鎌倉土紋の仏を訪ねて(2) 亀が谷の切り通しを下ると、岩舟地蔵堂があります。
浄光明寺は頼朝の願いによって、文覚上人が建てた堂が最初で この寺の阿弥陀三尊像の中尊・阿弥陀様の衣紋に鎌倉土紋が施されています。 目指す阿弥陀様は、かって、左画像、茅葺き屋根の阿弥陀堂にありましたが 拝観を申し込むと、地元の方が尊氏や直義の逸話を混ぜながら説明して下さいます。 浄光明寺の仏はよほど好かれるらしく、旅情報誌「るるぶ」には 『中央の阿弥陀尊像は上品中生の印を結び、頭には宝冠をかぶった珍しい形式。また衣には練った士を雌型に入れて模様を作り着衣の部分に張りつけて浮き彫りに似た立体的効果を生む士紋と呼ばれる装飾法が施されている。この方法はほかの地域ではみられない鎌倉独特のきわめて珍しい手法なので注目。』 と紹介されています。(1997年版 鎌倉を歩こう p40)三尊とも国の重要文化財となっていて鎌倉地方の代表的仏像とされます。土紋の施されている阿弥陀如来像は、胎内に収められていた文書によって、正安元年(1299)に作られています。座す全体の姿、顔つき、手の指の長さに見とれ、衣紋には花や葉が浮かび出て、引きつけられます。 『次は「宝戒寺」だけど、どうせ食堂は混んでるから、時間をずらそう・・・。』
大急ぎで、寿福寺をまわる。政子と実朝の墓にお参りすると、ついに 『ねェ・・・、時計持ってるんでしょ。目がかすんでるの?』 『宝戒寺は、お昼の後にしようや。お昼の金額は少し張り込んでもいいかな・・・。』 『もうイイワ。知らないから!!』 お墓の石段に座って、am/pmの袋を開ける。本堂の全体が実によく見える。 『太平寺はこの辺にあったんですか?』 鎌倉の仏像の本には、必ずと云っていいほど紹介される仏様。 旅情報誌「るるぶ」では、次のように紹介されています。 『14世紀頃の仏像で、もとは頼朝の持仏堂だった法華堂に安置されていたが、明治元年(1868) 立て膝で、頬杖をつき、腕が6本もあり、目つきもきつくて、最初は取っつきにくい仏様ですが、口元の微笑みが見る角度で微妙に変わり、いつの間にか魅せられています。全体に妖艶な雰囲気があることや、2本の手では足りないくて6本の手で役立とうということからでしょうか、女性にも人気が高いです。 14世紀の仏とされますので、頼朝と直接の関係はないにしろ、法華堂に安置されていたいたことは興味が湧きます。「吾妻鏡」には如意輪観音信仰を伝える記事がいくつかあります。 寛元2年(1244)1月1日には、『将軍家ならびに若君・御台・二棟の御方、御行始(おなりはじめ)として、皆武州(執権経時)の御亭に渡御したまうと云々。今日、将軍家の御願として久遠寿量院において「如意輪法」を修せられる。・・・』 寛元3年(1245)7月27日、『武州(執権経時)の第において、法印隆弁、「如意輪供」を修せらる。不例の気あるによってなり。しかるに謹修七ヶ日に当たり、たちまちに少減を得しめたまうと云々。』 など幕府関係の公式儀式や病気平癒祈願に如意輪信仰の行事があったことが残されています。(新人物往来社版 全訳 吾妻鏡による) 膝の部分に「鎌倉土紋」が鮮やかに残ります。目を凝らすと金箔の跡があるのがわかります。内乱の14世紀の時代背景を告げます。この寺の本尊は阿弥陀如来で、隣にお地蔵さんと抜陀婆羅尊者像(ばつだばらそんじゃぞう)があります。 若奥さんの気さくな説明と『そばに近寄って、よくご覧になって結構ですよ。』の言葉、素敵な仏像に後ろ髪を引かれる思いで本堂を出ます。 参道の石段の左側に「太平寺跡」の導標が建てられています。次のように書かれています。 『太平寺ハ比丘尼寺ニシテ、相伝フ、頼朝、池禅尼(いけのぜんに)ノ旧恩ニ報イン為、其ノ姪女(てつじょ)ノ所望ヲ聴キ、姪女ヲシテ開山タラシメシ所ナリト。 足利ノ代、管領基氏(かんれいもとうじ)ノ族裔(ぞくえい)清渓尼(せいけいに)ノ中興スル所トナレルガ、天文中、里見氏鎌倉を鹵掠(ろりゃく)セル時、住持青岳尼(せいがくに)ヲ奪ヒテ房州二去リテヨリ遂ニ頽破(たいは)セリ。今ノ高松寺(こうしょうじ)ハ寛永中、紀州徳川家ノ家老水野氏ガ其ノ太平寺ノ遺址ヲ改修セルモノナリ 覚園寺は薬師堂ヶ谷にあります。午後3時からの説法に間に合うようにと、鎌倉宮の左手を曲がって坂の小径を駆け足です。ようよう山門に着いたときには時間オーバー。幸いなことに、この日は拝観者が多くて、若干時間がずれているとのこと。息を整えて最後に並びます。案内の辛口僧侶が立つと、何回か目かの人は期待を込めて黙礼 『最近は変なはやりがあって、ちゃんと二つついている自分の目で見りゃいいものを、わざわざ片目つぶっちゃ、カメラのレンズ越し。辺り構わずパシャ、パシャ。デジカメとかで、写っているかどうか確かめて、またパシャ、パシャ。これじゃ何しに来たんだかわかりませんねェ・・・。この寺に入ったら、そんなことは止めて、じーっと自分の眼で見ましょうよ。心の目もあるってことじゃないですか・・・。』 で、カメラをしまいます。薬師堂の戸を開けながら、『目を慣らしてから入ってください。框 (かまち)につまづきますよ。』と優しい。薬師三尊像とそれを守るかのように十二神将が静かに待っています。 『何かさ、薬師様の両脇にいる仏様は、さっきの浄光明寺の仏様に似ていない?』 真ん中の薬師如来像は鎌倉時代の作、右脇の日光菩薩像は応永29年(1422)、仏師朝祐の作、左脇の月光菩薩像も銘はないものの同作家の造りで、浄光明寺の薬師三尊の脇侍の作風に影響を受けているとされます。 目指す阿弥陀様は三尊の右側に祀られています。ほとんど写真集には紹介されず、直射の光を避けるように座しています。鎌倉土紋は右脇にあるそうですが 『土紋は風化がひどく、これ以上剥落が進まないように窓を閉め切って暗くしてあります。肉眼では見えないかも知れません。』 意外に大きいのは、別名、鞘 (さや)阿弥陀と呼ばれるように、胎内仏が納められていたことにもよるようです。近くの廃寺になった理智光寺(りちこうじ)の仏であったということで、説明に『お預かりさせて頂いております』と付け加えられます。理智光寺は護良親王の墓の前にあったお寺で、南北朝の頃に栄え、明治に廃寺になったとされます。護良親王墓 理知光寺跡導標 護良親王の墓、理智光寺跡は瑞泉寺へ向かう道、カントリーテニスクラブの前の丁字路を右に入ったところにあります。覚園寺とは峯を隔てて対峙する位置にあり、この仏が移された背景に一種の因縁を感じます。というのも、護良親王と足利尊氏との悲劇的な交流に思いが及ぶからです。 覚園寺は、第二代執権北条義時が建保6年(1218)に谷の奥に大倉薬師堂を建立し、永仁4年(1296)、北条貞時が元冠の難を逃れる祈願のため智海真彗を招いて伽藍を造営して、覚園寺としたと伝えられます。 ということから、鎌倉時代には北条氏の信仰を集めていました。それが、建武後は後醍醐天皇の祈願所となり、その後は足利氏の祈願所として栄えたそうです。薬師堂の天井の梁には、文和3年(1354)仏殿再建のとき、足利尊氏が書いたという直筆の文字が記されています。 『時には朝敵の寺として、石を投げつけられたこともあります』 と、案内の僧が筆痕を懐中電灯で照らしながら語るとき、あの渦巻いたすさまじい光景と戦前の歴史認識が背を寒くします。 護良親王は足利尊氏と対立し、建武元年(1335)関東に下されました。その際、現在の鎌倉宮の辺りに幽閉されて、尊氏の弟の足利直義の指図によって殺害されますが、その時、理智光寺の僧が、手厚く葬ったと伝えられています。「理智光寺跡」の導標の立つ辺りに薬師堂があり、阿弥陀様はその本尊であったとのことです。 薬師三尊と並ぶ阿弥陀の仏に、北条氏、朝廷、足利氏のそれぞれ対立したリーダー達の苦悩と供養がこめられれているようで、たかぶった感慨を鎮めるのに一苦労します。僧は淡々と『歴史の移り変わりを御覧になって来られたのでしょう。』と結んで、次のコースの案内をうながします。 薬師堂を出て境内を廻る中で、名物説法が縦横無尽に、世相を斬り 帰り道は、絵柄天神に、健康、家内安全、地方自治振興を祈り 頼朝の墓に参って 辺りが暗くなる頃、鎌倉駅に着きました。 (旅1999.5.2.2002.2.22.記)
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