●第五節:編集部にて〜其の壱〜●

「まずはあの笠崎とかいうおっさんの事から調べるか……」
 君は誰に言うともなくつぶやくと、勤め先であるUG通信社へと足を向けた。
 車や人力車の群れで賑わう馬車道まで出て横浜港の方角へと曲がり、弁天通りで右折する。
 喫茶ジャバウォックとUG通信社の社屋とは、同じ関内地区にあるため、行き来にさほど時間は掛からない。ジャバウォックを出てからものの十分と経たない内に、君は煉瓦造りの欧風建築のビルの階段をリズミカルに駆け上がっていた。
「――ただ今、戻りました」
 帰社を告げる君の挨拶はたちまちの内に編集室の常変わらぬ熱気と喧騒に埋もれてしまう。
 給仕に原稿の上がりの回収の指示を出す者。次々号の表紙絵を誰に頼むのかの算段をしている文芸記者。口述筆記してきた時事問題に関する大家の意見を二人がかりで校正している記者達――。
「おう、帰ってきたか」
 入り口に程近いデスクから先輩記者の山岡が君に声を掛けて来た。
 挙げられた指の間に赤鉛筆が挟まっている事から推すと、記事のチェックをしていた所のようだ。実際、資料だの、雑誌だの、吸い殻でいっぱいの灰皿だので乱雑に散らかった机の上には数枚の原稿用紙がとっちらかされたように広げられている。
「おい、髭が呼んでいたぞ。戻ってきたらすぐに部屋に来るように、だと。何かやらかしたのか?」
 君が近づくとすぐに山岡が声をひそめて問い掛けてきた。心配げな台詞とはうらはらに目が笑っている。明らかに状況を楽しんでいる様子だ。
「――覚えはないですがね。大方、次の『実話世界』用の原稿をもっとどぎつくしろ、とかいうんじゃないですかね」
「ふん、まあ、そんな所だろうな。髭の奴は銀時計組のお前さんの事を目の敵にしてやがるからな」
 言って、にやりと悪い笑みを浮かべる。
 銀時計――優等で帝国大学を卒業した者のみに下賜されるエリートの象徴。この時代、将来の成功を約束されているそれの持ち主達は、銀時計組と呼ばれ、世の人々の羨望の的となっていた。
「そんなものもらっちゃいませんよ」
 憮然とした表情を見せて君は答えた。
「もらえるのに、もらわずに式をふけて来ちまったってか? それがまた髭には気に食わないんだろうさ。――奴ァ、俗物だからな」
「――主幹室に行けばいいんですね」
 話を打ち切ろうとする意図も顕に、君は山岡から離れようとする。
「怒るなよ。その直情ぶりは気持ち良いが、それだけでは世の中渡っていけんぜ。時には軽く聞き流す事も必要だぜ」
「山岡さん以外の人を相手にする時にはそうしますよ」
 会えば憎まれ口を叩き合う仲ではあるが、君自身は山岡の事は嫌ってはいない。
 口先では年長者ぶった事を言っているが、山岡自身、相手に非ありとなれば、主幹相手であれ、各界の名士相手であれ、激論を仕掛ける事を避けようとしない激情の持ち主である。それでいながら「爆発吾郎」などと揶揄される程度で、各界の名士達からおおむね好評を得ているのは、山岡のからりとした性格故であろう。
「ま、髭の前ではおとなしくしている事だ。しばらく御高説を賜っていれば、奴さんは満足するからな」
 無言で肯くと、君は編集室をぐるりと横切り、杉材の仕切りで区切られた主幹室の扉をノックした。
「――入り給え」
 甲高い、いかにも横柄な調子の声が扉越しに聞こえて来る。
「……失礼します」
 礼を逸しない程度に無愛想に挨拶をすると、君は主幹室(と称された編集室内のブース)へと足を踏みいれた。
「――ようやく帰って来たか。大方、また行きつけの喫茶店で女給と乳繰り合ってでもいたのだろう」
 顔を合わせるなり、悪意に満ちた言葉を叩きつけられる。
 主幹の舛村宗吉のいつもの手である。
 ――気障ったらしい髭の下から、ねちねちした言葉を出て来るのを見ていると、組み伏せてあの髭をむしり取ってやりたくなる、とは山岡の言であるが、君を含めた編集者の大半がこの意見に賛意を表明したものであった。
「あいにくそこまでは……主幹と違って一日と置かずに新聞を読んで知識を吸収する習慣がないもので」
 品の悪い悪罵には、質の悪い揶揄で十分だとばかりに君は主幹にやり返した。主幹の新聞縦覧所(大正時代に盛んであった風俗店)通いは、編集部の皆が知る公然の秘密であった。
 その言葉を耳にするや、舛村の顔にどす黒いような赤みがさし、頬が目に見えるほど痙攣した。
 他人をおとしめる事には何の痛痒も感じぬのに、自分がその対象になった(と感じた)途端に敏感に反応する。舛村が周囲の者達から小人と見なされる由縁である。
「き……」
 何か言いかけて、喉に物でも詰まらせたかのようにぱくぱくと口を開閉させる。まるで癲癇の発作でも起こしたかのような風情である。
 ――悪態でも詰まらせたか? などと悪意に満ちた推察をしつつ、君は冷ややかな目で舛村の悶絶する様を見物する。
「――君は、何故ここに呼ばれたのか分かっているかね?」
 しばらく悶えた後に、ようやく呼吸を落ち着けた舛村が、先ほどとは打って変わった静かな口調で訊ねてきた。
 君は無言で肩をすくめる。
「――この記事だがね。次の『実話世界』用の、君の貧民窟探索の記事だよ。――悪くはない、悪くはないよ。良く取材もされているし、貧民窟の様子を伝える題材の選択もなかなかのものだ。最後に現代社会に対する問題提起で締める所など優等をつけても良いくらいだ――」
 鬼の首でも取ったかのような様子で、嬉々として言葉を並べ立てる。ただでも甲高く聞きづらい声が、より一層高くなっていくのが聞き苦しい事この上ない。
「――だがね、『実話世界』向けの記事とは言いがたいんだなァ。『中央公論』や『改造』に載せる記事じゃないんだ。『実話世界』にはもっと刺激的で大衆の関心を呼ぶような記事でなくては――」
 先の先まで読めるような底の浅い内容の言葉が羅列され続ける。
 表向きは神妙に耳を傾けている振りをしながら、君はどうやって主幹の説教を中断させようかと考えていた。

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