赤駒を 2 現代人にも惻々として通ずる気持ちを詠んだ歌ですが 「黒女」はどこの人?
瓦には「日頭戸主宇遅部・・・」や「白方郷土師角麻・・・」「荒墓郷戸主宇遅部結女」などと書かれています。多分税として瓦を納めた時に記した郷と名前でしょう。郷が不明のものもあります。「戸主宇遅部白喰太」「宇遅部里栖」などです。これらの瓦をもとに、豊島区史は次のように分類して、郷と部の関係を明らかにしました。 『このような人名瓦から、豊島郡に貫属された人々の姓と、居住地の関係を知ることもできる。それを図に示すと次の通りである。 日頭郷 (6) 宇遅部(2) 白方郷 (8)
土師部(3) 荒墓郷 (8) 宇遅(治)部(5) 湯嶋 (5) 刑部(2) 郷不明(58) すなわち、85例におよぶ豊島郡居住者のうち、その居郷の明らかなものは計27例である。・・・』 としています。 『
平安末期に編募された『倭名類聚抄』によれば、平安時代の豊島には 問題は倭名類聚抄には、「白方」がなくて「占方」となっていることです。人名瓦では「白方」があります。どちらかの書き間違いとも言われますが、はっきりした解明を待ちたいものです。 最近では、これらの瓦を焼いた窯まで見当がつくようになりました。漆紙か木簡できちんとした「文字」が見つかることを期待します。 豊島区史は『「占方」は「白方」の誤りであり、また「湯嶋」も「吉嶋」の訛伝ではないかと考えられる。』としています。そして、赤駒のうたに関して 『・・・おそらく夫の荒虫は白方郷の人物であり、また妻の黒女は日頭ないしは荒墓郷の出身者であろう。このような異なる郷、異なる集団間の通婚は、その背後にこれら二つの集団の日常的交流が存在したことを物語っている。』 (豊島区史 通史編一 昭和56年 P95
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幸い、隣の「葛飾郡」で作られた当時の戸籍(養老5年=721 下総国葛飾郡大嶋郷)が正倉院に残されています。それによれば、1戸の平均が20人を超えています。戸主と妻は当然として、妾や父母、子供、兄弟一緒の大家族制であったことがわかります。
『・・・年たけても妻がなく、いな妻があっても夫妻別居という事態が一般的であったようないわゆる「大家族生活の時代」であること、・・・』(防人歌の基礎構造 筑摩叢書 p55) であったかもしれません。 家は、地面を掘り込んでその上に屋根をかける竪穴式の住居で、かまど付きの1辺が2〜4メートルといわれます。間取りがあったこともうかがえ、掘立柱の建物への移行の時期でしょうか。
『軍防令をはじめ諸令をひもとき見ると、その位置をはじめ上丁そのものについて具体的にふれているものは一つもない。それどころか、法令のどこをみても「上丁」の二字を見いだすことが出来ない。そのため先学諸者も苦慮され・・・ 』(星野五彦 防人歌研究U 株式会社教育出版社 p227) また、吉野 裕氏は『この順序は、地位の上位から下位に階層をもって流れゆき、うたいだされてゆくところの順序にほかならない。』として、国造(国造の丁)・主張(主張丁)・助丁・上丁の順序をあげています。(防人歌の基礎構造 筑摩叢書 p118) ということで、この解釈も今後にまたれるようです。当時の家族の問題については、最近(1998年11月) 関 和彦著 「古代農民忍羽を訪ねて」(中央公論社 中公新書)が出版され、家族の問題とともに葛飾をえがいて、
防人にも言及されています。 馬はどこで放し飼いにしていた? 「黒女」がこんなに心遣いをしながら、捕まえられない赤駒はどこで飼っていたのでしょう?
この歌の場合、違う立場で考えた方が良さそうです。芳賀善次郎氏はこういいます。官牧の場合、『「厩牧令(きゅうまきりょう)」では、11月上旬から乾草で、4月上旬からは青草で飼うことを規定している。』 この歌の場合、冬の2月だから 『放牧地は官の牧場ではなく集落近くの原野に作った簡単な集落共同か自家用の牧場での放牧であったろう』(武蔵野の万葉を歩く さきたま出版会 昭和60年 P97)としています。 また、北区史もこの歌にふれながら、こう推測します。 だんだん具体的になって、黒女と“トラ”さんとの出会いもありそうです。
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