帰らざる河 ★☆☆
(River of No Return)

1954 US
監督:オットー・プレミンジャー
出演:ロバート・ミッチャム、マリリン・モンロー、ロリー・カルホーン、トミー・レティグ

左:マリリン・モンロー、右:ロバート・ミッチャム

かつて70年代に、野坂昭如が「マリリン・モンローノーリターン」と歌って大ヒット?を飛ばしていましたが、当時の小生は、それを聞いてなぜかこの「帰らざる河」を思い描いていました。不思議なのは、野坂昭如の歌が「帰らざる河」に言及してマリリン・モンローはもう戻ってこないと歌ったわけではないのは勿論のこととして、当時小学生であった小生が、作品の原題が「River of No Return」であると知っていたとは思えないので、なぜ野坂昭如の歌と「帰らざる河」を関連付けていたのか今となっては皆目見当がつかないことです。そのような手前の勝手な思い込みもあってか、子供の頃、「帰らざる河」は西部劇の大傑作だと思っていたのです。しかしながら、現在この作品を見ると、ストーリーにあらが目立つことが気にならざるを得ません。いくつか例を挙げましょう。まずそもそも、主人公(ロバート・ミッチャム)が只一人で暮らしているボロ小屋を、彼が銃を取り上げられるまで、なぜインディアン達は襲わなかったのでしょうか。銃が怖くて近付けなかったとするならば、筏下りのシーンでは、銃で撃たれても執拗に主人公一行を追いかけているのはなぜでしょうか。それよりも何よりも、インディアン達はなぜあれ程執拗に一文無しの彼らを追いかけるのかがさっぱり分かりません。確かに、インディアンの土地に住み着いた主人公を追い払うところまでは納得ができても、筏に流されて自分達のテリトリーから遥か彼方に遠ざかっていく主人公達を執拗に追うほどの強力な動機がインディアン側にあるようには見えません。というよりも、そのような状況に至る背景が何1つ説明されていないのです。「インディアン=悪」という当時クリーシェ化していた図式がほとんどカリカチュアの域に達し、「帰らざる河」に登場するインディアン達は、理由もなくただひたすら主人公一行に襲い掛かる単なるゼンマイ仕掛けの自動人形と化している感さえあるほどです。「インディアン=悪」という図式は疑う必要のない前提了解事項なので、イチイチ説明の必要無しと考えられていたということでしょうか。また、あるシーンでロバート・ミッチャムは、なななななななんと!我らがモンローちゃんを手篭めにしようとしているではありませんか。何というけしからんことを・・・!!!確かに現実世界では、モンローちゃんのようなカワイコちゃんが目の前に立っていれば思わず手篭めにしてしまったなどという不届きな成行きに至ることは大いに有り得るとしても、映画の世界は現実世界とは異なるのであり、不条理映画でない限り、或いはミッチャムがいとも簡単にそのような行動に走るエロ親父として設定されていない限り、思わずムラムラして出来心でカワイコちゃんを押し倒してしまったなどというシーンがあってはオーディエンスの頭を混乱させることにしかならないのです。少なくとも個人的には、何の為にそのようなシーンが挿入されているかが全く分かりませんでした。また、友人を助ける為に主人公が無法者を背中から撃ったことを息子が知り、それ以来ずっとこの息子はオヤジに不信感を抱いているけれども、ラストシーンで自分も同じような立場に立たされて初めて、オヤジの行為を理解するようになるというモラル的な展開が見出されますが、これはあまりにも見え透いていて安易すぎます。なぜならば、オヤジの行動が理解できたことよりも、人を殺した事実の方が遥かに重いはずであり、前者のプロット要素を解決する為にまだ幼い子供が人殺しをするシーンを挿入するのはあまりにも安易だからです。そのようなケースは現実には起こり得ないというのではなく、そのようなシーンを挿入するならばそれが絶対的に正当化される背景が十分に描き込まれていなければならないはずであるにも関わらず、それが希薄であるがために、主人公の幼い息子が殺人を行なわなければならない方向に無理矢理ストーリーが捻じ曲げられているような印象を強く受けざるを得ないのです。因みに、「Variety Movie Guide」の「帰らざる河」の項には、「オットー・プレミンジャーのペースは間延びしがちであり、それゆえ上映時間が長過ぎるように思われる(Otto Preminger's directorial pacing is inclined to lag, so the running time seems overlong)」とあり、オットー・プレミンジャーが監督した映画作品に対するコメントであるというより、あたかもオットー・クレンペラーが指揮したブルックナーやマーラーの交響曲が収録されたレコードのライナーノーツであるかのような評が書かれていますが、「Variety Movie Guide」の評とは逆に、そのようなドラマ的な側面を説得的に描くならば、30分は短すぎる印象を個人的に受けます。但し、中途半端に終わるくらいならばむしろ思い切って余計なドラマは切り捨て、筏下りの迫力に集中した方が良かったようにも思われ、その意味でならば「Variety Movie Guide」の意見に同意しても構いません。とはいえ、いかんせん「帰らざる河」の上映時間は、劇場公開映画の許容ミニマムと個人的に考えている90分ギリギリであり、これ以上短くするとTVMのように安っぽく見える恐れがあることも確かです。他にも指摘可能な点はいくつかありますが、あまりネガティブな点ばかりあげつらっても仕方がないので、今回DVD版で見て大いに気になったことを最後にもう1つだけ指摘しておきます。それは、必ずしも製作者が悪いわけではありませんが、迫力があるはずの筏下りのシーンでは、スタジオ内に設置されたスクリーンに背景を投影して撮影されていることがあまりにもはっきりと分かってしまうことです。要するに、いわゆる「Blue Screen Process」とか「Traveling Matte」とか呼ばれるスタジオテクニックが使用されていることがモロバレだということです。以前テレビやビデオで見た際には、ほとんど気にならなかったように覚えていますが、DVDで見るとその事実が一目瞭然なのです。もしかするとDVD収録時の画像のリストレーションプロセスもそれに関係しているのかもしれません。というのは、同年代に製作された他作品のDVDプロダクトを見ても分かるように、最近のリストレーションは精度が向上しているとはいえ、背景にプロジェクションが利用されているシーンに関して、投影されている背景映像と、スタジオ撮影の前景映像(すなわち役者がアクションを行っている映像)の間でリストレーション精度がなぜか大きく異なるよう見えるからです。このために、最近のDVDプロダクトでは、スタジオ内に設置されたスクリーンに投影された映像が背景として使われているシーンに関しては、余計にスタジオ撮影である事実が目立ってしまう傾向があるように思われます。気にしさえしなければ大した問題ではないとはいえ、気にならないと言えばやはり嘘になるでしょう。ということで、ここまでは悪い点ばかりを列挙してしまいました。それにも関わらずここに取り上げるのは、当然のことながら「帰らざる河」には素晴らしい点もあるからです。月並みな言い方ですが、まず第一に挙げられるのが、自然描写の素晴らしさです。西部劇の大きな特徴の1つは、開拓史的なダイナミズムを際立たせる自然描写の素晴らしさに見出せることは度々述べてきたのでここでは繰り返しませんが、数多くの西部劇の中にあっても、「帰らざる河」は、この点ではベストの1つであると評せます。その点に関して付け加えておくべきことは、この作品はカラーであることは勿論のこと、当時実用に供されるようになったばかりのワイドスクリーンが活用され、しかも横縦比が最大クラスの2.55:1で撮影されていることであり、これによりビューティフルな西部の景観が鮮やかな広角映像として捉えられていることです。一種のテクノロジーの勝利と言っても良いでしょう。加えて、勿論マリリン・モンローの存在を挙げないわけにはいかないでしょう。正直言えば、彼女の容姿は西部劇に合うようには見えませんが、それが逆に鮮やかなコントラストとして作品に新鮮なイメージを与えていることも確かであり、クリーシェ化されたインディアン描写が認められる一方で、モンローのフレッシュな魅力が活かされている側面もあります。当時彼女は既に大スターになりつつあったわけですが、それを決定付けた作品が、西部の広大な大自然というそれにふさわしい舞台が用意された「帰らざる河」であったと言っても過言ではないかもしれません。また逆に、マリリン・モンローが出演していなければ、「帰らざる河」は、今頃は忘れ去られた作品になっていたかもしれません。つまり、「帰らざる河」という作品は、マリリン・モンローの役者として持つ限られたイメージを、大自然を背景として最大限に引き立てることによって、後年の彼女の神話イメージを形成することに少なからず貢献したところがあると同時に、かくして形成された神話イメージに彩られたモンローの名声の恩恵を後追い的に受けたのではないかということです。そのような持ちつ持たれつの関係が、「帰らざる河」という作品とマリリン・モンローの間にはあったように思われます。「The Great Movie Stars 2 - The Internatinal Years」という本のマリリン・モンローの項に、「プレミンジャーの「帰らざる河」:演技が風景とシネマスコープの後塵を拝し、モンロー自身がZクラスのカウボーイ映画として位置付けた。とはいえ、この作品は彼女の限られた芸域を最大限に利用した(Preminger's River of No Return(54), which she categorized as a Z cowboy movie, in which the acting finishes third to the scenary and CinemaScope' - but it exploited her limited range)」と書かれていますが、これには100%同意できます。と言いつつも白状すると実は誤魔化しがあって、上の文章はこの記事の筆者が貧相(poor)であると考えている当時の2つの映画(もう一本は「ショウほど素敵な商売はない」(1954))を挙げている個所から抜書きしたものであり、「彼女の限られた芸域を最大限に利用した」と述べつつも、記事の筆者自身は「帰らざる河」をpoorな作品であると見なしているようです。個人的な見解としては、前述の通り、ドラマとしては練られていない部分が目立ち、主演の一人であるモンローにZクラスと評されても仕方がない面があったにしろ、また「帰らざる河」には当時実用化されたばかりのシネマスコープの宣伝映画という側面があったにしろ、どんな仕方であるにせよ「彼女の限られた芸域を最大限に利用した」という事実が最も重要なのではないかと考えています。何と言ってもモンローは、堅固なストーリーと水も漏らさぬ精緻なセリフを要求する演技派であったのではなく、アイコン的、イメージ的な存在として偉大であったのであり、だからこそキャサリン・ヘップバーンのような演技派大女優ですら神話にはなれなかったのに、モンローはそうなれたのです。結論的に言えば、「帰らざる河」は、ドラマとしては三流であったけれども、マリリン・モンローと西部の大自然という一見すると互いに馴染まないように見える二つの要素を見事に融合した面では、超一級品であったと評価できます。


2007/05/01 by Hiroshi Iruma
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