●第四節:群がる者達●

「何にも?」
「そ、何も、異常なし。翌朝、何かしら起きているだろうと思って店に来たら、その前の晩と何も変わってないんで、安心するより先に拍子抜けしちゃった」
 と、いかにも残念そうに説明する。
「……実は結構、状況を楽しんでいない?」
 唇を焼きかねないほど短くなった煙草を灰皿でもみ消すと、君は最前からのフレアの口振りから感じていた疑問を口にした。
「その頃はね。確かに何もない平穏な日常よりは、多少物騒でも事件が起きた方が面白いかな、とか思っていたよ。尤も、その後のどたばたでそんな気持ちは何処に行っちゃったけど」
 意外にあっさりとフレアが肯定する。
「どたばたというと、さっき、君がちらりと触れていた王基教絡みの?」
 もはや、君の第二の天性とも云える記者根性を露にして君は訊ねた。大戦後の大不況にあえぐこの御時世、大正維新を掲げる王基教絡みの記事は時節柄、非常に読者受けが良い=稿料が他のネタよりも高い。
「それだけじゃないけどね。――ともかく、夜の内には何事もなかったみたいだから、その日は営業の邪魔になる仕掛けだけを外して店を開けたんだけど、またぞろあの瓶を欲しがる人が来てね」
 蒸気仕掛けの機械の様に、定期的に煙草の煙を吐きながらふむふむと相槌を打つ君を、気にかけているのかいないのか、フレアは話を続ける。
「――一見、弁護士風の人で、実際に弁護士だって名刺を出してたけど、普通の弁護士とは目の色が少し違っていてね――はっきりいえば狂信者の目。誰だか好事家に頼まれて、例の硝子瓶を買い取る交渉に来たんだとか言っていたけど、その依頼人に関する事に話が及ぶと口ぶりとか表情とかがね、こう変わるのよ。きーっとね」
 言いつつ、人差し指で両方の目尻を引っ張り、狐の目をして見せる。
「なるほど、きーっとね」
 フレアのそんな様子におかしみを感じた君は、軽く笑い声をあげる。
「そ、で、これがあなたのお待ちかねの王基教の人らしくてね」
「ほう。で?」
 もはや隠す素振りも見せず、興味をあらわにして君は話の続きを催促する。
「何か、胡散臭かったので、かまを掛けてみたというか、はっきり云うと挑発してみたの、そしたら――」 「蛇でも出て来たかい?」
「蛇は出て来なかったけど、紳士面を剥がされたトカゲくらいは出て来たよ」
「トカゲ、ね」
「ワニの子分だからトカゲでしょ、それともヤモリくらいかな?」
「……ワニね。――出淵吾尼三郎(いでふちあにさぶろう)か」
 新聞の時事漫画でお馴染みの、王基教の教主、出淵吾尼三郎の鰐頭の戯画を思い浮かべつつ、君はフレアの言わんとしている所を推察した。
「多分ね。そのトカゲの言葉尻をとらえて、依頼主を揶揄するような事を言ってみたら効果覿面。貴様のような下賎な女給ごときに、維新の大望を成すがために身を賭している教主様のお考えが分かるものか、って怒鳴りだして」
「おうおう、とんだ小物をよこしたものだ」
「下賎な女給、には、その程度の小物で十分だとでも思ったんでしょ」
 ことさらに下賎な女給、の辺りを強調してフレアが応える。
「もしかして、相当怒ってる?」
「いいえぇ、何しろ下賎な女給ですから。当然、下賎な女給らしく失礼千万な客は尻っぺたを蹴飛ばして店の外に追い出しましたし」
「そりゃ、相手も災難だ。まさか、女給風情、に武術の心得があるとは思わなかっただろう」
 以前、場所柄をわきまえぬ与太者がこの店で騒ぎを起こした時に、フレアが見せた武術の冴えが君の脳裏をよぎる。最初に浮かんだイメージが、回し蹴りの際に一瞬見えた白い太ももだったというのは、まあ、健康な成年男子の事、仕方がない事であろう。
「店長と大陸をうろつき回っていた頃に、この程度は身につけておかないと、とか言われて、幼い時分から仕込まれたからね。まさか、こんな所で役に立つとは思わなかったけど」
「違いない。――で、その後、その王基教の方から接触はあったのかい?」
「うん、訪ねて来る人間は変わったけど、似たような雰囲気のが幾度か。――名刺とか取ってあるけど見てみる?」
「是非とも」
 君のいらえに軽く肯いて応えると、フレアはカウンターの内側に鎮座しているルネサンス様式の食器棚の引き出しを開けて数枚の名刺を取り出してきた。
「取り敢えず、これだけ。最初に来たアルハザードって人は名刺を出さなかったのでないけど」
「それは残念……メモを取らせてもらって良いかな」
 フレアの了解を取った君は、カウンターに並べられた名刺から氏名、肩書き、連絡先などを愛用の手帳に書き写して行く。
 ふと、その手が止まる。
「――エフレイム…ウェイト?」
 見慣れた漢字の中に、不意に紛れ込んできたかのような現れたアルファベットに戸惑い、君はフレアの方に疑問の視線を投げかけた。
「ああ、それ? 多分、3組目の譲渡希望者」
「3組目の……外国人かい?」
「見ての通りね。言葉にニューイングランドっぽいなまりがあったから、そっちの方の人じゃないかな。陰鬱な狼って感じのする鉄灰色の顎鬚を生やした老人で、あまり好きにはなれそうにないタイプだったよ」
「なるほどね。トカゲだの、ワニだの、狼だの、人外の者ばかり訪ねてくるのでは誰でも気が滅入るわな」
「でしょう? それが入れ替わり立ち替わり、瓶をよこせって圧力をかけてくるんだから、もう始末が悪いったら――あ」
 入り口の所に視線を向けたフレアが軽く声を上げるのと同時に、ドアベルの音が店内に鳴り響く。
 フレアの手がカウンターの上を撫でるように動くと、魔法でも使ったかのように綺麗に並べられた名刺がその姿を消す。
「――噂をすれば、ね。話はまた後で」
「ああ、9時前には俺もひけるからその後なら」
「じゃ、そういう事で。――いらっしゃいませ」
 小声で君と打ち合わせるとすぐに、営業向きの声に変えてフレアが新しく入ってきた客の応対を始める。
「失礼」
 慇懃な口調で挨拶をすると、男は君のすぐ傍の席に腰をかける。
「いえ」
 気のない口調で応対をしつつ、君はざっと男の風体を見て取った。
 歳の頃は五十前後であろうか、短く刈り上げられた白髪の持ち主で、四角張った顎とがっしりした体格もあいまって奇妙な威圧感を発している。
「ご贔屓にしてくださってどうも、笠崎さん。何に致しましょうか?」
 どこか揶揄するような調子を混ぜつつ、君に判るように、笠崎、という名前をはっきりと口に出してフレアが注文を取る。
 それを契機に、カップの底に残った珈琲を飲み干すと君は席を立った。
「ご馳走様、うまかったよ」
 懐から財布を取り出し、小銭を数えてフレアに手渡す。
「ありがとうございました。――じゃ、夜の約束、忘れないでね」
「――迎えに来れば良いかな?」
「高島町の新らしい方の横浜駅の前とかはどう? 新しい蒸気二輪車屋さんの前に9時という事で」
「判った、じゃ、その時間に」
 逢い引きの約束でもしているかのような表情と口調を装って打ち合わせると、君は天使達を盛大に躍らせながら店を出た。
 肌寒さを残した大気の中を舞い跳ねる、早春の意外に強い陽光の粒子が君の目を細めさせる。
 君は昼前の常変わらぬ喧燥に包まれた煉瓦造りの街並の中を歩きながら、これからの取材の方向を検討し始めた。

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