新宿さまよい歩き 7

三日月不動明王にちなんだ「不動通り」

太宗寺(たいそうじ)(浄土宗芝増上寺の末寺、霞関山本覚院)

 @正受院から新宿御苑方向に進んでも
 A若山牧水・貴志子旧居跡を新宿1丁目方向に向かっても
 B新宿通りの新宿2丁目と1丁目の境を靖国通り方面に行っても
 『六地蔵のお寺でしょ!』、『閻魔大王の太宗寺さんね』、『三日月不動さんは御利益がありますよ』、『・・・』どこで聞いても何らかのニックネームで案内されて、この寺に着きます。徳川家康から内藤新宿の地を与えられた内藤家の菩提寺です。

モダンになった太宗寺

 すでに、慶長年間(1596〜1614)の頃からあったといわれていますが、歴史的には、寛永6年(1629)に内藤家四代の正勝が没して、はじめて太宗寺に葬られ、五代重頼が開基となっています。寺領は重頼から7396坪を寄進されています。寺内に内藤家の墓所があります。門を入ると最初に目に付くのが右手にある大きな地蔵尊です。

金銅大地蔵尊(太宗寺)

 露座の金銅大地蔵尊で、江戸六地蔵の一つです。正徳2年(1712)9月、深川の念仏行者、地蔵防正元(しょうげん)が建立したものとされます。正元は江戸中を勧進し、浄財を募って六体の地蔵尊像を鋳造しました。江戸の五街道(東海道、中山道、日光道中、甲州道中、奥州道中)すじに祀られました。太宗寺の説明を引用します。

 『江戸時代の前期に、江戸出入口六ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつ。銅像で像高は267cm、正徳二年(1712年)九月に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。なお、像内には小型の銅像六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されている。

 その他の地蔵所在地

   品川寺(南品川)    1708年
   東襌寺(東浅草)    1710年
   真性寺(巣鴨)      1714年
   霊厳寺(江東区白河) 1717年
   永代寺(江東区富岡) 1720年』

夏目漱石と地蔵尊

 この地蔵尊に幼少の夏目漱石が登って遊びました。その様子が『道草』三十八にあります。

 『路を隔てた真ん向ふには大きな唐金の仏様があった。其仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐ってゐた。太い錫杖を担いでゐた。それから頭に笠を被っていた。

 健三は時々薄暗い土間へ下りて、そこからすぐ向う側の石段を下りるために馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へよじ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、其先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。』

 後に、夏目漱石の旧居跡を訪ねますが、漱石の小さい頃、太宗寺の北側と南側に住んだことがあります。『道草』三十八の「馬の通る往来」は現在の新宿通りでしょう。太宗寺の南側=新宿通りの南側に伊豆橋(いずはし)という妓楼があって、そこに住んでいた時、遊びに来たようすを書いたものと思われます。

閻魔像と脱(奪)衣婆像(太宗寺)

 閻魔堂内に高さ5.5メートルの閻魔像が祀られています。一説には運慶作とも云われ、都内最大とされます。幕末には、目玉が水晶であるとのことから片目が抜き取られる事件がありました。閻魔は冥府の王、あるいは9王を加えて十王を構成し、閻魔王を裁判長として陪審の形をとる信仰があります。

 閻魔像の左側に2.2メートルの脱(奪)衣婆の像があります。脱(奪)衣婆は、死者が冥途に行く途中で越えねばならない三途の川に出てくる信仰です。

 『三途の川のほとりには衣領樹という大樹があり、その下に奪衣婆、懸衣翁という鬼形の姥と翁がいて、姥は亡者の衣服を奪い取り、それを翁が受け取って衣領樹に掛ける。亡者の生前の罪の軽重によって枝の垂れ方が異なるという。三途の川を渡るとき、着衣をはぎ取られるという考えが中世にあったのは、《義経記》に 

〈さんづの河をわたるこそ、着たる物を影がるるなれ〉と記されていることからもわかる。のちに、この三途の川を渡る渡し賃をもたない亡者がくれば、奪衣婆がその着衣をはぎ取ってしまうと考えられ、死者に渡し賃として六文銭をもたせる習俗が生まれた。』(平凡社百科事典)

 「太宗寺のおばば様」と庶民の信仰を集めたことが伝えられます。この地に都内最大とされる閻魔のセットが祀られたことは、この地が持つ独特の意味があるのでしょう。堂前に青地に金泥をもって書かれている「閻王殿」の額がありますが、嘉永3年(1850)に清の国の官吏・秋氏が寄進したものとされます。丁度、十二代将軍家慶の時代(嘉永年間、1848〜1853)にあたり、この閻魔の威名が中国に聞こえていたとは驚きです。

不動堂(太宗寺)

 閻魔堂と相対して不動堂があり、面白い伝承を持つ三日月不動明王像が安置されています。江戸時代の作とされ、尊像の頂きに銀製の三日月をのせています。

 「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまであまねく済度せん」との誓願にかたどられたものとされます。この不動明王は多摩と関係があって、寺に伝わる縁起によると

 『武州高尾山に安置せんがため、不動明王を江戸から甲州街道を経て運搬の途中たまたま太宗寺の境内で暫時休憩となり、不動像をおく。

 さて、出発という時になり、不動像の重みにわかに加わり、記録によると「盤石の如し」とあるように、微動だにもせずかかりの人は、以前にも不動尊の霊夢を感じたことなどあって、太宗寺が不動鎮座すべき有縁の地ならんと判断し、不動堂建立となる』とされています。


切支丹燈龍(太宗寺)

 境内も社務所の近くの一隅に安置されています。本みかげ石製で、かっては燈籠の笠石はなかったのですが現在は付けられています。何となく十字架の形を思わせる中に、両手を胸に組み、マリアに似せた像が浮き彫りされています。新宿区教育委員会の説明板では次のように解説しています。

 『昭和27年(1952)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。

 石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。

 切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代〜江戸時代初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈されマリア観音とも呼ばれています。

  新宿区登録有形文化財 歴史資料    登録年月日 昭和60年3月1日』

 徳川幕府は切支丹宗の信仰をきびしくせん議するため、宗旨改めを毎年行い、人別帳をつくらせて目を光らせていました。それをかいくぐるように、このような燈籠をつくって信仰厚くお祀りしていたことが偲ばれます。新宿区内では、河田町の月桂寺に織部灯籠があり、切支丹燈籠とされます。「内藤家墓所から出土した」ことに興味が湧きます。

鎌倉街道中道

 太宗寺から正受院に至る道(下図参照)は鎌倉街道(中道)とされます。後で訪れる「西向き天神」の前を通って目白方面に向かいます。もちろん旧道がそのまま残っているわけではありませんが、甲州道中と鎌倉街道が交差するこの一帯に、天正18年の家康江戸入府に先立って、北と西への防御のため、内藤清成が陣を敷いた要所です。それらの功があって、内藤家は広大な領地を拝領したのでした。

 時代が変わり田山花袋は「東京の三十年 川ぞいの路」で次のように描いています。

 『私の家はその時分、四谷の大木戸に移って住んでいた。私は毎朝そこから出かけて、新宿の通りの大宗寺の筋向うから入って、それから長い間細い縞麗な玉川上水に添って歩いた。検査日には、女郎のいやに蒼白い顔をした群などのぞろぞろやって来るのに逢った。

 新宿の山手線の踏切……それも唯一線あるばかりであったが、それを越ゆると、玉川上水は美しい水彩画のような光景を次第に私の前に展けて来た。楢の林があると思うと、カサカサと風に鳴る萱原がある。坂路にそって昔から住んでいるらしい百姓家が一軒ぽつねんとしてある。栗の木がある。と、帯を引いたような細い水の流れが、潺湲として流れているのが眼に入る。』

 花袋は明治26年8月(23才)、牛込から四谷区四谷内藤町1番地(大木戸)に転居しました。この作品はその当時の景観を描いているものと思われます。

夏目漱石旧居跡

 夏目漱石にとって新宿区は生誕の地、終焉の地と縁が深いのですが、今回ご案内するところは漱石の幼年時代のいわば特殊な時期の場所になります。年表風に追ってみます。

慶応3年(1867)0歳
  2月9日(陰暦1月5日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町1番地)で誕生 金之助と名付けられる。
  兄・姉が7人おり、母乳のなかったこともあって、生後、直ちに四谷の古道具屋に里子に出される。
  ただし、すぐ生家に戻る。

 『私はその道具屋の我楽多と一緒に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていた』・・・『それを或晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見付けて、可哀想とでも思ったのだろう、懐に入れて宅へ連れてきた』(『硝子戸の中』)

慶応4年・明治1年(1868)1歳
 11月、内藤新宿北裏町16番地(新宿区新宿2丁目23番地)の門前名主塩原昌之助の養子となる。

明治2年(1869)2歳
  4月 朱引内の名主制度廃止 昌之助は新たに定められた制度=番組の代表になり、
      浅草三間町(台東区雷門2丁目)に転居。 

明治4年(1871)4歳
 内藤新宿太宗寺前 妓楼「伊豆橋」に住む。

明治6年(1873)6歳
 浅草諏訪町4番地(台東区駒形1丁目)に転居。

 1歳の時、11月から翌年の4月まで住んだ内藤新宿北裏町16番地は太宗寺の北側になります。そして、約2年後、今度は太宗寺の南側に住みます。そのことが、「道草」に次のように描かれます。

 『そうして其行き詰りには、大きな四角な家が建ってゐた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。其二階の上も下も、健三の眼には同じやうに見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であった。不思議な事に、其広い宅には人が誰も住んでゐなかった。それを淋しいとも思わずにゐられる程の幼ない彼には、まだ家といういものの経験と理解が欠けていた。

 彼は幾つとなく続いている部屋だの、遠く迄真直に見える廊下だのを、恰も天井の付いた町のやうに考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中駆け廻った。彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向こうには大きな唐金の仏様があった。・・・』(道草 三十八)

(内藤新宿ー歴史と文化の新視点ー等をもとに作成)

 なぜ夏目漱石が遊郭伊豆橋に住んだのか、複雑な背景があるようです。江藤淳は、「漱石とその時代、第1部」で、大要

 『漱石の母・千枝は、四谷大番町(現在の大京町)の質屋 鍵屋庄兵衛の娘であった。この質屋の父親が、伊豆橋に金を貸し、やがて債権者として伊豆橋の経営を任された。この父親は、千枝の姉に養子をとって、この遊女屋を営業させた。』

 としています。さらに、漱石の腹違いの長姉・佐和が、伊豆橋の跡取り息子・福田庄兵衛に嫁いだようで、そのような関係から、伊豆橋の管理を漱石の養父である塩原昌之助が任され、漱石が住むようになったようです。母が遊女屋の娘であったとする説に対しては、夏目伸六氏が「父・夏目漱石」の中の「漱石の母とその里」で「こうした誤謬が・・・広く世間に流布され、ながく後世に伝わるとすれば、私としても、一応ここにその訂正を試みる必要を感じるのである。」として明確に否定しています。

 夏目漱石の原点の一つを形成した時代の旧居跡と云えそうです。

四谷水番所跡

 新宿通りを四谷四丁目の方向に進みます。やがて、四谷4丁目交差点に出ますが、交差点に向かって右側の手前に大きな碑が立っています。この一帯は、玉川上水を管理する「水番所跡」でした。水門によって給水量の調節、ゴミ類を除去し、満水の時は分水して渋谷川に流していました。庁舎の裏側に、その水路の一部が残されています。

                          玉川上水の最末端現況

 ここから江戸市中には地下に石樋を通じて配水しました。給水量の調節とその出入りを管理する重要な役目を持たされていました。そのため、水番所構内に、次のような高札が立ててありました。

 「一此上水道において、魚取り、水をあび、ちりあくた捨るべからず、何にても物洗ひ申間敷 両側三間通に在来候並木、下草其外草伐取申間敷侯事

 右之通於相背輩有之者可為曲事者也

   元文四己未年十二月 奉行」

 東京都が設置した「四谷大木戸跡」の碑はこの石樋を利用しています。江戸名所図絵に四谷大木戸と一緒に辺りの様子がよくわかる絵があります。

玉川上水記念碑

 明治28年(1895)に建立されたもので、玉川上水を開いた玉川兄弟の功績をたたえたものとされます。明治18年日本橋の西座真治が発起人になって建設を進め、10年後に完成しました。

 水は生活に一日も欠かせない。百万都市徳川氏の開府した江戸は海を陸としたため清泉がなく、渇水の恐れがあり、秀忠は心を痛めた。・・・と言うような書き出しで

 予算6500両、多摩川から水を引いて江戸町民の飲料水と防火用水を確保、費用の不足を生じたが、玉川兄弟二人が私金を注ぎ工事を続行した。承応2年(1653)4月工事着工、同年11月完成。家綱はこの労苦に対し「玉川」の姓を与え、兄弟は玉川上水役となった。

 との事績が述べられて、その功績を顕彰しています。西座真治の経歴、記念碑建立の動機などは不明とされます。なお、碑文の全文は、蓑田たかし 「玉川上水 橋と碑と」で紹介されていますが、着工年が「承応三年」となっています。

 

四谷大木戸跡(四谷4丁目交差点中央) 

 現在の四谷4丁目交叉点付近に四谷大木戸が置かれていました。元和2年(1616)のことで、高輪(東海道)とここと2カ所に設けられました。大阪の陣が終わった年で、西への防備であったと考えられます。

 江戸名所図会に描かれているように、道の両側に石塁と木戸を設けて、明け六つ(午前6時頃)から暮れ六つ(午後6時頃)まで通行人や出入り物資を検問し、夜間は木戸を閉ざして通行を禁止しました。江戸時代の地誌の一つ『御府内備考』に

 『江戸砂子に云、此地むかしは左右谷にて至て深林の一筋道なり、御入国の此往還糺されしといふ、七八十年迄は江戸より駄馬に付出す所の米穀送り状なければ通さすとなり、今も猶駄馬の荷鞍なきを通さず、江戸宿又は荷問屋等の手形を出して通る是遺風なり、又此所の番所内の持なれとも突棒さす股もじり等を飾り置江府に於て武家番所の外此一所に限る又住古関なりし証なりと古き土人の云伝へしよし。

 霞ケ関と云も是らより出たる説なり。げにも此地南北低く谷なりし事顯然たりと江戸志に云、大木戸を霞ケ関といふ非なり。是大宗寺の山號を霞関山と云より誤るなり。大宗寺元は霞ケ関辺にあり、後此地に移るよし、故に山号を霞ケ関山といふなり』

 とあります。木戸は寛政4年(1792)に廃止されました。廃止の理由は世の中の安定とともに、経済の発達による規制緩和、番屋費用の町内負担の問題などが考えられます。江戸名所図絵に木戸の様子がよくわかる絵があります。

内藤氏屋敷跡(新宿御苑) 

 内藤氏は徳川家康直属の家臣でした。豊臣秀吉の小田原攻めには家康に従って参加し、座間郡に陣を構えて後北条氏対策に当たりました。秀吉が勝利し、天正18年(1590)5月27日、家康の関東移封が決定すると、内藤清成は先行して四谷方面の様子の調査に当たります。早くも、7月17日には、伊賀組鉄砲隊を率いて、国府道=後の甲州道中と鎌倉街道の交差点の一帯(新宿二丁目)に陣地を敷き、北条軍残党の動きに備えました。

 関東総奉行として8月1日の家康の江戸入りの準備をしたのが内藤氏で、家康の信任が厚く、慶長8年(1603)布陣していた新宿の地を拝領しました。東は四谷、西は代々木、南は千駄ケ谷、北は大久保に至る広大な土地でした。太宗寺との関係もありますので内藤家の系図を紹介します。

 忠政―清成一清次一清政―正勝一重頼一清枚―頼郷一頼由―頼尚一長好一頼以―頼寧―頼直 ―弥三郎(以下略) 

 藤原秀卿の末孫とされ、忠政のときに家康に仕えて駿府(静岡)に住みました。二代清成は、浜松で家康の小姓として仕え、青山忠成とともに二代将軍・秀忠の子守役をしています。

              内藤氏の中屋敷新宿御苑        太宗寺にある内藤氏の墓

 広大な屋敷内には、百姓を住わせて田畑を耕作し、造園に風流を楽しんでいたようです。その庭園部分が現在の新宿御苑となっています。明治維新後(明治5年9月)、所有地を国に上納し、当時の大蔵省所管となり、農事試験場、宮内省の植物御苑、製糸工場等を経て現在に至りました。

 屋敷といっても、正確には中屋敷で、上屋敷は神田小川町に、下屋敷は下渋谷にありました。なお、内藤氏の配下であった伊賀組百人鉄砲隊は、慶長7年(1602)に大久保に移り、百人町となりました。将軍の警護のかたわら内職として、つつじを栽培し、「大久保百人町のつつじ」として名をはせました。後に新住宅地となり、文人が住む基盤となりました。

 また、新大久保駅西側にある「皆中稲荷」は鉄砲の射撃練習で「百発百中・皆当たる」の御利益を持つ稲荷社として信仰されたと云われます。(2003.11.03.記)

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