坂口安吾矢田津世子

木枯らしの荒れ狂う一日、
僕は今度武蔵野に居を卜
(ぼく)そうと、ただ一人、村から村を歩いていたのです。
・・・・・見はるかす武蔵野が真紅に焼ける夕暮れという時分に
途方もなく気に入った一つの集落を見つけ出したのです。夢ではないかと・・・・
(坂口安吾 木枯らしの酒倉から 発端 書き出し 1931年)

放浪、求道、退廃、神秘、虚無、諧謔・・・、さまざまに評される安吾が
いっとき、その武蔵野に居を構えたところがあります。

本郷3丁目の交差点を東京大学方面に向かい
文京センタービル(画像左側ほぼ中央のビル)を左に入ると菊坂です。

菊坂はずっと下り、直進すれば、営団南北線の通る菊坂下に出ます。

その途中、長泉寺への坂をのぼって最初の路地を左に曲がると
(株)オルガノの事務所に突き当たり、そのまま左を見れば、「菊富士ホテル跡」です。

大正3年、営業を開始し、昭和19年に終業するまで、最も自由で、勝手気ままで、瀟洒なホテルとして
大正・昭和初期の文士や学者が根城にしたところです。

正宗白鳥、真山青果、大石七分、大杉栄、伊藤野枝、羽太鋭二、竹久夢二、谷崎潤一郎、
増富平蔵、兼常清佐、三宅周太郎、高田保、石川淳、尾崎士郎、宇野千代、宇野浩二、直木三十五、
田中純、前田河広一郎、三木清、福本和夫、広津和郎、中条(宮本)百合子、湯浅芳子、
石割松太郎、菅谷北斗星、・・・坂口安吾などが寄ってたかって宿泊しました。

瀬戸内晴美はその様を、芸術・学問の鬼に憑かれた人々の住む
《鬼の栖(すみか)》としています。


(中公文庫)

戦災で焼けたこともあり、今では標識だけになってしまいましたが
台地の上に立つ3階の建物は、住んだ人々の個性とともに目をひきました。

この3階の上にあった「塔の部屋」に坂口安吾は住みました。
眺望の良さは抜群でしたが、約3畳でベット一つと机だけの殺風景な部屋でした。

『御手紙ありがとうございました。矢口にいて始め二日は何も知りませんでしたが、東京へでてみて物情騒然たる革命騒ぎに呆れました。今日、左記へ転居しました。
 本郷菊坂町八二
 菊富士ホテル(電話小石川六九〇三)

 僕の部屋は塔の上です。愈々屋根裏におさまった自分に、いささか苦笑を感じています。
 まだ道順をよくわきまえませんので、どういう風に御案内していいか分りませんが、本郷三丁目からは近いところで、女子美術学校から一町と離れていないようです。どうぞ遊びにいらして下さい。お待ちしています。
 仕事完全にできません。でも今日から改めてやりなおしの心算なんです。
 御身体大切に。立派なお仕事をして下さい。

 津世子様
                                             安吾より』

 「木枯らしの酒倉から」「風博士」を発表してから5年後、1936(昭和11)年3月1日、ホテルの塔の部屋で安吾はこんな手紙を書きました。仲間内では、誰しもその熱々の仲を知り、両家の親たちも認め合っていた相手です。しかし、当の安吾は矢田津世子に惹かれ、交際も深まりながら、旅と放浪を繰り返し、女給と泊まり歩く生活をしていました。

 それを打ち切るかのように、菊富士ホテルへ移ってきたのでした。何らかの心の決め所があったのでしょう。安吾30歳です。その事情を近藤富 枝は次のように書きます。

 『一日会わなけれは息絶えるかと思うほど、純粋な恋心のとりことなっていた安吾は、ある日突然奈落の底につき落とされた。津世子には時事新報社のWという部長と深い交際があったことがわかったからである。あるときWが社内で手帳を落とし、その手帳には矢田津世子と日曜日ごとにランデ ブーするスケシュールが記されてあり、手帳を拾った笹本寅(当時時事新報社員、のちに作家)が坂口と矢田との感情を知らずに「桜」同人会の席上で、その事実をすっばぬいてしまったのだ。

 Wには妻があり、Wは離婚して津世子と結婚することを望んでいたが、津世子がよろこばないという事情があった。それでも三日に一度は津世子から安吾に手紙がくる。安吾ももちろん返事を書く。そして度々会った。会っているだけで安吾は幸福であり、別れると、別れる瞬間から苦痛であった。

 しかし母親に聞かれると、
 「結婚はもう止めたんだ」
 と安吾は答えた。

 このころから彼の文学も足踏み時代に入る。文芸春秋社との確執が伝えられたり、文学上の師とも仰ぐ牧野信一とも不和が生じた。
 昭和八年七月、矢田津世子が左翼シンパとして戸塚署に検挙され、十日間の留置をうけ、以後健康をそこなうようになった。同じころ安吾は蒲田の酒場「ボヘミアン」に通いつめ、お安さんというマダムと深い間柄になっている。女には良人があって、この夫の目を逃れてともに放浪してまわり、いつか同棲の形となって二年をすごした。

 しかしその間、一日も矢田津世子のことを、安吾は忘れた日はなかった。そしてある日、このズルズルベッタリの生活を清算して母の住む蒲田安方町の自宅に戻ったのである。

 一方この間津世子も弱いからだに鞭打ち、Wとの黒い噂によって生じたさまざまの不利を克服して武田麟太郎の主宰する同人雑誌「日暦」に加わり、作家として新しい出発をはじめていた。これには友人の作家大谷藤子のなみなみならぬ協力があった。もちろんWとは別れた。

 ところが安吾が女から逃れて蒲田の自宅に帰ると、どこかで見張っていたかのように、三、四日目に津世子が訪れ、

 「私はあなたを愛しています」

 と思いつめた表情で、告白をしたものである。つつしみ深いこれまでの彼女にはない、荒々しい情熱であった。安吾が鵜殿に下宿の周旋を頼んだのはこの時期であった。彼はボヘミア ンのマダムに訪ね出されるのも怖れただろうし、津世子との恋の再燃にも賭けたかったし、文学生活への再出発をも期したかった。昭和十一年三月一日付の津世子への手紙は、こうした事情を背後にたっぷりと含んでいたのである。』

 これをきっかけに、矢田津世子は何度か菊富士ホテルに足を運びました。しかし、『このつつましく、激しく、しかも実らなかった二人の恋』(近藤富 枝)といわれるように、ついに世界を別にします。近藤富枝はさらにその間の事情を伝えます。

 『・・・、そうした作家としての真剣な生き方が、逆に恋には臆病な態度となって現われたのだ。強烈な安吾の個性を思えば、自分の生活も作風もすべてを喪うことの覚悟なしにどうしてこの結合が許されよう。安吾の才能はすばらしい。しかし安吾は津世子の才能を認めていないのだ。安吾には津世子の小説は書けない。

 自分に出来ないことはすべて否定するのが安吾のやり口だった。ことに「神楽坂」一作で津世子は文壇に認められたのである。あいかわらず失意の底にいる安吾と、安吾の同感できない作品で世に出た津世子と、二人の心理関係に歪みが起き亀裂が深まったのも当然であった。

 とうとう津世子は、
 「自分はとういう意味にしろ圧迫する人を持ちたくない。そのために萎縮する性質だから」
と愛をわが文学のために否定する決心を、大谷藤子に語った。

 菊富上ホテルの塔の部屋は壁や天井に雨じみもあり、ベットが一つと机に椅了だけの殺風景な場所であることは度々書いた。津世子もこの部屋に訪ねれば、ベットに安吾と並んで腰を下ろすよりなかっただろう。

 ある日安吾は、津世子と本郷三丁目のフランス料理を食へ、そのあと塔の部屋へ彼女を誘った。安吾は今宵こそと思い、むしろ情欲はなく、あるのはただ決意の惰性だけであったが、津世子を抱きしめた。そして風をだきしめたような思いに襲われて、うちひしがれる。このたった一度の接吻が別れの日となり、その夜安吾は絶縁の手紙を津世子におくった。六月十七日である。それ以後二人は会わず、昭和十九年三月に津世子の永眠までその誓いは破られなかった。』(以上 近藤富 枝 本郷菊富士ホテルから引用)

 七北数人氏は「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」(集英社 p126)で、この時のことを次のように紹介しています。

 『・・・その後、事務的なハガキを除けば最後の矢田宛書簡が六月十六日に投函される。「吹雪物語」の原形となる長篇を書きはじめた頃である。

 「小生、今月始めから漸く仕事にかかりました。この仕事を書きあげるために命をちぢめてもいいと思つてゐます。今の仕事は、存在そのものの虚無性[中略]を知性によつて極北へおしつめてみやうとしてゐるのです」

 「僕の存在を、今僕の書いてゐる仕事の中にだけ見て下さい。僕の肉体は貴方の前ではもう殺さうと思つてゐます。昔の仕事も全て抹殺」

 これが絶縁の手紙といわれるものだが、おそらくその前に出された三月の手紙以降は会っていなかったに違いない。・・・』

 1937(昭和12)年1月31日(29日とも云う)、安吾は菊富士ホテルを定宿にしている尾崎士郎らに見送られて京都に出立します。「命をちぢめてもいいと思つて」書き続けた「吹雪物語」は安吾の病気も重なり苦痛を伴うものでした。近藤富 枝は「・・・、途中から作品の出来栄えに自信を失い、絶望し、市井にまみれることで苦しみながら逃れようとした。そしてその間、尾崎士郎からは毎月十円ずつ金が送られてきていた。」とします。

 1938(昭和13)年6月、安吾は「吹雪物語」の原稿を持って上京し、再び菊富士ホテルの塔の部屋に入りました。7月、竹村書房から「吹雪物語」は出版されますが、サッパリ売れなかったようです。安吾は囲碁にうつつを抜かし、翌年5月16日、茨城県取手町に移ります。滞納を重ねた部屋代の代わりに掛け軸を置いてゆきます。

 『その軸は、木の洞の傍らに二本の竹が勢よく描かれている河野通勢の絵に、尾崎士郎が左のような賛を行なっている。

 この画は河野通勢が貧窮を救はんとしてわれにくれたるものなり われは梅花也 梅花は貧寒にして輝く これぞわれ也 坂口安吾は梅花たるべからず 希くバ桜となれ 当代ヂャーナリズムの暴力の中にありて よしや散るとも桜となれかし  士郎』

 とされます。

 戦中の暗い時代、小田原や新潟を転々とし、歴史書を読み漁る中で、「黒田如水」「二流の人」などを書きました。1944(昭和19)年3月14日、矢田津世子の病死を知ります。そして、戦後には、アッと云う間に「流行作家」(この言葉に苦笑しているでしょう)になっていました。推理小説、捕物帖を含め、凡人には追っても追い切れない世界を築きました。

・・・・・見はるかす武蔵野が真紅に焼ける夕暮れという時分に
途方もなく気に入った一つの集落を見つけ出したのです。夢ではないかと・・・・

安吾は、途方もなく気に入った一つの集落を見つけ出したのでしょうか。
逝って50年近く、現代の風を何と表現するでしょう。

 2002年は坂口安吾と矢田津世子の当たり年

 2002年は坂口安吾と矢田津世子(やだつせこ)の当たり年のようです。4月10日、矢田津世子作品集として「神楽坂」、「茶粥の記」などが文庫本(講談社文芸文庫)になりました。図書館でも他館からの取り寄せが多かったのに、文庫で手にできるようになりました。

 父 神楽坂 旅役者の妻より 女心拾遺 凍雲 痴女抄録 茶粥の記 鴻ノ巣女房

が集録されています。解説は川村 湊氏、年譜、著書目録を高橋秀氏が担当され、1930年代が隣にあるような気がします。2002年4月16日、読売新聞「手帳」欄では矢田津世子について次のように紹介されています。

 『今回、文庫収録された作品の多くには、家長制度の時代を生きた「妾」など、不遇な女性たちが登場する。支芸評論家の川村湊氏は、「彼女は美人作家というイメージとは裏腹に、社会的にも支学的にも無視されてきた女性たちの姿をいとおしむように書いた女流作家の先駆け。題材は一見古めかしいが、家族の崩壊が叫ばれる現代、家の問題を考えさせる作品の力がある」と評価する。

「花蔭の人矢田津世子の生涯」の著書がある作家、近藤富枝さんは、「矢田さんは、命がけで 文学に精進した修行僧のようにストイックな作家。肺炎を患い、胸に氷を当てながら執筆したような人で、作品はよく練られていて、いま読んでも面白い」という。

 偶然だが、先月には矢田と交流があった元読売新聞記者で、若くして戦病死した文学者の作 品集「平田耕一全著作」(邑書林)が出た。この著作には矢田との間に交わされた書簡が収録されており、その中で矢田は「私は自分のかくものをすくなくとも五度以上はよみかえし、筆を入れる事にしてゐます」と書いている。文学への信頼が揺らぐ時代、 文学を信じた作家の作品に光が当たることの意味は小さくない。(鵜)』

 6月10日、七北数人(ななきたかずと)氏の「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」(集英社)が出版されました。安吾文学の背景や解釈には千人千通りのものがあります。しかし、今度の「評伝 坂口安吾 魂の事件簿」は見事です。その徹底した検証ぶりは驚くばかりです。

 例えば、坂口安吾と矢田津世子の最初の出会いは、普通1932(昭和7)年とし、その時期は夏とされますが、七北数人氏はさまざまな行動記録を積み上げ、次のように結論付けています。

 『つまり、二人の出逢いは十月半ば以降、翌年一月までの間ということになる。二人の間に交わされた膨大な量の書簡のうち、矢田が書き送った分は残っていないが、安吾の書簡も三三年一月二十三日が最も古く、三二年の分が一通もなかったこと、安吾の自伝的小説においても三二年にどんな付き合い方をしていたのか判然としなかったことなどの謎もこれで解ける。書簡が失われたのではなく、出逢っていなかったのである。

 一月二十三日の書簡では、二十日頃に矢田、加藤、大岡と飲んだ後の顛末などが記され、「そのうち、おたづねいたしたいと思つてゐます。中門の犬には要心して」などとある。文面から、この時点ではまだ矢田家を訪ねたことがなかったように感じられる。署名もこの一通は「坂口安吾」とフルネームだが、その後は年賀状以外すべて「安吾」のみであることも、第一信ならではの感がある。毎年出された年賀状も矢田家にはすべて捨てられずに残されていたので、三三年の年賀状がないことから推して、出逢ったのは十二月末頃から一月中旬にかけてと考えられる。』(p102〜103)

 万事この調子で、安吾の行動、友達づきあい、作品の背景には、詳細な裏打ちがされています。この本と一緒に、安吾作品を読む楽しみが増えました。でも、正直の所、今後の安吾作品の接し方に震えが出ます。(2002.6.21.記)

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