「あこがれ」の刊行(3)
啄木は初めての詩集の刊行を目的に、
明治37年10月31日、上京 化物屋敷・大名屋敷 牛込区砂土原町三丁目22番地の家は「大名屋敷のような大きい門のある家」でした。12月1日に小沢恒一宛に次のような転居通知を送っています。
『昨夜 頭痛になやんで初更寝に就き、今朝暁目をさませば、枕頭一葉の端書あり、起きて雨戸をあけ、読めば乃ち兄の書なりき。 『・・・・明治三十七年十一月二十八日、養精館は下宿人数名を連れ、牛込砂土原町に移転し、その時は養精館とはいはず、主人の名は井田芳太郎と称へ居候。啄木氏も小生も共に引越たるわけなるが牛込に移りてから初めて啄木氏を知りたる次第に御座候。 その家は下宿屋式に出来て居らず、相当大きなる家の当時空家なりしを借受けたるものにして、各室も壁でなく襖で隔てられ啄木氏との室も小生の室との間も襖にて往復は自由に有之候。久しく借手なく、化物屋敷と噂されたる家にして啄木氏等同宿の者といつも、もう化物が出そうなものじや、と話したるものに候。・・・・』 武蔵野台地が最終的な谷を成すところで、眼前には外濠を挟んで九段の丘が横たわり、その麓に甲武鉄道が通っていました。江戸時代の道筋がそのまま現在も残るところで、 江戸切り絵図には、「横山」「境」「中根」などを名乗る直参が住んでいたことが描かれています。この当時の「大名屋敷のような大きい門のある家」が啄木が住む頃には、化物屋敷のような姿で残っていたようです。 牛込区砂土原町三丁目22番地は現在、新宿区市谷砂土原町三丁目22番地で、区名が新宿に変わり「市谷」が付けられていますが番地と道路は明治の頃とほとんど変化がありません。明治の状況を復元します。
啄木の住んだときには市電が走っていて、「逢坂下駅」で下車したはずです。 市ヶ谷船河原町交差点から逢坂を登って、訪ねてみます(途中省略)。 左折して次の瀟洒な構えが、22番地です。
「大名屋敷のような大きい門のある家」の雰囲気を現在もとどめています。 地下鉄南北線市ヶ谷駅から、「市谷田町」の交差点を来る場合は、
江戸道のまま住宅が建ち並んでいますので、狭く感じて、いささか不安になります。 「あこがれ」の総まとめと年末 この家での啄木の生活は経済的にも心理的にも相当に追いつめられています。しかし、ここで、詩集「あこがれ」の総まとめをした ようです。順次追ってみます。転居した頃の忙しい様子を、渋民小学校時代に同僚であった「上野さめ子」に、12月11日、次のように絵葉書に書いています。
その後は如何御すごし被遊候や。ここに移りてより差上げし我文御落手被下候ひしや、昨日は広一兄と半日半夜いとたのしくこの牛門の静居に語り申候、私、今月に入りてより殆んど連夜暁を待つて寝につく程の急はしさ、御察し被下度候、この頃は方々に反響ありて詩運益々愉快に有之候、 多忙に追われる中での世の反響を告げ、節子がありながら、さりげなく魂のふれあいを求めるなど、啄木も隅には置けません。そのような中で 「夢の宴」 12月2日 と精力的に作詩を続けます。そして、詩集としての体裁をほぼ完了したようです。しかし、まだ詩集の刊行の目鼻は付かなかったらしく、12月中に創られた詩はいずれも沈みがちな感じがします。さらに、「落葉の煙」の出来上がった翌々日 の12月14日、雪の夜更けに、師と慕う姉崎嘲風に出した書簡では、『理想と現実の乖離破綻(かいりはたん)』を 『・・・・・ 師よ。愛こそはあらゆる悲しみ苦しみの底なる喜びの真珠なれ。苦境のうちに満足を見出すこと、これ蓋し今の我にありては必至の要求也。一週間以前、自らの筆によりて得たる所二十金、貧に痩せます父母へと送り侍りけるに、今日なつかしき妹の愛と喜びに溢るるたより着きぬ。我は泣けり。かくしも人を喜ばせうべくば、我は喰はずもよし、飲まずもよし。探るに異様の響ある懐中の銅片数顆、ああ如何にしてこの年を過すべきと惑ひげる我も、師よ、今が今よりは、淋しくもあらず悲しくもあらず。 富者の万燈よりも貧女の一燈こそは仏の旨にも叶ふとかや。千金を臓ちえたるの喜びも、ありつ丈の財を傾けて購ひ来る貧乏徳利三合の村酒に心隔てぬ友と酔ふ心地にはかへ難かるべし。・・・ 身も心もよろづ貧しきこそげにこよなき幸に候へ、人はよく、理想と現実の乖離破綻(かいりはたん)の間にありて我等如何にすべきとかこち候へど、欣求不撓(ごんぐふとう)の心こそはまことに、求むるものよりも尊きもの。かかる心が生ける理想なりと知らば、乖離破綻のあればある程、力も勇みもいや更に強くなり候。 と訴えています。年末の雪の夜、切々たる啄木の叫びが身にしみます。自分に『欣求不撓』を言い聞かせ、奮い立たせていますが、確たる当てのない年末、むしろ不安の声の方が響きます。これまた、言外の借金の申し込みとも思われます。 経済的行き詰まり 啄木は経済的に追いつめられてゆきます。親友伊藤圭一郎が訪ねたときの様子を書いています。時系列で追うと、多少食い違いがありますが、砂土原町の下宿の時として、紹介します。
『この下宿は黒板塀の大きな門のある家で、玄関も大名屋敷のように広かった。私は女中に「石川君がおるか」と聞いたら「おられます」と引っ込んだが、暫くすると啄木が出てきて「ナーンだ君か、イトウダ(伊東だ)さんが見えたというので、分らなかった」と笑って座敷に通した。薄暗い十畳の間だった。
『・・・・今日は二三の友の帰国を上野に送るべき日、朝来帰思動きて禁ぜず候、而して兄よ、生はこの日に於てこの不吉なる手紙を書かむ事は誠に心苦しき事に有之候、これから小石川迄ゆかねばならず候に付取急ぎ有体に申上候、それ
ハ外でも無之候が、ああ外でも無之候が・・・・・ 24日には、与謝野鉄幹を訪ねて、金策に廻ったのでしょう。『御都合わるければ、その御返事丈にて満足』とまで云われて、金田一は親に立て替えて貰って15円を送金し たようです。 これで、ようよう明治37年の年が越せたのでしょう。しかし、同時に、この年末に念願の「あこがれ」刊行のめどがついたようです。 あこがれ刊行のめど? 12月25日、金田一京助宛手紙の中に、「一月には詩集出版・・・」と詩集の刊行が書かれています。もちろん啄木流の衒(てら)いで、借金依頼の根拠付けともとれますが、姉崎嘲風への書簡、この前後の歌の流れと合わせ、 この時代を詳細に亘って書かれている藤沢 全氏は、処女詩集の刊行のめどがついたのではないかと鋭い指摘をされています。 先に紹介した姉崎嘲風に出した書簡、12月に入って書かれた詩の内容、それらはいずれも啄木の沈んだ心証を表している。しかし、12月22日 作詩をもって、一応の区切りとするように、『心の声』畢(ひつ=終わり)とある。このことによって
『・・・・、「沈みゆく心の声」がモチーフとなって作品が出来ているかぎり、その期間啄木を包摂する局面は、少しも好転していなかった。いいかえれば、「沈みゆく心の声」を聞く必要がなくなったとき、即ち出版に関する何らかの手懸りを得たとき「心の声」の作品は終了したわけである。 後日「あこがれ」と改称して出版された詩集の「心の声く七章V」の最後に、「『心の声』畢」とあるのは、先にふれた「『秋風高歌』畢」の場合と同じように、ここで構成上の一つの区切りのあることを示唆している。従って啄木は小田島嘉兵衛と会見したあと直ちに、第一期「沈める鐘」の原稿の綴りに上京時の作「枯林」(11・14作)より「心の声〈七章〉」までを創作順に追加して、総計六十七篇から成る第二期「沈める鐘」の編集を完了したものと考えられる。』(藤沢 全「啄木哀果とその時代」p18〜19) とするものです。啄木は今回の上京に当たって、詩集の刊行を引き受ける出版社の目当てがあるわけではありませんでした。盛岡高等小学校時代の友人である小田島真平(おだじましんぺい)の兄・小田島嘉兵衛が、 「大学館」という出版社に勤務しているということだけで、真平に嘉兵衛宛の紹介状を書いて貰って、故郷を発ってきました。 まだ天才詩人の名が出始めたばかりの啄木に、そうやすやすと出版元は決まらなかったと考えられます。本来なら、与謝野寛が主宰する新詩社が最も身近のはずですが、 新詩社にその動きは現れていません。丁度この頃、与謝野晶子、山川登美子、増田雅子3人の共著による詩集「恋衣」の刊行が進められていました。それは新詩社ではなく、本郷書院から刊行されています。まして、新人である啄木の詩集を刊行する余裕は新詩社にはなかったのでしょう。 とりあえず作品を抱えて出て来ても、出版元が決まらないもどかしさは、啄木には相当にきつかったと推測されます。 そのような状況に置かれた啄木が、詩集のまとまりを示す、畢(ひつ=終わり)を『心の声』の後に記したことは、ここで、何らかの目鼻が付いたとする 、藤沢 全氏の指摘に頭が下がります。出版についてはページを改めて書きたいと思います。 啄木の心が急速に明るくなっていることは、 明治38年の正月を迎え、さっそくカルタ会を催す案内に、よく現れています。
『先夜はお蔭にて楽しく年越し仕り、難有奉存候、三十八年のお正月、誰とて楽しからぬ筈なし、御めでたく候、明三日午後二時よりかるた会催す、阿兄らもくる筈、御そろひにて御来駕被下度、猶、並木様〔一字不明〕諸姉御誘引の程希上候、是非是非、 いかにも「楽しく年越し」が出来たようで、経済的な逼迫感を別にして、大きな山を越して、沈む心が吹っ切れて、友を誘っているように見受けられます。この一連の流れを友人と話した時、『啄木って意外に割り切りが早いんだよな。神経が太いのかね。』『もっとも、そのくらいでなければ、乗り切れないよな。』と賑やかでした。 そして、明治38年1月5日 新詩社の新年会(徹宵歌会)が行われ、啄木は ここで、処女詩集の序詩を書いて貰った「上田 敏」と初めて顔を合わせたようです。 新詩社「一夜百首会」「徹宵歌会」 当時、与謝野家・新詩社は千駄ヶ谷にあり、明治38年1月5日、啄木も出かけ、大いに楽しんでいます。その模様を金田一京助に長い長い手紙で知らせています。概要は与謝野鉄幹 ・晶子のページ に書きました。ここでは、上田 敏と「あこがれ」の関係に絞ります。藤沢 全氏は 『啄木が上田 敏の序文を無心したのは、敏が詩壇における大御所的な存在であったからであろう。詩人としての運命をかけたこの処女出版に、啄木は出来るならば敏の序文を飾りたかったとみえ、明治三十七年四月十五日付小沢恒一宛書簡の中で、「兄若し聞くによからば上田 敏氏の住所お知らせ下さるまじくや」と頼んでいる。
しかし上京前に両者の交渉の形跡がないので、先にもふれた通り序文の依頼は初対面のおこなわれた明治三十八年一月五日のことだったと考えられる。このときどのようなかたちで依頼したかは知るよしもないが、少なくともこの依頼に対しては鉄幹の意向が全面的に反映していたとみてよい。その証拠に、当時の啄木と鉄幹の関係からいって、当然鉄幹が序文を書くべきところを跋文にまわっている。 としています。しかし、発刊の目鼻が付いたとはいえ、実際に出版されるのは5月のことで、それまでの間、啄木にはまだまだ試練が残されています。 啄木の身振り 啄木は8畳間に住んでいたようです。その部屋で、白鵠(びゃくこう)、傘のぬし、落櫛、泉、青鷺(あおさぎ)、小田屋守(おだやもり)、凌 霄花(のうぜんかづらはな)、草苺(くさいちご)を詠みました。 啄木の茶目っ気は有名ですが、自作の歌に身振りを付けて口ずさんでは、親しい人に披露することがあったようで、愉快です。その情景を、啄木とともに下宿をして隣室であった、福場幸一氏が 鮮やかに描写しています。 『その家は下宿屋式に出来て居らず、相当大きなる家の当時空家なりしを借受けたるものにして、各室も壁でなく襖で隔てられ啄木氏との室も小生の室との間も襖にて往復は自由に有之候。』 『同宿中、「落櫛」(処女作「あこがれ」に登載、明治 三十八年二月十八日)が出来た時は、「福場君」と同氏の室に小生を呼び寄せ、こんなものが出来たから聞いてくれと、自から立ちて「磯回の夕のさまよひに」、「砂に落ちたる牡蠣の殻」といふ時に は、かがんで牡蠣の殻を拾ふ風をし、「拾ふて聞けば……」でそれを耳にあてるなど、その一篇 終るまで口ずさみ、八畳の室を幾回かまはられ候。其後「小田屋守」、「凌霄花」、「草苺」などを読 んで聞かされ候。』(藤沢 全「啄木哀果とその時代」p26) 詩人の秘密に近づいたようで、いささか興奮です。 しかし、故郷では、昨年末以来、父親が住み慣れた宝徳寺の住職を罷免され、一家で退去するという、その後の啄木の運命を変えるような出来事が起こっていました。 父・一禎(いってい)の宝徳寺追放 当時のことを確認するすべを持たない者としては、すでに発表されている年譜などにより、出来事をたどらざるを得ません。岩城之徳氏の年譜によります。
『当管轄内岩手郡渋民村四等法地宝徳寺住職石川一禎儀去ル明治三十七年十二月二十六日宗費怠納ノ為住職罷免ノ御処分を受ケ候
明治三十八年三月二日、一家宝徳寺を退去して本籍を渋民村四十二番戸から同村大字芋田(いもた)第八 この前後、啄木は故郷よりの便りに接し、はじめて父が住職を罷免されて宝徳寺を退去したことを知り襖悩煩悶の日々を送る。 三月三十一日、堀合節子、篠木尋常高等小学校の代用教員を辞す。 『兄よ。 と葉書を書いています。暮れの借金のことが中心と思われますが、父、家族の状況を知って、思わず「我は大罪人となりぬ。」としたことも推測できます。詩集の刊行、故郷の家族の両ばさみになって鬱々とした日々を送ったのでしょう。加えて、下宿の主人・井田芳太郎氏の何らかの都合で、下宿が閉じられることになりました。 啄木は下宿料も未払いの中で、転居を迫られます。 啄木・大盤振る舞い、「大和館」へ転居 明治38年3月10日、井田氏はこの家を引き払うことになり、下宿人はそれぞれ別々に転居します。啄木はどうしたのでしょうか。信じられない場面が展開しています。あれほど経済的に追いつめられていた啄木が宿料を支払って同宿の者に大盤振る舞いをし たのでした。福場幸一氏の手記によります。 『・・・(啄木は)始終貧乏で、下宿代が
払えず主人から頻りに催促せられ、追放せられそうなので、小生が保証人となって一礼差入れたこ
とも有之候。時々来宅の時は、十銭二十銭貸せといはれ、また鉄幹の処へ行くとか、有明(蒲原)の
処へ行くとかで、電車賃を貸せとよく言はれたもので、しかし返してもらった事は一度も無之候。 当時は第一の詩集「あこがれ」を出版することになり、時の東京市長尾崎行雄氏にデジケートするため市長を訪問。二十円とか三十円とかもらひしとて、先ず下宿代を払い、小生や他の同宿生を牛込神楽坂の西洋料理屋へ案内し、大いにふりまかれたる事有之候。 明治三十八年の日誌を見れば三月九日の欄にこの宿もいよいよ今夜限り、名残りを惜しまうと、同宿の藤田、村上といふ人と啄木氏と四人にて神楽坂に行き、西洋料理を食べたる記事有之。当時は啄木氏をそんな偉大なる不世出の天才詩人とは知らざりしか、後になつてそれがわかり、それとすれば、氏の断片零墨でも保存しておけばよろしかりしにと遺憾に存居候。』(藤沢 全「啄木哀果とその時代」p27) さて、さて、このお金の出所ですが、啄木の言に反して、東京市長尾崎行雄氏は名刺を渡した程度で、金銭的な援助はしていないとしています。従ってその他の人からになります。なお、当時、これだけの大金を貸す友 人は身近には居なかったと思われます。藤沢 全氏は
『・・・井田の紹介で大和館より借りたのではないかと想像される。筆者がこのように考えるのは、例の借金メモに他から借りた形跡が認められず、同館に残された借金総額が七十円という多額の借金であることによる。 その結果大和館の主人が、旧知で同業者である井田の紹介であった啄木に心を許し、『あこがれ』の出版によって近く大金が入るという啄木の口車にのって金を用立てたのであろう。』 狐につままれたようですが、その後も数日間、啄木は裕福な生活をしていますから、まとまったお金を借りることができたものと思われます。貴重な手記を残した福場幸一氏と啄木との交際はその後も続きますが、ここで別れることになりました。 啄木は明治38年3月10日、牛込区砂土原町三丁目二十二番地の「大和館」に転居します。井田芳太郎氏の好意による斡旋があったものと考えられています。 (2005.03.23.記)
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