1999年9月27日

東ティモール回想 −概観と教訓−


ノーム・チョムスキー

 東チィモールで起こっている事件について冷静さを装って書くことは容易で
はない。ここで行なわれている犯罪が我々にはおなじみのもので、またそれは、
やめさせようと思えば簡単にやめさせられる類のものであることが、おぞまし
さや恥ずかしさを一層のものにしている。これは1975年にインドネシアが
アメリカの外交援助や武器供与に頼って東ティモールに侵攻して以来ずっとそ
うであった。当時、アメリカから供与された武器を使用することは取り決め違
反ではあったが、秘密裏に米国政府によって承認されていた。表向きの禁輸措
置の裏で、新しい武器が送られることもあった。インドネシア政府の方針を変
更させるためには、爆撃や、貿易措置すらもちらつかせる必要はない。アメリ
カとその同盟国はインドネシアに積極的な協力をやめ、軍上層部にいる知り合
いたちに、虐殺をやめ、国連と国際司法裁判所の判断どおり、東ティモールに
自決を認めなければならないこと告げるだけでよかったはずである。私たちは
過去を元には戻せないが、少なくとも私たちが何をしたのか認識し、まだ破壊
されずに残っている物を守り、十分に補償を行なう同義的な責任を担わなけれ
ばならない。犯された犯罪の償いとしては、微々たるものではあるが。

 この裏切りと共謀の痛ましい物語の最新幕は1999年8月30日の住民投
票のすぐ後に始まった。住民投票では圧倒的に独立派が勝ち、その直後にイン
ドネシア国軍により組織され統率された残虐行為は激しさを増した。UNAMETは
9月11日に次のように分析している:

 民兵と国軍が直接的に連係していることには議論の余地がなく、過去四ヶ月
 の間、UNAMET によってもそれは数多く例証されている。過去一週間の東ティ
 モールでの破壊の規模と徹底さは以前はこっそりと実施されていたものを、
 軍がおおっぴらにやるようになり、新しい段階に入ったことを示している。

 UNAMETは「最悪の事態はまだこれからであり、… これが東チィモールの問
題を力づくで解決するための大虐殺の第一段階である可能性もある。」と警告
していた。

 投票監視団に加わったインドネシア史の専門家ジョン・ルーサは状況を次の
ように記している:「大虐殺は明らかに予想できたことであるから、それは容
易に避けることができたはずである。…しかし投票直前に、(国際部隊の)結
成について、クリントン政権はオーストラリア等と話し合うことを拒絶した。
騒乱が起こった後でさえ、クリントン政権は何日か躊躇していた。」国際的な
圧力(主にオーストラリアによる)や国内の圧力を受けて初めて、ほんの申し
訳程度の態度表明をしたのである。しかし、このようなあいまいな意思表示で
すら、インドネシア国軍の司令官たちに方針を転換して、国際部隊の受け入れ
をせまるのに十分だったのである。このことは、どのような潜在的な影響力を
アメリカが持っていたかを示している。

 これと同じように、ワシントンの同意と働きかけがなければ国連も無力であ
る。国連の見積もりによると、クリントンがためらっている間に東ティモール
の人口のほぼ半分が家を追われ、何千人もの人々が殺された。米空軍はノビサ
ド、ベオグラード、ポンセバなどの民間の標的を正確に破壊することはできた
が、アメリカ等によって訓練され武器を供与されたインドネシア国軍を怖れて
山中に逃げ、飢えに苦しんでいる人々に食糧の投下を行なうことができない。

 最近の事件は「故意に知らぬふりをする」ことを望まない人々の間に、苦い
記憶をよみがえらせる。20年前の事件が恥ずかしくも再生されているのを私
たちは見ているのである。カーター政権の支持を受けて1977年から78年
にかけ大虐殺を実行した後、インドネシアは、ジャカルタ駐在の外交官たちが
東ティモールを訪れるのを許しても問題無いと考えた。アメリカのエドワード
・マスターズ大使も、この時、東ティモールを訪れた者の一人である。彼らは
人道上の大惨事が起こったことを認識した。その結果を、インドネシア研究の
第一人者ベネディクト・アンダーソンは、次のように記述している:九ヶ月も
の飢餓と恐怖の間、「マスターズ大使は国務省内部でさえも、東ティモールへ
の人道的援助を提案することを先延ばしにした。」インドネシア国軍の将軍た
ちが、国務省の内部資料の表現を借りれば「国外からの視察を受け入れられる
ようになり、米国に対してゴーサインを出すまで」待っていたのである。その
時になってはじめて、米政府は、自分たちの取った行動の結果を何とかしよう
と考えるようになったのである。

 インドネシア国軍と準軍組織が1999年の9月にディリを焼き尽くし、殺
戮と破壊をしようとする中、国防省は、「人道的援助や災害救援活動をねらい
としたアメリカとインドネシアの共同軍事訓練が(投票五日前の)8月25日
に終了した」ことを発表した。私たちは過去何回も同じ話を見て来た。この軍
事訓練で学んだことがすぐ数日後に実践に移されたと考えないのは、自分から
目を閉じた者のみであろう。

 一つの恐ろしい実例は1965年の、スハルト将軍が権力掌握したクーデタ
ーである。軍隊による虐殺で数ヶ月のうちに何十万もの人が虐殺された。その
ほとんどは小作農であった。左翼系の大衆政党PKIが壊滅させられた。当時、
インドネシア社会内の不純分子が一掃され、国際的な搾取への道が開かれたの
を見て、西側諸国は喜び、インドネシアの「穏健派」、つまりスハルトとその
軍内の共謀者に対して、賞賛を惜しまなかったものである。ロバート・マクナ
マラ国防長官は、議会で、アメリカの軍事援助と訓練が功を奏したと述べてい
る。五十万人もの死者のことも含めて、そう言っているのである。議会報告は
「多大な功を奏した」と結論している。マクナマラはジョンソン大統領に、軍
事援助のおかげで、インドネシア軍が「機を逃さずPKI攻撃を行なうことが
できた」と伝えている。大学での教育も含め、インドネシア軍の将校との接触
は「新しいインドネシアのエリート(軍)を我々の望む方向に向けさせるため
のとても重要な方法だ」とも述べている。

 この状況は1999年8月の人道的援助のための軍事演習まで、35年間、
軍事援助や訓練、連絡などの面で続いた。その数ヶ月前、リキサにある教会に
避難していた多数の難民が虐殺された直後、アメリカの太平洋艦隊司令官デニ
ス・ブレアはインドネシア国軍司令官のウィラント将軍にアメリカの支持と援
助を約束し、新たな軍事訓練を提案したのである。ここで述べてきたのは、ご
くわずかな例に過ぎないが、アメリカ政府は「長年、インドネシアの未来の軍
幹部をアメリカで訓練したこと、そして何百万ドルにものぼる軍事援助」が多
大な価値を持つものであるとし、この対インドネシア政策を継続するとともに、
世界各地で同様の施策を取るべきであるとしている。

 その恥さらしな行動の原因は、時には正直に認められることもあった。最近
の残虐行為の間、ジャカルタの某高級外交官は、大国のかかえる「ジレンマ」
を次のように描写した:「インドネシアは重要だが東ティモールはそうではな
い。」そう考えれば、ワシントンが、うわべだけの非難をインドネシアに向け
るだけで、東ティモール内の治安は「インドネシア政府の責任であり、それを
侵そうとは思わない」という主張を続ける理由がよくわかる。アメリカは、今
までインドネシア政府がその「責任」をどのような形で果たしてきたか十分に
分かっておりながら、投票直前まで、そのような公式見解を述べ、憂慮されて
いた騒乱が現実のものとなっても、その態度を取り続けたのである。

 前述の外交官の推論は、「ニューヨークタイムズ」のアジア問題専門家2人
によってさらに明確にされた。彼らが書くには、クリントン政権は「80万の
人口しか持たないちっぽけな貧しい東ティモールの運命を心配するよりも2億
以上の人口を持つ鉱物資源に富んだインドネシアとの友好関係の方に重きをお
くことにした」のである。ニューヨーク・タイムズは、アジア太平洋政策研究
所の所長、ダグラス・パールの言葉を引用している。「ティモールは、ジャカ
ルタとやっていく上での一つの減速障害物である。それは安全に越えなければ
ならない。そして、インドネシアは大国であり地域の安定に中心的なのである。」

 安定という言葉は、「政治的エリートたちに都合のよい方針を取らせること」
の符牒として長いこと使われて来た。都合のよいというのは、その国の国民に
対してではなく、国外投資家や国際企業にとってである。

 ワシントンの言い方をすれば「我々は東ティモールという犬レースには参加
していない。」だから、何がそこで起ころうともそんなことはアメリカの知っ
たことではない。しかし、オーストラリア政府の激しい圧力により、アメリカ
政府は考えを変えた。政府高官は「我々は大いにこのレースに関わっている。
それはオーストラリアが参加しているからである。我々はオーストラリアを支
援しなくてはいない」と述べた。一方、この「貧しい地域」東チモールでアメ
リカの後押しで行なわれた犯罪行為を生き延びた住民たちは一顧の価値もない
のである。

 1975年のインドネシアによる侵略について責任がある者達は、この行動
原理をよく理解していた。その原理は国連大使ダニエル・パトリック・モイナ
ハンが雄弁に表現している。彼の言葉は、国際問題や人権や法による統治に関
心を持つ者ならだれもが記憶しておくべきものである。国連の安全保障理事会
はインドネシアによる侵略を非難しインドネシアに対して撤退するよう命令し
たが、無駄に終わった。モイナハンは、1978年の回想録のなかで、その理
由をこう述べている:

 アメリカは、まさにこうなることを望んでいたのであり、それが現実になる
 よう、画策した。国務省は、国連が何をしようとしても無能であることを望
 んでいた。そうするのが私の仕事であり、私はそれを十分成功させたのであ
 る。

 その成功は実際立派なものだった。モイナハンが報告書を引用して述べるよ
うに、2ヶ月の間に約60,000人の人々が殺された。「それは人口の10
%、つまり第二次世界大戦時のソ連が経験した被害の割合にほぼ相当する。」
そして、1年も経たぬ間に「報道からその話題が消えた」ことによって、成功
したことが分かる、とも付け加えている。侵略が激しさを増していた中、まさ
に、東ティモールに関する報道は姿を消した。モイナハンがこの回想録を書い
ていた1977年から78年にかけて、残虐行為はピークに達した。人権を売
り物にしたカーター政権からの高度な兵器の供与によって、インドネシア軍は、
山に逃げた何十万という人々に対して破壊的攻撃を実行し、生存者にはインド
ネシア政府への服従を強いた。東ティモール内の信頼できる教会筋が、20万
人が死んだと推計したのはこの頃である。この数字は、何度も否定された後、
広く受け入れられるようになった。その大虐殺に対するアメリカ政府の反応は
すでに述べたとおりである。

 大量虐殺が皆殺しに近いところまで来た時点で、イギリスとフランスが、武
器の提供と外交的な支援でもってこれに参加した。他の国もまた、先ほど述べ
たあの原理にのっとって、金になる侵略と大虐殺に参加しようとした。

 東ティモールの問題はなにも1975年に始まったものではない。東ティモ
ールは戦後の世界の立案者達によって見落とされてきたわけではなかった。ル
ーズベルトの上級顧問、サムナー・ウェルズは、東ティモールは独立を認めら
れるべきであるが、「そのためには確実に1000年はかかるだろう」と考え
ていた。恐ろしいほどの勇気と不屈の精神によって、東ティモールの人々は、
災難に耐え、これが間違いであったことを示すべく闘ってきた。日本と戦って
いるオーストラリアの小部隊を守るために、およそ50,000人の東ティモ
ールの人々がその命を落としたと言われる。かれらの武勇が日本の侵略からオ
ーストラリアを救ったのかもしれない。1975年のインドネシアによる侵略
の後、数年のうちに、今度は人口の3分の1が死んだ。

 今年は東ティモールにとって希望の光とともに幕が開いた。インドネシアの
ハビビ暫定大統領が、インドネシアとの融合(「自治」)を選ぶかそれとも独
立を選ぶかの住民投票を行うことを命じたからである。すぐに軍が、脅迫によ
ってこれを妨げるために、動いた。信頼できる教会筋によると、8月の国民投
票に至る数ヶ月間の間に、3千から5千の人々が殺された。この数は、NAT
O軍がコソボ爆撃を始める前の死者数の2倍にあたり、人口比では4倍以上の
数になる。インドネシア軍の命令を無視するような向こう見ずな者にはこうい
う運命がまっているのだぞと警告するかのように、恐怖は蔓延した。

 住民のほぼ全員は、しかし、暴力や恐怖をものともせず勇敢に投票を行った。
投票者の80%近くが独立に賛成であった。そしてインドネシア国軍は虐殺や
追放をもってこの投票結果を翻そうとし、すべてを焼き尽くした。ノーベル賞
受賞者のカルロス・フィリペ・ベロ司教によると、2週間のうちに1万人以上
が殺されたという。ベロ司教は、弾丸の雨の中、東ティモールを追われた。彼
の家も焼かれ、そこに避難していた人々も生き延びることができるかもわから
ないまま、外に放り出された。

 ハビビ大統領が突然住民投票実施を発表する以前から、東ティモールの資源
の管理を含め、軍はその役割が脅かされることを察知し、「単純に言って、東
ティモールを破壊するという目的」のために周到な計画を企てていた。その計
画は西側の諜報機関には、以前同様、知られていた。国軍は西ティモールから
何千という兵を募り、ジャワからも多くの兵力を投入した。さらに不吉なこと
に軍はアメリカで訓練されたKopassus特別部隊も投入した。そして、指揮官と
して、アメリカで訓練を受けた諜報の専門家で、東ティモールでの経験を持ち、
「残虐だという噂の」マカリム将軍を送り込んだ。

 恐怖と破壊は今年始めから始まった。西側では、破壊活動に関わっているの
は国軍の「はぐれ分子」だとされることがあるが、これは怪しい。ベロ司教の
言うように、ウィラント将軍が直接責任を負っていると考えるべきであろう。
民兵は精鋭Kopassus部隊によって統率されているようである。このKopassusと
いう特殊部隊は、合衆国軍やオーストラリア軍と定期的に訓練を行っていたが、
「その行動があまりにもひどいので、やがて、Kopassusと共同訓練を行うのは、
米豪も、恥ずべきことだと考えるようになった」とアジアでの取材歴の長いデ
ビット・ジェンキンスは書いている。Kopassusの「残酷さは有名だ」とベネデ
ィクト・アンダーソンは言う。東ティモールで彼らは「あらゆる種類の暴虐を
行った。」組織的なレイプ、拷問、処刑、覆面武装集団の組織化などである。
彼らはアメリカが南ベトナムで何万人もの農民や地元指導者のほぼすべてを殺
害するのに用いた戦法「フェニックス」や、ニカラグアでコントラが使った方
法(CIAから学んだものである)を用いているとジェンキンスは言う。この
国営テロリスト集団は、「一番過激な独立賛成派を標的にしているだけではな
く、社会に影響力を持っている人々、穏健派も標的にしている」。「フェニッ
クスとは」、ジャカルタの信頼できる筋の情報のよれば、その目的は「すべて
の人(NGO、赤十字、国連、そして報道機関)を恐怖に陥れることである」。

 国民投票のはるか前にディリのインドネシア軍司令官トノ・スラトマン大佐
は何が起こるかを警告していた。「もし独立賛成派が本当に勝ったとしたら…
すべては破壊されるだろう…23年前よりも悪い状態になる。」住民投票に関
する国連合意が交わされた5月初めの軍の文書には、「独立賛成派が勝った場
合は投票結果の発表後、村から村へと大虐殺を実行すべし」という命令が記さ
れている。独立運動は「その指導層から一番下の部分まで、根絶されねばなら
ない。」オーストラリアの報道機関は外交筋、教会筋、民兵筋兵の情報を引用
して次のように伝えている。「自治案が否決されたらすぐ使えるように、何百
もの最新式のライフル、手投げ弾、追撃砲が備蓄準備されている。」そして、
恐怖に臆することなく民意が発露されれば、軍によって統率された民兵が東テ
ィモールの大部分を武力で制圧するだろうと警告している。

 これらすべてはインドネシアの同盟国には十分理解されていたことである。
同盟国は、どのようにしたらこの事態を終結させることができるかもよく分か
っていたにもかかわらず、逃げ腰であいまいな態度に終始したため、インドネ
シア軍の将校たちは自分たちの仕事に「青信号」が出たと解釈したのである。

 インドネシアと東ティモールをめぐる汚れた歴史は、戦後の合衆国とインド
ネシアの関係という背景に照らして理解されなければならない。その豊かな資
源や、地勢上極めて重要な位置により、インドネシアはアメリカの世界戦略の
中心的役割を保障されていた。これらは、アメリカが40年前、独立的すぎ、
民主的すぎ、貧農に基盤を持つ左翼政党PKIの参加を認めまでするインドネ
シアの解体を試みた原因であった。1965年に西側諸国が殺人と拷問で作ら
れた政権を「西側に有益な政治方針を取った」として支援したのも同様である。
また、東ティモールの扱いは、アメリカがインドシナ半島で行なった戦争から
の名誉挽回のチャンスとしても考えられていた。キッシンジャー流の表現を借
りれば、アメリカのインドネシアへの肩入れは、独立を求めるナショナリズム
の「ウイルス」がインドネシアに飛び火するのを防ごうという狙いがあったの
である。東ティモールへの侵略とその後の暴虐に支持を与えたのは、つまり、
条件反射的なものであった。もっと広い視野に立って分析しようとすれば、ポ
ルトガル帝国主義の崩壊がほぼ同様な結果をアフリカにもたらしたことも考慮
に入れなければならない。アフリカでは、南アフリカが西側諸国による圧政の
代理人であったのである。不純な動機や邪悪な行動を隠すため、共産主義の蔓
延を防ぐという冷戦時代の取ってつけたような理由がよく口に出された。東南
アジアではことさら、そうであった。

 私たちは、東ティモールでだけでなく、いったい自分たちの行動がどんな因
果関係を持つものなのか、しっかりと見据えなくてはならない。今、おぞまし
い二十世紀の歴史のうちでも、特に悲惨な辛酸を味わった東ティモールが身の
毛のよだつような最期を迎えないようにするには、まだ時間が残されている。
しかしそれはごくわずかな時間でしかない。

訳:石橋康子、渡辺文絵、曽我部絢香、大野裕