「あこがれ」の刊行(2)
啄木は、故郷で創った詩を詩集にして世に問うべく上京しました。 啄木の行動は、当時のマスコミも追っていたらしく 一かどの詩人扱い
啄木19才、天才歌人の称えも出始めていました。清水卯之助は次のように記します。 啄木を愛する者としては、「よくぞ!」と、喝采を発したいところです。「紋付羽織に、投げれば立つような、仙台平の袴」が、啄木の高揚する精神状況と一致して、この時が、今回の上京では最も輝いていたようです。養精館の跡を訪ねる方も元気が出ます。 駿河台 地名の通り、駿河からの徳川家臣団が住んだところであるとともに、富士山がよく見えたはずです。その景観が気に入ったのでしょう、啄木は転居したその夕、故郷の友人飯塚直彦、豊巻 剛に 出した転居の知らせの中に、「詩人を容るるに似たり、」と書いています。
『拝啓本夕、弥生が丘の仮住居を去つて、この駿河台畔の人と相成候 手紙差上げべくと存じ候へども新生活の勿々に追はれて未だ果さず、乞ふ猶数日を待ち玉へ、我窓西に向ふて遥かに富士と語るべし、黄塵の都府また此好風光ありて詩人を容るるに似たり、呵々、
明治37年代の駿河台を復元してみました。破線は現在の道路です。
当時は「御茶ノ水停車場」下車ですが、JRお茶の水駅下車、現在の明大通りを右に曲がり 左画像は「とちの木通り」からの文化学院(右側)遠景で、右画像は玄関です。
一群のビルがあり、その向こうに白い建物(明治学院高・中)があります。
具体的には、ビルと明治学院高・中の間にある「男坂」がその位置に当たります。 「枯林」など7編を作詩 上京後、ようよう落ち着きを得たらしく、啄木はこの宿で 11月21日に詠まれた「眠れる都」には、次のようなことわり書を付けています。 「眠れる都」 一夜興をえて勿々筆を染め げるもの乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より 「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき。) 鐘鳴りぬ、 我が窓は、
今では、ビルに遮られて啄木の耽溺した景観にはお目にかかれません。 「沈める鐘」 さて、読売新聞が伝える消息のように、処女詩集の題名は「あこがれ」ではなくて、「沈める鐘」としていました。今回の上京前の明治37年5月31日、小沢恒一に長い長い手紙を書いていますが、そ の最後の方の文面に「詩集「沈める鐘」の原稿全部成り次第に郷を出る」と書いています。
『「ローヘングリン」外数篇の長詩構想中。六月の雑誌へ出づべきのは、凡そ八九篇有之候。“白百合”よりも投稿嘱託され、かれこれ雑誌が四つに相成り、急はしくもなく候へど、暇でもなく候。
生の上京は、詩集「沈める鐘」の原稿全部成り次第に郷を出ることと存じ候。おもしろき事有之候は寸御しらせ被下度候。 早くも、5月の段階で、「沈める鐘」と決めていたようです。何が、それほど啄木に影響したのか、興味が湧きます。 詩集「あこがれ」の最初に置かれた詩(序詩)は「沈める鐘」です。その一部を抜粋すると 沈める鐘 (序詩) 混沌(こんどん)霧なす夢より、暗を地(つち)に、 で、明治37年3月19日 の日記に、『“沈める鐘”一より三まで全部成り“塔影”と共に姉崎博士に送る。』とあります。同16日には、“夜の鐘”“暁鐘”“暮鐘”をつくり「傑作也」と日記に記し、 3月17日に鉄幹のもとへ送っています。この頃立て続けに、鐘と海とに関する一連の作品が生まれています。 中学校時代に詠んだ短歌とも、後の作風とも違う「啄木のあこがれ時代」を象徴する作品とされます。何故、このような世界が紡ぎ出されたのか、 興味を持ち、いろいろ読みあさりましたが、岩城之徳「啄木全作品解題」に拠りたいと思います。
『啄木が明星派の詩人として再起したのは『明星』明治三十六年十二月号に初めて「啄木」の筆名で発表した「愁調」五篇の詩と、「石川啄木」の名で『明星』明治三十七年一月号に発表した「森の追懐」からである。彼は与謝野鉄幹や友人の好評に気をよくして以後詩人としての道を歩み、明治三十八年五月には早くも東京の小田
従来の伝記ではこの姉崎あての書簡をよりどころとして啄木が詩作にはいった動機を裏付けとしているが、これだけでは詩人として再起する奇蹟の数か月が判然としない。その点筑摩書房版『石川啄木全集』編集の過程 私事ですが、オペラ「タンホイザー」のレコードやCDのコレクションに熱を上げては、ボリュームを最大にして家族に迷惑を掛けて来ました。聞いていて、ひょっこり、「沈める鐘」から始まる「あこがれ」を思い出すのは 、この文章が余程頭に染み着いていたものと思われます。そして、遊座昭吾が「石川啄木の世界」で、詩集「あこがれ」の中の長詩「錦木塚」と「タンホイザー」の
『二つの作品の主題音は、まさしく愛による人間救済、人間復興のリズムであった。啄木はさらにそれに、節子との長い苦難の愛、その成就の感慨を含めていた。この愛が『あこがれ』の縦糸である。 『この「我に於いては詩は乃ち宗教である」と言い切った者は『あこがれ』の世界を構築する、その主体である新ペンネームを編んだ啄木であった。』(p129〜130) を読んで、ようよう、この当時の啄木の姿が朧気の中に浮かんでくるのでした。 では、なぜ「沈める鐘」から「あこがれ」になったのか、この時代の啄木を考える面白い問題があります。 「沈める鐘」から「あこがれ」へ 金田一京助は 『与謝野先生の命名の「あこがれ」という名』(新編石川啄木p64)としていますが、「藤沢 全」説、あこがれの巻頭をかざる上田 敏の序詩「啄木」からに、従いたいと思います。それは 『・・・・いま『あこがれ』の目次に「啄木・・・・・上田敏」とあることに注意しなければならぬ。敏の「啄木」は序として書かれたものであるが、三連三十四行からなる序詩であって序文ではない。ところがこれに続く啄木の作品は、すでに幾度かふれて来たように「沈める鐘」と題する序詩である。啄木の序詩と上田敏の序詩が並ぶのは不自然の観をまぬがれない。 おそらく啄木は敏に序文を依頼したと思われる(そのことは自分で序詩を用意しているので明らかである)が、意外にも序詩が届いたため、序詩の前にもうひとつ序詩がくるという思ってもみない結果になった。しかも敏の序詩は、作者啄木の雅号に重きを置き、山野に生息する「きつつき」の「朽木の幹にひそめるけら虫」をついばむ響きに感嘆し、啄木鳥こそ「善知鳥」であると歌いあげることによって、間接的に作者を称揚する内容のものであり、およそあの重荘華麗な書名の「沈める鐘」のイメージとはあいいれぬため、急遼書名の変更を余儀なくされたのである。』(啄木哀果とその時代 p21) として、巻頭の 啄木 の「噫(ああ)、あこがれの其歌よ」から、啄木が自ら変更したとするものです。上田 敏の大きな存在に啄木が賭けた様子もうかがえます。養精館は駿河台の台地の端にあり、当時は 、遠く相模の山並み、富士山、地上には西神田から九段方面の眺望が一望の下に望めたと云われます。今はビルに埋まっていますが、19才の啄木は、精神の高揚と内面の深みをもう一度再確認しながら、 詩集の編纂に打ち込んだ様がよくわかります。 ここでの生活も、養精館の経営主・井田芳太郎の都合で下宿が廃業され、2週間余で打ち切られました。11月28日、牛込区市ヶ谷砂土原町に転居します。
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