「あこがれ」の刊行(2)
神田区駿河台 養精館
(明治37年11月8日〜11月27日)

啄木は、故郷で創った詩を詩集にして世に問うべく上京しました。
明治37年10月31日、本郷区向ヶ丘弥生町三 村井方に旅装を解き、1週間余を過ごして
明治37年11月8日、 神田区駿河台袋町8 養精館に転居して来ました。

啄木の行動は、当時のマスコミも追っていたらしく
11月19日、読売新聞が駿河台に啄木が来たことを伝えています。

一かどの詩人扱い

 啄木19才、天才歌人の称えも出始めていました。清水卯之助は次のように記します。 

 『・・・、十一月十九日の読売新聞の“よみうり抄”には〈本月初め岩手の野より都門に入り来れる石川啄木氏は、駿河台袋町の新居に於て、不遠(とおからず)世に出す筈の詩集「沈める鐘」を目下編集中の由〉と、その消息が載り、すでにして一かどの詩人扱いであった。』( 「石川啄木」p168)

 啄木を愛する者としては、「よくぞ!」と、喝采を発したいところです。「紋付羽織に、投げれば立つような、仙台平の袴」が、啄木の高揚する精神状況と一致して、この時が、今回の上京では最も輝いていたようです。養精館の跡を訪ねる方も元気が出ます。

駿河台

  地名の通り、駿河からの徳川家臣団が住んだところであるとともに、富士山がよく見えたはずです。その景観が気に入ったのでしょう、啄木は転居したその夕、故郷の友人飯塚直彦、豊巻 剛に 出した転居の知らせの中に、「詩人を容るるに似たり、」と書いています。

 『拝啓本夕、弥生が丘の仮住居を去つて、この駿河台畔の人と相成候 手紙差上げべくと存じ候へども新生活の勿々に追はれて未だ果さず、乞ふ猶数日を待ち玉へ、我窓西に向ふて遥かに富士と語るべし、黄塵の都府また此好風光ありて詩人を容るるに似たり、呵々、

 待たるるは校友会雑誌也 兄らの杜陵だより也
 雪降らぬ都の我にふるさとの冬の風ふかせ玉ふも興ならずや、』

明治37年代の駿河台を復元してみました。破線は現在の道路です。
関連として鉄幹と晶子が住んだ東紅梅町2番地と文化学院を入れました。

当時は「御茶ノ水停車場」下車ですが、JRお茶の水駅下車、現在の明大通りを右に曲がり
とちの木通りを進めば右側に、鉄幹と晶子が教鞭をとった古風な文化学院があります。

文化学院から右斜め前方のビル群が
神田区駿河台袋町8 養精館になります。

左画像は「とちの木通り」からの文化学院(右側)遠景で、右画像は玄関です。
この玄関の前から右斜め前方を見ると

一群のビルがあり、その向こうに白い建物(明治学院高・中)があります。
この一帯が神田区駿河台袋町8で、養精館がありました。

具体的には、ビルと明治学院高・中の間にある「男坂」がその位置に当たります。
男坂は大正13年(1924)に造られたもので、啄木の時代には、一帯が下宿になっていました。
階段の急な状況からも、駿河台の縁の崖上にあった養精館とその眺望が偲ばれます。

「枯林」など7編を作詩

 上京後、ようよう落ち着きを得たらしく、啄木はこの宿で
 「枯林、天火盞(あまほざら)、壁画、炎の宮、のぞみ、眠れる都、二つの影」の7つの詩を作っています。部屋の窓から、甍を連ねる都会の秋の霧に接して 、この当時の啄木のモチーフと考えられる、天地、時、海原、こだま、命、死、夢、恋、破壊、鐘、などがうたわれています。

 11月21日に詠まれた「眠れる都」には、次のようなことわり書を付けています。

 「眠れる都」

  (京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を 開けば、竹林の崖(原文には山がありません)下、一望甍の谷ありて眼界を埋め たり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に 月照りて、永く山村僻陬(へきそう)の間にありし身には、いと 珍らかの眺めなりしか。

 一夜興をえて勿々筆を染め げるもの乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より 「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき。)

 鐘鳴りぬ、
 いと荘厳(おごそか)に、
 夜は重し、市の上。
 声は皆眠れる都
 瞰下(みおろ)せば、すさまじき
 野の獅子の死にも似たり。(一部略)

 声もなき
 ねむれる都、
 しじまりの大いなる
 声ありて、霧のまにまに
 ただよひぬ、ひろごりぬ、
 黒潮(くろしお)のそのどよみと。(一部略)

 我が窓は、
 濁れる海を
 めぐらせる城の如、
 遠寄(とおよせ)に怖(おそ)れまどへる
 詩(うた)の胸守りつつ、
 月光を隈(くま)なく入れぬ。

今では、ビルに遮られて啄木の耽溺した景観にはお目にかかれません。
男坂の上からは一望千里であったであろうことがうかがえます。

「沈める鐘」

 さて、読売新聞が伝える消息のように、処女詩集の題名は「あこがれ」ではなくて、「沈める鐘」としていました。今回の上京前の明治37年5月31日、小沢恒一に長い長い手紙を書いていますが、そ の最後の方の文面に「詩集「沈める鐘」の原稿全部成り次第に郷を出る」と書いています。

 『「ローヘングリン」外数篇の長詩構想中。六月の雑誌へ出づべきのは、凡そ八九篇有之候。“白百合”よりも投稿嘱託され、かれこれ雑誌が四つに相成り、急はしくもなく候へど、暇でもなく候。

 嘲風師へ逢はれしや。
 阿部兄六月中には帰盛するの由、兄も七月は御帰郷の事と存じ候。久し振りに、充分なたのしさをむさぼりうる事と鶴首して時のいたるをまち居候。

 生の上京は、詩集「沈める鐘」の原稿全部成り次第に郷を出ることと存じ候。おもしろき事有之候は寸御しらせ被下度候。
                                           五月三十一日 啄木生
  翠淵大兄
  川越兄 久保田兄へよろしく』

 早くも、5月の段階で、「沈める鐘」と決めていたようです。何が、それほど啄木に影響したのか、興味が湧きます。 詩集「あこがれ」の最初に置かれた詩(序詩)は「沈める鐘」です。その一部を抜粋すると

  沈める鐘 (序詩)

  一

  混沌(こんどん)霧なす夢より、暗を地(つち)に、
  光を天(あめ)にも劃(わか)ちしその曙、
  五天の大御座(おおみざ)高うもかへらすとて、
  七宝花咲く紫雲の『時』の輦(くるま)
  瓔珞(ようらく)さゆらぐ軒より、生(せい)と法(のり)
  進みを宣(の)りたる無間(むげん)の巨鐘(おおがね)をぞ、
  永遠(とは)なる生命(いのち)の証(あかし)と、海に投げて、
  蒼穹(あおぞら)はるかに大神(おおかみ)知ろし立ちぬ。

  時世(ときよ)は流れて、八百千(やほち)の春はめぐり
  栄光いく度さかえつ、また滅びつ、
  さて猶老(おい)なく、理想の極まりなき
  日と夜の大地(おほぢ)に不断の声をあげて、
  (何等の霊異ぞ)劫初(ごうしょ)の海底(うなぞこ)より
  『秘密』の響きを沈める鐘ぞ告ぐる。
  
  二 以下略

 で、明治37年3月19日 の日記に、『“沈める鐘”一より三まで全部成り“塔影”と共に姉崎博士に送る。』とあります。同16日には、“夜の鐘”“暁鐘”“暮鐘”をつくり「傑作也」と日記に記し、 3月17日に鉄幹のもとへ送っています。この頃立て続けに、鐘と海とに関する一連の作品が生まれています。

 中学校時代に詠んだ短歌とも、後の作風とも違う「啄木のあこがれ時代」を象徴する作品とされます。何故、このような世界が紡ぎ出されたのか、 興味を持ち、いろいろ読みあさりましたが、岩城之徳「啄木全作品解題」に拠りたいと思います。

 『啄木が明星派の詩人として再起したのは『明星』明治三十六年十二月号に初めて「啄木」の筆名で発表した「愁調」五篇の詩と、「石川啄木」の名で『明星』明治三十七年一月号に発表した「森の追懐」からである。彼は与謝野鉄幹や友人の好評に気をよくして以後詩人としての道を歩み、明治三十八年五月には早くも東京の小田
島書房より処女詩集『あこがれ』を出版している。しかしどうして再起に成功したのかというその詩人としての出発点は必ずしも明らかでない。

 啄木は詩作にはいった動機について、明治三十七年一月十三日付の姉崎嘲風あての書簡に、「昨秋十一月の初め、病怠るにつれて我が終生の望みなる詩作の事に思ひ立ち、ふとしたる動機より一の新調を発見し、爾後営々として人知らぬ楽みの中に筆を進め居候。」と書いている。

 従来の伝記ではこの姉崎あての書簡をよりどころとして啄木が詩作にはいった動機を裏付けとしているが、これだけでは詩人として再起する奇蹟の数か月が判然としない。その点筑摩書房版『石川啄木全集』編集の過程
に発見した啄木最初の詩稿ノートによって次のことが明らかとなった。

 啄木は「ワグネルの思想」についての研究を『岩手日報』に連載した直後、ワグネル論が未完に終りかつ反響のないまま次の手段を考える必要に迫られ、明治三十六年の夏と思われるがアメリカの詩集『Surf and Wave』を入手し、英語に自信のあるところから丹念にこれを読み深い感銘を受けた。

 彼はこの海の詩集から最も関心を持った英詩四十一篇を克明にノートに写し、この英詩群より受けた感動をそのまま伝えて「北の海」「魂よ沈め」など幾篇かの自作の詩を作った。啄木はこのノートに「EBB AND FLOW」と表題をつけ習作の場とした。明治三十六年夏から秋にかけての夥しい英詩群への関心と、その影響下に初めて詩作した「海の詩」が導火線となって啄木の詩心をひらき、彼はやがて明星派の詩人として見事に再起するのである。

 啄木が詩人として出発するにあたり、アメリカの女流文学者 Anna Lydia Ward(一八五〇〜一九三三)の編集した『Surf and Wave:the Sea as sung by the poets』の影響を受けたことは、啄木研究史上注目されてよいできごとであった。』 (p68〜69)

 私事ですが、オペラ「タンホイザー」のレコードやCDのコレクションに熱を上げては、ボリュームを最大にして家族に迷惑を掛けて来ました。聞いていて、ひょっこり、「沈める鐘」から始まる「あこがれ」を思い出すのは 、この文章が余程頭に染み着いていたものと思われます。そして、遊座昭吾が「石川啄木の世界」で、詩集「あこがれ」の中の長詩「錦木塚」と「タンホイザー」の

 『二つの作品の主題音は、まさしく愛による人間救済、人間復興のリズムであった。啄木はさらにそれに、節子との長い苦難の愛、その成就の感慨を含めていた。この愛が『あこがれ』の縦糸である。

 『あこがれ』を形成するもう一つの面、それは縦糸と深くかかわっていた横糸だが、それは何であったか。禅僧を父にもち、禅寺に育った啄木に頭をもたげてくるある宗教的感覚があった。』 として

 『この「我に於いては詩は乃ち宗教である」と言い切った者は『あこがれ』の世界を構築する、その主体である新ペンネームを編んだ啄木であった。』(p129〜130)

 を読んで、ようよう、この当時の啄木の姿が朧気の中に浮かんでくるのでした。 では、なぜ「沈める鐘」から「あこがれ」になったのか、この時代の啄木を考える面白い問題があります。

「沈める鐘」から「あこがれ」へ

 金田一京助は 『与謝野先生の命名の「あこがれ」という名』(新編石川啄木p64)としていますが、「藤沢 全」説、あこがれの巻頭をかざる上田 敏の序詩「啄木」からに、従いたいと思います。それは

 『・・・・いま『あこがれ』の目次に「啄木・・・・・上田敏」とあることに注意しなければならぬ。敏の「啄木」は序として書かれたものであるが、三連三十四行からなる序詩であって序文ではない。ところがこれに続く啄木の作品は、すでに幾度かふれて来たように「沈める鐘」と題する序詩である。啄木の序詩と上田敏の序詩が並ぶのは不自然の観をまぬがれない。

 おそらく啄木は敏に序文を依頼したと思われる(そのことは自分で序詩を用意しているので明らかである)が、意外にも序詩が届いたため、序詩の前にもうひとつ序詩がくるという思ってもみない結果になった。しかも敏の序詩は、作者啄木の雅号に重きを置き、山野に生息する「きつつき」の「朽木の幹にひそめるけら虫」をついばむ響きに感嘆し、啄木鳥こそ「善知鳥」であると歌いあげることによって、間接的に作者を称揚する内容のものであり、およそあの重荘華麗な書名の「沈める鐘」のイメージとはあいいれぬため、急遼書名の変更を余儀なくされたのである。』(啄木哀果とその時代 p21)

 として、巻頭の

 啄木
             上田 敏
  ・・・・
  噫(ああ)、あこがれの其歌よ、
  そぞろぎわたり、胸に泌み、
  さもこそ似たれ、陸奥(みちのく)
  卒都(そと)の浜辺の呼子(よぶこ)どり
  なくなる声は、善知鳥(うとう)、安潟(やすかた)

 の「噫(ああ)、あこがれの其歌よ」から、啄木が自ら変更したとするものです。上田 敏の大きな存在に啄木が賭けた様子もうかがえます。養精館は駿河台の台地の端にあり、当時は 、遠く相模の山並み、富士山、地上には西神田から九段方面の眺望が一望の下に望めたと云われます。今はビルに埋まっていますが、19才の啄木は、精神の高揚と内面の深みをもう一度再確認しながら、 詩集の編纂に打ち込んだ様がよくわかります。

 ここでの生活も、養精館の経営主・井田芳太郎の都合で下宿が廃業され、2週間余で打ち切られました。11月28日、牛込区市ヶ谷砂土原町に転居します。

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