第50題日韓交流の陥穽
――申敬澈・柳田康雄氏の衝突を読む――
申敬澈氏と柳田康雄氏の論争
『東アジアの古代文化』72号の申敬澈氏「最近加耶遺跡の出土遺物の解釈をめぐる若干の問題」と同73号の柳田康雄氏の「朝鮮半島の倭系遺物の解釈」との論争を興味深く読んだ。
これは学問的な論争というよりも、申氏が柳田氏の論考に「驚愕」して個人攻撃（註１）を行ない、対して柳田氏は申氏に「卑劣な中傷」とやりかえしており、衝突と言った方がよいものである。しかしそれは申氏と柳田氏の個人的な衝突という体裁であるが、韓国人と日本人の価値観・歴史観に由来するものと私には感じられるもので、両氏の文章をともに理解できるだけに、やりきれない気持ちを持った。以下、私の体験を含めて感想を述べたい。
韓国の民族主義的歴史観
私は1970年代に朝鮮に大きな興味を、朝鮮語や朝鮮文化を勉強し、そして在日朝鮮人への民族差別問題についての本を読んだり、それについての講演にもよく行ったものだった。在日朝鮮人でお付き合いした人も多い。そのなかにいわゆる活動家もいたのだが、彼らは私が歴史を専攻していたと聞いて、歴史の話をすることがあった。そしてまた私に、みんなに歴史の話をしてやってくれと依頼することもあった。彼らが私に話をしてくれと期待する歴史というのは、ごく簡単にいうと次のようなものである。
古代では朝鮮は遅れた日本に文字や仏教、学問を教えてきた。また大土木技術をもって日本各地を開発し、さまざまな優れた美術工芸や文化財を持ってきた。日本文化というのはすべて朝鮮から渡来したものだ。あるいは文明先進国であった朝鮮人が野蛮な日本人に教えてやったものだ。日本人が尊敬してやまぬ天皇家や古代貴族は、もともとは朝鮮から来たのだ。朝鮮というのは日本に文化をもたらした大恩人なのだ。
ところが明治以降の日本は西洋文明の摂取に狂奔し、それまでの恩を忘れて朝鮮を侵略した。忘恩背徳の日本はついに朝鮮を植民地化して、36年間にわたり朝鮮民族を搾取・収奪し、弾圧し、民族性を奪うなど、武力による民族抹殺を図った。日本は第二次世界大戦で敗れて朝鮮は解放されたが、日本人は一貫して朝鮮民族を蔑視し、差別し続けてきているのだ。
このような歴史が真実の歴史だと彼らは主張する。この歴史に疑問を呈すると、おまえは差別する意識があるから真実の歴史が見えないのだ、と言われたものだ。この歴史観（註２）は在日朝鮮人だけでなく、本国の朝鮮人も共有しているものである。
二つの歴史観の衝突
このような歴史観を知った上で申氏の文章（註３）を読むと、日本人の多くはかなり理解できるのではないか思う。そして、彼がなぜ誤読（註４）・取り違え（註５）をしてしまうのかも少しは分かってもらえるものと思う。つまり申氏は、韓国の民族的尊厳に柳田氏が触れてしまったものと感じたのである。
これに対して柳田氏の文章は、日本の歴史学の伝統である実証主義に基づくものである。私が読む限り、彼はごく普通のそして真面目な考古学者であり、彼の見解は多くの日本の研究者に拒否されるものではないと思う。
現在の国家・民族を射程に入れた上で原始・古代を見ようとする申氏と、歴史資料を実証の上で自由奔放に（現在の国家・民族にこだわらないで）解釈していこうとする柳田氏との間には大きな溝がある。これは韓国の民族主義的歴史観と日本の実証主義的歴史観との摩擦であり、ひいては日韓両国民の価値観の差異による摩擦であると思う。
韓国の反日感情と日本の嫌韓・厭韓感情
なぜ個人的な衝突をここまで大袈裟に言うのかというと、それが現在の日本と韓国との間の微妙で危険な感情問題に通じると感じたからである。韓国の反日感情については知る人も多いし、また体験した人もいるだろう。一方ここ1年ほどに、日本で嫌韓・厭韓感情が生じていることが新聞や雑誌に報道されていることはご存知であろうか。いわゆる従軍慰安婦問題が日韓外交交渉で韓国側から取り上げられるようになったのを契機に、日本の特に保守層から嫌韓・厭韓が言われる（註６）ようになった。それは、
1965年の日韓条約では日本の植民地支配については完全かつ最終的に解決したことになった。ところが韓国は1984年の全斗煥大統領の訪日の際に天皇による謝罪を求め、1990年の盧泰愚大統領の訪日の際にはさらに一歩踏み込んだ謝罪を求め、天皇は「痛惜の念を禁じえない」と謝罪の意を表し、これで過去の歴史はすべて清算したと思いきや、今度は従軍慰安婦のことである。一体いつまで日本は韓国に過去を謝罪し続けねばならないのか。
というものである。今のところそれまで溜まってきた日本人の「もう韓国はこりごりだ」という程度の感情が、従軍慰安婦問題を契機に表面に出てきたという段階のようで、反韓とまでは至っていない。しかしこの感情が、これまで韓国と親密な関係を持ち、韓国の発展を称賛してきた保守層（註７）のなかから出て来ており、これからどうなるか楽観を許さない。従来から変わらぬ韓国の反日感情といま出始めている日本の嫌韓・厭韓感情の摩擦は、これ程に危険な状況になりつつあるのである。そして申氏も柳田氏もこんな大状況をおそらく知らないだろうし、自覚もしておられないと思うが、この状況が考古学の世界にまで今ようやく及んで来ようとする兆候として、両者の衝突は注目されるべきだと、私は思っている。
日韓交流の陥穽
これから日韓学術交流はさらに多くなるだろう。しかし具体的にそして親密に交流する程に、相互理解が深まるのではなく摩擦感が強くなると思う。日韓交流の機会のたびに、表面的・儀礼的には「日韓友好」を謳いながら、日本人同士、韓国人同士の身内の内輪話として「なぜ日本からの影響を素直に評価しないのか」とか「過去のような大国主義的意識をまだ持っているのではないか」などと相手をけなし、悪口を言うという姿がしょっちゅう見られることになるだろう。それは互いに不幸なことであるが、必至であると私は思っている。
日韓交流はいいことづくめではなく、大きな陥穽があるのである。
註
（１） 「柳田氏の見解は日本国内でも少数意見とというよりも、むしろ奇異であり、度外視しても良いほどのものと考えている。」（126頁 下段）
「狗邪国あるいは金官伽耶の主体をなす大部分の文物は無視して、異常なまでに『シャーマニズム』的な性格が強い小数の倭系遺物にだけ執着する態度からも柳田氏の学術的性向の一端を推量することができる。」（131頁 上～下段）
「氏に久しき友情をもつ外国の友人である私は、この紙面を借りてあまりに北九州中心の閉鎖的で孤立的な思考から抜け、より幅広い視野でながめることを心から友情をもってお誘いしたい。」（133頁 上段）
こういった言い方が韓国では許されるのどうか知らないが、日本では馴染めないもので、喧嘩を売っていると思われてしまうものである。
（２）日本に対し優位に立とうとするもので、民族主義的歴史観と呼び得るものだ。
（３） 「倭は鉄の持続的な入手のために、狗邪国あるいは金官伽耶が、倭には絶対的な比重を占める存在だったのかも知れないが、当時加邪国（狗邪）の立場で倭というのは、多くの交渉の対象の一つに過ぎないという事実である。」（130頁 上段）
「倭系遺物は、氏の言葉どおり当時の日本では倭の象徴的宝器であり象徴的精神文化と考えられるが、それはあくまで日本内でそうだというものであり、金官伽耶では既にこのような『シャーマニズム』的な物品が製作・生産されないために、ただ珍奇な物品、すなわち珍品に過ぎないと感じるぐらいのものだろう。」（130頁 下段）
「この頃の金官伽耶では北部九州の中広形銅矛が祭儀具ではなく、単純な珍奇な物品だったことを傍証する好例ということができる。」（131頁 上段）
「基層文化を代表する土器文化の場合、狗邪国と金官伽耶では既に紀元前一世紀と紀元三世紀にそれぞれ瓦質土器と陶質土器文化という高度な土器文化に転換したのに比べて、倭は依然として四世紀までは土師器文化にとどまっている点、文化発達段階の『バロメーター』ということができる鉄器文化の場合、狗邪国では紀元前に鉄精錬段階に突入していたのに比べて、倭は到底比較できないほどに遅かった点などから両地域の相対的文化優劣は自明になる。」（131頁 下段）
「あまりに軽率な発言であるのみならず、それが意識的であれ、無意識的であれ、倭中心の尺度で加耶を裁断しようとするまた一つの表出として憂慮するところである。」（134頁 上段）
これらの申氏の文は註（１）の文と同様に、民族主義的歴史観を知るとよく理解できると思う。
（４） 「これを唯一の根拠として倭が当時加邪より文化的先進国だったと判断する氏の見解は極めて興味深い。」（129頁 上段
「少量の倭系遺物だけを重視して倭精神の輸出、そして倭の文化的先進国と規定する氏の考え方によく現れている。」（129頁 上～下段）
柳田氏は倭が先進国とは書いていないし、その文脈からもそうとは読み取れない。申氏の誤読としか考えようがない。彼の誤読は他にもあるが、民族主義的歴史観を知ると、その誤読にはそれなりのパターンがあることが分かると思う。
（５） 「『弥生早期と前期に少数ながら渡来系の墓である支石墓がある。残念ながら渡来系の墓に、かならずしも渡来人が埋葬されるとはかぎらない（傍点は筆者が付す）』という氏の弥生早期・前期墓制論において、それがなぜ氏自身に残念なのかが納得しにくい。」（127頁 上段）
申氏はこの後４ケ所に「残念ながら」を使用して、柳田氏を皮肉っている。しかし柳田氏の文をよく読むと、みなさんは渡来系の墓といえば渡来人が葬られていると思うでしょうが、そうとは限りませんよ、という意味である。残念に思うことの主語は読者であって、柳田氏本人ではない。「残念ながら」という日本語の使い方の取り違えである。
（６） 『文芸春秋』『諸君』『正論』など、いわゆる保守系オピニオン・リーダーで言われ始め、今では五大新聞の社説にまでこの言葉が出てくるようになった。
（７） 日本の保守層は、日本国民のなかで過半数を占めるだけでなく、政官財という日本を実質的に動かしている層でもある。嫌韓・厭韓はこの層のうち、日韓貿易や合弁、技術提携といった「日韓友好」を実際に担ってきた人たちからの声が大きいようだ。
（追記）
ちょうど10年前にミニコミ誌で発表したもの。金泳三大統領が就任した頃で、従軍慰安婦問題が大きな問題となった時期です。
韓国は、1960年代の朴正熙以来の歴代大統領が「もう過去は問わない」と言いながら、実は厳しく過去の清算を問うという対日姿勢をとり続けてきました。日本の立場から見ると、もう済んだはずの過去のことがいつまでも問題にされ、そのたびに譲歩を迫られる事になります。この関係はこれからも続くことになるでしょう。
ところで考古学や古代史の世界において、日本は朝鮮からの影響は大きかったと言っているうちはいいのですが、朝鮮半島で「倭系遺物」が多く出土するとなると日本からの影響が強調されることになり、韓国の民族主義的歴史観に抵触することになります。古い昔に日本と朝鮮は仲が良くて互いに影響し合っていたと証明されることが今の両国の友好関係に寄与すると考えることは、韓国から見て日本人の勝手な考えになります。しかし日本の研究者には韓国の見方に同調する方も少なからず見られます。
（関連の論考）
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuudai
註（４）は、他と同様に引用文の次のコメント文を段下げしたつもりなのですが、ＨＰでは段下げになりません。いろいろやってみましたが、段下げできませんでした。
従ってこの註が他と違っているのは意味がありません。悪しからずご了承ください。