「あこがれ」の刊行(1) 故郷で病を養い、恋人節子とともにワグナーやアメリカの詩に接して、復活した啄木は 節子との婚約も進み、
19才、念願の処女詩集刊行の夢を持って、 飄々として都門の人と相成り さっそく、金田一京助に葉書を出しています。
『 昨後六時 飄々として都門の人と相成り候、二三日中に御清居を訪ふて御高咳に侍せん。 と書き記しています。啄木は、これより前、10月23日に
『・・・生は来る二十八日、蟄居二十ケ月の故山を出でて、兄のあとを南の都に追はむとす。途中二三泊、なっかしき兄の御清居を訪ふの光栄は十一月の初に於て間違ひなく我が頭上に来らむ。 向ヶ丘弥生町三 村井方 啄木が第一夜を過ごした向ヶ丘弥生町三 村井方は東京大学の工学部と農学部の間にある言問通りを通って、弥生坂の中程左側に位置します。当時では第一高等学校の東側になります。この周辺には学生相手の下宿が多くあったようです。
現在の言問通りがあれば一番わかりやすいのですが、当時はまだ繋がっていませんでした。
現在の本郷通りから言問通りを上野方面に曲がったところです。
やがて、暗闇坂との交差部に出ますがそのまま言問通りを上野方面に進みます。
言問通りの右側、信号機の近くに一本の木があって、そこに弥生式土器記念碑が建っています。
道路を横断し記念碑の前から反対側を見ると、ビル群があり、左から3番目の白いビルが
近づくと角地で、このビルの敷地(弥生2−15)に下宿・村井がありました。 先に紹介した金田一京助への葉書の宛先は本郷区湯島新花町29番地・蒔田方に なっています。しかし、啄木が上京したころには、本郷菊坂82番地・赤心館に移っています。 やがて、啄木自身が住むことになりますので、位置関係を復元図に入れておきます。 おそらく、落ち着くやいなや、啄木は金田一京助の下宿を訪ねたものと思われます。その時の様子を金田一は「新編石川啄木」で次のように書いています。 豪勢な出で立ち 『石川君の、今度の上京は、『少年天才』の名声を、中央文壇へ土産に持っての上京だったから、前回の上京と違って、豪勢なものだった。
丸に笹龍胆を大きく出した黒の木綿の五つ紋の紋付羽織に、投げれば立つような、仙台平の袴を着け、南部桐の真新しい下駄に、ステッキを突っかって、上等のタバコを燻らしながら、それでも、いつもの、にこっと左右の糸切歯を軽くのぞかせたあと、ちょっと頭を掻いて、鷹揚に、ソフトをいただいて、背延びをする様にして、肩と胸を張って玄関を出て行く後姿は、どう見たって、誰の目にだって、此が十代の少年だとは見えまいと思われたものだった。 また、昔からの友人・伊藤圭一郎は次のように書きます。
『この年(明治三十七年)十月末のこと、啄木が突然黒沢尻小学校に私を訪ねてくれた。これは啄木の二度目の上京の時で、途中下車したのだった。啄木は私には何かと親切だった。この時も、わざわざ盛岡の私の母を訪ねて「おっ母さんからの届け物だ」と小包を持ってきた。 いかにも啄木らしい出で立ちと行動で目に見えるようです。 上野広一との交流 啄木の一夜を明かした下宿のすぐ近くにあった「大盛館」という下宿に、盛岡中学の後輩の上野広一(うえのこういち)が一足早く上京して住んでいました。上野広一は後に渡仏し画家になりますが、さっそく交流が始まり、啄木の美術眼の優れたことに驚きます。吉田孤羊が聞き取ったことを「啄木片影」に残しています。
『私が盛岡中学を石川君達より一級下で、小林茂雄(医学博士)君や岡山儀七(長年岩手毎日新聞編集長、俳人)君や瀬川深(医学博士)君たちといっしょに、明治三十七年の三月に卒業するとすぐ、医者になるつもりで一高に受験のため上京し、本郷弥生町三の大盛館という下宿に落ち着いて受験準備の勉強に夢中になりました。
私は中学時代からいささか画が得意だったので、ある日、ミューズの模写したものを石川君に届けたところが、彼はたいへん喜んで自分の部屋に飾ってくれましたが、二、三日たって会ったら、石川君は「ミューズというものは足の指が四本かね」というので、よく見たらいかにも四本しか画いていなかったので、あわてて、指を一本画
き足した思い出があります。その前だったか後だったか忘れましたが、石川君に誘われて、上野の美術館で開かれていたフランス美術展を見物したことがあります。 啄木は村井方に11月7日まで下宿し、神田駿河台に移りますが、その後も上野広一とは交流が続き、その状況を伊藤圭一郎は次のように書いています。
『肖像画のうまい上野広一さん(洋画家)は中学卒業後、上京して自分で学費をかせいでいた。ちょうど日露戦争中だったから、戦死者の肖像を、一日一枚か、二枚かくと月に百円近くも収入があったそうだが、活眼の啄木がこれを見逃すはずはなかった。 駿河台に移る
誰に紹介されたのか、どんな理由があったのか明確ではありませんが、啄木は、明治37年11月8日、神田駿河台袋町8・養精館に転居します。
転居の前日、11月7日、斎藤佐蔵(渋民村の友人で、啄木が渋民村で教員をしたとき一時間借りをした)に次のような絵葉書を送っています。
遠からず閑静な下宿に移転する考へだから、その上で面白い本だの手紙は送る、君は充分に着実に勉強して、決して小成に安んずる様な考を起すな、よく努力する者には必ずよい報がある者だ。 今回の上京に当たって、啄木は上京費の金策に苦労しています。明治37年9月28日、北海道の姉夫婦のもとに出かけました。しかし、姉が病で、望みは果たせず、10月 19日渋民村に戻っています。そして、改めて知人を駆けめぐり、10月28日 、渋民村を出発し、28日は盛岡に泊り、31日に東京に着いたのでした。
この状況からすると、身なりは良かったにせよ、旅費と当面の生活費程度の工面であったことが考えられ、斎藤佐蔵への文面では「閑静な下宿」となっていますが、ことによったら経済的な要因が働いたものとも思えます。
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