鎌倉街道の宿 熊野神社から北に進むと、神社の約300メートル北側で
どちらの川筋を辿っても狭山丘陵の突端に出て、中世から室町にかけての史跡の宝庫です。 合流点は、都市水害の関係から、コンクリートで固められて、見る影もありませんが 二瀬橋から西に久米川をたどると、狭山丘陵の南麗を流れる前川と後川の合流点を経て、狭山丘陵にぶつかります。上の画面、川の向こうに横たわるのが狭山丘陵です。30年ほど前までは、一面の畑と水田の中を自然の堀のままの川が流れていました。水際まで降りて遊べました。この辺りまでを、西宿として、「久米川宿」に考える人も居ます。 二瀬橋から柳瀬川のさらに上流に向かうと、「勝陣橋」に出ます。 この辺一帯は「久米川古戦場跡」とされます。それにちなんだ名前でしょうか? 古戦場碑の向こうが狭山丘陵の突端(5つの中の最南端)で ここからは甲斐や相模など武蔵周辺の八つの国の山が見えると言うことから その尾根上にあるのが将軍塚です。
元弘3(1333)年5月15日、武蔵・分倍河原(東京都府中市)の合戦、18日、相模・村岡(藤沢市)の合戦
として、左右に 「勧進 玖阿弥陀仏、執筆 遍阿弥陀仏」の銘があります。 この板碑は国の重要文化財に指定されていて 史実が金石文として、きちんと残されたところが重要視されますが 時宗の僧がつくった 板碑に彫られた 飽間斉藤三郎は26歳、孫七は23歳、孫三郎は35歳です。主家に従い、家を守るとはいえ、この若さで一命を賭して戦ったことがわかります。鎌倉幕府が滅びたときの犠牲と思うとシュンとします。 「勧進 玖阿弥陀仏、執筆 遍阿弥陀仏」 は、勧進したのが、玖(きゅう)、字を書いたのが、遍(へん)阿弥陀仏という僧侶たちで、時宗の僧とされます。近くに、「長久寺」(所沢市久米)があり、時宗の寺として知られます。この寺の開山が玖阿弥陀仏と伝えられ、板碑の造立と深い関連があったとされています。 東村山市史は 『玖阿弥陀仏が長久寺の開山という寺伝は、逆に元弘の碑の銘文に拠って作られた可能性があるので一概に信じるわけには行かないとしても、「太平記」などにもみられるように、当時の合戦には多く時宗の僧が同行して、自刃する武士に最後の十念を勧めたり、戦死者を供養したりしているから、久米川付近に住む時宗の僧が新田軍に同行し飽間斉藤一族の菩提を弔ったというのは、単なる後人の憶測に止まらないかも知れない・・・』 としています。
当時の時宗の僧と合戦の関わりは、戦場での供養と情報伝達の上から重要な役割を持っていた事が指摘され、「長久寺」の位置を含め、周辺の綿密な研究をすると、様々な興味ある出来事が発見されるのではないかと期待されます。 将軍塚、久米川古戦場を後にして、さらに北に進むと「勢揃橋」に出ます。 埼玉県では、この道を旧鎌倉街道としています。 突き当たりがT字路となり、左折すると、話題の「長久寺」です。
読みとれるぎりぎりで、圧縮をおさえました。判読下さい。 長久寺の前の道が旧鎌倉街道で、長久寺の敷地を限りとして北に曲がります。 右折後直進し、所沢の「新光寺」へと向かいます。
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