石川啄木の誕生と駒込(文京区) 東京の石川啄木の軌跡を訪ねることを主としますが 父と母を取り持った仏禎(ぶってい)=対月(たいげつ) 啄木は、戸籍上では明治19(1886)年 2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら)に生まれています。 なお、詩稿ノート「黄草集(こうそうしゅう)」の中に、生年月日に関する記入があり、明治18年10月27日生まれとする説もあります。 同級生の伊藤圭一郎は、啄木と何事もなく隠し立てすることなく話すと誓い合って、友達付き合いをしたようですが、啄木自身の話として、「人間啄木」の中で
『それは啄木が私に「自分は明治十八年生れで、君と同じ年だが、役場に届け出るのが遅れたので、明治十九年になっている」と話したことだ。それで私はこれまで「啄木は戸籍では十九年生れだが、実は私と同じ年の十八年生れ」とばかり思っていた。 としています。こうして啄木は二つの誕生日を持っていますが、父は一禎(いってい)、母はカツです。この二人の出会いのキッカケをつくったのが、カツの兄・仏禎(ぶってい)=対月(たいげつ)で、 この方が東京・駒込に住んでいました。 仏禎は嘉永7年(1854)、妻を亡くすと仏門へ入って諸国を遊歴し、やがて、江戸に落ち着き、駒込(文京区)の「吉祥寺」(きちじょうじ)に役僧として勤めていました(5年間)。その後、 慶応2年(1866)1月、岩手に帰って、平舘村(たいらだてむら)の大泉院の住職になりました。ここから啄木との関係が始まります。 対月が修行した吉祥寺 巡り合わせでしょうか、その大泉院に、農家の子どもが預けられていました。啄木の父=宗次郎です。宗次郎 の母(えつ)は石川と再婚しますが、その際、先妻の子との関係や将来を考えて、菩提寺である大泉院に 宗次郎を預けたと云われます。 宗次郎は仏禎の薫陶を受け、慶応2年(1866)、17才で得度しました。その時、仏禎の一字をとり、一禎の名をもらいました。 仏禎は明治維新後、対月と名を改め、人望も厚く、明治4年1月、盛岡(三つ割)の龍谷寺(りゅうこくじ)の住職に栄進しました。自作の歌が歌集誌に掲載される歌人でもありました。 当時の曹洞宗では、特に戒律が厳しく、僧侶の妻帯が許されなかったため、妹のカツが、兄の身の回りの世話をすることになって龍谷寺に入りました。カツは実家の生活が苦しく、家事手伝いとして外に出されていたと云われます。 その龍谷寺に、師を慕って一禎が大泉院から弟子入りして来ました。一禎も歌を詠み、仏教だけでなく対月の持つその雰囲気に惹かれていたのかも知れません。 頑固で寡黙な一禎。三つ年上ですが南部藩士の血を引いたのか勝ち気なカツ。二人とも早くから親元を離れた共通の境遇を持っていました。それが赤い糸だったのでしょうか、二人は惹かれ合います。 対月は妹と弟子の関係に苦慮したようです。カツは一度は、実家に戻されました。そんな時、 明治5年、まさにメデタシ、メデタシで、僧侶の妻帯が許されることになりました。 対月は、一禎とカツを、無住であった「常光寺」に住まわせ、そこで二人は結婚しました。明治7年(1874)12月25日のことです。対月の奔走の結果でしょう、一禎は、翌、明治8年に、常光寺の22世住職となっています。 しかし、僻村で檀家数も少なく、生活は厳しかったようで、一禎は歌の友の尽力で、一山超えた玉山小学校の小使(当時の呼称)として勤務をしています。 啄木はその長男として生まれました。父37才、母40才で、上にサダ、トラの2人の姉がありました。僧籍による遠慮か、一禎は妻子の入籍をせず、近所の百姓家の子として届けられています。それでも、啄木は長男であったためでしょう、私生児としてカツの戸籍に登録されました。石川に入籍されたのは、明治25年でした。 後の啄木一家の過ごし方を見ていると、この辺の背景が意外に強く働いているのではないかとの思いが浮かびます。 啄木一家は明治20年(1887)旧3月6日、隣村の渋民村「宝徳寺」に移り、そこで啄木は少年時代を過ごします。ここまでに至るには、母カツの兄・対月、一禎の友達の保護が大きく係わっています。啄木も対月を尊敬していたと云われます。 後に、一禎が「宝徳寺」を追放され、対月や友の保護が失われたとき、一家離散の情況になりました。一禎の評価は様々ですが、「みだれ芦(あし)」という歌稿を残しています。対月と一禎は歌でも師弟の関係にあったのでしょう。啄木の周囲には、生まれる時から歌に結びつく雰囲気があったようです。 そして、啄木が生まれた、同じ明治19年10月14日に、岩手県南岩手郡上田村に節子が誕生しています。 吉祥寺は、周辺にビル群が押し寄せる中、啄木を追う身にはなんとなく広大すぎる境内に、その後の一切を見つめているかのようにたたずんでいます。 ここは、啄木と親しく関係を持った与謝野寛・鉄幹が若い頃 「焼芋を以て一日一食に代へ、或は屡々絶食」する生活をしながら、次への飛翔を期したところでした。また、この寺の墓地には、川上眉山(びざん)の墓があります。 啄木は明治41年(1908)、鉄幹・晶子に惹かれ、東京での創作生活、文学的自立を目指して上京しました。しかし、多くの小説を書いたにもかかわらず、ほとんど受け入れられなかった時 代があります。文壇が浪漫主義から自然主義への移行の過程にあり、自然主義を模索する川上眉山が6月14日、自殺します。 啄木自身もこの頃、一時、創作生活に行き詰まり、焦燥と幻滅の悲哀に日を送っていて、眉山自殺の報に衝撃をうけたようで、その霊が眠るところでもあります。 そして後に、啄木が節子と結婚するため貸家を探し廻って、仮契約をしたのが「吉祥寺」の裏側に位置(駒込神明町442番地)する家でありました。啄木は尊敬する対月 、鉄幹のことも含め「吉祥寺」に立ち寄ったのではないでしょうか。 吉祥寺へは、地下鉄南北線本駒込駅下車が一番近道です。
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