秋水書院から母屋
20年間、住んだ家の由来については、入り口に木の案内板が掲げられて、こう書かれています。
『僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。其筈(そのはず)さ、先の家主なる者は素性の知れぬ捨て子で、赤子の時村に拾われ、三つの時には人に貰われ、二十いくつの時養家から建てて貰った家だもの。其のあとは近在の大工の妾が五年ばかり住んでいた。
即ち妾宅さ。投げやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、壁は落ち放題、床の下は吹通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、些(ちと)真剣に降ると黄色い雨が漏る。 |
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越してきたのは去年の此頃(注 明治四十二年二月末日指す)雲雀は鳴いて居たが、寒かったね。日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押寄せてくる武蔵野の春寒、中々春寒料峭(しゅんかんりょうしょう)位の話じゃない。
国木田哲夫兄に与えて僕の近況を報ずる書 「二十八人集」より』 |
とあります。
独歩が病んで茅ヶ崎にふせっていた頃、独歩を慰めるため、田山花袋などが28人の文人から随筆を集めました。そこに蘆花が書いたものの一節です。
「国木田哲夫兄に与えて僕の近況を報ずる書」は独歩と蘆花の友情が溢れるようで、読む者を引き込みます。筑摩書房版 現代日本文学大系
9 に採録されています。
最初の頃は小さかった家も次第に建て回して大きくなり、周囲の人々からは「粕谷御殿」と呼ばれたようです。ここでの6年間の生活記録を書いたのが「みみずのたわこと」です。1913(大正2)年発表されました。
『儂の村住居も、満六年になった。』
で書き始まる87章のスケッチですが、実に丹精に武蔵野の実相を見つめ、ページを繰るように紹介します。明治の武蔵野の風景が、当時の物価や、親しかった爺さんの歌まで、ざっくざっくと浮き上がってきます。
とりわけ、武蔵野に住む土着の人々の生活のしきたりが、四季の行事と一緒に伝えられて、ほのぼのとします。
長いので引用は避けますが、武蔵野を思い起こすときの必読書のような気がしていつも手元に置いています。岩波文庫に含まれています。
そろそろ切り上げる時が来ましたが、蘆花の一面を伝えるものとして紹介したいのが、下の建物「秋水書院」です。
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明治43(1910)年に起きた、幸徳秋水事件の政府の対応に対する蘆花の抗議の気持ちを表すためにこの名が付けられたといわれます。 反逆罪にも問われかねない出来事でした。明治の文人の背骨を見る思いがします。 |
母屋を抜けて恒春園の雑木林の中を進むと、蘆花夫妻の墓があります。蘆花の死の直前、長い間続いた兄弟の桎梏を乗り越えた兄「徳富蘇峰」が筆をとって「徳富蘆花夫妻の墓」と刻まれています。
さて、長々と紹介してきました。蘆花が生活して描いた武蔵野は、100年経った今、都心から35キロ圏以遠にやっと見られます。それが、ここ恒春園には、そのままといってよいほど残っていました。
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