●第参節:痩身のアラブ人●

「あの瓶を欲しがっている最初の人が訪ねてきたのは――」
「ごめん、ちょっと待って」
 君は軽く手を上げてフレアの話を遮った。
「最初の、という事は、件(くだん)の瓶を欲しがっている人間は一人ではないという事?」
「うん、その事も今から話すつもりだったんだけど、最低でも二組。場合によっては更に」
「複数の人間が一遍に? ――ふむ、ありがと、続きを聞かせて」
 君はポケットからひしゃげたナイル(国産の両切り煙草の銘柄)の箱を取り出しながら促した。
「――ん。で、最初の人が訪ねてきたのは、四日前の昼過ぎ。あの日は、人が休みに入ったのを良い事に、店長がいつもの癖を出してふらりと出ていった日だから良く覚えているんだ」
「あぁ、あの人の放浪癖はもうどうにもならないわな。――うん、あの日の事は俺も覚えているよ。あの日は何か気もそぞろという感じで、珈琲を少しドリップしすぎた感じがしたからね」
 唇の端に咥えた両切り煙草に火を着けながら君はもごもごと答える。
「え、そうだった? 私、傍目に気づかれるほどぼうっとしていた?」
「目立つほどでもなかったけどね。コーヒーにえぐみがあったので、どうしたのかな、と思って見ていたら時々ぽうっとしているようだったから」
「どれくらい?」
「どれくらい、と言われてもねぇ……一貫目ほどとか具体的な数字で表せるものでもないし。まあ、思春期の娘さんの平均よりはしっかりしていたと思うけど」
「平均ってどれくらい?」
「そういった事は現役の女学生である君の方が詳しそうだけど」
「私の知っている平均だと、起きているのと寝ているのとあまり変わらない事になるよ」
 さらりとした調子で、とんでもなく辛辣な内容を口にする。
「……少なくとも、店の営業に差し障るほどではなかったと思うけど」
 君はちょっと考えてから、フレアが納得しそうな答えをひねくり出した。
「……それで気づかなかったのかな?」
 大仰に首をひねりながらフレアが呟く。
「何に?」
 話題の転換についていけず、君はいぶかしげな表情を面に出す。
「うん、最初に訪ねてきた人なんだけどね。実は、私、その人がお店に入ってきた事に気づかなかったんだ」
「奥の方で用事を片づけていて気づかなかった、とかじゃないのかい?」
 言って、半ば灰になった煙草の先でカウンターの奥の厨房の方を指し示す。
「そうかもしれないけど、それでもドアベルの音には気づくと思わない?」
「その客がドアベルを手で押さえて――無理か」
 仮定の言葉を口にしかけて、君はすぐにそれを否定した。
 のばされた君の視線の先にある、アールヌーヴォー調のシンプルなデザインの扉の内側には、舞い踊る天使達を摸したドアベルが見て取れる。
器用な素早い腕が10本くらいあれば、その無数の天使型のベルから成るドアベルを鳴らさずに店に入る事ができるかもしれないが、二本しか腕を持たない人間にはそれは無理な相談であった。
「でしょ。やっぱり、私がぼけていただけなのかな?」
 どこか釈然としない様子でフレアが言う。
「……ふん。まあ、考え得る可能性の内、有り得ないものを取り除いていって、最後に残ったものが真実である、とかいう言葉が英吉利(イギリス)の人気探偵小説にあったし」
「現実と空想とを混同するのはどうかと思うけど、確かにその言葉には説得力があるね」
 うんうん、とフレアが首を振ってみせる。
「だろ? で、その男――女かもしれないけど――はどんな感じの人間だったんだい?」
「こおんな――」
 と、フレアが両手を使って細っこい棒の形を示して見せる。
「――糸杉みたいにがりがりに痩せた、背の高いアラブ人で、まだ若く見えたかな。目の色は青、肌は浅黒く日焼けしていて、アラブ人らしく口髭をたくわえていたよ」
「名前とか――偽名かもしれないけど、は名乗らなかったのかい?」
「――っとね、アブドゥル・アルハザードとか名乗っていたけど」
「……アブドゥル・アルハザード?」
 その名前にどことなく聞き覚えがあるような感じを受けた君は、どこで聞いた名前なのか、記憶の井戸をさらい始める。――従軍記者時代、――洋行時代、――学生時代……。その名前が記憶の表面に現れる前に、フレアの声で君は現実に引き戻される。
「――知ってるの?」
「聞いたような気はするんだが……悪い。思い出せない」
「有名人なのかな?」
「知る人ぞ知るというやつかもしれないな。特殊な分野では有名であるとか」
「そう云えば――」
 言い掛けて、フレアが途中で言葉を切る。
「何か、気づいたことでも?」
「ん〜、なくもないんだけど、話が分かりにくくなるから後でね。――で、その人なんだけど、後から来た人達と比べるとちょっと変わっていたから気にはなっているんだ」
「変わっていた?」
「うん、後から来た人達――中には明らかに王基(おおもと)教の人間だと思える人達も混じっていたんだけど――は、最初からあの瓶目当てという感じでね――」
「ふむ」
 大正維新の予言で世間の耳目を騒がせている、王基教絡みの記事に仕立てる事ができれば受けが良いな、などと記者根性を出しつつ、君は適当に相づちを打つ。
「――もう、欲望をむき出しにしたようなぎらぎらした感じがしたんだけど、その人はそうじゃなくて、不意にそこの――」
 と、フレアが目線で硝子瓶の置いてある出窓の傍のテーブル席を指し示す。
 現在、その席は無人で、心なしか、問題の硝子瓶が窓辺から差し込む春の陽光に奇妙な色合いを与えているような印象が感じられる。
「――テーブルから声を掛けてきてね。まるで美術品の鑑定士みたいに静かな感じの声で、この壷はあぼりじにから手に入れられたのですか? って聞いてきたの」
「なんだいそりゃ? ――あぼり死に?」
「私に聞かれても分からないよ。その時はこっちも面食らっちゃって、その人が次の言葉を口に出すまで、まだお冷やも出していないことにも気づかなかったくらいだから」
「次の言葉って?」
「――これは失礼、学者馬鹿というやつですな。アボリジニというのはオウストラリア大陸土着の土人の事で、私がお伺いしたいと思ったのは、こちらの壷がオウストラリア産の遺物であるか、否かということなのです、ってね」
 その男の口調を真似ているのであろう、できる限り低めた声でフレアが悠然としたイントネーションを再現する。
「――って、日本語でしゃべっていたのかい? 君相手に?」
 意外な感を受けて、君は僅かに声を高めた。
 それも無理はない。十年以上前、北の大国、露西亜に戦争で勝って以来、日本の国際的地位は上がっているとはいえ、日本語をうまく操る事のできる外国人の数は限られている。ましてや、外国人同士の会話で日本語が使われるなど極めて稀な事であろう。
「それも変わっていた点の一つなんだ。私よりも流暢なくらいだったよ」
「そいつは信じがたいなぁ」
 正直な驚きの感情が言葉に混じる。
 しゃべり言葉に若干癖があるものの、日本語の細かなニュアンスなどの理解に関して、フレアが下手な日本人よりも上手を行く事を君は良く知っていた。君の知る限り、フレア以上に日本語に精通している外国人は、現在留守にしているこのジャバウォックの店長、クラウス氏くらいのものである。
「でも、そうだったよ」
「ふうん。――オウストラリア、ね。英吉利の流刑地だったっけ?」
「それは昔の話じゃない? 確か今は英吉利の属領だったような」
「――その瓶がオウストラリア産だと何か意味があるのかな?」
 その男の質問の眼目がさっぱり分からず、君はぼやくように疑問の言葉を吐き出す。
「さあ、さっぱり」
 フレアの方も、まるでわけが分からないといった様子で肩をすくめる。
「――ともあれ、その人は、自分はオウストラリア大陸のぶんか……じんるいがく、だったかな? の研究をしている学者で、その瓶に興味があるのでしばらく預かって調べさせてもらえないか、って申し出てきたんだ」
「で、それを断ったと。――何で?」
「うん、まあ、瓶自体、ここの大家さんが半年前の改装の時にお祝いとしてくれたものだから、とかいう義理なんかもあるんだけど……」
 そこまで口にして、躊躇うように一度言葉を切る。
「……なんというか、初対面の印象だけで決めつけるのはどうか、って言われるかもしれないけど、その人、何か嫌な感じがしたんだよね」
「嫌な感じ?」
「うん、日本語も達者だったし、態度とか表情とか、非の打ち所がないくらい礼儀正しかったんだけど、なんだろ、まるで目の前であかんべをされているのに気づく事ができないような、ひどく嘲弄されているような気がしてならなくて」
「それはまた、妙な印象だね」
 面を食らった風情を見せて、君は芸のない感想を述べる。
「うん……分かってはいるんだけどね。でも、そういう感じがしたんだ、――嘘じゃないよ」
「嘘だなんて言ってないさ」
 懸命に自分の感じた違和感を伝えようとするフレアの様子には、まぎれもない真摯さがこもっている。
 自然、君も、彼女の言う『嫌な感じ』を肯定する気にならざるを得なかった。
「――第一、そのすぐ後に二組目、三組目の譲渡希望者が現れたんだろ? それだけでも君の印象の正しさを裏付けていると言えるんじゃあないかな。――で、その男、その場は素直に引き下がったのかい?」
「うん。意外なくらいあっさりと。それでは仕方がないですね、って」
「……それはまた、意外なことだな」
 ひと悶着あったであろうと考えていた君は、意外な返答に拍子抜けした気分になってしまう。
「何かあった方が、記者さんとしては面白かったでしょうけど」
 悪戯っぽい調子でフレアが君をからかう。
「よせやい、それじゃ俺がいつも他人様の不幸を願っているみたいじゃないか」
 表向き、憤然とした様子を見せて君は反論をする。
「普段から、何か事件はないかなぁ、とかぼやいているから、そう思われるんだよ。あ、でもまったく何もなかったわけではないかな」
「――何かあったのかい」
 反射的に仕事向きの口調で聞いてしまった君は、すぐにしまったという表情を面に浮かべる。いかにも可笑しそうな様子で、フレアがくすっと笑う。
「それがね、その人が店から出る前に妙なことを言っていたんだ。――あなたの了承を得る事なしに無理に預かる事はできませんからな、って」
「――脅しだな。素直に譲らなければ非合法な手段に訴えてでも、と言外に言っているんだ」
「うん、私もそう思った。だから、その日は瓶を家に持って帰る事にして、早めに店を閉めて、誰かが店に押し入ろうとしたら、後に形跡が残るような仕掛けをしておいたんだけど――」
「だけど?」
「それが空振り。何にもなかったんだ」
 ぷるぷると首を振って、フレアがお手上げのポーズを取る。

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