与謝野寛・晶子 自宅新築、歌誌「冬柏」創刊、膨大な旅 関東大震災による東京の壊滅状態を目の前にして 電車も中野で乗り換える、畑ばかりの「井荻村下荻窪」でした。 晶子自らの設計による自宅を新築し、晩年を過ごしました。 井荻村 関東大震災の翌年・大正13年に子供達、そして、昭和2年に寛と晶子が富士見町5丁目9番地から井荻村へ転居して来ました。転居してきた頃には独立していた井荻村は、昭和7年に杉並区に属したことと、昭和39年に実施された住居表示によって、その名前が無くなってしまいました。今では、杉並区南荻窪になっています。 現在の繁華街からは想像も出来ない畑が一面に広がっているところでした。震災を機に、この周辺が一気に開発され、昭和2年は荻窪駅に南口が開設されました。与謝野光「晶子と寛の思い出」(p91)には、建築されたばかりの頃の、まだ庭木も植栽されたばかりのような庭の前に、晶子が一人立っている写真があります。周囲に家が無く、与謝野家がぽつんと立っている状況がよく分かります。 それが、「新潮日本文学アルバム 与謝野晶子」(p80)には、庭木の茂る庭の奥に、大きな二階屋に見晴台の付いた家があり、その前に寛と晶子が立っている写真があります。 広さ500坪とされますから相当に大きな屋敷であったことがうかがえます。 借地の上に晶子が設計 この家について、長男の「光」氏が語ります。 『関東大震災で、富士見町はうちの近くまで焼けたんです。その時に、市民がぞろぞろ汽車や電車に乗ったり歩いたりして郷里へ帰るわけです。
『震災のあとに、僕と秀が、もうすでに小さい家を建ててそこに住んでいたんです。自炊をしてね。だんだんそこへ建て増ししていくわけです。それで昭和二年に母屋も出来て、みんな引っ越すんです。
あれは母の設計なんです。惜しいことをしました。八十坪くらいあったんですよ、家の広さがね。ですけど、一万円ちょっとで出来たと思います(笑)。今からだと嘘のようですねえ。 広い敷地に樹々があふれ 寛と晶子が住んだ 家は、大正13年1月の雪の日に、戸川秋月(英文学者、評論家)と一緒に土地を見に来て隣り合わせで建てたとされます。現在の杉並区南荻窪4−3−22付近には、かって、戸川秋骨の他、阿部知二(小説家)、大石 真(児童文学者)、尾崎喜八(詩人) などが住居を構えていて、文化人のまちの雰囲気を呈していました。 建物は、洋館と日本家屋で構成され、洋館が遥青書屋(ようせいしょおく)と呼ばれ、寛と晶子が主に住み、日本家屋は采花荘(さいかそう)と呼び、子供達が住んでいたようです。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では 家の様子を 『広い敷地には樹々があふれ、門を入るとすぐ桜とアカシヤでつつまれた小道が延び、たどりついた玄関の脇には通草(あけび)の棚があり、満天星(どうだんつつじ)で囲まれた庭には栴檀(せんだん)、泰山木に松などが入り混り、家の裏手には雑木林が広がっていた。』 としています。(下 p363)
『けど、初めは父が荻窪に行くのをいやがってねえ。そりゃ僕でも今はここに居るのがいいようなもので、今から思えば父に悪いことしたと思いますよ。今でこそ荻窪っていうのは大したものですけど(笑)、その頃は、田舎ですからねえ、一遍中野で乗り換えないといけない。そんなふうで、電車は吉祥寺までしか行っておりませんで、それも二両連結の。 子供思いの晶子にとって、子供らに各一室を確保することが大きな願いだったのでしょう。そのためには、地価の安いこの地を選ぶのが早道でもあったと思われます。 どこからでも杉並区立桃井第二小学校を目指せば近い 杉並区南荻窪4−3ー22の家は、すでになく、跡地が杉並区の「南荻窪中央公園 」になっています。JR中央線荻窪駅南口方面に降り、どこからでも杉並区立桃井第二小学校を目指せば一番わかりやすく近道のようです。
JR中央線荻窪駅南口下車 左画像・荻窪南口仲通り商店街、右画像・すずらん通り、どちらでも南に進めば
杉並区立桃井第二小学校に出ます。
ここから荻窪五丁目歩道橋で環八通りを渡り
中央公園があり、ここが与謝野寛・晶子の旧居跡です。杉並区教育委員会の案内表示があります。 『与謝野寛(号・鉄幹)晶子旧居跡 現在、公園となっているこの場所は明治・大正・昭和にわたり近代詩歌に輝くような功績を残した与謝野寛・晶子夫妻が永住の居として自ら設計し、その晩年を過ごした家の跡です。 関東大震災の体験から、夫妻は郊外に移ることにし、当時、井荻いわれたここに土地を得て、昭和二年、麹町区富士見町より引越してきました。甲州や足柄連山を眺める遥青書屋と采花荘と名づけられた二棟のこの家に、夫妻は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や雑木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を夫妻は次のように描いています。 私は独りで家から二町離れた田圃の畔路に立ちながら、木犀と稲と水との香りが交り合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。 「街頭に送る」 昭和六年 晶子
大いなる 爐の間のごとく 武蔵野の
井荻村 一人歩みて 蓬生に また、この家で夫妻は歌会を催したり「日本古典全集」の編纂や歌誌「冬柏」の編集をおこない、各地へ旅行して歌を詠み講演をしました。 昭和十年三月二十六日、旅先の風邪から肺炎をおこして入院していた寛は、晶子を始め子供達や多くの弟子達に看取られながら六十二年の生涯を閉じました。 寛亡きあと、晶子は十一人の子供の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の「新々訳 源氏物語」の完成(昭和十四年)に心血を注ぎました。 昭和十七年五月二十九日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に六十四年の生涯を終えました。 平成六年三月 杉並区教育委員会』 猛烈に長くなりましたが、役所の気の利いた案内に省略がはばかれて、全文を紹介しました。 杉並区立桃井第二小学校には晶子作詞の歌碑がある 寛と晶子の住んだ近くに、杉並区立桃井第二小学校があり、ここの校歌を晶子が作詞しました。校庭にそれを刻んだ歌碑があります。学校事故防止から、不審者侵入の排除のため、気安く校庭内に入ることはできにくくなりました。むしろ当然で無闇に入ることは避けるべきと思います。 歌碑は縮小のため文字が読めませんが、次の通りです。
晶子の特徴ある仮名文字もワープロでは変換できませんので、「て」「お」「の」「り」「か」などはやむなくワープロ文字にしました。山本 直忠が作曲しています。 作詞は寛が引き受けていたのを亡くなったため、晶子が引き継いだとされます。言葉を選びながら、まだ残されていたであろう武蔵野を歩いている晶子の姿が浮かびます。 許可を得て写真を撮っていると、子供達が窓から顔を出して「不審者ですか」と声を掛けてきます。晶子もさぞ現在の子供達の置かれている社会を案じているだろうと、少しばかり淋しくなりました。 晶子の経済的苦労は多かった
功成して、膨大な旅行に晩年を送る寛と晶子ですが、昭和5年代にはまだまだ経済的な苦労が続いていたようです。昭和6年(1931)2月10日、晶子は評論集「街頭に送る」を刊行しました。その序文を見てびくりします。 寛は昭和5年
3月
、文化学院を辞しています。私学の学校経営は困難な時代でした。また、昭和5年代、武蔵野の村々は経済的な疲弊が極に達し、住民には飢餓状況さえへ生じ、経済更正、破綻回避の為の必至の取り組みをしています。都市部にもその気配は及び、当然に購買力は落ち、本を買うこともままならない状況でした。 北原白秋の弔辞と『多磨』 昭和10年(1935)3月26日、寛は肺炎のため、慶応病院にて死去しました。多くの追悼がされましたが、明星と決別した北原白秋の弔辞を引用します。
「与謝野寛先生に対する大正以来の歌壇の態度は、今日に於てその過誤の多大と非礼とを是正し謝罪せねば許さるべきではない。私は弔い合戦に立つ気で起つ。思うさえ武者ぶるいを感ずる。わたくしならずとも、先生の遺骸を背にして獅子吼する正しい直門の人々のあるべきは疑わぬ。併し乍らわたくしにはわたくしの責務がある。責務というより反正の信念がある。また自らの俄悔がある。真実は勝つ。 白秋が追悼を述べるには様々な異論があったようですが、晶子が決めたそうです。白秋はやがて短歌雑誌「多磨」をつくります。その名が「多摩」ではなくて「多磨」としたのは、次のような背景があると、与謝野光は書きます。葬儀は文化学院で行われ、埋葬は多磨墓地にされました。
『・・・いよいよ文化学院から多磨墓地へ行く。すると、白秋さんもついて行くと言うんですよ。あの人も感激屋だからね、熱血漢だからね、白秋って人は。母が代表に選んだっていうことで感激したわけ。喜んじゃってね。 どんどんページが長くなります。ここで打ち切って、関連のことは別に譲りたいと思います。北原白秋はこの時、砧村大蔵西山野(現・世田谷区)に住んでいましたが、 その後、昭和11年1月、砧村喜多見成城(現・世田谷区)に移り、昭和15年4月、杉並区の阿佐ヶ谷五の一番地に移りました。 短歌雑誌『多磨』は 鉄幹・寛の亡くなった昭和10年6月、白秋が「多磨短歌会」を創り、その機関誌として同じ月に創刊されました。白秋が主宰し、浪漫精神の復興を目指したとされます。 『多磨』創刊に関しては様々な研究と解釈がされているようですが、まさに「弔い合戦が本当に実行された」のだと思います。 白秋は、晶子が死去した昭和17年、同じ年の11月2日に世を去っています。 膨大な旅 ここに自宅を構えてから、寛と晶子は旅に出ます。年譜を辿っても、あまりにも膨大な数の旅です。その一つ一つが寛・晶子の歌碑となり、全国的に建てられています。いつか廻ってみたいと願っています。寛と晶子に関係する人々の歌碑を含め、北から南までさっと飛んでゆけるようなホームページがあったらどんなにか楽しいだろうと夢を見ます。(2005.02.02.記) 関連年譜
著作に「寛」とないものは全て「晶子」の著作 昭和2年(1927)寛54才 晶子49才 1月5日から伊豆に転地療養、16日帰宅。
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