新宿さまよい歩き 2 武蔵野の駅をイメージしているのでしょうか 「新宿停車場」 やがて、甲武線(中央線の前身)が、新宿〜立川〜八王子間に開通(明治22年・1889)し 振り返れば、スタジオ・アルタ、もとは「二幸」(食品)で、その前は「三越」 さまよい歩きは、ここから始めるのが良さそうです。 馬水槽と新宿駅東口あたり JR新宿駅の東口広場に、休日にはだいたい若者の影になっていますが、馬水槽(赤大理石製)があります。もともとここにあったものではなく、東京市役所前(有楽町)に、明治39年(1906)に設置されていたものを移したものです。 馬が水を飲むためのもので、馬の首に合うように中央に水槽がついています。下の方は犬・猫用で、裏側が人間様の水飲み場となっています。この馬水槽は私が住むまちとも関係があり感慨無量です。 一つは村山貯水池建設に関することで、村山貯水池は私のまちの行政区域に含まれます。その村山・山口貯水池建設に際して、設計に当たった中島鋭司博士が水道事業視察のために欧・米諸国を視察しました。この馬水槽はその時、ロンドン水槽協会から記念として東京市に寄贈されたものです。 もう一つは青梅街道と農間稼(のうまかせぎ)の関係です。新宿駅付近でも、荷馬車の多かった大正初期頃までは、馬水槽はありませんが馬が水を飲む光景がよく見受けられたといわれます。その前の江戸時代には、青梅街道を通って村人達が馬の背に薪炭を積んで江戸市中に売りさばくため、一時休んだところでした。 今は村山貯水池に沈んだ「後ヵ谷村」(うしろがやむら)では、文久3年(1863)の村明細帳に 『馬持ち百姓は柴山に出て薪や炭をつくり、あるいは青梅・飯能・五日市・八王子などで炭薪を買い入れ、馬附けに致し、夜四つ頃から江戸に出かけ、朝方、お屋敷様へ納めて、その日の内に立ち戻って、夜五つ前後に帰ってくる…』 とあります。つまり これらの名残でしょう、大正12年に起こった関東大震災の時には、現在の新宿駅周辺では、『災後三日三晩にわたって薪炭がえんえんと燃えつづけ、さながら焦熱地獄を思わせた』(野村敏雄 新宿裏町三代記p166)とされます。 馬水槽から左手に進むとモニュメントがあります。長い間気にも留めずに見てきましたが、よく見ると、ライオンズクラブの手で建てられた西条八十の モニュメントでした。非常に失礼なことをしていたものです。 むさし野なりしこの里の の詩がはめ込まれています。西條八十は新宿とは切っても切り離せない濃密な関係を持っています。 第一、生まれたところが新宿区でした。明治25年(1892)1月15日、牛込区(現在の新宿区)払方町18番地で生まれています。早稲田大学の英文科に入学し、坪内逍遙、島村抱月に師事しました。明治38年(1905)に卒業、明治41年(1908)に早稲田大学英文科講師・教授になりました。作品には「アルチュールランボウ研究」などがあげられます。大正8年処女詩集「砂金」を出版しました。大正7年(1918)「赤い鳥」に「かなりあ」を発表しました(27歳)。 住所の方は、大正8年小石川区駕町46番地(文京区本駒込2−9)、大正10年文京区池袋929番地など転々とし、転居の名人です。 現在の新宿駅周辺は、先ほど紹介した京王線、小田急線が乗り入れた頃から、新興の盛り場として急速に発展しました。この頃、西条八十がつくったのが 「シネマ見ましょか、お茶のみましょか、いっそ小田急で逃げましょか。 の「東京行進曲」でした(昭和4年・1929)。昭和45年(1970)8月12日、世田谷区成城町40番地で永眠しました(78歳)。 屋台店 第2次世界大戦後の新宿は焼け野原の中からの再生でした。その中でも、いち早く賑わいを見せたのが新宿駅東口の西条八十モニュメントの東側一帯で、現在の高野フルーツパーラーにかけて屋台店がびっしりと埋めて一つの世界をつくっていました。 昭和24年、進駐軍からの露天取り払い命令が出され、区画整理が実施されることになりました。さまざまな交渉、やりとりがあったと思われますが、屋台の店は現在の歌舞伎町1丁目へと移転が行われました。 それが今日の「新宿ゴールデン街」を形成したキッカケとされます。渡辺英綱氏の著書「新宿ゴールデン街」、「新編 新宿ゴールデン街」にはその経緯が詳しく記されています。 とりわけ高野フルーツパーラー寄りに形成された「ハーモニカ横丁」は間口1間、奥行き2間の店がハーモニカの吹き口のように並び、今では考えられない安酒に芸術家や物書きのそうそうたるメンバーが集まって、サロンとなりました。明治の物書きが集まったのとは全く違う雰囲気が現在の文芸的背骨をつくったのかも知れません。 現在の武蔵野館の前を通り、武蔵野ビルの角を曲がると ムーランルージュ旧地
ゲームセンター、ビデオショップ、食べ物屋など様々な業態がひしめいています。かって、ここに赤いイルミネーションの風車が回る異国情緒を漂わせる劇場がありました。佐々木千里がパリのミュージック・ホールの名をとって、昭和6年(1931)年12月に旗揚げした「ムーランルージュ新宿座」です。 しゃれた風刺の軽喜劇が若者から文人に受けましたが、始めた最初は赤字続きで、文芸部に勤める伊馬鵜平(伊馬春部(いまはるべ))は大困りでした。井伏鱒二のすすめで入ったとかで、阿佐ヶ谷の文士連は応援気分も兼ねて連れだって通ったと云われます。 紀伊国屋が材木店から本屋に転換し、中村屋が溜まり場になりインテリといわれた層のおきまりコースが生まれていたようで、村上 護は「阿佐ヶ谷文士村」で次のように書きます。 『とかく新しさを求めるのは知識人の階層だ。新宿にはそれがあるから、しぜん彼らが集まってくる。なんでもインテリといわれる人々のおきまりコースは、武蔵野館で映画を見て、中村屋でインドカリーを食べ、デパートを一巡して、紀伊國屋で本を買う。このコースをたどっていれば、彼らはなんとも安心して、優越感にひたっておれたという。一見のどかな光景に思えるが、裏を返せば、軍国調の高まりのなかで、これらは欧米文化を取り入れる数少ない窓口だったわけだ。・・・』(p114) この道は林芙美子作「骨」の主人公「道子」が、戦後、自ら身を売る最初の晩に、見知らぬ男を旭町(現・新宿4丁目)の旅館に誘う道でもありました。 昭和初年・戦後の雰囲気を想いながら先に進むと、国道20号線・甲州街道が線路をまたぐ高架に出ます。その下をくぐると、そこにはまた別の世界がありました。(2003.10.28.記 11.03.一部画像追加)
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