啄木明治35年上京、帰郷の頃の資料

 明治35年の啄木の上京と帰郷については、多くの発言がありますが、啄木の友人「金田一京助氏」と啄木の妹「三浦光子氏」の書いたものを紹介します。

 思い違いや記憶違いも目に付きますが、原文のまま引用します。

1 金田一京助

 出京

 『九月に入つて、第一學期の試験の成績が発表になると、日頃の文学熱がたゝつて、これまで終ぞ無かつた落第点といふ奴を代数で取つた。憤慨したのが、終に中學を放棄する主因となつて、上京して了ふ。一層のこと、好む道に没頭して、身を立てようと決心し、独り食ふ位の事は、翻訳でもしてと、単純に考へて、出て來たのであつたが、生活は、さう簡単には行かなかつた。』

 『イブセンか何かを翻訳して出版でもして生活費に、と企てたはよかつたが、それも思ふ様に行かず、小石川の小日向台あたりの陋屋に、見ず知らずの同年輩の同じ様な境遇の少年と一緒に、宿から虐待されながら、病臥して、食物も宛てがはれなくなつてしまつて、着物を脱いで、入質して腹を充たしたり、袴を入質して食べつないだりして、仕舞に、とうゝ着のみ着のまゝ逐ひ出されて、行きどころもなく東京をさまよひ、やっとの事で、見ず知らずの務め人の情けにやつと、神田あたりのその安下宿の一室に雨露の凌ぎだけは出來たが、それでも、男子志を立てゝ郷関を出づ、學若し成らずんば死すとも帰らじの、當時の氣概で、家にはすつかり音信不通のまゝ昏々としてゐたさうである。』

 「小石川の小日向台あたりの陋屋に、見ず知らずの同年輩の同じ様な境遇の少年と一緒に、・・・」は金田一氏の記憶違いと思われます。

 『石川君の後年の話では、風邪だの脚気だの(その他は今忘れたが)病氣を六つ背負つて、横になつてあへいで居たものだつたさうである。ぽろぽろ涙が出て、今まで何の苦労ひとつ知らなかつた十七の少年、無性に家が恋しくなつて、到頭手紙を出したので、嚴父が、寺の杉を金に代へて飛んで迎へに來られたのだつたさうである。

 君の亡くなつた折、枕頭で昔語りをされた嚴父の話では、その時、嚴父が須田町の宿に、やつと君を連れて來て、さあ帰国しようと、宿の払ひの一圓七十幾銭の宿料に、五圓紙幣を出して、女中が持つて來た銀貨銅貨を取り交ぜた釣銭を、嚴父が手を出すより早く、間一髪、君が、『ウン、此はお前に遣る!』と、うつちやる様に推しやつてしまふ。あ!と思ふ内に、女中が喜んで、お辞儀をして、御礼を云つてしまつたので、嚴父は、指し出した手の納まりがつかす、畳みのごみを摘まんで、目を白黒されたといふ。

 それ程貧困に苦しんだ直下に、また少しも懲りて居ず、依然として金銭上の観念が皆無で、辛い辛い嚴父の懐勘定の氣も知らず、女中にやるなら、二十銭か三十銭でも好かつたものをと、つくづく惜しく思つたが後の祭りだつたと嘆じられたのであつた。何ぞ知らん此の金こそは、後に檀徒の間にやかましくなつた裏山の杉代であつて、途にこれが崇つて寺をも出てしまはれなければならなくなり、石川君を死ぬまで一家族扶養の重荷をその痩肩に負はせる原因だつたのである。

 運命の別れ路、やつぱりそれは、悲劇の主人公みづからが、知らず知らすに造つてゐるものであつた。』

  (金田一京助 石川啄木 近代作家研究叢書 61 p51−53)

2 三浦光子

 礎を築く頃

 『兄が中學五年の夏休でしたか、休が終つても學校に帰らうとせず、學校をやめると言ひ出しました。父母はすつかり驚いてしまひ、僅かあと半年で卒業出來るものをと大反対だつたのですが、兄は校則にしばられるのがいやだとどうしても承知しませんでした。

 この事件も石川家に學資が続かなくなったからだといふ話も出てゐるやうですが、決してそんなことはありません。少しも勉張しないので落第しさうだつたからだといふ論は或は本当であつたかも知れませんけれど、東京への憧れ、與謝野さんたちへの魅力が最大の原因だつたでせう。

 兄はとうとう強惰を通し母の手で仕度をして貰つた白い縞の着物に黒紋付で上京して行つた姿を思ひ出します。

 それは明治三十五年の秋、兄が十七の時だつたと思ひます。一体に早熱であった兄の内面生活には、既に此の頃から、かなり変化も生じて居たでせう。又色々複難な問題も起りかけて居た様に思はれます。学校の窓を脱け出して不來方(こすかた)城跡の草むらに寝ころんでゐたのもこの頃のことであつたでせう。

 上京後の兄については何にもはつきりした事は覚えてゐません。勿論学校に入る爲でもなく、故郷から送金するのでもなく、全く独立して行かねばならない彼の境遇でしたから、心身共にかなりな無理もしたことでせう。その爲に友人の誰彼にも迷惑をかけたかも知れません。

 とに角上京後も長い間音信が絶えてしまつたので両親の心痛は一方ではありませんでした。心当たりの人々について聞き合はせたり、中学の同級生の方々に訪ね歩いたり、とても見てゐられない心配の仕方でした。

 或日の朝、母が泣きながら佛前に坐つて兄の安否を気づかつてゐるものですから、私は學校に出かける前に、何の氣もなしに

「今日あたりきつと兄さんから手紙が來ますよ、待つていらつしやい」

 と云ひ残して家を出ました。然しそんなことを云つた私自身何も手につかぬほど兄の消息のないのが不安でたまらなかつたのです。學校から婦つて見ても、いつもの様に父と母とは火鉢をかこんで物憂げに無言で坐つて居ます。私は朝のことがあるのでつとめて快活に、

「兄さんから手紙が來ましたか?」

 と聞きますと母はいまいましさうに、

「何が來るものか」

 と吐き出すやうに申します。それでまたしばらくお互に無言で居りますと、とつぜん郵便屋の聲が聞えるではありませんか、私は思はずその方へ飛び出してゆきました。

 案の通り六銭も切手をはつた部厚い手紙が舞こんでゐます。見ると「神田にて」とそれだけ記された封書。勿論兄の筆跡であることは一眼でわかりました。

 私は嬉しいとも悲しいともつかない心情で父や母のゐる間にころげこみました。そして母に「それ御覧なさい、私の云ふ通りでせう」と申して、親子三入顔を揃へて待ちに待つたその手紙をていねいによんだのでした。

 もちろん今、その全部を記憶してゐませんが、ただ兄が東京で病氣にかかつてゐるといふことがその手紙の主文で、それについて可成りの借金も出來たから何とかして欲しいといふのでした。

 雨親の一時のよろこびは姿をかへて新しい心配になりました。とうとう居たたまらす父が上京して兄を連れ帰るべく相談がまとまりました。しかし、何らの貯へとて有るわけでない寺の生活の中から二百余圓の金の工面をするといふのは大変でした。二十圓だつてその頃としては急には出來ない大金です。そこで止むを得ず父は、寺の主だつた人々と相談する暇もなく、裏の萬年山の粟の木を売りわたすことに決めて兎も角二百圓の金をつくって上京したのでした。

 そしてこの栗の木を売ったことが直接の原因になつて私たちの一家は住みなれたこの寺を出なければならない日がやがて來るのでしたが、それは後のこととして、ともかく迎へにいった父に伴はれた青白き青年啄木は敗北者の淋しみを胸一杯にたたへながら悄然と帰って來たのでした。

 上京してわづかに三ケ月そこそこの冬の聞の出來ごとです。』

 (三浦光子 悲しき兄 啄木 近代作家研究叢書 77 p25−29)

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