本郷 (2)
一葉に別れを告げて、菊坂下から言問道路に沿って、新坂をあがる。
新坂といっても、江戸時代にひらかれた坂である。
この上には、もう一つの本郷がある。
言問道路からの新坂
蓋平館別荘跡=太栄館
(本郷6ー10ー12)
文京区は坂の町で、新坂をあがれば本郷台地になる。この新坂では、中程から「太栄館」の看板が見える。石川啄木の本郷時代2番目の下宿跡である。
先にも紹介したが、啄木は明治41(1908)年5月、北海道から上京し、最初に、「赤心館」に金田一京助の好意により同宿していた。啄木は小説を書いたが、売れず、生活苦にあえいだ。下宿代も支払えず、延納を願ったが許されなかた。やむを得ず、同宿の金田一京助が自分の本を売って支払った状態であった。そんないざこざから、9月6日、金田一と共に、赤心館からここへ移ってきた。
「蓋平館別荘跡」=現「太栄館」今も旅館として営業している。
「赤心館」の下宿代は1人15円であった。京助の収入35円で、8月には、下宿代が5円不足したので、延納を女将に頼んだ。結局、了承されず、京助が蔵書を売って支払うことになった。荷車2台分40円だったという。
丁度この日は、啄木は森鴎外の短歌会へ招かれて、夜遅く帰宅する。そして先のいきさつを翌日知って、「私のためにこんなことまで」と京助に謝る。
京助は、がらんどうの本箱を見て、天才的な啄木でさえ、この苦労をしている。体験の少ない、才能もない自分は文学青年を清算すべきだとして、言語学、アイヌ語への転身を決意したと伝えられる。
啄木もさりながら、金田一京助のその後の活動の出発点になったことが意義深い。啄木は、やがて生活の安定を得て、明治42年(1909)6月16日、『喜之床』に転居するまで、ここに住んだ。
「父のごと 秋はいかめし 母のごと 秋はなつかし 家持たぬ児に」
をよんだという。また、小説「島影」が東京毎日新聞に11月から12月にかけて載った。宿の前に自然石の歌碑がある。そこには、一握の砂の
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」
が刻まれているが、これは、赤心館時代に作ったものである。
宿の前の啄木歌碑
蓋平館は、昭和10年頃、太栄館と改名し現在に至っている。建物は昭和29年火災によりなくなって、再建したものという。
蓋平館別荘跡の前を通って、一路南に入り、台地上の静かな住宅地を歩き、徳田秋声旧宅に向かう。竹の生えた二階家がそれである。
徳田秋声旧宅
(都史跡,本郷6−6−9)
秋声は明治38年(1905)、当時、本郷森川町1番地と呼ばれたこの地に移り住んだ。博文館に勤めながら尾崎紅葉に師事した。「新世帯」「足跡」「あらくれ」「縮図」など自然主義文学の傑作が書かれた。
また、博文館から発行された「文芸倶楽部」に樋口一葉が「にごりえ」「たけくらべ」を発表したとき、一葉担当として編集に当たったという。
6畳の書斎、蔵書、調度品がありし日のままに保存されている。
徳田秋声宅
昭和2年、秋声の「東京大繁昌記」は本郷一帯のまちの空気を巧みに描いている。昭和18年(1943)11月18日、73才で、この家で没した。
もう名前さえ見られなくなったが、明治時代、森川町は、旧加賀藩邸への東京大学の前身である医学校や大学の移転により、教員や学生が集まった。その持つ文化的な雰囲気からも、副業として、程度の良い貸家の建設がはやった。当時の文化人の住む住宅について、木村荘八は
「よく言う隠宅風(いんたくふう)の建物だった。この隠宅風というものが又、当時、向ヶ岡弥生町あたり、本郷、下谷にかけての土地柄には珍しからず残り、新聞の貸家欄にも二行広告で、何区、何町、何間、隠宅風、賃何々、庭広、電近などと書かれたものであった。
隠宅――文字通り隠れ住むインキョ家屋、申さば文人墨客などに向く木取り、木口の、庭へ枝折戸などで廻り込もうという構造・・・」(東京今昔物語)と書いている。(学生社 文京区史跡散歩 p133)
道なりに直進すれば、本郷通り、東大前に出るが、明治の建築を見るため左折して、寄り道したい。しばらく行くと、旅館の建ち並ぶ中に、そこだけ開け、グアーンと目の前に圧倒されるような3階建物がある。
本郷館
(本郷6−20−3)
明治38年(1905)建築、木造3階建ての本郷館である。現在もアパート・学生下宿として使われている。壮観さには、さすがに圧倒される。
いつ見ても、この建物には圧倒される。にぎやかに若者の声がしていた。
当時、本郷一帯は大学を中心にして教授・学生や文化人が多く住み、学生むきの「御下宿」があちこちに建てられていた。今も、旅館が目に付くが、往時の「御下宿」から変わったものが多いという。明治26年(1893)頃、当時の東京15区には、下宿が約2000軒ほどあって、本郷には約370軒が集中していたという。
本郷と「文学空間」
本郷を歩いて、つくづく思うのは、なぜ、ここに多くの文人が集まったのか? どうして、こんな「文学空間」とも呼べる地域が形成されたのか? の疑問です。
加賀百万石前田家の上屋敷のほとんどが、明治維新とともに、東京大学になり、教職員や多くの学生が集中したこと、坂が多く、山の手と下町的な要素が混合する、独特の雰囲気が文士の好みにあったこと、こんなことだろうかと理由を考えます。
一葉が最後に住んだ丸山福山町=現在の西片町は福山藩主阿部家の居住地でした。阿部家は明治に入っても土地を所有して、住宅地としての土地利用を図りました。
そのため、台地の上には「三四郎」に出てくるような借家に、多くの有名学者が住みました。一方の谷地には、一葉が描いた怪しげな銘酒屋に遊女が生活するという新開地が出現しました。
この混在が庶民の生活と解け合って、文芸作品の背景になったとも考えられます。
麻布などの高級住宅地に所有権を確立した“お屋敷”に、時の経済人、高級文学者が住むのとは、違った次元の展開でしよう。また、本郷は医療機器のまちでもありますが、これも、東京大学の医学部が早くから移転してきたことが、契機となっているようです。
本郷追分(高崎屋酒店)
(文京区向丘1ー1)
言問い通りに出て、本郷通りを北に向かう。右側に東大農学部の門が見え、左前方には高崎屋酒店がある。本郷通りはここで二分する。
本郷通り。中央のビルの手前が「本郷追分」。左折するのが中山道。
日本橋から丁度1里の距離で、中山道と日光御成街道=岩槻街道の別れ目から、「本郷追分」「追分け一里塚」と呼ばれた。榎が植えられた塚があった。右に進めば、日光御成道(岩槻街道=将軍が日光東照宮参拝に行く道)、左に直線のような道は中山道で旧板橋宿に至る。
この街道筋は江戸城防衛の要地であり、幕府は、外様の前田屋敷を取り巻くように、榊原・酒井・阿部など譜代有力大名の屋敷を置き、親藩の水戸徳川家の中屋敷もここにあった。
江戸時代から続く高崎屋。現金安売りで繁昌した。
「かねやす」とは違った行き方が面白い。
角の高崎屋は宝暦年間(1751一64)に開業、酒屋と両替商を兼業し、現金安売りで繁昌した。中山道と日光御成街道の分岐点という立地を最大限に生かし、江戸市中はもちろん、農村地帯と板橋、川口の宿場町にも取引を広げ「在方商人」としてフル活躍をした。
多くの酒蔵、築山庭園等が一体となった絵図が残されている。ただし、天保の水野の改革で取り壊したのと、道路拡幅のため、当時の店構えは残っていない。
「追分け一里塚」の上に立てられた「塞(さい)の大神」の碑が根津神社境内に移されている。本郷通りを横断し、東大農学部の塀に沿って進むと、ひとりでに根津神社にでる。
台地の水が湧き出て泉になっている。
武蔵野の「はけ」と同じで、根の津の名前が出たのか?
根津神社(ねずじんじゃ)
(文京区根津1-28-9 千代田線根津駅下車5分)
根津の権現さまといった方が通りがいい。ここも、司馬遼太郎の「本郷界隈」 根津権現 が独壇場である。権現さまの祭礼が終わって、夜も白み始めた頃、夜商人(よあきんど)同士が声をかけあって帰る。境内で、大道賭博“どっこい”=ルーレットを開いていた どっこい屋のお初 も荷じまいをして・・・と、円朝、志ん生の『心中時雨傘』をだしながら
『根津神社の境内を歩きつつ、お初がこのあたりでどっこい屋をやっていたことどもを思い出した。』と権現や根津の遊郭を紹介する。
徳川将軍家にとっては6代家宣(いえのぶ)屋敷地であり、生地であるから、特別の意味を持つが、江戸の庶民にとっては『心中時雨傘』の方がよっぽど身近だったに違いない。
南の楼門(3間1戸・入母屋造)から入ると、正面に唐門(1間平唐門)があって、透塀が東西にのびながら本殿を囲っている。本殿と拝殿と幣殿(相の間)が一つにまとめあげられていて、まさに権現造。さすが国の重要文化財のたたずまいである。色がいい。朱色に金・赤・青の華麗な彩色で仕上げてあって「桃山風」という。
近くに森鴎外や夏目漱石が住んでいたから、散歩に足を運んだろうし、森鴎外は「青年」の舞台とし、漱石は「道草」に描いている。境内の水飲み台には、「明治37年建立、建立者森林大郎(鴎外)」の銘が見える。
根津裏門坂を日本医大病院に沿って少しのぼる。ほとんど病院関係の建物に取り囲まれた中に、夏目漱石旧居跡の碑(向丘2−20−7)がある。
漱石の旧宅があった辺り。画像左に碑がある。
夏目漱石旧居跡の碑
(千駄木町57番地=向丘2−20−7)
漱石(1867−1916)が明治36年(1903)から4年間、ここにあった家に住んだ。イギリス留学から1月に帰国後、1ヶ月ほど牛込に住んで、3月3日に移転してきた。37才。借家であった。東京帝大英文科講師・第一高等学校講師として教えながら、文学との葛藤をした時代である。7月には神経衰弱が進み、一時、妻子と別居している。
翌年=明治37年、虚子などと交わり、勧められて、はじめて小説に挑んだ。 この家で『吾輩は猫である』を書き始め、ホトトギスに発表したのは明治38年1月である。
明治40年、『坊ちやん』『草枕』などが春陽堂から刊行されているので、これらもこの家で書かれたものであろう。 漱石文学発祥の地といわれる。「猫の家」と呼んで親しまれていた。
ここに、寺田寅彦がよく通った。「三日にあけず遊びに行った」とされ、漱石は寅彦のする物理学の話を興味深く聞いたらしい。漱石の熊本時代の教え子である。『吾輩は猫である』の「寒月君」は寅彦がモデルではないかといわれている。
家は、犬山市の明治村に移築保存されている。明治40(1907)年9月、牛込に転居した。ここには、明治23年10月から25(1892)年1月まで、森鴎外が住んだことがある。その後、直ぐ近くの観潮楼(かんちょうろう)に転居した。
漱石の「三四郎」は明治41年、牛込の家で書かれているが、本郷の雰囲気を良く描写し、やはり、ここ、千駄木時代に入るものだろう。
もう一度日本医大病院にもどって、藪下通りを詰めると、角地に「鴎外記念本郷図書館」がある。直進して団子坂から入っても、同じで、ここが森鴎外の旧宅「観潮楼」跡である。
藪下通りを、汐見坂を経て、森鴎外の旧宅「観潮楼」跡に向かう。
鴎外の旧宅観潮楼跡(かんちょうろう)
(千駄木1−23ー4 都指定文化財 旧跡)
付近が潮見坂で、この辺は高台で、東京湾が望まれた。鴎外の旧宅も、2階から品川の海の見晴らしがいいところから「観潮楼」と名づけられた。鴎外は、明治25(1892)年から大正11(1922)年、60歳で没するまで、30年間ここに住み、『舞姫』『雁』『阿部一族』や詩集『沙羅の木』など多くの小説・評論を書いた。
高台だけに、鴎外宅に達する道は坂になる。北が「団子坂」、南が「藪下通り」である。二つの坂とも、多くの作家たちが親しみ、作品の中に取り込んでいる。鴎外は「青年」に、漱石は「三四郎」に、二葉亭四迷は「浮雲」に、江戸川乱歩は「D坂の殺人事件」に、藤沢清造は「根津権現裏」に・・・などなどである。藪下通りは、鴎外を慕う文人が、それぞれの思いを込めて通った踏み分け道である。
ここでの鴎外のもう一つの特記すべき活動は 「観潮楼歌会」を主催したことであろう。年譜には明治40(1907)年3月、与謝野寛、伊藤左千夫、佐々木信綱などを招いて観潮楼歌会を興すとある。北原白秋も啄木も参加した。
観潮楼跡
旧宅は昭和12年(1937)の失火、さらに1945年の空襲で焼失した。わずかに表門敷石と図書館南側の庭に残る庭石、イチョウが、昔を物語っている。
庭に面した図書館の壁面に『沙羅の木』の一節を刻んだ碑(永井荷風書)が掲げられている。庭石は幸田露伴、齋藤緑雨、森鴎外の「三人冗語」(さんにんじょうご)のメンバーが集まったとき、鴎外が座った石である。
鴎外は一葉を高く評価し、一葉最後の時、緑雨の要請で医師を往診させている。一葉の死後、作品の出版に尽力した。
「三人冗語」のメンバーが集まったとき、鴎外が座った石。
三四郎池
根津神社に戻り、弥生門から東大に入る。
加賀、能登、越中前田家の上屋敷の庭園、育徳園(いくとくえん)の園池の跡で、心字池を中心とした築山や樹林に昔の面影をとどめている。
三四郎池
明治41年(1908)年、夏目漱石の小説『三四郎』の舞台になった。主人公三四郎が新入生として入学して、池の面を見つめる。
『・・・三四郎はこの時、電車よりも、東京よりも、日本よりも遠く、かつ遙かな心持ちがした。しかし、しばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような淋しさが一面に広がってきた』
と書く。そして、里見美弥子(みねこ)と池畔を散歩したのがウケて、だれいうとなく三四郎池と呼ばれるようになった。漱石とはきっても切れない縁である。
無縁坂(むえんざか)
鴎外と切っても切れないのが、無縁坂であろう。「雁」の主人公の一人、医学生の「岡田」が毎日のように散歩する坂である。9月になって、学生達が一時に本郷界隈の下宿屋にもどり、新学期が始まると、学生が三四人づつの群をなして通り、その度毎に、隣の裁縫の師匠の家で、小雀の囀るような娘達の声が一際喧しくなる坂である。
末造の持ち物になって朽ち果てるのが惜しいように思う「お玉」に、岡田との出会いの場を設定した家は画像右側にあった。左側はもと岩崎邸の石垣で、「お玉」のかごの鳥を狙う蛇が住んでいたところである。
漱石になると、この場は全く変わる。「吾輩は猫である」で、岩崎邸の岩崎男爵は、法螺吹きの大金持ちで只大きな顔をする代表に納められる。漱石の面目躍如か。明治の無縁坂はエスプリの上り下りする坂でもあった。
雨の無縁坂
石垣はすっかりでこぼこがなくなり
お玉や裁縫の師匠の家があったところは高層住宅になった。
平成の雨の無縁坂は、人通りも少なく、路面が鈍く光って、人恋しさを駆り立てる。下って池之端を右折すれば湯島に出る。
湯島の切り通しはびっくりするほど拡張されて、坂も緩やかになった。
ここを、残業に疲れた啄木が深夜歩いた姿は想像できない。
二晩おきに
夜の一時頃に切通の坂を上(のぼ)りしも・・・
勤めなればかな
坂の中程に、啄木のこの歌を刻んだ歌碑(手前左)が
無言で道行く人を見つめている。
ここから、湯島天神は目と鼻の先である。
湯島天神
雨の天神様は艶っぽい。7月、梅の花は、むっとするばかりの緑に置き換わっているが、ここに来れば、泉鏡花「女系図」湯島の白梅であろう。明治40(1907)年に発表された。
境内に鏡花の筆塚がある。しゃれて、片肌に雨がかかっていた。もう遠い時代になったが、鏡花が漱石について書いた文がある。
『・・・実はね、膝組で少しお願ひしたい事があって、それが、月末の件ですよ。顔を見て笑っちゃ不可(いけ)ません。此方(こちら)は大切(だいじ)な事でさあね。急いだもんですから、前へ手紙もあげないで、いきなり南町へ駈(か)つけたもんです。まだ、それまでに、一度だって逢った事がないんでせう。八月だと思います。・・・』
『・・・旅行鞄や何か、お支度最中の処、大分お忙(せわ)しいそうだったのに、ゆっくり談話(はなし)が出来ましてね。ゆっくりと云ったって、江戸児だから長いこと、饒舌(しゃべる)には及びません、半分いへば分かってくれる、てきぱきしたもので。・・・』
切りがないから止めるが、「相対すると、まるで暑さを忘れましたっけ、涼しい、潔(いさぎよ)い方でした。」と、途中を締めている。(1917、7、4、「新小説」臨時号 小学館 群像日本の作家1 夏目漱石 p78)
こういう言い方をする人だから「女系図」になったんでしょう。
鱗祥院(りんしょういん)
(湯島4−1−8)
天沢山鱗祥院(りんしょういん=臨済宗)。3代将軍家光(幼名竹千代)の乳母春日局の墓がある。春日局の法号麟祥院を寺名とした。春日局は元和9年(1623)年家光が将軍になると翌年引退し、ここに、庵(いおり)を建てて仏門に帰依した。
寛永20年(1643)年65歳で没すると、ここを菩提寺とした。墓域の中央やや奥に、一段高く立っている長卵形の無縫塔(卵塔)が春日局の墓である。江戸期の文化財がたくさんある。
寺のまわりが、からたちの木で囲まれているため、「からたち寺」とも言われた。文学作品に出て来るのは鱗祥院などといわず、こっちの方である。
鴎外の雁では、岡田が散歩の帰り道、「・・・広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。」となり
漱石の三四郎では、「二人はベルツの銅像の前から枳殻寺(からたちでら)の横を電車の通りへ出た。」と、春日通に出る間に通り過ぎる寺である。
本郷と宮沢賢治
宮沢賢治も一時、本郷に住んだことがある。大正10年1月23日、25才、家出した時のことだ。下宿 菊坂町75=本郷4丁目35番地5号 稲垣方2階とされている。「床屋」はここを背景とした作品という。
赤門前の文信社(現大学堂眼鏡店)に校正係として勤務。ガリバン切りをしていたとの説もある。文信社は大学の講義を謄写して売る小印刷所であった。
宮沢賢治がガリ版きりをしたという文信社の跡(現大学堂眼鏡店)
当時アルバイト学生だった鈴木東民は「彼はきれいな字を書いたから報酬は上の方であったろうと思うが、それでも、1ページ20銭ぐらいのものであったろう」と言っている。大正10年8月には帰郷し、12月、稗貫農学校教諭となった。
家出の理由
父の浄土真宗的世界に対抗、賢治は日蓮=国柱会という行動団体(当時は鶯谷にあった)を選び、教導を願った。対応した国柱会高知尾師に、ひとまず親類のもとに落ち着くように勧められ、父の知人、小林六太郎家に仮泊し、親戚の関徳弥に身を寄せた。賢治は上京直前の大正9年、花巻の町を太鼓をたたいて、「南無妙法蓮華経」をとなえながら歩き回ったことがあるという。
本郷でも、街頭布教をし、作品も多く書く。雨ニモマケズ手帳に国柱会高知尾師の名前出る。盛岡中学の先輩、金田一京助(39才)を訪ねている。
(河出書房 年表 作家読本 山内修 宮沢賢治 p72)
法真寺
(桜木の宿=文京区本郷5−26−4)
東大赤門前反対側の奥まったところに、法真寺がある。一葉が、明治9(1876)年から明治14(1881)年まで、5年間を過ごしたところである。5才から10才にあたり、後年、桜木の宿として、良き思い出を懐かしんでいる。
毎年、一葉の命日である11月23日に文京一葉忌が行われる。幸田弘子氏の朗読は名高い。
法真寺、桜の木が覆い被さるようにある。
今は寺域も狭くなったが、明治の頃は本郷通まで達していた。
法真寺に接して、2階屋があり、一葉一家が住んでいた。家庭的にも、経済的にも恵まれていた時代で、近くの私立小学校(吉川)へ通っていた。「ゆく雲」に
『上杉の隣家(となり)は何宗かの御梵刹(おてら)さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見おろすに雲は棚曳(たなび)く天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・』と記されている。
現在、仏は本堂の軒下にある。
ここに住む頃から、一葉の本好きは有名で、無意識にも、将来の基礎を作っていたのだろうか。
今回の本郷文学散歩は法真寺にて終わる。コースは歩いた順序になっていますが、できたら、2回に分けた方が落ち着いてまわれます。このページは、平成8年5月19日 東大和市図書館友の会をご案内したときの資料に画像を加え、書き足したものです。なお、案内図はいずれかの機会に添えたいと思っています。
本郷(1)へ
樋口一葉へ
ホームページへ
|