新宿さまよい歩き 5 芥川龍之介旧居跡 新宿2丁目から靖国通りに面して、都営新宿線「新宿3丁目駅」の一帯が牧場だったなどとは信じられませんが、明治の末には、牛を飼育する約3000坪(野村敏雄 新宿裏町三代記)の牧場がありました。芥川龍之介の実父新原敏三氏が経営する「耕牧舎」と呼ばれる牧場で、その一隅に二階屋の家がありました。新原敏三が娘のヒサ夫妻のため建てた家で、ヒサが離婚して空き家になっていました。 そこへ、明治43年(1910)10月、芥川龍之介一家が、本所小泉町から転居してきました。その年の8月に本所の家が水害に遭い、9月に龍之介が第一高等学校に入学したことによると云われます。大正3年(1914)10月、田端に転居するまで高校生活をこの家を根拠にして過ごしました。現在では区画も変わりビルに埋まっていますが、当時の番地と照合するため、念のために旧番地を記しておきます。東京府下豊多摩郡内藤新宿2丁目71番地(現新宿2丁目)。 牧場、二階屋の写真は新潮日本文学アルバム 芥川龍之介p17に掲載されています。二階が龍之介の部屋で窓際には欅の木があり、その向こうに乳牛の繋がれている草原が見えたとされます。 明治42年当時の地図から耕牧舎の位置を復元すると上図のようになります。 竜之介はここから本郷の一高まで通い、2年生からは寮に入ります。しかし、その生活になじめず、週末には必ずといってよいほど帰宅したとされます。文科の同級生に久米正雄、菊池寛、松岡譲、山本有三、土屋文明、成瀬正一、井川(恒藤)恭がいました。独法科には、秦 (はた)豊吉、藤森成吉、一級上の文科には、豊島与志雄(とよしまよしお)、山宮允(さんぐうまこと)、等がいました。同級生で最も親交を結んだ恒藤恭(つねとうきょう)はこの当時のことについて「旧友芥川龍之介 六 芥川家の人々」で次のように書いています。『芥川が一高に入学した明治四十三年に芥川家は本所小泉町から新宿二丁目に移転した。そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終點に近づいて行くと、電車通りに新宿の遊廓の建物がならんでゐるのが窓から見えたものであった。たしか三丁目で下車して少し引返し、左りへ折れて二、三町ばかり行くと、千坪くらゐの広さの方形の草原を前にして芥川の住んでゐた家がぽつんと建つてゐた。樫の木などが疎らに生えてゐる地面を十四、五間へだてて牛舎があった。 芥川の実父新原氏はそこと今一つほかの場所で牧場を経営してゐた。いま一つの方のことは知らないけれど、新宿の方のは牧場といっても小規模のものだった。しかしホルスタイン種か何かの骨格のたくましい牛を幾頭も飼ってゐた。 芥川の住んでゐた家も新原氏の所有に属するものであった。大正三年十月には芥川家は田端に轉居したから、芥川は高等学校時代を通じて新宿に住んでゐたわけであるが、一高の二年生だった一年間は寮生活を送り、そのあひだ土曜日の午後から日曜日にかけて自宅に帰るならひだつた。・・・』 牧場の面積についていくつかの見解がありますが、原著の通りとしました。『三丁目で下車して少し引返し、左りへ折れて・・・』は上図の新宿3丁目駅で下車して太宗寺の横を通って、現在の靖国通りに出て、芥川家に行ったことがわかります。また、龍之介自身が太宗寺の斜め南の角に遊女屋があり、太宗の東側に湯屋があることを案内図に書いた手紙を送っていて、河出書房新社 新文芸読本 芥川龍之介p166他各書に紹介されています。 芥川龍之介のこの当時の作品については「椒図志異」 (しょうとしい)(妖怪変化の談話や記録)というメモ帳の存在が知られます。恐らくさまざまな試みをしていたことと思われますが、現在のところ明確ではないようです。平成8年(1996)「幻の手書き雑誌」として小学生時代に芥川龍之介が編集長をして発行した手書きの観覧雑誌「日の出界」が藤沢の葛巻家(芥川の甥)から発見されました。多数の創作メモも同時に発見されているとのことですから、整理の結果、何らかの手がかりが得られるかも知れません。今後の発見が楽しみです。(右は1996年7月22日朝日新聞記事) 大正2年(1913)9月、龍之介は東京帝国大学英文科に入学します。ここで一高以来の仲間久米正雄と交流が深まり、文学へと向かいました。また実らぬ恋に悩んだ時でもありました。新潮日本文学アルバム 芥川龍之介から紹介します。 『このころ、龍之介は、実家新原家の女中、吉村千代に一方的ともいえる恋情を寄せ、その気持を告白した手紙を出している。それは叶わぬ恋であった。次に彼は青山女学院英文科出の吉田弥生という才媛を知り、結婚の意思表示までしている。が、この恋も養家の人々の反対にあって破局に至り、彼の心に深い傷を残すこととなる。 若山牧水・喜志子旧居跡 芥川龍之介が新宿に来た翌年、若山牧水がすぐ近くの内藤新宿2丁目14 森本酒店2階に移ってきました。この時代の牧水を紹介するのは難しいので、前後に分けて年表で整理をしてみます。 明治41年(1908)24歳 海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし など一群の歌が詠まれます。 7月 早稲田大学文学科英文学科卒業 第一歌集「海の声」出版 書店がつぶれ自費出版となります。 明治42年(1909)25歳 1月 傷心の牧水は房州府良へ向かいます。 新宿2丁目の道 大学を卒業しても定職を持たない牧水は、実家からも職に就くことを求められ この間に、小枝子の妊娠があり、従兄弟(庸三、章蔵?)との仲が疑惑となり、小枝子との仲は破局に向かいます。 (そのようなことはなく、後に上野公園で小枝子の幸せそうな姿を見て牧水が喜んだとの解説もあります。) 明治43年(1910)26歳 1月第二歌集「独り歌へる」を八少女会(名古屋市熱田)から出版 4月10日第三歌集「別離」東雲堂から出版 明治44年(1911)27歳 1月中旬 麹町区飯田河岸31日英舎(印刷所)の2階に転居 3月1日付 鈴木財蔵宛 牧水書簡 5月上旬 淀橋町柏木94番地土屋方転居 『上京した喜志子は水穂宅の女中代わりとしての生活であったが、暇をみては読書と創作に熱中した。それから数ヶ月後、喜志子は自活の道を求めて内藤新宿二丁目の森本酒店の二階に移った。 喜志子にはすでに述べたように裁縫教師の経験がある。その頃、電車通りにあった新宿の遊廓、越前屋から喜志子は遊女の着物の注文を受け、それらを縫うことで生活をささえた。当時、遊女の着物一枚を縫えば一円二〇銭ほどになったので生活に困ることはなかったようである。』 (p99) 9月 太田水穂の紹介により第四歌集「路上」を出版(博信堂書店) 明治45年(1912)28歳 1月20日頃 やまと新聞社退社 『・・・今日突然驚かし申したことをお詫びします。ああも云はう、こうも云はうと思ってゐたことが何ひとつ口から出ませんでした。云い得なかった私もわるいが、独りでおいででなかったあなたにも確かに罪があります。 早速ご承諾下すったことを深く深く感謝します。偶然の様で、決して偶然でない、我等ふたりのために今日は本当に忘られ難い、大切な日であるのです、・・・』 『・・・お手紙、昨夜拝見しました。何とも云えない感謝と歓喜とが読み行くにつれて心の中に湧きいでます。・・・ 初夏の曇りの庭に桜咲き居り おとろへはてて君死ににけり(死か芸術か) 啄木の第二歌集「悲しき玩具」は死の直前、牧水が出版社に持ち込み原稿料を得て、薬代としました。大正12年になりますが、その時のことを「石川啄木の臨終」としてリアルに書いています。そのような中で、4月12日、13日と連続して喜志子に手紙を書きます。 『十一日お出しになった手紙、只今到着、・・・繰返し拝見して、ひどく私も真面目な気持になってゐます。それほどに思ってゐて頂くこと、私は勿体ない位ゐ忝(かたじけな)く思ひます。・・・中略 さうですね、逃げ出すのも一寸考へものでせう。昨日の手紙、御らん下すつたでせう、太田氏から屹度あなたの父様などに何とか言つてゆくでせう、さうするにはそのまま暫くおゐでた方が都合がよくはないでせうか。でも、新宿の酒屋の二階に訪ねてゆくのもいいなア、すぐ結婚(といふことを)するのは見合せませう、人目を忍び合ふ心持をも味ひませうよ、ね、その日のキスをも尽しませう。でも、私はどうでもいい、どうぞ、御随意に! この雑誌で、「枯草のかげ」と題して太田喜志子の歌20首を発表、「我が椿の少女に」と題して牧水は長詩で喜志子をうたっています。創刊の同人として牧水と平賀春郊・原田実の三人が名を連ねました。発行所は大塚町25番地 自然社としていますが、牧水が寄寓していた友人郡山幸男方でした。 創刊号の広告頁に、次号を石川啄木君追悼号にするとしましたが、1号で廃刊となってしまいました。印刷費の支払いができず、牧水は苦心惨憺しました。 5月5日 内藤新宿2丁目14森本酒店2階で太田喜志子と結婚 牧水は手紙を書きます。8月25日、日向東臼杵郡東郷村坪谷より東京、太田喜志様、親展(手紙) 喜志子は取りあえず信州の実家に帰ります。10月10日、牧水は手紙を書きます。 『家を出たとかいう葉書、どういう事情なりにしや、僕のやうに、神経を麻痺さしておく方が、この場合、必要だと思ふ、 然し、今度で、これからの僕もよほど憂ることだらうと、苦笑してゐる、(中略) 僕は、眞面目に心で今度の帰郷を僕の褻術のために感謝してゐる、 お手紙、繰返し拝見、(中略) 戸籍のこと、承知した、 母は勝気だから、今でも僕を敵として見て居る、敵はひどいが、とにかく気をば少しもゆるさぬ、そして老衰してゐるのは、彼女もまた同じである。 (中略)母は永い貧乏の苦しみから、姉はそれを知つて居る上に永い間の商売人気質から、ともに金銭絶対主義者である。・・・』 母を敵と書く牧水の居たたまれない気持ちが伝わりますが、父は牧水をかばったようです。その父が、 あなかしこし静けき御魂に触るるごとく父よ御墓にけふも詣で来ぬ(みなかみ) 大正2年(1913)29歳 4月24日 喜志子長野県の実家で長男旅人を出産します。 大正3年(1914)30歳 4月 第七歌集「秋風の歌」出版(新声社) その自序にこう書きます。 この歩み止めなばわれの寂寥(せきりょう)の裂けて真赤き血や流るらむ(秋風の歌) 大正4年(1915)31歳 3月中旬 神奈川県三浦郡北下浦村に養生します。前年、喜志子が病気になったからでした。
|