与謝野寛、炊事番をし「鳳雛」を発行 明治25年初めて上京した鉄幹は義兄の家に1ヶ月程を過ごし 義兄の家の経済が極めて困窮しているのを察しての行動でした。ここでも、 本郷駒込吉祥寺境内 与謝野寛のこの頃の生活実態はよくわからないようです。多くが、寛の自伝 を引いて書かれています。その自伝では、麹町菊坂の 『……異母兄また窮状にあり、寄食すべきに非ず、由って前年より東京哲学館に学べる佐村八郎と貸間を物色し、たまたま駒込吉祥寺内にもと学寮に附属せし寄宿舎の空房となれるを発見し、僧に乞ひ、一室月額十五銭の借料を約して移る。 佐村八郎を初め哲学館の学生多く移り来り、各室に自炊す。唯だ朝夕に学生諸君のために米飯を炊飯するは寛の役にして、この役を引き受くることに由って、寛の室料十五銭を諸君に於て負担す。 諸君は皆富める寺院の弟子にあらざれども…寛ひとり資無く、著述の代作及び筆耕を以て纔(わず)かに飢を凌ぐと雖(いえど)も、その事無き時は焼芋を以て一日一食に代へ、或は しばしば絶食す。其中に日々上野の帝国図書館に通ひて濫読せり。一月余にして諸君みな胃を病んで下宿屋に帰り、残るもの佐村と寛のみ・・・。』 として、ここでの生活を語っています。いわゆる栴檀林(せんだんりん)と呼ばれる曹洞宗の修業所跡の空き家に住んだようです。逸見久美「評伝・与謝野鉄幹 晶子」(p566)はこれに加えて、『生活の糧をうるために、東京師範学校教授の「国民修身講話」(松栄堂版)を代作したり、「楽翁公遺書」の校正をやったりする。 』としています。 駒込の吉祥寺は余程、文士に縁があると見えて、石川啄木の父親もここで勉強したことがありました。また、川上眉山の墓があります。現在の駒込吉祥寺は戦火に焼けて 、与謝野寛が住んだという「もと学寮」も「附属せし寄宿舎の空房」もありません。
明治の地図と江戸名所図絵から復元すると 文京区の「ぶんきょうの史跡めぐり」によれば、 『栴檀林(せんだんりん)は曹洞宗の修業所であった。学寮・寮舎を備え常時一千人余の学僧がいた。各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となる。寮主はさらに役員を選び、これら役員によって学問の指導や日常生活が話し合いによって運営された。』(p145) となっていますので、その規模が想像されます。栴檀林は、明治15年に、駒澤大学の前身として麻布に移っていますから、鉄幹が「空房」を借り、「各室に自炊す」として、その食事の用意をして、室料を得た頃には、大方が破壊され残されていたいくつかの建物の一棟であったと思われます。
現在は本堂といくつかの建物があり 「鳳雛」の発行 本郷駒込時代の寛にとって大きな仕事は「鳳雛」(ほうすう)の発行でした。 その中身は、永畑道子「憂国の詩(うた)」で、『この幻の雑誌『鳳雛』は、勝本清一郎氏が“二十五、六年の探索”のあとようやく入手、その詳細が、『日本古書通信』に報告されている。』(p76)とされますが、一般には目にできません。したがって、研究者の成果によることになります。寛自身の年譜によれば 『九月に上京せる異母兄から十金借りて『鳳雛』を刊行す。この誌上に落合直文先生の『萩寺の萩』と云ふ一文、北村透谷の一文等を載せ、寛自身は長短歌を発表す。資力継がずして一号にて廃刊す』 となっています。発行日は明治25年12月1日とされます。内容は、逸見久美「評伝・与謝野鉄幹 晶子」によれば 『表紙は日付の下に、「青年文学、鳳雛、第一編、鳳雛会」と四行の横書きに書かれてある。第一編とあるか 「先輩」には「現在の国文」と題して直文の一文がある。鉄幹は「歌文」に与謝野寛の名で、「擣(とう)衣曲」を鉄幹の名で、「軍中謡」と小説「忍び音」を「くしみたまの舎」の雅号で掲載している。このほか、「歌文」に北村透谷の「風流」、河井酔茗の「誰が故郷」をのせている。』 としています。そして、
『「鳳雛」について酔茗の直話によると、四六判五〇頁ぐらいの本だとある。今日まったくの珍本で知る限りでは故勝本清一郎氏だけが保管していたと聞く。刊行年月については「歌学」(明25・12)の雑報欄に「十二月一日直文正直等をめぐる青年文学者が集って青年文学鳳雛会を起せり」とあり、また「婦女雑誌」二十四号(明25・12)には、 たとえ資金面で信子の援助があったとしても、雑誌刊行は上京後の彼の出発の第一歩であり、「文学界」創刊、浅香社創立の前年に一冊限りでも出版したことは文学に対する非常な冒険であったといえよう。 また明治浪漫主義運動の起る前提として先駆的な意義が深いとともに雑誌刊行の少ない時期であっただけに特異な存在として注目され翌年創刊された「文学界」に何らかの刺戟を与えたといえよう。』(評伝 与謝野鉄幹 晶子 p76) と高い評価を与えています。中 晧は 『「鳳雛」は、おそらく国学和歌改良論を下敷にした歌論を主張した雑誌であったのであろう。その意味では民友社の蘇峰、三叉、愛山等の詩歌論、詩人論ほどの新鮮さもなかったのではないか、と思われる。当時の新知識である西洋の思想、学問、文学に全く素養のなかった寛にとっては致し方のないことであったが。 だから、「鳳雛」は、寛の文壇活動の最初のあらわれとして、伝記的興味をひくが、雑誌の内容そのものは、とり立てて注目し問題にするまでもないようである。 寛は、「鳳雛」発行によってジャーナリストとして世に立とうと考えたのであろうか。それにしても、文学的実力といい、資金面といい、全く基礎のない寛にとっては全くの投機的冒険としか言いようのない行動であった。』 (与謝野鉄幹 p52) 20歳の青年が、上京以来、わずか3ヶ月に満たない間で、 「しばしば絶食」という極貧の中、四六判56ページに及ぶ雑誌を発刊したことには目を見張ります。その資金をどのようにして工面したのか、その出所を巡って多くの論があります。 渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では
『九月初めの上京以来、わずか三カ月に満たぬ期間でどうしてこれだけのものをつくれたのか。その早業はともかく、この資金はどこから出たのであろうか。 としています。異母兄 大都城 誠・響天がいくばくかを拠出したのだろうとされます が、鉄幹との仲を無理に裂いた浅田信子の実家 がここで出てくることは、当時の寛を考える上で面白いポイントでもあります。 いずれにせよ、覇気に燃える鉄幹がその才覚を秘めて世に出ようとする一こまが、幻とも云える「鳳雛」に込められていたことは疑いないようです。 落合直文宅へ 明治26年2月、鉄幹が文壇に登場するきっかけが生まれます。 吉祥寺の学寮に、路一つ隔てて、落合直文が転居してきました。直文は鉄幹の実情を目にして、自宅に招き、寄宿する場を与えます。(2005.02.13.記) 関連年譜
明治25年(1892) 19歳
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