石川啄木・故郷の青春 石川啄木の東京での生活の跡を訪ねるページですが
明治32年夏、盛岡尋常中学校2年生の夏休み、初めて上京(第一回目)。 それから3年後、明治35年、啄木は冒険とも云える上京を(第二回目)果たします。 何が啄木をそうさせたのかを追ってみました。 盛岡尋常中学校 明治18年(1885)10月27日と明治19(1886)年 2月20日の二つの誕生日を持つ啄木は岩手県南岩手郡日戸村(ひのとむら)に生まれています。 小学校からの同級生である伊藤圭一郎は「人間啄木」で
『小学校二年の時だったが、啄木は私に「これから二人は何もかも打ち明けようじゃないか、自分も腹蔵なく何もかも話すが君もやはり打ち明けて欲しい」という。そして二人はそのことを誓ったのだった。』(p4)
明治24年(1891)渋民尋常小学校入学。明治28年(1895)同校卒業。盛岡市立高等小学校へ入学。 明治31(1898)年
『「一・宮永佐吉 二・小野又蔵 三・阿部修一郎 四・島泰五郎 五・平野勇助 六・菊池宗之 七・岩動康治
であった。』としています。2年生には、文才に満ちた野村長一(胡堂)、細越夏村(ほそごしかそん)、3年生には文学好きの医者の息子・及川古志郎(おいかわこしろう)、早くから短歌に親しんでいる金田一京助、田子一民(たごかずたみ)
、岩動露子(いするぎろし)など、後に深く関係を持つ錚々たるメンバーが揃っています。 明治32(1899)年 14才 『二年に進みて丁級に入る。また先生(富田小一郎)の受持たり、時に十四歳。漸く悪戯の味を知りて、友を侮り、師を恐れず、時に教室の窓より又は其背後の扉より脱れ出でて、独り古城跡の草に眠る。欠席の多き事と、師の下口を取る事、級中随一たり。先生に拉せられて叱責を享くる事、殆んど連日に及ぶ。』 と書いています。「一握の砂」の 教室の窓より遁げて よく叱る師ありき 花散れば の白い服です。伊藤圭一郎は「人間啄木」(p13)で、船越金五郎の日記を引用し
『「石川(啄木)と中の橋豊川洋服店に行きて夏服をたのみたり、十五日までに出来るという代金は一円三十銭なりという。石川より借りし「十五少年」をかえせしに、山本(篤)君に又貸したり、石川君は佐藤先生(亀吉)より歩兵操典を借りて来れり。」 と紹介しています。また、春の運動会の様子を伝えながら当時の啄木の性格を 『この日、私は啄木に勧められて彼と二人三脚をやった。二人両足をしばって走ったが、まことに好調子でずんずん前の組を抜いてまさに第二着でゴールに入ろうとした時、二人は見事に横倒しにころんで、みんなからやんやといわれた。私はその時も思ったのだが、これは啄木の予定の行動で、わざところんだのだった。五月から夏服を着た彼は、とかく人目をひくようなことが好きだった。』 (p14) と伝えています。後に、新詩社の歌会で啄木のとるポーズが二重写しになります。 初めての上京 詳細が不明ですが、ページを構成しておきます。最初の上京 堀合節子を知る 明治32年、後の啄木と結婚する堀合節子が盛岡女学校に入学、盛岡市新山小路3番戸に住みました。同じように盛岡女学校に新井珠子が入学し、新山小路に寮を構えて居住します。珠子の父は大地主で政治家でした。この寮や節子の家が若者の集う場所になりました。 明治33(1900)年 15才
『その頃、楽しいことというと、お祭りとか、お正月というよりも、皆で集ってワイワイ騒いで遊ぶことでした。カルタとりですよ。これはほんとに面白かった。節子さん、妹のふき子さん、大光寺さん、金矢さん、板垣さん、この人たちが一緒になってしゃべっていましたね。それに男性軍です。その中心は叔父の啄木でした。それでカルタとりです。私もだんだんにカルタが読めるようになって、仲間に入れてもらったりしました。母もカルタが好きで、いつも加わっていました。 4月、盛岡尋常中学校3年に進級しました。 『・・・盛岡は当時人口三万の、静かな城下町であった。社陵の別名を持つ学問の都として、県下の辺鄙(へんぴ)な地方に住む裕福で教育熱心な家庭では、幼い子弟をこの地へ送り込むことを一種の誇りとしていたのだ。 「黄金向日葵」 我が恋は黄金向日葵(こがねひぐるま)、 金田一京助、野村長一(おさかず)と交流 さらにこの家に転居した啄木にとって幸せだたことは、金田一京助が西隣の隣人であったことでした。金田一京助が「新編 石川啄木」で書いていますが 『・・・・次の思い出は、石川君を私の家の西隣りの隣人として見出したことだった。私は其の時にはもう中学生だった。もう学校がちがってしまっていたので、それに私は内に引込んで、坐りだこを出して、坐り込んで本を読んでいた頃で、あまり、外で近所の子と遊ばずにしまった関係上、折角隣人となったけれど、石川君と遊んだのは、私よりもむしろ弟の方だった。』(p24) とするように、最初はあまり交流はなかったようですが、後の親身になっての交際はこの時生まれたものでした。 この年、金田一は早々と明星の同人になっています。
『明治三十三年の春は、私共が四年から五年へ、石川君は二年から三年へ進級した年である。そしてこの四月に東京新詩社から『明星』が出たのである。その一号は、私は却って、岩動君から借覧したものだったが、その内に社友になった。そこで、根岸派の短歌と、新詩社のロマンチックな歌風とが、同窓の間に論争の旋風を起した。が私自身は、もともと万葉集から入った短歌だったものだから、この人々とも一緒に短歌の運座や互選をやって平気で居れた。』(同p29) 『それはもう四十年も昔のことだが、及川古志郎中将が海軍兵学校に入学して、いよいよ江田島へ行かうといふ時、盛岡中学の旧館と新築運動場を繋ぐ廊下で私を呼止めて、「これが石川君だ。よろしく頼むよ」さう言って、小柄な下級生を紹介したことを記憶している。その頃の啄木は、不敵な負けじ魂など持ってゐさうもない、――誰とでも直ぐ友達になりさうな快活な美少年であった。』(面会謝絶) としています。 野村長一・胡堂は文筆の立つ青年であったらしく、遊座昭吾は「石川啄木の世界」で 『生得の文学者と呼んでよく、すでに美文をものし、時には原稿用紙六百枚にも及ぶ小説を書き、まわりの注目を集めていた。彼の小説を綴った回覧雑誌はあまりに厚く、とても一日では読み切れず、その号だけは一人三日間の特約で回覧したという。髪はぼうぼうとして伸び放題、誰からともなく山男とか“あらえびす”という潭名がつけられ、それでも床屋に行く金で本を買う生徒であった。後年のペンネーム胡堂の「胡」は、渾名の「あらえびす」からとったものであると、友の金田一京助は語っている。』 と紹介しています。 啄木、文学へのめり込み 明治33年代、啄木の周辺には金田一京助や野村長一などを中心にして文学をめぐる熱気が溢れていました。作文を大得意とした啄木がこの機を見逃すはずがありません。 5月18日、「丁二雑誌」1号、6月23日、第2号を発行しています。5年生の及川古志郎、吉田初五郎、田子一民(紫琴)などから文学的な指導を受けたとされます。当時の空気を金田一京助は 『当時、田子一民君は、多感の青年で、まだ四年生の時代であったが、馬骨生のペンネームを以て独力でこんにゃく版の新聞を出して、校風の揚らないことを痛憤し、校友の団結のないことを浩嘆し、盛んに言論を以て同窓を叱咤(しった)し、また反省さした。
その内に、回覧雑誌『反古袋』を創始して情熱的な論文と共に、美しい感傷的な、美文や短歌を綴って、その行くとして可ならざるなき多方面な文才を示した。その時に、同氏に共鳴して同人になったのが、同級同室の及川君をはじめ、物故した吉田初五郎氏や、現に内務省の社会局に居られる中原隆三君、それから別組ではあったが、同級で、高等小学校時代からの旧誼があった私なども、田子君に勧誘されて入らされた。その中で、吉田君は、柳涯と号して柳浪張りの小説を書き、及川君は新派の和歌や、晩翠調の長詩を以て活躍したものだっ と書いています。これらの雰囲気に囲まれた啄木は、いよいよ、文学へののめり込み
を始めたようです。その動機を小田嶽夫
は「石川啄木」で次のように描きます。 明治33年8月、大阪では、与謝野寛・鉄幹と後の「晶子・鳳しょう」、「山川登美子」が運命的な出会いをして、明星の発展期に入ろうとしていました。北の盛岡では、啄木も含め、多くの文学志望者が熱気に溢れ て、やがて上京して、学びの門に入る準備をしていました。 東海岸への修学旅行 明治33年7月18日から、担任の富田小一郎教諭に引率されて、東海岸=南三陸沿岸方面へ旅行に出かけました。メンバーは、富田先生、阿部修一郎、石川一、小野弘吉、船越金五郎、川越千代司、佐藤二郎の7名で、宮崎道郎、伊東圭一郎が一 ノ関まで同行したとされます。 水沢から中尊寺、一ノ関に出て、20日には、北上山脈の峠越えをして気仙沼海岸に出ています。21日には高田湾を見、22日には氷上山(ひかみさん)に登りました。その夕刻松原海岸で遊びました。船越金五郎の日記には 『・・・・貝拾いおもしろし 蟹も多くむらがりをりて 人の足音に驚き逃げるさまおもしろかりきと記憶す。 と付記しています。また、島崎藤村の影響があるとの指摘、与謝野寛・鉄幹の長男「光」氏が東京千駄ケ谷の宅で行われた「一夜百首会」の席で詠われたと の話しなど、この背景はとても面白そうです。 明治34(1901)年 16才 授業ボイコットによるストライキ事件 2月、盛岡中学ストライキ事件が起こりました。年表や解説本ではなかなか真相がわかりませんが、伊藤圭一郎「人間啄木」が良くその状況を伝えます。 『このストライキの起因は、教員室の内輪もめ――いいかえれば先生達の仲間喧嘩であった。地元出身の先生達が、東京や他県から来た優秀な先生をいびり出し始終受持の先生が変るので生徒は不満だった。温厚な多田校長(綱宏、盛岡出身、理学士)は両派の融和に苦心したらしく、事件突発の四カ月前(明治三十三年十月十三日)の校友会大会には、武芸部長に郷土出身の高田小一郎先生を、文芸部長には他県から来た岡島献太郎先生を推したのだった。 しかし生徒間に人望のあった瀬戸虎記(元第一高等学校長)先生や斯波貞吉(元万朝報主筆、元代議士)先生などが居たたまらず辞めたというので、生徒側が我慢できなくなったのだった。』(p40)
『このストライキには卒業間際の五年生(郷古潔、田子一民、金田一京助氏など)や、二年生(瀬川深、小林茂雄氏など)一年生(田沼甚八郎、上野広一、金子利八郎、金子定一氏など)は加わらなかったようだ。ストライキをやったのは四年生の甲組、乙組、三年生の甲組、乙組、丙組、丁組であった。そしてまたその四年生と三年生のストライキは全く別であった。 ということで、啄木は阿部修一郎らと意見書を起草して署名捺印 の上、校長に提出していますが首謀者ではなかったとされます。結果は知事裁決により教員の大移動を行い、終結しました。 啄木はこの時のことを「百回通信」に次のように書いています。 『四月(三十四年)職員の大更迭あり、先生(富田小一郎)もまた八戸にゆかる。嵐去りて小生の心さびし。たまたまはじめて文学書を手にし、爾来それにふけりて教場に出づることますます稀なるに至る而して遂に今日に至る。』 「嵐去りて小生の心さびし」に啄木の心情が読み取れます。 明星の歌人論議 金田一京助はその日のことを次のように書きます。
『その翌春(明治34年)である。石川君が始めて玄関から私の名を云って訪問して来たのは。 私の心持では、『柔肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君』だの、『乳房おさへ神秘のとばりそと蹴りぬ ここなる花の紅ぞ濃き』などは定評があるから、云うまでもないが、若い女というものは、他の若い女を見ると、競争意識が先に立って、相手の欠点を見つけて、自分より美しくない様に自分で安心をしたいのではあるまいか。 その嫉妬心を超えて、向が私よりも美しいと思い得ること、そう歌ってしまわれること、そこに女性心理の凡庸を超えて跳躍した、つまりは、大胆な詠み口だ、という積りだったが、石川君が、附いて来なかったので、心に、若いから、まだ解らないな、と思ったりしたのであった。
兎に角、その頃は、まだ私の方が、話をぐんぐん引張っていたようだった。それが僅か数年の後には、すっか
この頃、金田一京助は恋も知らないのに対して、啄木は節子と恋仲になっています。晶子の歌論議に啄木があやふやな答えをしているのに、金田一の生真面目さがおかしな位対比されて、思わず笑みが出ます。啄木はこの年5月9日、2年生の時つくった「丁二会」を解散しています。
『会員である石川、阿部、小沢、小野、伊東の五名は毎週土曜日の晩、順番にめいめいの宅に集まった。はじめは雑談に終始したが後に英語の勉強をやることになり、ユニオンの第四リーダーを選定した。それでユニオン会と命名したのである。やり方は当番を決めて一章ずつ訳読をやり、フ(腑)に落ちないことを聞きただすことにしたが、これがざっと一時間かかった。 ユニオン会のメンバーは啄木の上京や節子との結婚を廻り親身の世話をし、一時は決裂しますが終生の仲間となるのでした。 「爾伎多麻」(にぎたま)発行 明治33年同級生古木厳と出していた回覧雑誌「三日月」と友人瀬川深が出していた「五月雨」を合体して、明治34年9月21日、啄木は回覧雑誌「爾伎多麻」(にぎたま)を発行しました。自らは「翠江(すいこう)」の名で美文「あきの愁い」と「秋草」と題して短歌30首を発表しています。 人けふを なやみそのまま 闇に入りぬ 運命のみ手の 呪はしの神 杜陵吟社(とりょうぎんしゃ) 盛岡中学校には、明治32年秋に「杜陵吟社」が結成されていました。 岩動露子、原抱琴、短歌の革新を目指すものでした。 『その会員は七、八名で大人の佐藤雲軒、阿部三柊を除いては、みな若い
中学生たちだった。 とされます。遊座昭吾は 『・・・・中央俳壇のホトトギス派の運動に刺激されて杜陵吟杜を結成し、そこを母体として活動していた。また、その発表機関として「六〇五」と呼ぶ文芸物の回覧雑誌をもっていた。その結社には、阿部三柊や佐藤雲軒等の大人も混じっていて、その派の層の厚さを示していた。そして、一時は三、四〇人の会員を擁す勢力となり、時にはその勢い余って、遠く秋田県下へ俳譜行脚と酒落れ、一か月くらいの吟行の旅に出るほどであった。 杜陵吟杜は正岡子規の俳壇革新時代に呼応して、明治三十二年に主として盛岡中学生によって組織された結杜である。最初の会員は岩動露子、野村董舟(胡堂)、猪川箕人、猪狩五山、岩動炎天等であった。そしてそれに続いたのが、小野素茗、内田秋咬、星山月洲、岡本騨山、大森両渓等であった。しかし、事実上の創始者は原抱琴である。』(石川啄木の世界p36) としています。原抱琴は盛岡中学3年生の時、東京一中・日比谷中学校に転校して、17才で正岡子規の門下に入り、子規に重要視されるほど資質に恵まれた人と云われます。休暇の度に盛岡に帰っては面倒を見たようです。明治34年になって、啄木が この杜陵吟社に関わりを持つようになりました。その経緯を 遊座昭吾は 『・・・・ようやく杜陵吟社と交わりをもったのは、明治三十四年の三月である。露子や金田一京助が中学を卒業するということで、その送別歌会を炎天、董舟等が開催した、それへの返礼として、金田一が盛岡の北方にある厨川の清風館で「留別短歌会」を開いた。その時、金田一は露子の承諾を得て、その会に石川一を招待したのである。 金田一の証言によると、この機会が石川一をして、盛岡中学の先輩に交わらせて、作歌をさせた初めではないかと言う。時として優れた作歌はあったとしても、石川一はこの杜陵吟社の一団に対するかぎり、まだまだ幼かった。』 (同p39) としています。明治33年(1900)4月1日、明星一号が発刊され、翌34年に、啄木は金田一京助から「明星」を借り、愛読者と云うより魔力に引き込まれます。 同心円上に条件が揃ってきた感じがします。 「白羊会(はくようかい)」 白羊会の会員の作品を発表する場となったのが「岩手日報」でした。啄木は、迸るように、12月3日 から1月1日まで断続して計7回「白羊会詠草」を掲載しています。いくつかを拾うと 迷ひくる 春の香淡き くれの欄に 手の紅は 説きますな人
と詠っています。この白羊会に、明治35年4月、大井一郎(蒼梧)が迎えられました。盛岡中学に理科の教師として赴任してきたのでした。大井一郎(蒼梧)は
明治30年麹町の一番町教会で植村正久から洗礼を受け、国木田独歩などと一緒に活動をしていました。早くから新詩社のメンバーで、鉄幹や高村光太郎などと親しく、中央歌壇と直結していました。こうして、啄木の周辺には、正岡子規、与謝野鉄幹
など当時を代表する歌人と結びつく舞台がしつらえてきました。 足尾鉱毒問題 この年は天候不順で、雪が多く、寒気が強くて、農民の間にも作物の収穫に不安が生じ、何となく世間が暗い感じに覆われていました。前年の12月末には足尾鉱毒問題で田中正造が天皇に直訴する程で、天候異変と鉱毒が重なり渡良瀬川流域では収穫皆無という状況でした。 一方で、1月29日、岩手県郷士兵の八甲田山雪中踏破演習の遭難事件が起こりました。雪中行軍中に猛烈な吹雪の中で200名余が凍死をする事件です。 この事件に重なって、啄木達は足尾鉱毒問題への義捐金の寄付に立ち上がります。その行為を巡って啄木の思想的な背景が語られますが、幼い頃からの同級生である伊藤圭一郎は次のように書いています。 『この晩も小野さん、阿部さん、啄木、私その他二、三人集まって、時の話題だった鉱毒問題 を語り合い、「われわれも、なにかひとつやろうじゃないか」といっていたところへ、誰だっ たか馳け込んできて「岩手日報杜で、今号外を出すところだ」と知らしてくれた。それが八甲 田山遭難事件の号外だった。
そのころ、小野さんは日報社の新聞配達をしていたので直ぐ話がつき、一同号外を抱えて町へ飛び出した。「号外、号外、号外は一銭」と呼ぶのに、きまりが悪くて、声がのどにつかえ、なかなか、出てこないので暗いところへ行って「号外、号外」とやってみたものだった。それでも中学生の号外売りということが知れると、一銭の号外に五銭玉をはずんでくれた人もあった。凍死者はほとんど岩手県出身者で、その氏名が次々に続いて発表されるので、二晩か三晩、号外を売ったような気がする。 退学と上京 明治35年の正月をこのように過ごした啄
木は、文学に燃え、学業はおろそかになり、また、急速に生活態度が変わり、遂に譴責処分を受け退学します。長くなりすぎるので、概略の年表にしておきます。 「血に染めし歌をわが世のなごりにて さすらひここに野に叫ぶ秋」 この歌の掲載と節子との恋が啄木に退学、上京を決意をさせたようです。親しい友人たちの「あと半年で卒業なんだから、・・・」との制止も聞き入れず、啄木は中学校をやめています。 こうして、あこがれの文学界への雄飛を目指して、与謝野鉄幹・晶子を視野に、冒険とも云える上京をします。その門出の意気込みは並大抵ではありません。 そのことは第2回上京憧れと失意 憧れと失意2 に書きます。 (2005.03.10.記)
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