狭山丘陵の御料林
狭山丘陵を歩くと至る所に林があり、小径がついています。その径を辿ると気分爽快で、これが森林浴の恵みかと、ほっと一息します。また、四季 折々の移り変わりが見事に演出されて、その幸せは、他に例えようもありません。武蔵野から雑木林が消えて、この味を堪能できるのは丘陵部にしかないのではないか、と幸せを噛み締めます。
その林がいくつかの歴史を経て、興味ある物語を伝えます。先ず、狭山丘陵全体では相当数の面積を占める自然林の一部が、江戸時代に、幕府の御料林とされたことです。幕府が自らの用途のために場所を指定して村人達の利用を制限し、管理する林です。 また、地元からは「御殿様」と呼ばれた旗本・地頭に幕府が与えた領地である林もありました。 丘陵の南側では東大和市、武蔵村山市、瑞穂町、丘陵の中では所沢市の区域に指定されていたようです。まだ、全容は把握していません。 青梅や奥多摩地方がかって中世の時代「杣保」(そまほ)と呼ばれて 、字の通り建築用材や燃料などの材木を取る場所であったところが、家康が関東に移って以降、江戸城や町場の建設に使うための御料林となったとの話は納得できます。あのヒノキやスギの木の林を見れば頷けます。しかし、狭山丘陵の林は 雑木や松を中心とします。それを御料林とするとは、どのような意味があったのでしょうか?
江戸幕府は何故狭山丘陵を御料林としたのか、そして、具体的にどこか
この地域の山は村人が共同で自由に使っていたはずです。ところが、家康の江戸入府とともに、直属の家臣が配属されて、山と林は農民から取り上げられ て、家臣・旗本=地頭の支配地になります。大ぬかりはその状況を良く伝えます。 林には松を中心に植えられていたようで、大ぬかりでは、五代将軍綱吉の生類憐れみ令でつくられた中野の犬小屋の薪になっています。入山の方は、ペリー来航の時に、御台場の礎に伐り出されています。
江戸時代、林は村人達の生活のバックボーンで、獣たちと共生していました、笠松坂では、狼との出会いがあります。つちんどは大蛇です。元禄時代に林の開発が進んで農民達に払い下げられました。林が伐られたことから、近くの湖の水が涸れて「つちんど」がいなくなった話です。
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