砂川新田(2) 砂川新田は完成までに、3つの段階を経たと考えられています。 砂川開発の初期は残堀川と五日市街道の交差するところに 承応3年(1654)玉川上水が開削されます。
この時期、砂川村は、親村の狭山丘陵南麗の村々から通勤耕作していた人々が 明暦3年(1657)、運動の成果が実り、玉川上水から砂川分水が許可されます。 元文元年(1736)砂川は「砂川新田」の名前から「砂川村」になりました。 一方では、青梅街道沿いに、岸村の小川氏が、明暦2年(1656)「小川新田」の開発許可を得ています。 玉川上水とその分水は新田開発の画期となりました。 砂川分水を訪ねる 砂川の新田開発を急速に推し進めた砂川分水は「呑用水」として認められたもので、7寸4方(21p四方)の取り入れ口でした。あくまで「呑用水」=「飲み水」として使われることが前提になっています。「新田」=「水田」ととらえがちですが、砂川の場合、分水は田用水ではありません。新田は「畑」の開発でした。 分水の傍には高札が立ち、分水口は鍵を掛け厳重に管理されました。ところが、現在、その跡はなく、正確な位置はわかりません。しかし、砂川の基点であり、最初にその部分を訪ねたいと思います。
左画像は天王橋の上から五日市方面を写したものです。左の森が玉川上水で正面が五日市街道です。右はその逆の方向で東京方面を見たものです。左側の森が玉川上水です。 砂川村の「1番」になります。現地を歩くと、まさに玉川上水と接し、五日市街道が交差する場です。残堀川を中心とした初期開発から、用水を取り入れて、新しい村づくりを進めた街村構成の1番とするに相応しい場であることが実感できます。 村の現況は後に歩くことにして、天王橋から下流を見ます。分水口はこの画像の最後辺りの右側にあったとされます。跡とおぼしき場所に近づくため下流の「稲荷橋」から歩きます。 左画像は現在の稲荷橋です。この橋は素朴な橋で橋名も橋桁の横に記されていて注意しないと見過ごします。もとは「二の橋」と呼ばれていましたが、橋のたもとに1番組の稲荷様があるところから現在では稲荷橋とされています。右画像がその稲荷様で、左側が玉川上水です。 残念なことに、右画像のように、この橋から天王橋まで、玉川上水の上流に向かって左側が歩けなくなります。そのため橋を渡って右側を歩きますが、なかなか雰囲気があるところです。立川市史では分水口を、『一の橋と二の橋の中間あたりのところにあって、』としています。その現況は右画像のようになっています。石垣積みできれいに整備されていますが、何らの痕跡もありません。 現在の砂川分水は、先に紹介した図の天王橋から左にあたる「松中橋」の所に分水口があります。これは明治3年に移されたものです。初期のものとは違いますが、雰囲気を知るため参考までにご案内します。西武拝島線「西武立川」駅で降りても、バスならば松中団地行きが頻繁に出ています。 左画像右上の切り込みが分水の取り入れ口で、横切っているのが松中橋です。松中橋の上流側になります。右画像は取り入れ口ですが、肝心の所が暗くて、いずれ近い内に撮り直します。 現在の分水口から取り入れられた砂川分水で、最初の口はがっかりしますが、全体として綺麗に復元されています。左側の林が玉川上水です。江戸時代の跡が確認出来ないのが残念ですが、玉川上水全体の分水の絵図は「たましん地域文化財団 伊藤好一監修 比留間博著 玉川上水 p136」に概略図が紹介されています。 アッと云う間に増加した耕地 分水のご案内に手間取りました。新田の開発に戻ります。玉川上水の開削、砂川分水の利用により開発は一挙に進みます。その様子は耕地のアッと云う間の増加から知ることができます。砂川では、寛文8年(1668)、延宝5年(1677)に検地が行われ、年貢割付帳、検地帳が残されています。その数値から当時の有様がつかめます(立川市史下p150 第5表)。それをさらに簡略化して紹介すると次のようになります。
読み方になじみがありませんが、寛文9年(1669)の11887.01は118町8反7畝01歩です。約10年ごとに倍増に近い伸びを示します。いかにこの時期に開発が急ピッチで進み、現地への定着(出百姓)が行われたかがわかります。なお、「新田村落」では、延宝6年(1678)の数値を17897.04(畝)(年貢割付帳)としています。基準の取り方による数値の違いですが、今回は立川市史の数値をとりました。 3分の1以上が屋敷を持たず、親村からの通勤百姓が多い しかし、さらに細かく見ると、そこには新田の置かれた厳しい現状がわかります。次の表は「新田村落」p62から引用するものですが、「元禄2年砂川村土地所持情況」をしめします。
元禄2年砂川村土地所持情況(検地帳) 大きく出百姓(砂川村に居住)と出作百姓(親村から通勤耕作)の区別があり、依然として47人(名請人で家族数ではない、以下同じ)が親村から通勤耕作しています。いずれも岸村に隣接する狭山丘陵南麗の村からの通勤で、距離は1〜4キロあります。 村に居住して開発・耕作に当たる人は240人ですが36%の87人が家を持たずに生活しています。その土地所持との関係を見れば家を持たない人の65%が5反以下の耕作です。通勤耕作の87%が同様に5反以下です。 砂川に居住して屋敷を持つ人達の耕作地は1.5町から3町に集中しています。この辺りが新田の中核規模であったことがわかります。 繁雑になるので、耕作地の質の情況の表は省きますが、砂川に住む人達の持っている土地は、下畑10.1%、下々畑45.8%で、さらに、萱野が22.5%を占めています。55%以上が生産力の低い畑で、萱野(かやの)を加えると80%近くがまだ生産力とはならない土地であった様子がくみ取れます(ただし、萱野は肥料の貴重なもとになりました)。この時点では、水田は全くありません。 何を食べ、どんな家に住んだ? 「砂川の歴史」(昭和38年(1963)砂川町発行、以下「砂川の歴史」)はこの問いに次のように書いています。 『開発当時の農民はどんな生活をしていたのだろうか。米はおろか麦もろくにとれず、粟、稗などの雑穀を食べ、今日では思いもよらないような生活をいとなんでいたことは容易に推察されるし、その貧窮の故に古村であり距離も近い村山地方農村との関係がいつまでも残ったことは各種の後年の史料からも知られるのである。 ことに印象的なのは「二人宅にては……」の事例がわざわざ書かれていることである。この頃の家族は一〇人前後の一世帯がむしろ多かったのに、ここでは二人という小さな家族を問題にしている。夫婦になった若い二人の男女の百姓が七坪の家を本拠にして武蔵野台地の困難な開発に立向った姿をありありと眼の前に浮べることができるのである。 小屋の建て方はいずれも「丸柱にて掘建て」であり、床は細竹を編んだものか、籾糠藁くずなどをそのまま敷きつめたものでありその上へ莚などをしいたのであった。桁梁などは松の木を使い、柱は栗の木を用いたが、羽目板や壁を廻り囲いに用いることはなく、それは萱麦藁などの予定であった。 以上が小川新田開発当時の建築届けに見られる入村農民の標準住宅である。寛永期から開発を始めた砂川村農民の家が一般的にはこれより立派なものだったとは思えない。それが今日に見られるような五日市街道沿いの堂々たる屋並みに発展してきたのは江戸時代中〜末期のことである。封建制の抑圧の中にあっても営々として労働を積み重ねてきた砂川農民の努力を思うべきである。』(p38〜40)(読みやすく改行しました)
ここに描かれた民家の復元が小平市「小平ふるさと村」(小平市天神町2−57 042−345−8155)に復元されています。最も小規模な2人家族の家です。西武線小平駅下車、水道道路を歩いて15分。バス昭和病院前下車2分。
平面図は「小平ふるさと村」パンフレットによる。 100年経って村となる これから見ると、1620年代は開発途上で、まだ一村としての自立はしていなかったように思えます。多くの苦労の中に少しずつ力を蓄えていた時期なのでしょう。それが、明暦3年(1657)、玉川上水から砂川分水が許可されると、先に紹介したように一挙に耕地が増加してきます。 この頃、五日市街道沿いに街村をかたちづくり、その後、約40年を経て、元禄7年(1694)までには、分水の取り入れ口に近い方から1番組から8番組までの組が設置されたようです。そして、1番から4番までを「上郷」、5番から8番までを「下郷」として、それぞれの郷に小名主、組に組頭を置く体制ができました。 さらに「百姓代」と推定される署名もありますので、この頃には実質的に一般的な村とかわらない構成がなされていたと考えられます。 元文元年(1736)検地で、それまで砂川新田と呼ばれていたこれらの地域は、はじめて「砂川村」に取り立てられました。村の母胎ができてから約100年を要していたことになります。一口に新田開発といいますが初期のものは、100年がかりの事業であったことを思うと、その労苦に頭が下がります。 大ケヤキで家を囲い立派な住居をつくるのは江戸も中期から末期になってからでした。 次の頁に続けます。
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