嵐山光三郎氏の 【ざぶん 文士放湯記 第十六話 湯島の別れ】

  『上京した啄木は、英語は堪能ではないのに翻訳で身をたてようとした。とりあえず大橋図書館へ行って英語の勉強をはじめた。鉄幹、晶子のお墨つきを貰ったことが、啄木の気を大きくした。

 金がなくなったため、盛岡中学後輩の金子定一の下宿にころがりこんだ。金子は啄木と同じく盛岡中の中退者で、神田の日本力行会(りきこうかい)で働きながら夜間中学へ通っていた。金子のつてで、同じく力行会で働く紀藤方策(きとうほうさく)に、金港堂の雑誌「文芸界」編集長佐々醒雪(さっさせいせつ)への紹介状を書いてもらった。醒雪は紀藤が学んだ山口高校の恩師であった。

 啄木は、紹介状を持って醒雪を訪ね、金港堂の編集者として就職させて貰おうと思った。啄木はいさんで出かけたが、醒雪は、就職どころか面会も断った。それは、啄木が、半年前、「岩手日報」に『五月乃文壇』という文芸時評を書き、「『文芸界』は材料豊富な代り、雑駁の誹を免れない」「主筆醒雪さても胆の小さい人」と酷評したためである。

 醒雪は、地方新聞の、聞いたこともない若造にけなされて腹をたてていた。その若造が生徒の紹介状を持って訪ねてきても会うはずがない。啄木は、自分が書いた記事のことを忘れていた。それで、醒雪が面会を断ったのは、紹介状を書いた紀藤方策に力がないからだと思って、方策をののしった。

 そのうち、啄木は躰を悪くした。居候をしている啄木のわがままに嫌気がさし、金子は、「出ていってくれ」と言った。それでも啄木はいつづけて、翌明治三十六年二月までぶらぶらしていた。

 金子が働きに出てだれもいなくなった部屋で、啄木は、
 「上等の金づるを見つけなくてはいけない……」

 と思案した。金子のような貧乏人にたかってもしかたがなかった。鉄幹を真似て、上玉の女を食いものにしていくのが生きのびる道だった。鉄幹に学んだことは、もうひとつあった。それは「実生活は悪徳、作品は孤高」という一点であった。やりたいほうだいの悪業をし、女を泣かせ、友人にたかり、欲のおもむくまま行動して、放蕩の果ての淋しさを書けばいい。これが許されるのは鉄幹の新詩社しかないのだった。

 二月二十六日、啄木の父が、啄木を連れ戻しにきた。啄木の父は、渋民村宝徳寺の住職であった。金子の手紙により、啄木をひきとりにきたのだった。

 いよいよ東京から離れる二日前、啄木は、神楽坂をぶらぶらと歩いた。この界隈は硯友社の作家連中が多く住んでいるところで、啄木は、東京の見おさめに、ちかごろ小説家に人気の銭湯文化湯を見ておこうとした。神楽坂のだらだら道を登っていくと、ヒョロリとやせて背の高い男が洋食店から出てきた。

 「おや、金田一先輩じゃないですか。どうしてこんなところに……」
 啄木はペコリとおじぎをした。
 「東大を受験するので、下見にきたんだ」

 盛岡中学の先輩の金田一京助であった。啄木より四歳上の新詩社同人で、花明の筆名で作品を書いていた。三年前に歌集『錦木抄』を出し、岩手の俊英と称賛されていた。
 「金田一先輩なら、東大なんか楽に入れますよ。おれなんかと違うし、学校推薦もあるでしょう」
 「ここで会うとは、これは奇遇だね。きみは鉄幹、晶子先生に大層誉められたというではないか。たいしたものだ」

 京助は、やせ細った啄木をいたわるように見つめた。
 「先輩、文化湯へ行きましょう。まだ湯女がいるんですぜ」・・・』

 と神楽坂の「文化湯」へ金田一京助を連れてゆきます。そして、尾崎紅葉の「俺を捨てるか、女を捨てるか・・・」の迫りに、泉鏡花が伊東すずと別れの芝居を打つことを書き、標題の「湯島の別れ」とします。

  (嵐山光三郎 ざぶん 文士放湯記 第十六話 湯島の別れ 講談社 p163〜173)
  (2002.5.16追記)

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