与謝野寛・晶子 自宅新築、歌誌「冬柏」創刊、膨大な旅
昭和2年(1927)〜昭和17年(1942)
(井荻村下荻窪371 現・杉並区南荻窪4−3ー22) 

関東大震災による東京の壊滅状態を目の前にして
寛と晶子は子供らの成長に合わせた住宅を整えるため、郊外への転居を決めました。

電車も中野で乗り換える、畑ばかりの「井荻村下荻窪」でした。
戸川秋骨が先導役だったようです。

晶子自らの設計による自宅を新築し、晩年を過ごしました。
渋谷時代とは違った武蔵野の歌を詠み、校歌を作詞し、地域の人々と交わいました。

井荻村

  関東大震災の翌年・大正13年に子供達、そして、昭和2年に寛と晶子が富士見町5丁目9番地から井荻村へ転居して来ました。転居してきた頃には独立していた井荻村は、昭和7年に杉並区に属したことと、昭和39年に実施された住居表示によって、その名前が無くなってしまいました。今では、杉並区南荻窪になっています。

 現在の繁華街からは想像も出来ない畑が一面に広がっているところでした。震災を機に、この周辺が一気に開発され、昭和2年は荻窪駅に南口が開設されました。与謝野光「晶子と寛の思い出」(p91)には、建築されたばかりの頃の、まだ庭木も植栽されたばかりのような庭の前に、晶子が一人立っている写真があります。周囲に家が無く、与謝野家がぽつんと立っている状況がよく分かります。

 それが、「新潮日本文学アルバム 与謝野晶子」(p80)には、庭木の茂る庭の奥に、大きな二階屋に見晴台の付いた家があり、その前に寛と晶子が立っている写真があります。 広さ500坪とされますから相当に大きな屋敷であったことがうかがえます。

借地の上に晶子が設計

 この家について、長男の「光」氏が語ります。

 『関東大震災で、富士見町はうちの近くまで焼けたんです。その時に、市民がぞろぞろ汽車や電車に乗ったり歩いたりして郷里へ帰るわけです。
 うちは・・・、父は京都の出身ではありますけど、京都にはもう親戚はないしね、行くところないでしょ。だからこれはどっか、万が一ということがあった時に行けるところがあった方がいいと・・・。そんなところへ戸川秋骨先生が「荻窪にこういうのを借りることになったから、与謝野さんもいっしょに乗りませんか」って言われたんです。

 それで荻窪の土地を借りて、僕と秀がまず移った。自炊して、花作ったりしてたんです。最初に移ったのは大正十三年頃です。もうその頃は、秀も高等学校を出て大学へ行ってましたから、そこから通ってました。

 その頃荻窪へ行くっていうのはよほどの郊外・・・、今の八王子まで行くぐらいの気持ちで借りたわけです(笑)。ですから、農家の地主さんが一坪三銭で貸してくれた。五百坪をね。戸川先生のところは二百坪。それで、六万円か十万円……六千円か(笑)で家をお建てになったんです。』

 『震災のあとに、僕と秀が、もうすでに小さい家を建ててそこに住んでいたんです。自炊をしてね。だんだんそこへ建て増ししていくわけです。それで昭和二年に母屋も出来て、みんな引っ越すんです。

 坪百二十円ぐらいで建てたんじゃないかなあ。僕も初め建ててもらったのは、坪四十円で建ててもらいましたよ。とにかく借地料というのが初め一坪三銭だったんです。それで五百坪。月に十五円でした。だんだん上がりましたけどね。

 あれは母の設計なんです。惜しいことをしました。八十坪くらいあったんですよ、家の広さがね。ですけど、一万円ちょっとで出来たと思います(笑)。今からだと嘘のようですねえ。

 設計は、だいたい母が書きましてね、それを西村伊作さんが専門的にちゃんと直して、西村さんのところへ出入りしてる紀州の大工さんに作らせたんです。母の希望は、上の子には一人一部屋ずつなんて賛沢なもので、そうもいかなかったけど、だいたいは母の希望通りのものが出来ました。』 (晶子と寛の思い出)

広い敷地に樹々があふれ

 寛と晶子が住んだ 家は、大正13年1月の雪の日に、戸川秋月(英文学者、評論家)と一緒に土地を見に来て隣り合わせで建てたとされます。現在の杉並区南荻窪4−3−22付近には、かって、戸川秋骨の他、阿部知二(小説家)、大石 真(児童文学者)、尾崎喜八(詩人) などが住居を構えていて、文化人のまちの雰囲気を呈していました。

 建物は、洋館と日本家屋で構成され、洋館が遥青書屋(ようせいしょおく)と呼ばれ、寛と晶子が主に住み、日本家屋は采花荘(さいかそう)と呼び、子供達が住んでいたようです。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では 家の様子を

 『広い敷地には樹々があふれ、門を入るとすぐ桜とアカシヤでつつまれた小道が延び、たどりついた玄関の脇には通草(あけび)の棚があり、満天星(どうだんつつじ)で囲まれた庭には栴檀(せんだん)、泰山木に松などが入り混り、家の裏手には雑木林が広がっていた。』

 としています。(下 p363)

 『けど、初めは父が荻窪に行くのをいやがってねえ。そりゃ僕でも今はここに居るのがいいようなもので、今から思えば父に悪いことしたと思いますよ。今でこそ荻窪っていうのは大したものですけど(笑)、その頃は、田舎ですからねえ、一遍中野で乗り換えないといけない。そんなふうで、電車は吉祥寺までしか行っておりませんで、それも二両連結の。

 直通は朝と晩だけでね。だから、ほんとうの郊外って感じだった。うちの父は、門人の人や友人が訪ねて来ないだろうってねえ。でも母は、「せっかくあそこを借りたんだから、家を作りたい」って・・・。移ってからは、父も気に入ってました。だんだん開けて来たしね。』(晶子と寛の思い出)

 子供思いの晶子にとって、子供らに各一室を確保することが大きな願いだったのでしょう。そのためには、地価の安いこの地を選ぶのが早道でもあったと思われます。

どこからでも杉並区立桃井第二小学校を目指せば近い

 杉並区南荻窪4−3ー22の家は、すでになく、跡地が杉並区の「南荻窪中央公園 」になっています。JR中央線荻窪駅南口方面に降り、どこからでも杉並区立桃井第二小学校を目指せば一番わかりやすく近道のようです。

JR中央線荻窪駅南口下車

左画像・荻窪南口仲通り商店街、右画像・すずらん通り、どちらでも南に進めば

杉並区立桃井第二小学校に出ます。
許可を得れば、晶子が作詞した校歌の碑が校庭にあります。

ここから荻窪五丁目歩道橋で環八通りを渡り
荻窪二丁目の信号機のある角を右に曲がり、二つ目の路地を右折すると

中央公園があり、ここが与謝野寛・晶子の旧居跡です。杉並区教育委員会の案内表示があります。

 『与謝野寛(号・鉄幹)晶子旧居跡

 現在、公園となっているこの場所は明治・大正・昭和にわたり近代詩歌に輝くような功績を残した与謝野寛・晶子夫妻が永住の居として自ら設計し、その晩年を過ごした家の跡です。

 関東大震災の体験から、夫妻は郊外に移ることにし、当時、井荻いわれたここに土地を得て、昭和二年、麹町区富士見町より引越してきました。甲州や足柄連山を眺める遥青書屋と采花荘と名づけられた二棟のこの家に、夫妻は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や雑木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を夫妻は次のように描いています。

 私は独りで家から二町離れた田圃の畔路に立ちながら、木犀と稲と水との香りが交り合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。                    「街頭に送る」 昭和六年 晶子

  大いなる 爐の間のごとく 武蔵野の
           冬あたたかに 暮るる一日         寛

  井荻村 一人歩みて 蓬生に
           断たるる路の 夕月夜かな         晶子

 また、この家で夫妻は歌会を催したり「日本古典全集」の編纂や歌誌「冬柏」の編集をおこない、各地へ旅行して歌を詠み講演をしました。

 昭和十年三月二十六日、旅先の風邪から肺炎をおこして入院していた寛は、晶子を始め子供達や多くの弟子達に看取られながら六十二年の生涯を閉じました。

 寛亡きあと、晶子は十一人の子供の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の「新々訳 源氏物語」の完成(昭和十四年)に心血を注ぎました。

 昭和十七年五月二十九日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に六十四年の生涯を終えました。

                   平成六年三月       杉並区教育委員会』

 猛烈に長くなりましたが、役所の気の利いた案内に省略がはばかれて、全文を紹介しました。 

杉並区立桃井第二小学校には晶子作詞の歌碑がある

 寛と晶子の住んだ近くに、杉並区立桃井第二小学校があり、ここの校歌を晶子が作詞しました。校庭にそれを刻んだ歌碑があります。学校事故防止から、不審者侵入の排除のため、気安く校庭内に入ることはできにくくなりました。むしろ当然で無闇に入ることは避けるべきと思います。

 歌碑は縮小のため文字が読めませんが、次の通りです。

  たかく聳びゆる富士の嶺は 桃井第二の校庭へ
  学びの心澄み入れと 朝々清き気をおくる

  都の西の荻窪は 草木茂り鳥うたひ
  小川の流れさわやかに 自然の匂い豊かなり

  かく誇るべき学校の 師の導きにしたがいて
  いや栄えゆく日の本の 我等は光る民たらん

  晶子の特徴ある仮名文字もワープロでは変換できませんので、「て」「お」「の」「り」「か」などはやむなくワープロ文字にしました。山本 直忠が作曲しています。 作詞は寛が引き受けていたのを亡くなったため、晶子が引き継いだとされます。言葉を選びながら、まだ残されていたであろう武蔵野を歩いている晶子の姿が浮かびます。

 許可を得て写真を撮っていると、子供達が窓から顔を出して「不審者ですか」と声を掛けてきます。晶子もさぞ現在の子供達の置かれている社会を案じているだろうと、少しばかり淋しくなりました。

晶子の経済的苦労は多かった

 功成して、膨大な旅行に晩年を送る寛と晶子ですが、昭和5年代にはまだまだ経済的な苦労が続いていたようです。昭和6年(1931)2月10日、晶子は評論集「街頭に送る」を刊行しました。その序文を見てびくりします。

 『・・・・・最近の私は、かやうな物でも街頭に提供するのでなければ、経済的に家族を扶養し得られない境遇に喘いでゐる。従来の十幾冊かある自分の感想集は、すべて書肆から望まれて出版したが、此の一冊だけは
私自身から進んで書肆に出版を懇請した最初のものである。私が如何に窮迫してゐるか、読者の諒察を得たい。たとえば自ら眺めるために園に植ゑた手作の花を切花として売るやうなものである。・・・・』

 寛は昭和5年 3月 、文化学院を辞しています。私学の学校経営は困難な時代でした。また、昭和5年代、武蔵野の村々は経済的な疲弊が極に達し、住民には飢餓状況さえへ生じ、経済更正、破綻回避の為の必至の取り組みをしています。都市部にもその気配は及び、当然に購買力は落ち、本を買うこともままならない状況でした。

 晶子の危機はその時に重なり、重苦しい時代の空気が一層その気分を助長したものと思われます。

北原白秋の弔辞と『多磨』

 昭和10年(1935)3月26日、寛は肺炎のため、慶応病院にて死去しました。多くの追悼がされましたが、明星と決別した北原白秋の弔辞を引用します。 

 「与謝野寛先生に対する大正以来の歌壇の態度は、今日に於てその過誤の多大と非礼とを是正し謝罪せねば許さるべきではない。私は弔い合戦に立つ気で起つ。思うさえ武者ぶるいを感ずる。わたくしならずとも、先生の遺骸を背にして獅子吼する正しい直門の人々のあるべきは疑わぬ。併し乍らわたくしにはわたくしの責務がある。責務というより反正の信念がある。また自らの俄悔がある。真実は勝つ。
・・・・・
 歌壇の白眼が何の為に来り、彼に対する先生の厳正なる忌避と没社交とが何の為に来ったか。色々の意味に於て、わたくしには歯ぎしりされるのだ。先生の晩年には、その師友と門下とに向って愈々に温厚に寛和であった。感謝と礼譲と慈愛とが深められた。特に其の夫人に対する崇敬と信実と擁護とは、その自序にも看らるるがごとく、その地上にまたとなき光輝を放った。夫人の幸福は、その天才の栄光と共に限り無く貴いものに思われた。

 わたくしは今、夫人に言うべきすべを知らぬ。弔問、通夜、告別の席を通じて、あまりに痛々しいその片影に直面したからである」(嵐山光三郎 追悼の達人 p329)

 白秋が追悼を述べるには様々な異論があったようですが、晶子が決めたそうです。白秋はやがて短歌雑誌「多磨」をつくります。その名が「多摩」ではなくて「多磨」としたのは、次のような背景があると、与謝野光は書きます。葬儀は文化学院で行われ、埋葬は多磨墓地にされました。

 『・・・いよいよ文化学院から多磨墓地へ行く。すると、白秋さんもついて行くと言うんですよ。あの人も感激屋だからね、熱血漢だからね、白秋って人は。母が代表に選んだっていうことで感激したわけ。喜んじゃってね。

 文化学院を出るときは雨だったのが、多磨墓地に着く頃には雪になってたの。雪の中で埋葬するわけ。その時に白秋さんが、「奥様、私は弔い合戦をいたします」って言ったんですよ。「弔い合戦」、うれしい言葉で母も感激した。

 それで白秋さんは詩の世界で主にやってたのを、また歌の仕事を始めて、短歌雑誌を作って『多磨』としたわけですよ。わかるでしょ、北多摩・南多摩っていうのは"麻"の下が"手"なんだけど、多磨墓地は"麻"の下"石"なの。・・・だから短歌雑誌『多磨』は「手」じゃなくて「石」になってる。白秋さんが父のために「弔い合戦」をしますって言って、本当に実行されたんです。有難い話です。』(晶子と寛の思い出 p195)

 どんどんページが長くなります。ここで打ち切って、関連のことは別に譲りたいと思います。北原白秋はこの時、砧村大蔵西山野(現・世田谷区)に住んでいましたが、 その後、昭和11年1月、砧村喜多見成城(現・世田谷区)に移り、昭和15年4月、杉並区の阿佐ヶ谷五の一番地に移りました。

 短歌雑誌『多磨』は 鉄幹・寛の亡くなった昭和10年6月、白秋が「多磨短歌会」を創り、その機関誌として同じ月に創刊されました。白秋が主宰し、浪漫精神の復興を目指したとされます。 『多磨』創刊に関しては様々な研究と解釈がされているようですが、まさに「弔い合戦が本当に実行された」のだと思います。

  白秋は、晶子が死去した昭和17年、同じ年の11月2日に世を去っています。

膨大な旅

 ここに自宅を構えてから、寛と晶子は旅に出ます。年譜を辿っても、あまりにも膨大な数の旅です。その一つ一つが寛・晶子の歌碑となり、全国的に建てられています。いつか廻ってみたいと願っています。寛と晶子に関係する人々の歌碑を含め、北から南までさっと飛んでゆけるようなホームページがあったらどんなにか楽しいだろうと夢を見ます。(2005.02.02.記)

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関連年譜

  著作に「寛」とないものは全て「晶子」の著作
  年齢は満年齢

昭和2年(1927)寛54才 晶子49才

2月 「和泉式部全集」(日本古典全集)に伝記・解題を発表。第二期「明星」四月号で終刊。
7月24日 芥川龍之介死去35才
9月 東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪に母屋完成、寛・晶子、富士見町5丁目9番地から転居。
    遥青書屋(ようせいしょおく)・采花荘(さいかそう)と名付ける
    住所は杉並区荻窪二丁目119番地→現・杉並区南荻窪四丁目3−22番地と変化 
   
昭和3年(1928)寛55才 晶子50才

1〜2月 評論「紫式部新考」を「太陽」に、1〜3月、評論「和泉式部新考」を「女性」に発表。
6月15日 第二一歌集「心の遠景」(日本評論社)、7月4日、感想集「光る雲」刊行(実業之日本社)。
  この年明星の復活の話が出る(菅沼宗四郎 鉄幹と晶子p10)

昭和4年(1929)寛56才 晶子51才

1月20日 詩集「晶子詩篇全集」(実業之日本社)
2月15日 参考書=教科書の副読本「女子作文新講」刊行、昭和6年4月まで、全6冊(国文閣)。
9月 「現代日本文学全集」(改造社)第三十八巻に詩歌を発表
10月「与謝野寛集・与謝野晶子集」(現代短歌全集第五巻 改造社)を刊行
12月20日 寛と共著(第二二歌集)「霧島の歌」刊行(改造社)。
  弟子から、晶子の50才の祝いに「冬柏亭」(とうはくてい)が贈られた。

昭和5年(1930)寛57才 晶子52才

3月 歌誌「冬柏」創刊。
3月 寛、文化学院を辞す。
4月 晶子、文化学院女学部長に就任。「婦選の歌」発表(婦選獲得同盟 晶子作詞 山田耕筰作曲)。
5月 寛と晶子共著の歌文集「満蒙遊記」刊行(大阪屋号書店)。

昭和6年(1931)寛58才 晶子53才

2月 寛「日本語源考」を「冬柏」に発表
2月10日 評論集「街頭に送る」刊行(大日本雄弁会講談社)
8月5日 晶子 高野山の夏季大学で講演
12月12日 晶子 國學院大學で講演

昭和7年(1932)寛59才 晶子54才

3月 寛、慶応義塾大学の教職を辞す。寛、同人と歌集「牡丹集」を発表
4月3日 寛、「爆弾三勇士の歌」東京日々新聞、大阪毎日新聞懸賞募集に入選


昭和8年(1933)寛60才 晶子55才

2月 「与謝野寛短歌全集」上・下刊行(明治書院)、自筆年譜を添える。
3月19日 新詩社短歌会を自宅で開く
9月〜翌年8月にかけて「与謝野晶子全集」改造社版 全十三巻を刊行

昭和9年(1934)寛61才 晶子56才

1月 那須温泉で新年を迎え、狭心症の発作を起こす。
2月1日 晶子 第十五評論集「優勝者となれ」刊行(天来書房)
8月 寛・晶子により談話筆記「明星の思ひ出」発表、(国語と国文学)

昭和10年(1935)寛62才 晶子57才

3月26日 寛 肺炎で慶応病院にて死去。63歳。法名「冬柏院篤雅清節大居士」。
5月 「与謝野寛遣稿集」刊行(明治書院)。
6月 冬柏に「評釈与謝野寛全集」を発表。昭和11年2月まで。

昭和11年(1936)晶子58才

1月11日 生田長江死去54才
2月26日 二・二六事件
10月 「短歌文学全集 与謝野晶子篇」刊行(第一書房)
10月30日 源氏物語と歌のレコード吹き込みをする。(コロムビア蓄音機株式会社)

昭和12年(1937)晶子59才

1月 白秋・信綱・茂吉らと「新万葉集」の撰者となる。
3月 脳溢血で倒れ一カ月臥床。
7月7日 日中戦争起こる

昭和13年(1938)60歳

1月 教科書副読本「新制女子作文」刊行。昭和14年1月まで。(祥文閣)
4月13日、盲腸炎の手術(神田駿河台三楽病院)。
4月「現代語訳国文学全集」第九巻「平安朝女流日記」(蜻蛉・和泉式部・紫式部の三日記)刊行(非凡閣)。
7月20日 「与謝野晶子集」(岩波文庫)刊行
10月21日、「新新訳源氏物語」全六巻(昭和一四年九月完結)刊行開始(金尾文淵堂)。
11月「藤太郎の旅」(行って参りますの再刊)刊行(朝日書房)
12月 肺炎にて入院。

昭和14年(1939)晶子61才

1月5日から伊豆に転地療養、16日帰宅。
7月9日 戸川秋骨死去
9月1日 心臓病により床につくことがおおくなった。

昭和15年(1940)晶子62才

5月 脳溢血で倒れ、以後、右半身不随の病床生活となる。8月、病状悪化。
9月 次女七瀬の奨めでカソリックの洗礼を受ける。洗礼名ヘレナ。
   次男秀一家が同居して看護に当る。
11月 河野鉄南死去66才。

昭和16年(1941)晶子63才

5月 寛の詩集「菜花集」刊行(金尾文淵堂)
7月28日 山梨県上野原依水荘に寝台自動車で静養に行く。9月3日、帰宅。
12月8日 太平洋戦争開始

昭和17年(1942)

1月4日 狭心症の発作。5月18日、尿毒症を併発
5月29日 死去。6月1日、青山斎場で告別式。多磨霊園の寛の傍らに葬られる。
  法名「白桜院鳳翔晶耀大姉」。 多磨霊園11区1種11側14番
11月2日 北原白秋死去