明治35年、年末の啄木
この年の啄木の日記は
『12月、夜。
日記の筆を断つこと茲に十六日、その間殆んど回顧の涙と俗事の繁忙とにてすぐしたり。』
をもって終わります。その後の行動は明らかでありませんが、12月28日、金港堂に佐々醒雪を訪ねたことが口上書に残っています。その当事者が「金子定一」でした。
この時のことが、浦田敬三 啄木その周辺 岩手ゆかりの文人 熊谷印刷出版部 盛岡市上田1丁目6−49、昭和52年12月1日発行 p70ー74に書かれているので、関係の箇所を引用します。
『・・・・・上京後の金子定一は神田錦町三丁目の力行会(島貫兵太夫経営)に入り、私立の成城学校中学科(夜間)に通っていた。 力行会での仕事は明治三十六年大阪で開催予定の第五回内国勧業博覧会に出品する品の解説書きであった。
啄木が金子定一のあとを追うように、中学を退き上京したのは十一月一日、小石川の小日向台町大館方に下宿して出版をもくろみ、イブセンの訳述に励んでいた。ここに啄木年譜の空白を埋める珍しい啄木の書簡がある。これは筑摩書房版『啄木全集』にも収録されていない。初出は昭和二十五年四月、盛岡で発行の「雑文クラブ」に掲載されたもの。書簡の名宛人である金子定一は次のように記している。
中学生の訳したイブセンは仲々活版にならず、啄木もだんだん困って来て、私にアルバイトの相談に来た。私の相棒の紀藤方策さんは山口高等学校の出身で、そのころは浪人していたが、山高での旧師佐々政一(醒雪、小説家、俳人)に親しく、その醒雪が金港堂の「文芸界」の主筆をしていたので、私は啄木を「文芸界」の編輯員にとってもらう様に頼んだ。
啄木は紀藤さんの紹介状を持って佐々醒雪を金港堂に訪ねた。明治三十五年の十二月二十八日のことであったらしい。それは次の手紙で分る。
口上
先刻金港堂へ参りましたが佐々様は居るには居られたけれど大繁忙で逢はれないとのこと、それであの紀藤様の御紹介状を出しましたが何しろ年内には種々の用事が重なって居るのでとても面会する機会があるまいとの取次の語に不止得また空手でかへってまいりました。萬有は絶望の歌をささやきます。電灯の光淡くうつろう夜の空にどよむ市の叫喚は、頼りない身に戦の合図を示すけれども、ああこの遊子何の敵に向ってその征矢放さうぞ?何時も乍ら千萬の御世話恭けない程恩ある紀藤さまへよろしく御伝へ下さい。
廿八日 一 拝
香音児サマ
かくて今夜もかへります。何かよさそうな事でもあったら何卒端書をとばしてくださへ
(※啄木書簡の写真掲載)
此手紙は啄木が年末多忙の醒雪にあえず、私も不在であったので力行会に書き置きにしたものであった。――(中略) 啄木はこの手紙の翌日か翌々日から力行会の私の部屋に泊ることになり、三十六年の元旦にはムサ苦しい神田錦町三丁目の、力行会の破れ硝子障子の裡で迎えたのであった。(以上、金子定一の文)
ここで力行会についてふれておく。
経営者の島貫兵太夫は宮城県岩沼町出身(慶応二ー大正三年?)仙台神学舎卒。明治十八年四月、東京神田に神田基督教会を創立する。日本力行会は同教会の附属事業で明治三十年元旦の創設。同三十五年末までに苦学生三百五十余名を救済する。力行会の事業として、新聞配達部、薪炭部、牛乳部、印刷部、筆耕部、出版部等があり、金子定一の宿は錦町の牛乳部と思われる。
右のほか第一、第二寄宿舎があり五十余名を収容、また苦学青年の渡米に力を入れ、「渡米新報」を発行していたという。以上は東京、清水卯之助氏のご教示による。
その後の啄木は金子定一と同室の岩手人、飯岡三郎の親戚筋を廻ったり、錦町の下宿や湯島の紅梅館に止宿していたが、生活に窮し果ては病にたおれる。そして二月二十六日、父一禎の迎えで故山に帰るべく東京を離れる。・・・・・』
(2002.01.05.追記)
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