「あこがれ」の刊行(4)
明治37年1月、節子との婚約が整った啄木は 高台の景観に恵まれた宿で、詩集の仕上げにかかりました。 定職に就かず、仕送りもない啄木の生活は極端に疲弊してきました。 今はマンションに 啄木の将来を賭けたとも云うべき詩集を刊行することができた「大和館」は、現在、マンションとなり、所在地は「新宿区払方町25番地」で、区名が変更されただけで、町名と番地は従前のままとなっています。 交通機関が変化していますので、明治時代の状況を復元し、破線で現在の道路を入れました。
地下鉄南北線市ヶ谷駅下車(JR・市ヶ谷駅でも同じ)、市谷田町の交差点を左折して坂を登ります。
右側に、YWCA、偕成社を見ながらなお登ります。
やがて坂が大きく曲がり、左側から来る道と合流するところに出ます。
かっての左官会館で、現在もビル=マンションの中に会館があります。 ここでの生活は喜びと共に内面では悲惨なものがありました。 「あこがれ」刊行・小田島兄弟 明治38年5月、啄木は今回の上京の目的の一つである「あこがれ」を刊行することができました。明治37年1月に上京してから1年4ヶ月たっています。この間、故郷の人・家族と別れ別れの生活で、父親の宝徳寺追放と云う大きな環境変化を伴いながら、特別の送金もなく、ともかく暮らしてきました。 明治37年の年末に「一月には詩集出版」と啄木は金田一京助に手紙を書いていますが、実際にはなかなかうまく行かなかったようで、明治38年3月になって、ようよう動きが出てきました。詩集「あこがれ」の最終に添えられた詩「めしひの少女」が3月18日に創られて、編集完了が伺えます。 丁度、その頃、日付は不明ですが(3月)、「あこがれ」刊行の大恩人・小田島尚三(資金の提供者)が啄木の下宿する「大和館」を訪ねてきています。恐らくその時、出版が確定したのだと思えます。
「あこがれの奥附=奥書」には となっています。なお体裁は でした。このように、発行者は小田島尚三、小田島嘉兵衛の兄弟で、発行所は小田島書房です。「あこがれ」を出版することで、啄木を世に出したのは、この小田島兄弟でした。 それには経緯があり、啄木の友人伊藤圭一郎が次のように書いています。
『問題の処女詩集「あこがれ」は、やっと三十八年五月に出版された。表紙面は、中学同級生で絵が上手だった石掛友造さん(慶応義塾通学)に画いてもらつた。この詩集は尾崎東京市長の紹介で出版したと、啄木は吹聴(ふいちょう)したそうだが、実は下の橋高等小学校の同級生小田島真平さん(渡米して昭和二十四年デトロイトで死亡)ら、三人兄弟の同情ある援助によって出版されたものであった。 簡単にまとめると となります。実際に資金を提供した小田島尚三氏は次のように語っています。結構厳しい話ですが、啄木像が伺えるので、長文を引用します。 『「私は若くて上京し明治三十八年ごろは日本橋区青物町の八十九銀行出納方出仕でした。当時二十三歳、日露戦争最中で、私も赤紙召集で戦地へ行くことになりました。行けば旅順口に渡り生きては帰れない身でした。兄の嘉兵衛は私が若干の貯金を持っていることを知っており、これで啄木の詩集を出版しようと計画し、私に啄木に会えといいました。
私は三十八年四月五日近衛二連隊に入隊(戦争が終結したので旅順口には行かず三十八年十二月召集解除)したので、いずれその年の三月ごろでもあったろう。市ケ谷駅から神楽坂の方へ行った牛込のある下宿屋に啄木を訪ねた。私のあとからも客人があって五人になった。
対談の最中に「節子!」と細君を呼んで「頼信紙を持っておいで」といいつけ、僕らの見ている前でサラサラと文面を書いて「これ直ぐ電報を打つようにね」と節子夫人に渡した。 「あこがれ」刊行の地、胸をわくわくさせながら「小田島書房」を訪ねました。東京駅八重洲南口を出て「八重洲ブックセンター」に向かいます。この地域の明治38年当時を復元するの には 苦労しましたが、幸いなことに、道路の区画、位置がほとんど変わっていないことを発見しました。 土一升、金一升の土地だからでしょうか、東京駅や皇居周辺は景観が全く変わっているのに、南大工町、西紺屋町の道路と区割りが、江戸時代からそのまま変わっていない事には驚きました。 破線は現在の道路です。
印刷をした秀英舎のあった西紺屋町は、図のように外濠に面して細長いまちを形成していました。
人文社古地図ライブラリー別冊「明治大正東京散歩」p28に番地の詳細が記されています。 注目は、小田島書房から当時の「東京市役所」が濠越しに見える距離であることです。 「あこがれ」の評価 苦労して世に出た「あこがれ」は新詩社の仲間・平出 修が次のように高らかに称えています。 『此年少詩人の創造力は、我等寧ろ今の世の驚嘆に価するを思ふ。若し又、啄木が用うる所の新様の語に、たまたま泣董有明二氏の詩中に見ゆる語あればとて、そは二氏の専用にもあらざるべし。況んや啄木の自ら選択せし語彙は甚だ豊富にして、遒麗、清新、その日本語の美を知れるは、彼の土井晩翠氏等の企て及ばざる所なるをや。』 しかし、一般的には、岩城之徳氏が云うように『刊行当時より毀誉褒貶あいなかばしており、その評価はいまだに定かでない。』(啄木全作品解題)とされます。また、今井泰子氏が『まずは素材や語彙が過度に繁雑であり、技巧が内容を圧して読解を妨げる。かつ、主題はのちに見るようにかなり一律である。加えて、出版当時から指摘されつづけたとおりに模倣性が強く、読者に独自性を感じさせない。』(石川啄木論)とするように厳しいものがあります。 ここでは、啄木自身がこの当時の自らの詩について語ることを以て代えたいと思います。啄木は明治42年11月から12月にかけて、東京毎日新聞に「弓町より」として「食うべき詩」を書いています。その中で 『以前、私も詩を作ってゐた事がある。十七八の頃から二三年の間である。其頃私には、詩の外に何物も無かつた。朝から晩まで何とも知れぬ物にあこがれてゐる心持は、唯詩を作るといふ事によつて幾分発表の路を得てゐた。さうして其心持の外に私は何も有つてゐなかつた。 其頃の詩といふものは、誰も知るやうに、空想と幼稚な音楽と、それから微弱な宗教的要素(乃至はそれに類した要素)の外には、因襲的な感情のある許りであつた。自分で其頃の詩作上の態度を振返つて見て、一つ言ひたい事がある。それは、実感を詩に歌ふまでには、随分煩瑣(はんさ)な手続を要したといふ事である。(略) ・・・・「興の湧いた時」には書けなくつて、却つて自分で自分を軽蔑するやうな心持の時か、雑誌の締切といふ実際上の事情に迫られた時でなければ、詩が作れぬといふやうな奇妙な事になつて了つた。月末になるとよく詩が出来た。それは、月末になると自分を軽蔑せねばならぬやうな事情が私にあつたからである。 (略) ・・・・たまたま以前私の書いた詩を読んだといふ人に逢つて昔の話をされると、嘗て一緒に放蕩をした友達に昔の女の話をされると同じ種類の不快な感じが起つた。・・・・』 としています。「あこがれ」の評価は様々でしょうが、啄木の言葉を静かに噛み締めています。 第二詩集への着手・詩稿ノート「黄草集」 啄木は「あこがれ」刊行が決まると、早くも次ぎの作品の出版に取りかかっています。
「あこがれ」の巻末には近刊予告が掲載され とあります。啄木と小田島兄弟・書店の間で、何らかの話が出ていたのでしょう。あるいは、与謝野寛・鉄幹などの助言があった のかも知れません。しかし、これらは実際には刊行されませんでした。出版されていたらどんなにか、この時代を豊かにしたものであろうと惜しまれます。 近刊予告の「劇詩 死の勝利」「新 弦(にいゆづる)」 については、藤沢 全氏の研究があり、多々教えられ、書きたいのですが、長くなり過ぎるので、書名を紹介します。『啄木哀果とその時代 p95 詩集「呼び子と口笛」への道 3 詩集「新 弦 」と劇詩「死の勝利」の構想』 さて、啄木は大和館で「あこがれ」の後につぐ作品を書いていました。それは、「黄草集」と呼ばれる詩稿ノートに、「さすらひ心」として と記し、『当時 苦愁の胸にも一道の春意禁め難かりし』と、この家に住んだ頃の胸の内を回顧し、新たな詩集の刊行に燃える気持ちを綴っています。ここで創られた詩は、古苑(3月中旬)、卯月の夜半(4月中旬)、よみがえれ(4月中旬)、秋雨(3月下旬)、桜のまぼろし(3月下旬)で した。七編の内、他の2編、夏は来ぬ、くだかけ(土井晩翠君に送れる)は仙台で詠んでいます。 これが発展して、明治39年11月17日までに は、36編にまとめられて、第二詩集出版へ踏み出そうとしたようです。しかし、「あこがれ」の発刊は、啄木に経済的な利益を生みませんでした。 従って、継続しての出版はできなかったようです。金田一京助は次のように書きます。 『・・・随分、望みは大きく、窃(ひそ)かに和田英作さんあたりの装釘を目がけていたらしかったのも、僅かに、無名の同窓、石掛君の手になってしまった上、或は心中に描いて居た印税なり、稿料なりいうものも、目算がはずれて、やっと自費出版ではないだけ位で出すような始末に終わったものだったのではあるまいかと想像される。 啄木の生き様がうかがえ、「劇詩 死の勝利」、詩集「新 弦」が出版に至らなかったことが残念です。さらに、第二詩集も、明治39年6月、出版を止めています。 故郷の家族 詩集「あこがれ」は完成しました。しかし啄木はもう一つの目的、節子との生活基盤をつくることはできませんでした。 「あこがれ」は小田島兄弟の好意による出版で、自主出版と変わらず、著作料や印税の入るものではありませんでした。 また、就職口はなく、下宿からはこれまでの貸し金と下宿料の返済に迫られたと推察されます。 一方で、明治37年1月に婚約が成立してから、もう1年以上たっています。関係者のヤキモキした気持ちがいろいろと書かれています。そして、一家は宝徳寺を退去して、転々と住居を移しています。啄木に一家の扶養の重しがどっと迫っていました。 仲間達は、節子との結婚の準備を整えてゆきます。啄木には、当面の家族の生活費を持って帰るあてがありませんでした。啄木は4月11日 、金田一京助に 『・・・故郷の事情と、詩集の編輯や校正や、おまけに病気や、友人の困難やにて殆んど目もまはると云ふ騒ぎ。故郷の事にては、この呑気の小生も襖悩に襖悩を重ね煩悶に煩悶を重ね、一時は皆ナンデモ捨て上田舎の先生にでも成らうとも考へた位。 結局矢ツ張本月中には一家上京の事に不止得相纏り申候。幸か不幸かはさて遣き、先づ以て乍他事御安心被下度候。・・・ 兄よ、天下に小生の恐るべき敵は唯一つ有之候。そは実に生活の条件そのものに候。生活の条件は第一に金力に候。小生は金の一語をきく毎に云ひ難き厭悪と恐怖を感じ申候。小生は少くとも悪人には無之候。然もただこの金のために、否金のなき為め、貧なる為めに、親に不孝の子となり、友に不義の子と相成るにて候。(略)
若し今回の故家の一件が小生の頭上に落下する事猶二年の後なりしたらば、とは小生の常に運命の女神に対して呪阻する所の一語に候。兄よ何卒御賢察被下度候。小生はこの外に何も云はず、否云ひえず候。 と書き送っています。啄木の懊悩、煩悶、苦悩がしみわたっています。 3月31日には、節子がそれまで勤務していた篠木尋常高等小学校の代用教員を辞めています。当時の教育界を襲った教育改革、経済的理由もあるのでしょうが、一家の宝徳寺追放や啄木との結婚なども起因していたと考えられます。 「あこがれ」の発刊(5月10日か?)を待っていたかのように、5月12日には、父一禎が啄木と節子の婚姻届を盛岡市役所に提出して、節子は堀合家から除籍になっています。さっぱり帰郷の様子を見せない啄木に、故郷の仲間は気をもみます。そして、啄木の帰郷運動を起こします。 これらについては、「あこがれ」の刊行5に書きます。 経済的行き詰まり〜放浪 啄木は帰郷することになりました。しかし、大和館には「あこがれ」の発刊を担保に不義理、借金を積み上げていたのでしょうから、5月10日、啄木は逃げるように大和館を出たようです。 そして、友人の所を転々と泊まり歩きます。 「大和館」の跡を訪ねて、払方町の坂を下る時、「あこがれ」の最後に添えられた「この集のをはりに」 来し方よ、破歌車(やぶれうたぐるま) を言葉に出さずに口ずさむと、歌車に綱をかけて、大勢の人々に迷惑を掛けながら、息も絶え絶えに引っ張ってきたここ数年を、『来し方よ、・・・』と想いを込めて振り返り、済みません と借金メモを付けて、なお、「あたらしい命の咲き競う大きな花園の春を見よう」、とする啄木に、いい年をして涙が止まらず、道行く人の目を誤魔化すのに苦労しました。 (2005.03.29.記)
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