいは原水爆弾の実験禁止連動がいま世界におこっているが、わたしはその奥にかくされているところのツメをもぎとりたいと思う。それは、もし、原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものはことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。
なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利を持っております。その権利をおびやかすものは、これまものであり、怪物であります……。
たとえ、ある国が原水爆を用いて、世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、まものであるという思想を、全世界にひろめることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります……」
戸田は、原水爆禁止、原水爆絶対反対という考えを全世界にひろめていくことが先決であると主張したのであり、原水爆に対する基本的考え方を確立していくことから始めなくてはならないと言いきったのである。こういう考え方を確立しようとしなかったところに、原水爆禁止運動がその後、いくつにも分裂したのである。彼はそのことを見透していたということもできるし、原水爆禁止という政治問題も、まず思想的姿勢、政治的立場を正さないかぎり、どうにもならないということを知っていたのである。
誰のための原水爆禁止かということを離れて、唯単に、政党間の政治的取引きにつかわれる原水爆反対など、全くナンセンスだと彼は考えていたのである。このことは、彼が、民衆のための政治、民衆の幸福と繁栄のための政治を心から望んでいたことを如実にしめしている。
しかし、戸田は、学会の政治路線を明確にうちだすところまでゆかないまま、その翌年の四月二日、その生涯を閉じた。彼の死は、学会にとって、一つの危機であったが、小泉隆理事長を中心によくまとまっていったということがいえる。ことに、池田大作総務は、青年部の組織を基盤に、精力的に学会の勢力拡充にこれまで以上にとりくんだ。
昭和三十四年四月二十三日、都道府県議選五大市議選には二十三名が立候補して十四名当選、三十日の地方市議選には二百十一名中百八十五名が当選し、区議には七十四名の全員が当選した。飛躍的な伸びをしたことになる。
更に、六月三日の参議院選では、六名立候補し、全員当選するという快挙をやってのけた。池田はその勝利の翌日に行われた幹部会の席上で、「いよいよ広宣流布の機が熟して、自民党でもあきたらない、真実の正義の団体、大衆を救っていく団体、なにものかを求めている大衆の心が日蓮正宗創価学会を認識しはじめたことであります」
と挨拶した。
それを証明するかのように、翌昭和三十五年の安保問題をめぐる激動期には、自民党政府の協力要請を拒否している。なお、池田はその年の五月三日、第三代会長に就任し、この拒否はその直後のことであった。
昭和三十六年五月三日には、新たに文化局を設け、政治進出の基盤をいよいよ拡充するという路線をうちだした。池田の“文化局の使命”と題する論文は、そのことを明らかにしている。「現代の民主政治ほど政治が民衆の生活に反映する時代はない。政治は人であり、技術である。したがって、政治家のいかんが、社会の福祉を左右し、幸不幸を決定するといっても過言ではない。
しかるに、現代日本の政治界に、国民百年の大計を有するものがはたしているであろうか。私利私欲にとらわれ、大局をみることなく、いたずらに反目しあい、小才を弄し、国民の憂いをよそに、自己の栄達のみを夢みるものの充満していることは、衆知の事実であり、政界の堕落ここに極まれとりいわざるを得ない。
“青年よ、心して政治を監視せよ”とは、恩師の国を憂うる心からの叫びであった。吾人はこの現状をみて安閑としているわけにはいかない。他に人はいないのだ。世のため国のため立ちあがるのは、われらを措いて他にはいないのである。われらは、けっして宗教家ではない。われらこそ、国士であるからである。
巷間、宗教団体が政治に関与することに、いろいろな批判があるが、これは大きな誤りである。
“法妙なるが故に人貴し”の御金言どおり、正法によって生命力豊かに、人を救う慈悲の心をもった、有能にして高潔な人材がぞくぞくと政界に進出して、初めて幸福な社会が建設できるのである。
しょせん、王仏冥合の実践の関所ともいうべき選挙戦は、日蓮大聖人の至上命令である。だれが、なんと批判しようが、末法の救世主日蓮大聖人の大精神をば、われわれ地涌の菩薩は、断乎、選挙をとおして貫きとおそうではないか」
ここにある思想は、政治にとりくむ姿勢と覚悟を述べたもので、その意味では政治哲学ではあるが政策論ではない。しかし、今日最も必要なのは、その政治哲学であり、政治を根本的に再検討する姿勢である。それをぬきにした政策論、技術論は、それがすぐれたものであればある程、庶民の幸福から縁遠くなる。庶民の生活から遠ざかっていく。
だから、池田は「学会はナチス・ドイツのようになるのではないか」という批判に対しても、あまりに学会を知らなさすぎる批判だと一蹴する。学会は、あくまでも真実の平和、人々の幸福をひとしく求めている日蓮の仏法を基本にしていることを知らないための批判だと弾劾する。
文化局が公明政治連盟に発展したのが昭和三十六年十一月。翌一月七日には、基本要綱として次の三つをかかげ、
一 現今の政界は保守・革新を問わず、派閥抗争に明けくれ、党利党略を重んじ、日本国民の福祉を忘れ、大衆とまったく遊離しつつあることを深く憂うるものである。
一 公明政治連盟はこれらと本質的に異なり、「社会の繁栄が即個人の幸福と一致する」諸政策を推進し、日本国民の真の幸福と繁栄のみならず、広く世界人類の永遠の平和実現を期するものである。
一 われらの政治理念は、日蓮大聖人の立正安国論の精神を根本とし、その最高の哲理と最大の慈悲を基調とし、近代的にして、もっとも民主的な政治団体としての活動を行なうとともに、いっさいの不正に対し厳然たる態度を明確に行なうことを公約する。
基本政策としては、核兵器反対、憲法改悪反対、公明選挙、政界浄化をかかげた。
昭和三十七年七月の参議院選には、九名が当選し非改選議員とあわせて十五名となり、院内交歩団体としての地位を確立した。輝やかしい発展ということができる。しかし、九月十三日の「公明政治連盟」の第一回大会の席上で池田は、
「皆さん方が一流の名士となり、派閥や反目がもし毛すじでもあったならば、即座にわが政治連盟は大衆の政治団体ではない、そういう資格のないものとして、解散を私はすべきであるということを、本日第一回の大会において、いい残しておきたいのであります」
と、将来を厳重にいましめたのである。
昭和三十九年十一月には、公明政治連盟が公明党に代わり、綱領には、
一、王仏冥合と地球民族主義による世界の恒久平和
二、人間性社会主義による大衆福祉の実現
三、仏法民主主義による大衆政党の建設
四、議会制民主主義の確立
をかかげた。
地球民族主義とか、人間性社会主義、仏法民主主義などの新造語を次々につくりだした学会は、その語のもつニュアンス、イメージは定かであったが、その思想内容は必ずしも十分ではなかった。また、短日月の間に、究明されるほどに容易なことではなかった。
池田が、公明党の発足前に「創価大学」の設立構想をその六月に発表したのも、おそらく、そのことを十二分に意識したためであろう。彼は、学会公明党によって、世界広布を闘いとろうとすれば、どうしても、「創価大学」をつくり、そこで、時間をかけて、じっくりと地球民族主義、人間性社会主義、仏法民主主義を究明し、構想する以外にないことを知っていたに違いない。
それはともかくとして、公明党は、昭和四十二年の衆議院選挙に二十五名当選させ、政治の舞台にのりだした。
竹入義勝公明党委員長は、昭和五十二年までに、百四十議席を確保したいと意気盛んなところをみせている。
池田が創価大学の建設を明らかにして後、大学建設の構想は着々と進められ、昭和四十年十一月には、「創価大学設立審議会」が発足、昭和四十三年には、創価中学、高校も、大学の開学に先だって出発した。
昭和四十四年四月二日には、創価大学の起工式も挙行され、昭和四十六年の開学が明確にうちだされた。
その設立趣意書には、
「現今の大学では、教育がマスプロ化し形式化して、教授と学生との人間関係はますます疎遠の度を深め、教育による人間形成に、十分の効果をあげることができなくなりつつある。
このような貧困な教育による人間形成の荒廃した状態が、社会の各層に種々の深刻な問題を惹起させる原因とさえなっている。
ここにおいて、大学が人間形成という教育本来のあり方を回復することを、今日ほど強く要望されている時代はない。創価大学はこのような時代の要望に応えて、創価学会会長池田大作先生によって提唱された人間性尊重主義に立脚した教育を行ない、最高の人間形成を図るとともに、深い学識と豊かな教養を身につけ、健康で英知にあふれた創造力豊かな人材を育成することを目的としている。
このような画期的な教育によってはじめて、文化の向上発展と社会福祉の建設に寄与できる有為な人材を育成することができるのである。
やがて、このキャンバスからは、二十一世紀への未来にむかって、新しい文明を建設する担い手たちが、陸続として輩出するであろう」
と書いているが、起工式当日には、とくに、岡安同大学準備財団事務局長が、
「創価大学は理想の人間教育の原理を説きあかした牧口初代会長の創価教育学説を具現化し、二十一世紀を担う、豊かな創造力と最高の学識をそなえた人材の育成をはかっていくものである」
と述べ、辻武寿総務は、
「今日の日本の教育のゆきづまりは、牧口先生の教育思想をとりいれなかったところにある。創価大学は、先生の価値論にもとづいた人間性豊かな価値創造の教育をする所であります。」
と挨拶し、牧口と創価大学の関係を明らかにしている。
池田も、そのことを次のような言葉で強調している。
「教育は、次代の日本を、世界の動向を決定していく、最も重要な事業であります。しかし、これまでのわが国においては、政治家や指導者達は、あまりにもこの問題に対して無関心であった。のみならず、かえって教育を政争の具にしようとして、種々の干渉が強化されていく前兆すらみうけられるのであります。このままでいけば、大学教育はますます、権威を失墜し、混乱し、無力化していく以外にないと思います。
ここに、理想的な教育のあり方を具現し、ひいては、教育界の姿勢を抜本的に正していく資格と使命をもったものこそ、初代牧口会長、戸田前会長よりの深い思索と実践の伝統に生きたわが創価学会員であると確信せざるを得ないのであります。特に大学は、一国の文化の母胎であり、民族の精神文化の結晶でなければなりません……。
真に望まれる人材とは、高い理念をもった、優れた人格者であり、豊かな個性をもち、技術、学術を使いこなしていける創造的な人間であると考えますが、いかがでしょうか。
ここに、日蓮大聖人の立正安国の精神、色心不二の大哲学を根柢とした創価大学を私どもの手で設立することの意義が、いかに大きいかということを知っていただきたいのであります」
要するに、これは、創価大学と牧口の関係がいかに深いかを証明している。
牧口は、生前、息子の妻貞子にむかって、何度か、「戸田君が必ず創価大学をつくってくれる」と語っていたというが、創価大学をつくるということは、彼の念願であったのである。今、戸田によってでなく、戸田の愛弟子である池田によってではあるが、創価大学がつくられるということを彼はどんなに喜んでいることであろう。
牧口と戸田がそれをつくらしたといっても過言ではあるまい。
日蓮、牧口、戸田の思想にもとづいた大学、それを具体化した大学というだけで、それ以上のことは、外部の者にはあきらかにされていない。しかし、非常に独創的であった牧口、また、それ故に、個性的な思想をつくりだすことに成功した牧口である。第二、第三、第五の日蓮、牧口が生まれるような大学をぜひつくるべきである。それが、池田の痛切な願いでもあろう。
以下、牧口の思想との関連の上から創価大学はどういうものであり、またどういうものであるべきかについて考えてみたい。だが、そのことを考える場合、まず忘れてならないこと、銘記しておかなくてならないことは、日蓮にしても牧口にしても、その思想を矮小化して理解してはならないということであり、そのためには、日蓮や牧口がその時代と思想をどのように受けとめようとしたか、そして、それらをふまえて、当時の人々をどのようにして救おうとしたかということを自由にしかも大胆に究明するということであり、それが今日の時代では、どういう意味をもち、さらに、日蓮や牧口が生き、考えたことは、今日ではどう生き、考えることかを思う存分に考え、追求しなくてはならない。
普通ともすると、日蓮や牧口を尊敬し、私淑するといいながら、日蓮や牧口の思想内容にだけ関心を払い、それを理解することだけに一生懸命になり、彼等が生き、考えたところのもの、とくに、その思想内容を生みだした思想方法を徹底的に学ぼうとしない。それに、彼等の思想を正しく理解しようしたら、彼等の思想を読んでいくだけでは駄目である。それこそ、広く深く、学習し、思索して初めて、その思想の偉大さも価値もわかるというものである。
そうでなければ、彼等のエピゴーネンは生まれても、エピゴーネンになることはできても、彼等の思想を本当に理解し、発展させることはできない。日蓮にしても、また、牧口にしても、自分達の思想を正しく継承するだけでなく、現代の人々にあうように、正しく発展させることを切望しているはずである。
日蓮が日蓮正宗をつくることができたのも、釈迦の教えをうけつぎながら、鎌倉時代の人々を救えるように、鋭く追求し、激しく究明した結果である。今日、池田が地球民族主義とか、人間性社会主義とか、仏法民主主義といっていることも、日蓮の思想を今日的課題に即して、思いきって発展させようとしていること以外にはない。
今日、創価大学に学んで、最高の英知を志向する者に、最も必要なものはかつて、牧口が学び、牧口が思考したことを現代の思想状況の中でやってみるということである。牧口がくりかえし警告したように、他人の成果を安易にぬすむという態度をとらないことである。それが、大学に学ぶ者の最低の条件であるし、日蓮や牧口の思想をさらに発展させていける者である。第二、第三の牧口になるということは、大変厳しく、非常に至難なこと、しかし、創価大学は、牧口は、それを学生たちに求めているのである。いいかえれば、その課題にとりくむ学生だけが、創価大学の学生の名に価すると思っているのではあるまいか。その意味で、創価大学の学生たることは大変である。しかし、青年としてこれほどやり甲斐のある、生き甲斐のあることはなかろう。
だから、創価大学に入学を許されるものは、こういう自覚をもち、その課題にたちむかうものでなくてはならないし、したがって、入学試験方法も自ずと、従来の高校における学力評価だけにたよるということはやめなくてはなるまい。人間としての全的能力を評価する方法が、ここでは考えられなくてはならない。ことに、牧口は、学問は庶民大衆のものであり、庶民大衆の誰でも学問はできるものと考えていた。そのことと最高の英知を志向する人間との関係をどのように考えていくか。
このようにみてくると、創価大学の前途には、解決しなくてはならない難題が山積しているということになろう。
次に教授内容であるが、今日の大学紛争の一つの原因であり、全学生に評判のわるい一般教育の内容において、創価大学は、今日の大学のなかで最もユニ一クなものになり得ると思われる。それは一言でいえば、学問、思想としての仏教を根柢にすえるということである。学問、思想としての仏教はごく常識的に考えられている宗教でもないし、まして、キリスト教や回教と並存する一宗教でもなくて、それは、人間、社会、自然を究明する綜合の学であり、統一の学であるということである。そして、本来、綜合の学、統一の学を志向していたものが仏教であったのに、学問が分化し、諸宗教が並存するようになると、いつのまにか、宗教という狭い枠の中にはめこまれ、それに安住するようになってしまった。
それは主として、職業的宗教家である僧侶がなまけて、時代の推移、発展とともに、仏教を充実させるために努力してこなかったためであるといってもいいすぎではなかろう。今日的言葉でいうなら、仏教は人文科学、社会科学、自然科学を総合、統一したものということになる。更には、総合、統一していこうとする全体の学であるということができる。
ということは、今日の大学において、一般教育として行なわれている人文科学、社会科学、自然科学を人間の学問、人間のための思想として統一し、関連づけうるということであり、現行の大学の講義にみられるように、各個ばらばらであるばかりか、人間の学問、人間のための思想という観点が欠如しているという学生側の不満も解消するであろう。
なんのための学問かという視点と姿勢が喪失している今日の学問を、学問本来の視点と姿勢をもつものにすると同時に、個別科学、専門科学に分化してしまって、学問としての機能を失い、逆に、人間を支配し奴隷化している学問を本来の学問に復権させるには、学問、思想としての仏教を根柢にすえるしかない。勿論、他の大学が、何を根柢にすえるかということは別問題で、ある大学は人間学を、またある大学は哲学をおくかもしれない。しかし、それを考えるところにきている。
創価大学には、そういう使命と役割りがある。それが牧口の期待にこたえる大学である。
しかも、牧口は「価値論」を書いた。それは、利、善、美の価値を述べたものであり、今日の大学制度に則していうなら、利的価値を追求する学問は経済学であり、経営学、理学、工学、農学、薬学、医学であり、善的価値を追求するのは法学であり、社会学、歴史学、民俗学、人類学である。そして、美的価値を究明するのは、美学、文学、音楽、絵画などである。
牧口の「価値論」に即した学部学科の編成を考えてみるということも必要なことではなかろうか。従来の方式に従った学部、学科の編成では、牧口が悲しむのではないか。
それに、戸田は「生命論」を書き、池田は、「政治と宗教」「科学と宗教」などを書きつづけている。それらが、一般教育の基礎的で、重要な講義題目であることはいうまでもない。人文科学、社会科学、自然科学を仏教の観点で統一総合するといったが、牧口の「価値論」で、戸田の「生命論」で、池田の「政治と宗教」「科学と宗教」で、諸学を統一総合していこうとすることは大切である。
そういう学問的姿勢と方法を身につけたものが、初めて、地球民族主義、人間性社会主義、仏法民主主義の理論化もやってゆけるし、牧口、戸田、地田をのりこえていく者も遠い将来に出現するということができよう。
こういう学風をつくったとき、創価大学は真に、創価大学の名にふさわしい大学になるときである。牧口が望んでいるのは、そういう大学である。そして、それが、そのまま、今日の大学間題を解決する方向に、大きく一歩をふみ出すことになろう。
牧口が以上のような学問観、教育観に到達したということは、全く驚くべきことであるが、それは、既に書いてきたように、彼が生まれ、育った自然と社会を素直に観察すると同時に、人間と自然、社会の相関関係を正確に凝視した姿勢から生じたものである。一人の生活者が自己と社会に忠実に生きようとした結果、ゆきついたものということも出来る。
だからこそ、人生のための自然、人間のための社会という、当時としては全く独創的な視点にたつ「人生地理学」を書くことも出来たのである。このことは、牧口だけでなく、誰でも、彼のように素直に生き、自己と自然、社会の関係を正確に観察していこうとするなら、到達できる学問観であり、教育観であるということをしめしているし、彼自身、郷土科の中で明言したことでもある。
しかし、ここで忘れてならないことは、牧口が師範学校を変則的に卒業した者であり、生涯、地理学という専門科学にのめりこむことのなかったアマチュア学者、アマチュア思想家として通したということである。即ち、正規の大学教育を受けることによって、意識的にも無意識的にも、その学問観に拘束されることなく、純粋に大学と学問を凝視することができた。いいかえれば、学問の基本的姿勢である独学、自学を容易に自分のものにし、その立場を徹底することができたということである。
しかも、彼は、独学者が往々陥いる安直な自己満足、安易な自己肯定を徹底的に拒否して、自分の思想を豊かにすることに終始した。自己否定に徹した。
とすれば、そこに、独創的で、創造的な思想が生まれたとしても不思議ではない。それこそ、独学者、自学者である牧口の真骨頂である。
それに、明治、大正という時代情況は、学校制度がいまだ十分に、整備されないこともあって、アマチュア時代であると強調する人々がいたということも、牧口に幸いした。
即ち、明治三十年代には、島崎藤村が、
「アマチュアは終生の初歩なり、無限の人間なり」と書き、大正時代には、木村荘八が「大正時代は日本文化におけるアマチュア参加の時代だ」ということを書いたという。
このアマチュアの精神と姿勢こそ、専門科学に埋役し、それに安住することを防ぎ、常に、出発点にたって全体的総合的にみる視点をいきいきと持たせてくれるものである。自己過信に酔うことのない姿勢、限りなく追求し、学んでいこうとする姿勢である。
牧口は、これらの言葉に刺激されて、「人生地理学」を書き、「郷土科研究」「創価教育学体系」を著したともいえる。それに、「人生地理学」という名著を書きあげながら、地理学者という専門家にもならなかった。厳密には、専門家として、世の中が、学界が認めてくれなかったのであるが、そのことが、逆に、彼をユニークで、卓越した思想家に育てあげることになったのである。
今日もまた、明治三十年代、大正時代にまさるとも劣らぬアマチュアの時代である。すべての価値観が崩解し、その新しい確立が切望されている時代である。その時、新しい価値の追求と創造に大胆にとりくめる者は、自らアマチュアを名のり、アマチュアを自認し、その姿勢をおしとおすことの出来る者だけである。
その意味からも、今日、牧口の人と思想を省みることの意味は大きい。牧口のアマチュア精神と姿勢を日本の思想界によみがえらせることが焦眉の急である。
ことに牧口は、晩年になって、「創価教育学体系」の著述に精力的にとりくんだが、それは当然彼のこれまでの思索と生活の集大成ともいうべきものであった。彼はそこで、人間は、美、利、善の価値を追求し、創造するものであり、教育は、美、利、善の追求、創造を志向する人間を育成すること以外にはないといいきった。しかも、利的価値は善的価値、美的価値の基礎であると断定した。これは、従来、人間が利的価値に最大の関心を払いながら、利的価値に無関心な態度を装い、かえってそれを軽蔑するという姿勢をとっていたのをやめて、それを率直に求めさせようとした。教育界というところは、最も、この虚偽性が強く、利的価値を蔑視するという風潮をもっていたから、彼が、大胆に利的価値を標傍したということは、非常に革命的なことであった。
といっても、利的価値をいうこと自身、ごく自然のことであり、当り前のことであった。しかし、牧口の独自性はその利的価値に、善的価値、美的価値を裏づけ、人間の創造すべき最高価値は、美、利、善の価値が総合され、統一されたものであるといったことである。
当時、すでに日蓮正宗の信者であった牧口は、美、利、善の統一された最高価値が法であり、理法であると考えたのである。法、理法の内容を今日的に分析したとき、美、利、善になったといってもいい。かつて、日蓮が当時の法は法華経であるといいきったように、彼は、現代の法は美、利、善であり、美、利、善の統一された価値であると思いいたったのである。
更には、美、利、善の統一された最高価値を人間が追求し、創造しはじめるとき、人間間の、民族・国家間の、階級間の対立、争闘も徐々に消滅していくと考えたのである。だが、現代社会の中での美、利、善が具体的に何であり、何でなくてならないかという究明は、むしろ、牧口が、彼の死後に残した課題であった。それは、彼の「創価教育学体系」が第四巻までで終わり、第五巻以後を、その弟子たちに与えた課題と同じである。
とくに、牧口が、善を大善、中善、小善と分類して考えたように、利と美にもそれぞれ三種類ある筈であるし、その九種類の美、利、善の相互関係が今後究明される必要がある。その時、現代の社会、経済機構の中で、それを肯定したまま、小利即ち私利を追求することは、美や善と相反すること、大利を追求するということは、庶民大衆皆のためであるということであれば、現代の社会、経済、政治機構の中では、大利を創造するということはできないということにもなる。いいかえれば、美、利、善の統一された価値観にたつということは、大美、大利、大善の価値観にたつということであり、それは、今日通用している価値観を否定し、その価値観に支えられて成立している今日の社会、経済、政治機構を否定して、全く新しい価値観に支えられた、社会、経済、政治機構を造るということである。
それ以外に、大美、大利、大善の価値観は確立しない。結論的にいうなら、牧口の価値観は真正面から、今日の社会、経済、政治機構と対立するものであり、また、それ故に、現体制の政治権力のために、彼は獄中で殺される運命を辿るしかなかったのである。
それは、牧口の思想が今も燦然とひかり輝やいているということであり、その思想の有効性が現在から将来にわたってあるということでもある。
だから、牧口の思想を継承し、発展させるということは非常に困難な作業である。ことに、牧口の思想だけを読み、牧口の思想を絶対化するところには、彼のエピゴーネンが生まれるだけである。それほど、彼を悲しませるものはあるまい。
今こそ、牧口とその思想が現代にもつ意味を十二分に究明し、その思想を発展させるときである。それが牧口の心に答える現代人のつとめである。それは、牧口を初代会長に仰ぐ創価学会のみでなく、現代に生きる人々の課題でもある。牧口とは、そういう思想家である。
年 |
月日・牧口関係の事項 |
教育・文化 |
政治・社会 |
明治 4 |
6・6 新潟県刈羽郡荒浜村渡辺長松の長男として生まる |
7・18 大学を廃し文部省が設置される |
7・14 廃藩置県が行なわれる |
5 |
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1 福沢諭吉「学問ノススメ」第一編刊行 |
新戸籍簿作成 |
6 |
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1・4 徴兵令頒布 |
7 |
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7・25 小学教員免許規則を定め検定による教員資格を得る方途を開く |
2・4 佐賀の乱おこる |
8 |
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11・29 新島襄同志社英学校を開く(後の同志社大学) |
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9 |
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8・14 札幌農学校開く |
10 熊本神風連・秋月、萩の乱次々におこる |
10 |
5・9 牧口善太夫の養嗣子となる |
4・12 開成・医学の二校を合せて東京大学となる |
2 西南の役おこる |
11 |
この頃小学校に通う |
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12 |
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9・25「学制」を廃し「教育令」を定める |
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13 |
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9・12 東京法学社設立(後の法政大学) |
4・5「集会条令」を公布 |
14 |
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1・17 明治法律学校開く(後の明治大学) |
10・12 明治二十三年に国会開設の詔書発布 |
15 |
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10・21 大隈重信・小野梓ら早稲田大学の前身東京専門学校を開校 |
10・11 福嶋事件おこる |
16 |
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4・16 新聞紙条例改正 |
17 |
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3・26 東京商業学校開く(後の一橋大学) |
9・23 加波山事件 |
18 |
この頃、北海道に渡る |
12・22 森有礼が初代文部大臣となる |
12・22 大政官制を廃し、内閣制度を確立する(第一次伊藤内閣) |
19 |
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3・2 帝国大学令を公布東京大学は帝国大学となる |
5・1 第一回条約改正会議を開く |
20 |
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12・26 保安条例を公布 |
21 |
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22 |
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2・11 大日本帝国憲法発布 |
23 |
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10・30 教育に関する勅語発布 |
24 |
2・26 牧口家の本籍を北海道小樽郡勝納町四二に移す |
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5・11 大津事件起こる |
25 |
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26 |
1・11 名を常三郎と改める |
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27 |
同校助教諭兼訓導となる |
5・10 内村鑑三「地理学考」発表 |
8・1 清国に宣戦布告(日清戦争) |
28 |
この頃牧口熊太郎二女クマと結婚 |
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4・17 日清講和条約調印 |
29 |
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30 |
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5・4 道府県に地方視学を置く |
8〜11 石川、長野、新潟、富山などに米騒動おこる |
31 |
1・2 長女ユリ生まれる |
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32 |
3・29 長男民城生まれる |
4 日本歴史地理研究会創立 |
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33 |
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9・14 津田梅子が女子英学塾を開く(後の津田塾大学) |
3・10 治安警察法公布 |
34 |
4・18 北海道師範学校教諭兼舎監を退職、上京 |
2・3 福沢諭吉没(六十八才) |
12・10 田中正造、足尾鉱毒事件を直訴 |
35 |
8・4 二男善治生まれる |
12・17 教科書疑獄事件検挙始まる。この年、小学校就学率90%をこす |
1・30 日英同盟協約調印 |
36 |
「人生地理学」刊行される |
3・27 専門学校令を公布 |
4・21 柱首相、伊藤博文、小村外相、山県有朋ら対露策を協議 |
37 |
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4 全国小学校で国定教科書の使用はじまる |
2・10 ロシアに宣戦布告(日露戦争) |
38 |
2・20 二女イズミ生まる |
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9・5 日露和平条約調印 |
39 |
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6・9 文相、学生の思想・風紀振粛について訓令 |
2・24 日本社会党第一回党大会 |
40 |
4・8 三男洋三生まれる |
3・31 小学校令を改正、義務教育年限を尋常小学校六年とする |
2・4 足尾銅山に暴動おこり軍隊出動 |
41 |
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10・13 戊申詔書発布 |
42 |
2・2 東京市富士見尋常小学校訓導となる |
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43 |
4・23 同校を退職 |
6・14 柳田国男「遠野物語」 |
6・1 幸徳秋水逮捕(大逆事件) |
44 |
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1・18 大逆事件の判決・幸徳ら十二名死刑 |
45 |
11 「郷土科研究」刊行される |
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7・1 米価暴騰 |
大正 2 |
4・4 東京市東盛尋常小学校訓導兼学校長となり東京市立下谷第一夜学校長を兼任 |
3・10 柳田国男、高木敏雄ら郷土研究(月刊誌)創刊 |
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3 |
1・20 三女ツナ生まれる |
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8・23 ドイツに宣戦布告(第一次世界大戦に参加) |
4 |
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1・18 中国政府に二十一ヵ条の要求を提出 |
5 |
5・2 東京市大正尋常小学校長を兼任 |
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6 |
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9・21 臨時教育会議開かれる |
この年ロシアの改革おこる |
7 |
2・4 長女ユリ小栗誉次と結婚 |
4・30 東京女子大学開校 |
4・17 軍需工業動員法公布 |
8 |
2・16 四女きみ生まれる |
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パリ講和会議開かれる |
9 |
戸田城聖と出会う |
1・10 東大森戸辰男助教授事件 |
この年普選運動さかん |
10 |
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4・15 羽仁もと子自由学園を創立 |
この年全国的にストライキ多発246件、5万8千余人 |
11 |
1・26 養母トリ死亡(七十九才) |
|
2・6 ワシントンで海軍軍縮条約調和 |
12 |
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8・3 下中弥三郎、野口援太郎ら新しい教育運動の企画 |
9・1 関東大震災 |
13 |
12・11 二男善治死亡(二十三才) |
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14 |
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3・1 日本地理学会創立 |
4・22 治安維持法公布 |
15 |
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12・25 大正天皇没 |
昭和 2 |
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3 金融恐慌 |
3 |
7・18 四男長志死亡(十九才) |
4・17 文部省学生生徒の思想傾向の匡正を訓令 |
2・20 初の普通選挙行なわれる |
4 |
5・31 長男民城死亡(三十一才) |
4・8 小原国芳玉川学園創立 |
11・21 金解禁の大蔵省令公布 |
5 |
11・18「創価教育学体系」第一巻出版される |
3・28 内村鑑三没(七十才) |
4・22 ロンドン海軍軍縮条約調印 |
6 |
3・5 「創価教育学体系」第二巻出版される |
8 新興教育弾圧される |
9・18 満州事変おこる |
7 |
7・7 退職 |
8・25 新興教育研究所解体して新興教育同盟準備会となる |
1・28 上海事変おこる |
8 |
「郷土科研究」改訂版出版 |
2〜4 長野県下で教員など138人検挙(長野県教員赤化事件) |
3・27 国際連盟を脱退 |
9 |
6・20 「創価教育学体系」第四巻出版される |
4・3 全国小学校教員精神作興大会を開催 |
4・18 帝人事件 |
10 |
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8・20 柳田国男・小林正照編「郷土生活の研究法」 |
2・18 美濃部達吉の天皇機関説攻撃さる |
11 |
8 創価教育学第一期研究時期方法等につき研究会開かれる、研究生制度発足 |
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2・26 二・二六事件 |
12 |
創価教育学会発会 |
3・27 国体明徴の観点から中学、高女、師範、高校の教授要目を改訂 |
7・7 日支事変はじまる |
13 |
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6・9 勤労動員はじまる |
4・1 国家総動員法公布 |
14 |
この年、三男洋三稲葉伊之助二女貞子と結婚 |
5・22 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語下賜 |
7・8 国民徴用令公布 |
15 |
1・16 孫牧口洋子生まれる |
2 山形県をはじめ全国で生活綴方教師ら検挙される |
9・27 日独伊三国同盟調印 |
16 |
創価教育学会機関誌「価値創造」発刊、会員数三千を越す |
3・1 国民学校令を公布 |
3・10 改正治安維持法公布 |
17 |
9 「価値創造」9号を以て廃刊 |
10・10 日本基督教団戦時布教方針、綱領、実践要目を発表 |
4・30 翼賛選挙(第二十一回総選挙) |
18 |
6・3 創価教育学会幹部検挙始まる |
1・21 中学・高女・実業学校の修業年限を一年短縮 |
2・1 ガタルカナル島撤退 |
19 |
8・31 三男洋三戦死(三十八才) |
6 城戸幡太郎、留岡清男ら検挙され民間教育運動壊滅 |
6〜10 マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で敗北続く |
20 |
7・3 戸田城聖保釈出所学会の再建はじまる |
5・22 戦時教育令公布 |
4・1 米軍沖縄に上陸 |
21 |
11・17 再建後第一回総会 |
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1・1 天皇人間宣言 |
25 |
11・12 牧口初代会長七回忌法要 |
2・13 東京都教育庁、教員246人をレッドパージ |
6・25 朝鮮事変おこる |
26 |
4・20 聖教新聞発刊 |
2・8 文部省道徳教育振興方策発表 |
9・8 対日平和条約、日米安保条約調印 |
28 |
9・6 聖教新聞週刊となる |
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12・24 奄美群島返還日米協定調印 |
30 |
4・30 統一地方選挙に51名進出 |
8・6 初の原水爆禁止世界大会開く |
6・1 ロンドンで日ソ交渉開始 |
31 |
4・1 学生部を設置 |
6・2 新教育委員会法成立し教育委員は任命制となる |
3・15 参院原水爆禁止決議 |
32 |
9・8 戸田会長原水爆問題について声明 |
4・26 学術会議全世界の科学者に原水爆実験禁止を訴える |
12・6 日ソ通商条約調印 |
33 |
4・2 戸田会長死去 |
3・17 文部省小中学校道徳教育実施要綱を通達 |
10・4 安保条約改定交渉開始 |
34 |
5・1 統一地方選挙に265名当選 |
安保改定反対運動さかん |
10・18 安保問題をめぐり社会党分裂 |
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5・3 池田大作第三代会長に就任 |
安保阻止国民行動激しくなる |
5・19 衆議院で新安保条約協定を強行採決 |
36 |
5・3 文化局を設置 |
7・25 京都で世界宗教者平和会議開く |
12・12 旧軍人らのクーデター計画発覚(三無事件) |
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7・1 参院選に9名当選 |
4・17 日本宗教者平和協議会結成 |
1・13 陸上自衛隊八個師団発足 |
38 |
5・25 アジア文化研究所設置 |
8・5 第九回原水禁世界大会分裂 |
8・14 部分的核実験停止条約に調印 |
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6・30 創価大学設立を発表 |
3・14 文部省小中学校教師用道徳の指導資料第一集を発行 |
4・28 経済協力開発機構(OECD)に加盟 |
40 |
6・15 公明新聞日刊となる |
1・28 慶大で学費値上げ反対全学ストに入る |
6・22 日韓基本条約調印 |
41 |
11・18 創価学園起工式 |
1・18 早大で学費値上げ反対からストに入る |
7・4 新東京国際空港の建設地を千葉県成田市と閣議決定 |
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1・29 衆議院選で25名当選 |
5・19 文部省日本の大学研究所に対する資金援助96件、三億八千七百万と発表、各大学、研究所に波紋おこる |
10・8 第一次羽田事件 |
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1・29 創価学園落成式(創価中学、創価高校) |
東京大学、東京教育大学、日大など、各校で紛争おこり仝国に波及 |
1・17 米原子力空母、エンタープライズ佐世保寄港、反対デモさかん |
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4・2 創価大学起工式 |
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牧口常三郎全集 第一巻〜第五巻
妙悟空 「人間革命」
池田大作「人間革命」
小平芳平「創価学会」
村上重良「創価学会=公明党」
北海道師範学校五十年史
唐沢富太郎「教師の歴史」
高瀬広居「炎の殉教者 牧口常三郎」
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