「あこがれ」の刊行(1)
本郷区向ヶ丘弥生町3 村井方
(明治37年10月31日〜11月7日)

故郷で病を養い、恋人節子とともにワグナーやアメリカの詩に接して、復活した啄木は
薄田泣菫、島崎藤村、蒲原有明、土井晩翠、与謝野鉄幹・晶子などに触発され
新しい形の詩を生み出しました。精力的に雑誌に発表します。

節子との婚約も進み、 19才、念願の処女詩集刊行の夢を持って、
明治37年10月31日、上京しました。

飄々として都門の人と相成り

 さっそく、金田一京助に葉書を出しています。

 『 昨後六時 飄々として都門の人と相成り候、二三日中に御清居を訪ふて御高咳に侍せん。
   十一月一日 
               向ヶ丘弥生町三 村井方にて 石川啄木 』

 と書き記しています。啄木は、これより前、10月23日に

 『・・・生は来る二十八日、蟄居二十ケ月の故山を出でて、兄のあとを南の都に追はむとす。途中二三泊、なっかしき兄の御清居を訪ふの光栄は十一月の初に於て間違ひなく我が頭上に来らむ。
            十月二十三日夜
  金田一花明様                        岩手渋民ニテ石川啄木』

 と上京の意志を伝えています。今回の啄木の上京は、明星や時代思潮、太陽など雑誌に発表した詩70余編をもって、処女詩集刊行の夢を実現するためと、節子との結婚の基盤をつくる意図 を秘めたものであったと思われます。それを「飄々として」と書くあたり、なかなかのものです。

向ヶ丘弥生町三 村井方

 啄木が第一夜を過ごした向ヶ丘弥生町三 村井方は東京大学の工学部と農学部の間にある言問通りを通って、弥生坂の中程左側に位置します。当時では第一高等学校の東側になります。この周辺には学生相手の下宿が多くあったようです。

現在の言問通りがあれば一番わかりやすいのですが、当時はまだ繋がっていませんでした。
本郷3丁目の交差点は、道路が拡幅されていますが、位置は変わっていませんので
そこから、東大赤門の前を通って工学部と農学部の間を入るか
地下鉄南北線の東大前駅で降りるのが最も近道です。

現在の本郷通りから言問通りを上野方面に曲がったところです。
左側が、東京大学農学部、右側が工学部になります。

やがて、暗闇坂との交差部に出ますがそのまま言問通りを上野方面に進みます。

言問通りの右側、信号機の近くに一本の木があって、そこに弥生式土器記念碑が建っています。

道路を横断し記念碑の前から反対側を見ると、ビル群があり、左から3番目の白いビルが
かっての向ヶ丘弥生町三で、下宿・村井があった所になります。

近づくと角地で、このビルの敷地(弥生2−15)に下宿・村井がありました。
サトー八チロー旧居跡がこの角を奥に入ったところにあり、文京区の標示が建てられています。

 先に紹介した金田一京助への葉書の宛先は本郷区湯島新花町29番地・蒔田方に なっています。しかし、啄木が上京したころには、本郷菊坂82番地・赤心館に移っています。 やがて、啄木自身が住むことになりますので、位置関係を復元図に入れておきます。

 おそらく、落ち着くやいなや、啄木は金田一京助の下宿を訪ねたものと思われます。その時の様子を金田一は「新編石川啄木」で次のように書いています。

豪勢な出で立ち

 『石川君の、今度の上京は、『少年天才』の名声を、中央文壇へ土産に持っての上京だったから、前回の上京と違って、豪勢なものだった。

 丸に笹龍胆を大きく出した黒の木綿の五つ紋の紋付羽織に、投げれば立つような、仙台平の袴を着け、南部桐の真新しい下駄に、ステッキを突っかって、上等のタバコを燻らしながら、それでも、いつもの、にこっと左右の糸切歯を軽くのぞかせたあと、ちょっと頭を掻いて、鷹揚に、ソフトをいただいて、背延びをする様にして、肩と胸を張って玄関を出て行く後姿は、どう見たって、誰の目にだって、此が十代の少年だとは見えまいと思われたものだった。

 袴については、後日、こんな様なことを云っていた。いざ明日上京するとなって、母君が、袴が無い。それでは、此で盛岡で買って行け、と云って渡された金額は七円だった。盛岡へ一泊した姉君の家で、盛岡には今の様に、レデイメイドなどは無かったものだから、では、質屋へ行くと、すぐ間に合う質流れの品に、新しい廉いのがあるものだ、と聴かされて、質屋へ行く。七円貰って来たから、七円のを買わなきゃならないかと思って、質流れの品の七円という奴を買ったから、仙台平の上等のを渡されて来たのだ、ということだった。』(p56〜57)

 また、昔からの友人・伊藤圭一郎は次のように書きます。

 『この年(明治三十七年)十月末のこと、啄木が突然黒沢尻小学校に私を訪ねてくれた。これは啄木の二度目の上京の時で、途中下車したのだった。啄木は私には何かと親切だった。この時も、わざわざ盛岡の私の母を訪ねて「おっ母さんからの届け物だ」と小包を持ってきた。

 私はこの時、学校の玄関で立話して別れたが、あとで聞くと節子さんが学校の門の側で待つていたのであった。この夜は啄木と節子さんの二人は駅前の旅館に一泊して別れを惜んだのだった。この時の上京の目的は詩集を出版して結婚費用を作るためで、これまでに作った詩稿七十七篇を大事に持っていた。そして節子さんは盛岡へ、啄木は東京へ出立したのである。』(人間啄木 p79〜80)

 いかにも啄木らしい出で立ちと行動で目に見えるようです。

上野広一との交流

 啄木の一夜を明かした下宿のすぐ近くにあった「大盛館」という下宿に、盛岡中学の後輩の上野広一(うえのこういち)が一足早く上京して住んでいました。上野広一は後に渡仏し画家になりますが、さっそく交流が始まり、啄木の美術眼の優れたことに驚きます。吉田孤羊が聞き取ったことを「啄木片影」に残しています。

 『私が盛岡中学を石川君達より一級下で、小林茂雄(医学博士)君や岡山儀七(長年岩手毎日新聞編集長、俳人)君や瀬川深(医学博士)君たちといっしょに、明治三十七年の三月に卒業するとすぐ、医者になるつもりで一高に受験のため上京し、本郷弥生町三の大盛館という下宿に落ち着いて受験準備の勉強に夢中になりました。

 ところが残念なことに一高はみごとに失敗、どうしようかと思い迷っていたところへ、この年の秋、石川君は三度目の上京をして、同じ弥生町三の村井という下宿に旅装を解いたので、近くでもあったので三日とおかずに私が出かけたり、彼が来てくれたりして会っていたものです。

 私は中学時代からいささか画が得意だったので、ある日、ミューズの模写したものを石川君に届けたところが、彼はたいへん喜んで自分の部屋に飾ってくれましたが、二、三日たって会ったら、石川君は「ミューズというものは足の指が四本かね」というので、よく見たらいかにも四本しか画いていなかったので、あわてて、指を一本画 き足した思い出があります。その前だったか後だったか忘れましたが、石川君に誘われて、上野の美術館で開かれていたフランス美術展を見物したことがあります。

 その時石川君は、絵の一つ一つについてまことに適切な批評をし、その作者一人一人の略歴や、画壇の位置などもよく知っていて、こまかに説明してくれるのには、心中ひそかに舌をまいたものでした。』(p88)

 啄木は村井方に11月7日まで下宿し、神田駿河台に移りますが、その後も上野広一とは交流が続き、その状況を伊藤圭一郎は次のように書いています。

 『肖像画のうまい上野広一さん(洋画家)は中学卒業後、上京して自分で学費をかせいでいた。ちょうど日露戦争中だったから、戦死者の肖像を、一日一枚か、二枚かくと月に百円近くも収入があったそうだが、活眼の啄木がこれを見逃すはずはなかった。

 彼は本郷弥生町の大盛館にしばしば上野さんを訪ねて、西洋美術を論じたり盛んに節子さんののろけを聞かせたり、それから当時の文壇の知名人だれだれに会ったとか、尾崎行雄と近く会食するとか、例の「あこがれ」の出版が遅れたころで、口癖のように「あこがれ」さえ出来れば何百円入るとか、一時に収入のあるような触れこみで、結局は、たびたび無心をされたそうだ。』(p82)

駿河台に移る

 誰に紹介されたのか、どんな理由があったのか明確ではありませんが、啄木は、明治37年11月8日、神田駿河台袋町8・養精館に転居します。 転居の前日、11月7日、斎藤佐蔵(渋民村の友人で、啄木が渋民村で教員をしたとき一時間借りをした)に次のような絵葉書を送っています。

 『出発の際は態々見送を恭うして、誠にうれしかつた、三十一日の夕に着京したが殆んど茶をのむ暇もない程急はしいので、遂今日迄手紙もやらんで失敬した、我故郷はもはや一面の銀世界になつたらう、当地今朝は全都に霜が降りたが、雪はまだく見る事が出来ぬ、

 遠からず閑静な下宿に移転する考へだから、その上で面白い本だの手紙は送る、君は充分に着実に勉強して、決して小成に安んずる様な考を起すな、よく努力する者には必ずよい報がある者だ。
                                                     石川啄木
         斎藤佐蔵殿
                 これは西洋の女の銃猟に行く所をかいたので、滑稽な絵葉書也』

 今回の上京に当たって、啄木は上京費の金策に苦労しています。明治37年9月28日、北海道の姉夫婦のもとに出かけました。しかし、姉が病で、望みは果たせず、10月 19日渋民村に戻っています。そして、改めて知人を駆けめぐり、10月28日 、渋民村を出発し、28日は盛岡に泊り、31日に東京に着いたのでした。

 この状況からすると、身なりは良かったにせよ、旅費と当面の生活費程度の工面であったことが考えられ、斎藤佐蔵への文面では「閑静な下宿」となっていますが、ことによったら経済的な要因が働いたものとも思えます。
(2005.03.14.記) 

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