石川啄木函館から上京 東京の啄木の軌跡を追うページであるため、各地での啄木の足跡は省略します。 啄木は、明治39年(1906)6月12日上京、父の宝徳寺復帰、小説への新たな転機を期して、22日
帰郷
啄木は、渋民小学校で校長排斥運動を起こし、村内騒然となり、校長は転出、啄木は免職となります。 明治41年(1908)1月、啄木23歳、単身で釧路新聞社に移ります。 さいはての駅に下り立ち と後にうたっていますが、啄木は総編集を買って出て、新聞作りに取り組みます。 小奴といひし女の と「一握の砂」でうたう、芸者・小奴と出会います。 こんな時(3月8日)、明星の与謝野寛・鉄幹から上京の誘いが来ました。 啄木は3月17日にこの手紙を読んでいます。特に感想は書かれていませんが 3月28日、世話になった白石社長から“ビョウキナヲセヌカへ、シライシ”との電報を受け 海路上京 釧路を去った啄木は 「先ず、函館に行って、日々新聞社に入らんと考えた」(3月28日日記)としていますが、心の底では早くも東京への想いが沸々としていたようです。函館で宮崎郁雨らと再会します。 自分の思いを打ち明けられないのを察した宮崎郁雨の気遣いに、明治41年(1908)4月8日、9日の日記はジーンと胸を打ちます。 四月八日 さっそく啄木は与謝野寛に手紙を書いたのでしょう。4月11日、与謝野寛から手紙が来ます。 『御状拝見仕候 横浜で烏水小島久太と会う 明治41年4月28日、前夜『長野屋』に宿泊し た啄木は、新詩社同人の小島烏水と昼食を共にしています。小島烏水は、すでに文集「扇頭小景」を出版し、評論家、山岳文学者としても名を成しており、横浜正金銀行の預金課長をしていました。啄木は上京の第一歩として、文壇の状況を聞きたかったのでしょう。28日の日記には次のように興奮してその様子を書いています。
『正金銀行の預金課長、紀行文に名を成して、評論にも筆をとる此山岳文学者は、山又山を踏破する人と思へぬ程、華車な姿をして居た。痩せた中背の、色が白くて髭黒く、目の玉が機敏に動く人で、煙草は飲まぬ。 “然し乍ら、遠からず自然主義の反動として新ロマンチシズムが勃興するに違ひない。小川未明など云ふ人は、頻りにそれを目がけて居る様だが、まだ路が見つからぬらしい。”・・・』 と、新ロマンチシズムの勃興を予測しています。これから向かう与謝野寛・晶子との関係をどのように置くかを、あらかじめ胸にしまい込んだのかも知れません。また、5月2日、宮崎大四郎宛手紙では 『船中の感想は態と申上げず、二十七日の夜は長野屋といふに夢を結び、翌日は一洋食店に小嶋君と会食して快談いたし候、誠によい紳士にて、今後若し小生が職でも求める際は出来る限りの助力をすると申居り候、・・・』 として、啄木の就職の話も出たことがわかります。 午後2時新橋から千駄ヶ谷へ 『午后二時発の汽車は予を載せて都門に向かった。車窓の右左、木といふ木、草といふ草、皆浅い緑の新衣をつけて居る。アレアレと声を揚げて雀躍したい程、自分の心は此緑の色に驚かされた。予の目は見ゆる限りの緑を吸ひ、予の魂は却って此緑の色の中に吸ひとられた。やがてシトシトと緑の雨が降り初めた。
三時新橋に着く。俥といふ俥は皆幌をかけて客を待つて居た。永く地方に退いて居た者が久振りで此大都の呑吐口に来て、誰しも感ずる様な一種の不安が、直ちに予の心を襲うた。電車に乗つて二度三度乗換するといふ事が、何だか馬鹿に面倒臭い事の様な気がし出した。予は遂に一台の俥に賃して、緑の雨の中を千駄ケ谷まで走らせた。四時すぎて新詩社につく。 本箱には格別新らしい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋緋 そして此二つの不調和は、此詩人の頭の新らしく芽を吹く時が来るまでは、何日までも調和する期があるまいと感じた。茅野君から葉書が来て、雅子夫人が女の児を生んだと書いてあつた。晶子女史がすぐ俥で見舞に行つた。九時頃に帰つて来て、俥夫の不親切を訴へると、寛氏は、今すぐ呼んで叱つてやらうと云つた。予はこの会話を常識で考へた。そして悲しくなつた。此詩人は老いて居る。』 着くや早々厳しい観察をします。呼び寄せた与謝野寛と啄木の間には相当の距離が生まれていることがわかります。啄木が泊まった千駄ヶ谷の新詩社 啄木は与謝野家の生活振りを目の当たりにして、このまま居候をする状況ではないことを知り、5 月4日に金田一京助のもとに同宿することになりますが、その間の出来事を追ってみます。 4月28日 千駄ヶ谷の新詩社着 4月29日 4月30日 5月1日 5月2日 5月3日 5月4日 ざっと、日記から拾い出しましたが、金田一京助のもとに入り浸り、ついに金田一の下宿・赤心館に引っ越すことになります。この間、 吉井勇、北原白秋、平野万里らと交流し、文壇の流れを直接に知り、与謝野寛への批判の目が高まります。呼び寄せてくれたことと、文壇の動きと自分のなすべき事に戸惑いを隠せない日々が続いたようです。 観潮楼歌会へ(5月2日) この数日の間に、啄木の心を捉えた出来事は多々あったでしょうが、ここでは、森鴎外の観潮楼歌会を追ってみます。 その空気を啄木は日記(5月2日)に次のように記しています。 『お茶の水から悼をとばして、かねて案内をうけて居た 森鴎外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱、伊藤左千夫、 平野万里、吉井勇、北原白秋に予ら二人、主人を合せて八 人であつた。 平野君を除いては皆初めての人許り。鴎外氏
は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍
医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女
弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所
謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出した
が、風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソツカし
い男だ。年は三十七八にもならう。 観潮楼歌会は、森鴎外が主宰して、自宅・観潮楼で、明治40年(1907)3月から、毎月一回、第一土曜日に開かれました。夕方から夜にかけて啄木が書くように題を決めて歌を詠み会う形式で行われています。鴎外肝いりの洋食が出され、若い参加者には評判だったようです。明治43年6月頃まで続けられています。 この歌会は、当時対立関係にあった「竹柏会」の佐佐木信綱、「新詩社」の与謝野寛・鉄幹、「根岸派」の正岡子規 ・伊藤左千夫などに代表される諸派の融合・交流・革新を願った鴎外が、各派の代表歌人を招いて歌会を催した事に始まるとされます。 また、明治41年1月、新詩社の有力同人である、吉井勇、北原白秋、太田正雄、深井天川、長田秀雄、長田幹彦、秋庭俊彦などが7人揃って明星、新詩社を脱会する事件がありましたが、歌会に吉井勇、北原白秋らの参加を促し、疎遠となることを防いだともされます。啄木が招待された明治41年5月2日は丁度その最中でありました。 啄木は鴎外に評価されて、晩年を除く、深い交流のきっかけとなったようです。 北原白秋ともこれが最初の出会いで、急速に交流を深めます。歌会が終わった後、動坂に住んでいた平野万里の家に吉井勇、北原白秋と共に泊まって、翌日の朝、パンをかじりながら西洋の「春情本」を取り出して平野がその面白さを説いたことが5月3日の日記に記されています。 さんざん北海道で遊んだ啄木に比べ、当時の白秋は純情無垢な青年で、その受け取り方などもさぞ落差があり、両者それぞれに不思議な魅力を持たせ会ったのではないかと推測します。 鴎外記念図書館・観潮楼跡
地下鉄千代田線千駄木駅から団子坂でも、根津神社から藪下通り・汐見坂を登っても 散歩好きの鴎外は気分に合わせてこれらの道を行き来したようです。 本郷菊坂町赤心館へ
明治41(1908)年5月4日、啄木は金田一京助の下宿先「赤心館」に移りました。与謝野家に迷惑をかけたくなかったのと、老いた鉄幹の元を離れて自分の目指す新しい世界へ飛び立ちたかったのでしょう。
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