晶子・童話を書き、「青鞜」へ山の動く日寄稿、寛・渡欧 寛と晶子は明治43年8月4日、東紅梅町から麹町区中六番町3番地へ転居
して来ました。 面会お断り 『面会お断り 晶子の小説「明るみへ」の書き出しです。京子は晶子で、透は寛に置き換えられます。この当時、晶子に万来の客がある一方で、鉄幹にはまばらとなっていました。 訪ねる客も、晶子目的のため、寛が同席する場合には、申し訳ない思いで応対もぎこちなくなります。その機微をとらえて寛がいやみったらしく考え出した案でした。 「面白いのね」と晶子は、承知をした風をしながら、「およしなさいよ、馬鹿なことなんだもの」と云って止めてもらいます。当然寛は面白くありません。 子供に当たり散らしたりしたようです。 「人が来たら病気だと云っておおきよ」 と云って、女中に布団を持ってこさせ、晶子の机の横でごろりと横になります。晶子は次のようなショット を描きます。妹への借金の依頼を書く手紙の文中です。 『・・・良人はダリヤの根の元にある穴より出で来る蟻を錆庖丁にて叩き廻すことを致し居り候。二時間経ちて書斎を出でて眺め候時も、三時間経ちたる時も良人は変らずじつと蟻の張番を致し居り申し候。 東紅梅町からここ麹町区中六番町3番地へ転居してきた当時の寛と晶子の生活は、このような状況であったようです。そして続きます。東紅梅町時代に新詩社に加わった堀口大学が父と共にメキシコへ出立します。見送りのシーンです。 『(謹一) 「遅くとも来年の春までにはパリーへ参ります。」 透(=)寛と謹一(=堀口)のこの話が耳に入った人らは、みな顔を見合わせていた。』 多くが呆気にとられる中で、寛は、すでにヨーロッパへ行くつもりでした。癇癪を起こしながら、毎日ぶらぶらの手持ちぶさたの中で、5時間フランス語を勉強して いたとされます。与謝野光「晶子と寛の思い出」には、先生に自宅まで来てもらっていた様子が書かれています。晶子は、寛の願望を叶えようと動き始めます。「明るみへ」の中で嫁いだ妹に2000円の借金を申し込む手紙を書きます。
『貸し給へと申す二千円は良人に使はせたき金子に候。海の外に遊ばせばやと思ふ故に候。彼の心の病の不治の症ならぬことは、あなた様にもお分りになるべく候。救ひ候名医の要なきは心安く候。あなた様にて御都合悪しく候はば、他に人求めて猶(なお)私はこの心をなし遂げ申すべく候。』 門の外に大きい松が 麹町区中六番町3番地の家の状況は把握できていません。「明るみへ」の中に、『中六番町の今の八阪の家の門の外にあるような大きい松・・・』 (八阪家=寛・晶子家)とありますので、幕末からの区画が残された屋敷の敷地がいくつかに分割されて建てられた家であったようです。 次に転居する同じ地域の7番地の家の様子がわかりますが、それよりも3番地の家の方が家賃が高いことから推測すると、垣根が続く構えに、二階建てで、30坪ほどの庭や5坪ほどの中庭があって、 子供の遊ぶ姿や訪ねてくる人の様子から、大きな楓の木やシュロ、ヤツデなどが庭木としてあったようです。
幸いこの地は、明治末と道路割りがあまり変化していないので 現在のJR市ヶ谷駅を降りると先ず現・新坂か大きなビルが目に付きます。
画像に向かって靖国通りを少し左に進むと
右側最初の路地が帯坂(おびざか)です。
左に曲がって、真っ直ぐ150メートル程進むと右側に東郷公園があります。
坂を登り切るところに交差点があり
右折すると千代田女学園の校舎が見え、その角が、かっての麹町区中六番町3番地です。
交差点を曲がって旧居あたりの現状です。東京ビジュアルアーツとの間になります。 「明るみへ」の中に『・・・・三番町の停留所で降りて、山市場亭のある横町 へ入った時、何でも二間ほど後から、職人風の男が随 いて来ると思っていたのが、不動の通りから東郷坂へ 曲ってもやっぱり随いて来る。・・・』との記述がありますので 、寛・晶子は市ヶ谷駅下車ではなくて、地図の「三番町停留所」で降り、現・靖国通りを二七不動尊の方に進み、どれかの路地を経て、二七通りに出て、あとは東郷坂を登ってきたものと思われます。 この地へ何故転居してきたのかは調べきっていませんが、有力同人の平出修が麹町区富士見町に住んでいたことがあり、明治36年(1903)3月14日、東京新詩社の集まりを持っています。かって、近くに、前妻・瀧野と住み、新詩社を興したところでもあり、寛にしてみれば、馴染みの土地だったとも云えます。 講談社版 定本 与謝野晶子全集第十二巻の扉に中六番町3番地時代(大正3年)、家の庭先で子供つれた晶子の写真がありますが、実に多くの木樹に囲まれた所であったことがわかります。しかし、ここでの生活は、寛、晶子ともに厳しいものがあり、それらを思うと複雑な感情に包まれます。主な出来事を追ってみます。 晶子、童話を書く 明治43年(1910) 9月26日、晶子は童話「おとぎばなし 少年少女」を博文館から刊行 しました。27の短編が集められています。当時4人の子供がいましたが、その子供達のために書きためたものをまとめたのでした。「はしがき」には 『初(はじめ)の内は世間に新しく出来たお伽噺(とぎばなし)の本を買ッて読んで聞かせるやうに致して居りましたが、それらのお伽噺には、仇打(かたきうち)とか、泥坊とか、金銭に関した事とかを書いた物が混ッてゐたり、又言葉づかひが野卑であッたり、又あまりに教訓がかッた事を露骨に書いたりしてあッて、児共(こども)をのんびりと清く素直に育てよう、闊(ひろ)く大きく楽天的に育てようと考へてゐる私の心持に合はないものが多い所から、近年は出来るだけ自分でお伽噺を作』ったとしています。 明治41年に「絵本お伽噺(とぎばなし)」を祐文社から出しています。それに引き継ぐもので、晶子は、この頃から新しい活動分野に乗り出していたようです。 「おとぎばなし 少年少女」の中の「金魚のお使い」の最初は 金魚のお使(つかい) この当時、寛は心が沈み、晶子にとってはやっかいな日々を過ごしました。その寛と調子を合わせながら、毎日の食事を得るための原稿を書き、子供達のために童話を作る姿を思いやると、何も痕跡が残っていないこの家に、たまらない愛しさを感じます。 渡航費の工面 この家での晶子が抱えた大きな仕事の一つは、寛の渡航費の調達でした。東紅梅町の家の時代から寛は自分の置かれた場の転換を図るべく、ヨーロッパの詩や芸術の動向に関心を寄せ、フランス語を学び、できれば自らも訪れたいと思っていたようです。 晶子も早くから気付き、その費用を調えようとしています。短冊や扇にサインすることなどいろいろ考えたようですが、一つの方法が浮かんできました。「明るみ」から関連部分を抜き出すと 『「私ね、小沢さんに御相談しようと思って来たのですがね。小沢さん、私二千円ほどお金が欲しいのですわ。」 そんな時、徳山の方へ旅行に行っている寛から手紙が来ます。 というものでした。どうも、かって別れた先妻・瀧野の実家から工面したと思われるのでした。晶子は苛立ちます。「明るみへ」では、次のように記されます。 晶子「青鞜」に「山の動く日」を寄稿 この時の様子はいろいろと語られますが、全体的な動きを瀬戸内晴美 「青鞜」が伝えますので、引用します。
『閨秀文学会の講師として源氏物語の講義を聞いた時の晶子は、着くたびれた普段着らしい着物を着、髪を結えた黒い紐がだらしなく垂っていて、見るからに生活にくたびれきった所帯やつれを全身から溶ませ、とてもあの情熱的な「乱れ髪」の作者とは信じ難いような雰囲気だった。明は最後までそんな晶子になじめず、講義もほとんど聞きとれず、面白くなかった。長江に晶子をいれるようにといわれた時も迷った。 当時の晶子の置かれていた状況からすれば、衣装に突っ張りを見せながらも、雑誌発行には多少の疑問を持ち、危惧とも励ましともつかぬ話をしたのでしょう。それが、一番最初に送られてきた原稿が晶子のものであり、その中身を見て、青鞜同人は大喜びをしたでしょう。 明治44年(1911)9月1日、「青鞜」は創刊されました。 「元始女性は実に太陽であった。真正の人であった。 の宣言に続き、巻頭は与謝野晶子「そぞろごと」(山の動く日)でした。 受け取った平塚明には、面会した時の失望感があっただけに、感激でした。一般の人にも男女平等を目指す運動家にも、新鮮な喜びを以て迎えられました。しかし、この後、平塚明( =らいてふ)と晶子は対立することになります。 晶子・評論集「一隅より」の刊行 明治44年(1911)1月、晶子は、雑誌「太陽」誌上に評論「婦人と思想」を発表しました。 7月20日には、最初の評論集・感想集「一隅より」を金尾文淵堂から刊行しました。晶子が『独自の思考を浮き出させた文章を書き出したのは1911年(明治44年)1月あたりからである 』と香内信子は云います(岩波文庫与謝野晶子評論集 p351)。 目次 産屋物語 婦人と思想 新婦人の自覚 婦人の青春時代 雨の半日 女子と都会教育 清少納言の事ども 日常生活の簡潔化 歌を詠む心持 新婦人の手始 産褥の記 離婚について 座談のいろいろ 女子の独立自営 私の宅の子供 日記の断片 産褥別記 老先輩の自覚 線と影(詩、十一篇) 雑記帳 で、19篇の評論・随筆、11篇の詩によって構成されています。初出執筆時は、1909年から1911年6月までのものとされます。前書きがあって 『近い三、四年に書いた感想文と詩篇との中から、書肆(しょし)の希望に従い、その一部を輯(あつ)めたのがこの一冊です。感想文の方はもともとかような書物にしようと思って書いたのでなく、大抵新聞雑誌の依頼を受けてその時時に筆を執ったのですから、多少重複した所などもあろうと存じます。 東京麹町にて、晶子。』 とあって、東紅梅町に住んでいた頃から書かれた経過がわかります。冒頭に「産屋物語」が置かれています。やがて論争のもととなる「母性保護」に関する晶子の原点とも云えるもので、 『・・・妊娠の煩(わずら)ひ、産の苦痛(くるしみ)、斯う云ふ事は到底(とうてい)男の方に解る物では無からうかと存じます。女は恋をするにも命掛です。併し男は必ずしも然うと限りません。よし恋の場合に男は偶(たまた)ま命掛であるとしても、産と云ふ命掛の事件には男は何の関係(かかはり)も無く、又何の役にも立ちません。是は天下の婦人が遍(あまね)く負うて居る大役であつて、国家が大切だの、学問が何うの、戦争が何のと申しましても、女が人間を生むと云ふ此大役に優るものは無からうと存じます。 昔から女は損な役割に廻って「、こんな命掛の負担を果たしながら、男の手で作られた経文や、道徳や国法では、罪障の深い者の如く、劣者弱者の如くに取り扱われているのはどういう物でしょう。・・・』 (岩波文庫 与謝野晶子評論集p32) と主張しています。 「君死にたもうことなかれ」の流れとしては、「婦人と思想」のなかで、日露戦争に関して 『・・・また日露の大戦争に於て敵味方とも多くの生霊と財力とを失つたと云ふ如き目前の大事実についても、日本の男子は唯その勝利を見て、かの戦争に如何(いか)なる意義があつたか、如何なる効果をかの戦争の犠牲に由つて持ち来(きた)したか、戦争の名は如何様(いかよう)に美しかつたにせよ、真実を云へば世界の文明の中心思想に縁遠い野蛮性の発揮では無かつたか、と云ふ様な細心の反省と批判とを徐(おもむ)ろに考へる人は少ないのである。 ・・・ 』(岩波文庫 与謝野晶子評論集p55) と書いています。雑記帳は晶子の専売特許で、気が付くまま、興がのるまま、何でも書き込んだようで、寛は「お化帳」と呼んだそうです。雑記帳について、岩波文庫版の編者は 『「雑記帳」とは文字通り晶子が、常に数冊のノートを手元において「赤ん坊を抱きながら、背負しながら、台所で煮物をしながら、病気の床で仰向きながら、夜遅く眠い目をして机に恁(かか)りながら、何かしら脳の加減で黙って泣きたくなり、またいらいらと独り腹立しい気分になりながら」筆、鉛筆、ベン、朱筆、なんでもそばにあるもので、順序もなく感想や日記のような心覚えなるものを書きとめておく。』 と解説しています。 寛、ヨーロッパへ 君こひし 寝ても醒めても くろ髪を 梳きても筆の 柄をながめても の状況になります。やがて寛からの誘いがあり、晶子も子供を預けて渡欧することになります。寛を見送った後、晶子は、次の麹町区中六番町7番地の家に移ります。 年譜ではその時期がはっきりしませんが、「明るみへ」(補遺)では明治44年(1911)12月3日とされます。
関連年譜 8月4日 駿河台東紅梅町2番地から転居 明治44年(1911)寛38才 晶子33才 1月3日 平出修と啄木が年始の挨拶 (2005.01.15.記)
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