2000/10/9
西暦二千年 八ヶ岳再び 二日目


 目覚めと眠りが交互に訪れ、やがてそれが非日常の続きであることを知り、出来るだけ日常から遠ざけるために手足を伸ばしてみる。雨は明け方近くにあがり、聞こえてくるのは軽い寝息の音だけだった。ロフトの窓にはめ込まれたガラス窓には露が物憂く張り付き、外の様子はそこからはわからない。階下に下りて玄関のドアを開けると、冷たい、真綿のような夢の続きが流れ込んできて、そしてそれは白く、ただ白く部屋を満たそうとしているようにみえた。
 タバコに火を着けて、それをくわえたまま暖房のスイッチを入れ、昨日までの自分を煙とともに吐き出す。冷えた床にだらしなく体を横たえると、部屋はすぐに暖かさを取り戻し、それからすぐに、階上から誰かが起き出してくる気配がした。
 まるで、起き出すきっかけを窺っていたかのように皆が降りてきて、朝の時間の気恥ずかしさを払拭するために短く挨拶を交わす。熟睡と不眠をそれぞれに誇り、習慣を胃袋に収めるための支度を始める。
 すでに誰もが部屋の外に深く広がる霧のことを知っていて、でもそれにはなるべく意識を向けないようにしている。そしてそれは、昨夜の残りのキャベツで作ったスープをゆっくりと飲み下し、パンにジャムを塗り、惜しむように少しずつ口元へと運ぶ様から伺い知ることができた。
 チェックアウトの時間に間に合うぎりぎりの時間になってからやっと、片づけを始め、ゴミ袋を手にコテージを出る。荷物をバイクにくくりつけ、管理棟までバイクを走らせる。料金と鍵とゴミとを所定の場所に納め、地図を広げて今日の予定を確認する。
 昨日食材を分けて貰った民宿へ、ぶんちゃんとトキさんが牛乳を飲むために出かけた後、道路脇にバイクを停めてタバコを吸っている間に空から日差しが降ってきた。カトーくんは嬉しそうにジャケットの下に着込んでいた厚手のトレーナーを脱ぎ、や〜ふるは危なかしくバイクをUターンさせ、気温の上がり始めた山の空気は湿り気を帯びて、グローブの中の手のひらを汗ばませた。
 昨日は下ってきたよもぎこば林道を、今日は登っていく。料金所のゲートをくぐると突然雲が割れ、ようやく自分たちの居た場所がどれだけ山深い場所だったのかを認識することができ、そしてそれはまるで、奇跡的なまでに透明な湖の淵に白絵の具が溶けていく様を見ているようで、どうやら俺達はその湖の中へと螺旋状に吸い込まれていく木の葉のようなものだった。
 再びビーナスラインに入る直前で、展望台に寄り、缶コーヒーで一息つく。トキさんはすっかり緊張もほぐれ、バイクを操るのが楽しくて仕方がないといった様子だ。売店まで歩いていって戻ってきたカトーくんが、「焼きとうもろこし売場でとうもろこしを焼いているおねえちゃんはとても可愛いとおもいます」と、わざわざ報告に来る。どれどれとその方向へカメラのレンズを向けると、ちょうど売店から出てきたや〜ふるがフレームインしてきて、俺を驚かせる。や〜ふる邪魔、とは言ったが彼には何のことやらさっぱりわからなかっただろう。

 ビーナスラインを和田峠で降りて、舗装の荒れた三桁国道を走る。その頃には路面はほとんど乾いていたが、木陰の辺りではまだ濡れていて、あまりバイクを寝かせないようにしてゆっくりと走った。
 白樺湖まであと少しのところで給油し、白樺湖を過ぎ、大門街道を下っていく。気張らない程度に飛ばしても、トキさんはしっかりついてくる。肩の力を抜いて、バイクなりに走らせるコツをつかんだようだ。
 大門街道を下りきって、今度はメルヘン街道をぐんぐん登っていく。交通量は少ない。遅い車をパスするとそれから後、俺達に迫る車両は一台もなかった。
 キツいコーナーが続く登りのつづら折りでは、俺のバイクは立ち上がりで喘ぐように失速してしまう。コーナーへの進入でや〜ふるを引き離しても、出口であっと言う間に追いつかれてしまう。しかたがないので、トキさんのペースに併せるのを諦め、いつものペースで峠道を攻めにかかる。コーナーの度にや〜ふるのバイクがミラーの中で小さくなっていっても、俺は高回転を保ったまま次のコーナーへ切り込んで行く。やがて自分がキレかかっていることに気がつき、アクセルを緩める。後で聞いた話だが、ペースが上がり、それに付いていこうとしたトキさんが、コーナーを曲がりきれずに反対車線へはみ出してしまうという出来事があったそうで、それを本人は「慣れてきていい気になっていたせいだ」と言ったが、でもそれは、明らかに俺の落ち度であった。たまたま対向車がなかったから大事には至らなかったものの、非常に申し訳ないことをしたと反省するばかりである。ごめんなさい、トキさん。
 白駒池の駐車場の混雑ぶりにうんざりし、そこから少し先の松原湖へと至る道との分岐点にある茶屋で昼食を摂った。暖かいそばで冷えた体を暖め、しばしの休息をとる。
 そばを啜りながら、峠道は上りと下りとどちらが好きか? と誰にともなく聞いてみた。すると、皆が口を揃えて「上りだ」と答える。乗っているバイクによっても違うのだろうが、いずれにせよ俺は下りが好きだ。ぶんちゃんの言うとおり、確かに上りの方がバイクをコントロールし易い。アクセルオフによるエンジンブレーキの効果が大きいし、なによりコーナーの立ち上がりでアクセルをワイドオープンにする快感は、何ものにも代え難い。それでも俺は下りにこだわる。ネガティブな部分をそのままにしておくのが耐えられない性格なので、なんとか克服してやろうとムキになるのだ。結果、克服できたかどうかは別にして、チャレンジすることに無上の喜びを見いだしてしまう。つまりはそう、性なのだ。人はそれをあまのじゃくと呼んだりするが。
 峠道はあと少しで終わり、そこからは佐久へ向かう平坦な国道と高速道路だけが待っている。名残を惜しむようになかなか走り出そうとしない皆に、意を決して「さあ行こう」と声をかける。ぶんちゃんが、眼鏡の奥で「もっと走ろうよ」と言った。
 上信越道を今度は東へ向かう。背中に背負った初秋の日差しが、ゆらゆらと俺とバイクを淡くアスファルトに焼き付ける。そしてその跡を仲間のバイクが丁寧に踏みつぶしていき、いつしか落ち葉のように俺の心の中に積み重なっていく。出会いが道を延ばし、別れがそれを幾条にも増やす。そして再会が繋いだ道を、また一人誰かが通り過ぎていく。まだ見ぬ彼らを待ちながら、遙かに遠く地平線の向こうに思いを馳せ、どうやら自分が見えてきたことに驚き、喜び、ため息する。銀馬の群から一人また一人と離れていって、それぞれのねぐらに戻っていき、やがて俺は一人きりになる。ゆっくりと回っていくトリップメータの数字がこの旅の終わりを告げる頃になってやっと、俺は俺が一人きりでなかったことに気が付いた。  


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