丘の上の家 『 それは十一月の末であった。東京の近郊によくある小春日和で、菊などが田舎の垣に美しく咲いていた。・・・・ 渋谷の通を野に出ると、駒場に通ずる大きな路が楢林(ならばやし)について曲がっていて、向こうに野川のうねうねと田圃(たんぼ)の中を流れているのが見え、その此方(こちら)の下流には、水車がかかって頻りに動いているのが見えた。
地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められた。私たちは水車の傍(そば)の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩いた。 渋谷の駅前(西口)からその道を辿ってみます。 明治29年(1896年)9月4日、26才の国木田独歩は、悲惨・傷心の中に渋谷に移ってきます。 あまりの貧しさか自由を求めてか、恋した妻「信子」は4月12日独歩のもとを黙って去ります。独歩は狂ったように信子を捜し廻り、遂に探しあぐねて、麹町の家(信子の両親と同居していた)を出て、渋谷へ移ってきたのでした。そこへ、11月末に田山花袋が訪ねてきたときの様子です。 西口から「公園通り」を渋谷区役所方面に向かい、西武デパートの角を左折します。 そこから「井の頭通り」が始まります。 「此処らに国木田って言う家はありませんかね。」 「井の頭通り」を代々木方面に向かって右側を注意しながら進むと 坂を登ると中腹の右側に「山路愛山終えんの地」の標識があります。 山路愛山は普選運動や東京市電車賃値上げ反対運動を推進しながら 田山花袋 東京の三十年 「丘の上の家」では と紹介しています。独歩の住む丘の上の家にはこの坂を登っても、「井の頭通り」に戻っても行けます。ただ、現在の景観からは全く想像ができません。幸い大岡昇平が「少年」でこの辺りの地図を書いていますのでそれをもとに復元してみます。 渋谷駅が現在より300メートルほど南側に位置していましたから、現在の位置と合わせるには宮益坂、道玄坂を中心にするとほぼ跡がたどれます。憲兵分隊の憲の字の左上から分岐し、至東大農学部の道が、現在の文化村通りになります。憲兵分隊の隊の字の右上から陸軍刑務所への道が現在の公園通りです。 山路愛山の家の家の字の辺りが西武デパートで、山路愛山の家の前を通り牛乳屋の道が現在の井の頭通りの旧道敷になります。陸軍刑務所は渋谷区役所や神南小学校に変わり、代々木練兵所はNHK放送センターや代々木公園に変わっています。北谷稲荷の位置は現在と変わっていませんので、ここからも大方の見当が付けられます。 ちなみに 山路愛山終えんの地は宇田川町13 で、標識を頼りに、すっかり景観は変わっていますが大体の位置を訪ねることができます。残念ながら、大岡昇平宅にはなんの標識もありません。これはどうしたことなのでしょう? 花袋一行は山路愛山の家の辺りを通り、堰の水車の土橋を渡って、茶畑や大根畑に添って歩きます。そして、 『少し行くと、果して牛の五、六頭ころごろしている牛乳屋があった。「ああ、あそこだ、あの家だ!」こう言った私は、紅葉や栽込みの斜坂の上にチラチラしている向うに、一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて、ぽつねんと立っているのを認めた。 「国木田さん、国木田さんはあそこだ!」 「好い処ですね。君。」 となって、話し込み、夕刻 帰り支度をすると、 として、この日の訪問は終わります。その後は柳田国男も含め多くの文人が集まり、丘の上の家は若き詩人、小説家、芸術家のサロンを形成しました。何よりも、この家で「武蔵野」の構想を練り執筆にかかったことが喜ばしい限りです。 その家は坂だけが地形として残り、ただ一本の木柱碑が立っていて、往時を偲ばせます。山路愛山終えんの地の坂を登っても、「井の頭通り」に戻って代々木公園の方向に進んでも、NHK放送センターの建物を目にして、その木柱碑に達することができます。 渋谷公会堂とNHK放送センターの間を走る道路に木柱碑があります。 街路樹とポールの間にあるため、ほとんど見過ごしてしまいます。 『国木田独歩は明治四年(1871)銚子に生まれ、同二十九年ここに移り住み 一番分かり易い道順は 牛の5〜6頭ころごろしている牛乳屋にオーイと声を掛けて 『夏の末から、翌年、日光に行くまで、国木田君は、その丘の上の家で暮した。思うに、国木田君に取っても、この丘の上の家の半年の生活は、忘るることが出来ないほど印象の深いものであったろうと思う。紅葉、時雨、こがらし、落葉、朝霧、氷、そういうものが「武蔵野」の中に沢山書いてあるが、それは皆なこの丘の上の家での印象であった。』 独歩はやがて田山花袋と連れだって日光へ執筆旅行に出かけます。この間に、残った弟と家主の間にいざこざがあり 『それは明治二十九年で、その四月の二十日に、私たちは飛鳥山の花を見捨てて日光のS院に行って寓した。そして一月そこにいて、六月の初めに東京に帰って来たが、その時はその丘の上の家を弟の北斗君が留守にたたんでしまって、麹町の番町(ばんちょう)の二松学舎(にしょうがくしゃ)の近所に下宿しなければならなくなっていた。国木田君はそこに半年、あるいはもっと以上いたかも知れなかった。 その下宿の隣に、ある画家の未亡人が大勢の娘たちと一緒に住んでいて、その総領娘の二十二、三になるのと、国木田君は再ひ恋に落ちた。それが今の未亡人だ。この未亡人との恋の物語も私はよく国木田君から聞かされた。 「君は西にわれは東に野辺の路(みち)別れんとすれは時雨(しぐれ)ふり来ぬ。」 これは未亡人が八王子に行くのを送って、吉祥寺駅あたりで別れようとした時に国木田君が詠んだ歌だ。 で、田山花袋の「丘の上の家」は終わります。
106年後の丘の上にはひっきりなしに車が行き来していました。
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