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フランス言論の北朝鮮リポート

「国境なき医師団」北朝鮮難民実状報告書


フランス言論の北朝鮮リポート

人民は餓え死んでも 特権層は私腹を肥やす
地上最大の伏魔殿 北朝鮮


国境無き医師団の北朝鮮撤収を契機に、フランス有力紙が解剖した北朝鮮の惨状と矛盾

朴 祥 俊 (韓国遊撃軍戦友会総連合会 名誉会長)


 フランスに本部を置く「国境無き医師団(MSF)」は、1995年から北朝鮮内で続けて来た医療支援活動を去る9月30日付で一切中断して撤収したと、最近公式に宣言した。
 これを契機に、フランスのリベラシオン(Liberation)紙をはじめとする主要紙は、同じ日付の1面から5面まで、何と5面全部を割いて、苦痛の中で呻吟している北朝鮮の惨状に対する衝撃的な報告を一斉に掲載した。
 一方、我国(韓国)では朝鮮日報をはじめとして中央日報などがこれを引用し『北朝鮮救援物資、軍部と権府に漏れている』との見出しの記事を報道した。
 これに先駆けて、同和研究所では国境無き医師団の報告書を緊急入手し、「月刊同和9月号(9月1日発刊)」に『実存する地獄、朝鮮人民民主主義人民共和国 その阿鼻叫喚の現状を証言する』との特集を出して、読者たちを驚かせた。
 月刊同和に既に載せられた特集の証言と重複しない範囲で、ジャック・アマリック記者とローマン・フランクリン記者の報道を訳してみようと思う。
 リベラシオン紙は、私たちの耳目を疑わずには読めないくらい残酷な内容を詳細にレポートしているが、月刊同和9月号との重複を避けるために、二人の記者の序文報告要旨だけを訳す事で区別しようと思う。

北朝鮮は飢餓と術策の伏魔殿

 リベラシオン紙のジャック・アマリック記者の報告を読んでみよう。


 『鉄桶のようなスターリン主義世界の最後の砦である北朝鮮では、3年前から飢えの現象は極度に達し、飢餓状態は伝染病のように蔓延していた。最も驚くべき事実は人口の急激な減少である。推定に依れば、総人口が2,300万であったこの国で、1995年以後なんと300万名が餓死し、2,000万に減少したと報告されている。
 しかし、この国で食糧援助活動を繰り広げている非政府団体(NGO)及び国際機構は、共産政権の徹底した厳格な統制によって、制限された範囲内でしか活動できないために、公信力ある正確な統計を集めることは事実上不可能である。
 このような条件下でも、フランスの有力日刊紙リベラシオンは初めて、飢餓状態に陥った生々しい証言を入手することができた。
この証言は、国境無き医師団(MSF)の委託を受けた研究者たちによって北朝鮮との接境地帯である中国側で、去る8月一ヶ月間に採録できたものである。
 道路周辺に散らばった死体、人肉を食べたと言う事例、軍隊がひそかに移した援助食糧など…。この恐るべき飢えと餓死説の主人公は、言うまでもなく最も政治的に力の無い一般庶民たちに限られている。すなわち、大多数の庶民たちだけがまさに飢餓の犠牲になって呻吟し、倒れて行っているという話だ。閉鎖的な一社会主義国家のイメージを赤裸々に見せてくれている。
 MSFが今確信したところに拠れば、数十万名が餓えで死んで行っているという厳然たる事実である。さらに、MSFは去る9月30日付で、北朝鮮での総ての活動を中断すると宣言した。彼らによれば、北朝鮮での救護活動を続ける事は、一口で言って人道主義的倫理にこれ以上合わせる事ができないとの判断に従ったものだ。
 飢餓と独裁は、共に来る。過去、歴史上の独裁政権下の飢饉、中国の大躍進時代の悲惨だった事実など、そして今回は北朝鮮の場合がまさにそうである。しかし、根本的な差というのは、北朝鮮の飢餓死亡者の発生要因を見ると、平壌の狂人と為政者たちによって庶民階層に向けられた報復から起きた現象でなく、農村を荒廃させた構造的問題に起因しており、一方、軍需物資以外には他のいかなる物も生産できなくなった休業工場のおびただしい数の労働者への給食問題が台頭した。休業勤労者たちを食べさせられない当局の無能力と無責任を、誰に追求しなければならないのか。
 また、北朝鮮のノーメンクラーツラ(特権層)の行動様式は、根本的に中国や旧ソ連の支配者たちと区分される。中国や旧ソ連は、一部親共性向の西側の人々を巧妙に利用し、嘘の証言を通じて真実を隠蔽するために様々な努力をしたが、金正日と彼の従僕たちは惨状のむごたらしさを隠したまま、事実の一部だけをひそかに流している。状況を巧妙に利用する一つの手段だと言える。
 とにかく、このように真実のようでありながら真実でないような嘘をつきながら、彼らは既に数年前から、無視できない量の救援物資を西側世界から取り込む事ができた。
 しかし、この援助食糧は政権の高位層や弾圧勢力、そして受恵者の優先権を占めている密売業者たちの腹を肥やすのに使われていると見ても差し支えない。これがまさに、去る95年から北朝鮮で活動をしてきた非政府組織であるMSFの確信でもある。
さらに、MSFはこれ以上このような監視と統制下では活動できないので、撤収する事を決定し、この団体の責任者たちは自分たちが、これまでの間、平壌政権によって騙され愚弄されたと結論付けた。
 彼らだけが欺瞞の対象になったのではない。何故ならば、北朝鮮当局は、彼らに残った最後の手段を極度に活用するにおいては、あえて従うものが無くなるくらい天才的である。即ち、相手を煩わせる事はさすがに一番であると言える。既に核の威嚇を通じて米国、日本、韓国そしてEUから二つの巨大な原子力発電所(軽水炉)と年間50万トンの重油を自由陣営から強奪する事ができた。それでも不足な彼らは、大陸間弾道ミサイルを持ち出して高価な駆け引きを企てている。』

飢えと電力不足の生地獄

 ローマン・フランクリン記者は同日付け(9月1日)の寄稿で、フランスの人工衛星スポット(SPOT)がとらえた北朝鮮の最近の夜景写真とかつての写真を比較して見た結果、夜間照明の値が75〜80%程度激減した事が分かるという。これは言うまでもなく、この国がいかに深刻なエネルギー危機に立ち至っているかを端的に見せてくれる現象といえる。
 国境無き医師団は最終的な撤退を発表すると同時に、去る95年以後、北朝鮮の厳しい飢餓問題を助けるための自分たちの救援活動は、平壌政権によって徹底して欺瞞されたと結論付けた。
 彼らは破産したスターリン政権を手本としたのか、目的を達成するためには手段と方法を選ばず、国際的援助を引き込もうという北朝鮮当局の指導者たちは、この団体だけでなく、数々の救護機関と団体を受入れた。しかし、平壌は日常的に接しているこの恐怖のカーテンの中で、わずか一部分だけを曝け出している訳だ。
 国境無き医師団は、3年以内に少なくとも数十万名の人々が飢餓と関連した疾病や栄養失調で死亡するであろう事に付いて、疑問の有り得ない事を確認している。
 検証できない他の集計によれば、1995年のこの国の人口は2,100万名と見られており、そのうち300万名がここ数年の内に死亡したと推定している。北朝鮮当局は、昨年発表した飢餓と関連した疾病などで死亡した人の数を、134名と引き続き主張している。
 13名で構成されたチームで活動した国境無き医師団は、いろいろな地方に常駐し、彼らは人間がゆっくりできる最小限の基本的条件下で、自由に与えられた作業を遂行できるように要求したが、徹底した監視と統制下で、彼らはわずかに食糧や医薬品の補給役割以外のいかなる仕事もできない事を悟った。
 さらに、民間非営利団体は飢餓瀕死事態の深刻性に対する現実的な測定も不可能な事を知った。政権当局の幹部要員たちから常に監視されるために、自由に意思表示する一般人たちに全く会う事ができなかった。例を上げれば、地域の保健所を訪問しようとすれば1週間前に出張申請をしなければならず、かりに、この要請が受入れられたとしても、実際そこに行ってみると、総ての事が事前に演出された架空の集落を訪問したという印象を消す事ができなかった。
 咸鏡道地域で活動した4名の医療陣にによれば、医療施設は徹底した統制下にあって公開されず、おおまかな実状さえも把握するのが難しく、救護団体から提供された機資材を間違って使っている点を指摘して直してあげようとしたが、そこの医療陣に正しい使用法を教えてやる事さえも許されなかった。
 劣悪な医療実態の水準として、彼らが見せてくれたのは8年を経過したレントゲン写真くらいであり、たいして残っていない医薬品さえも、既に1986年に有効使用期間が過ぎてしまった北朝鮮産の薬品であった。血清などはひどいもので、ビール瓶の中に保管されており、電力不足のために、輸血する血液などは大部分凝固していた。
 国境無き医師団の研究室長フランソワ・チャン氏は、自分の団体が標榜する人道主義論理と平壌政権の論理の間には、越えられない障壁がある事を悟った。即ち、人道的救援活動は最も不遇な人たちに援助を提供することを目標としているのだが、この国に到着した救援物資は政府当局によって配給されたとはいうが、これを待ち焦れている庶民の実需要者たちの手には、何も与えられなかったという事実である。

何の対策も無く絶望的な現実

 数々の専門家たちを驚かした食糧配給基準設定を見ると、国民を大きく3個の部類に大別し、それを細かく分類し50の層に分け、その所属等級によった比率を適用して等差配給をするという事を知った。たとえば、下位部類に分類された階層は、反革命分子の家族分類に属し、優待的高位層は北朝鮮政権体系の高位幹部の取り分である事は言うまでも無い。これは、北朝鮮政府の最優先目標は政権の安定的維持であり、この政権延長に寄与しない平民たちは、飢えと死の危険に放置されるほかないのだ。
 現在の飢餓の主原因として指摘しているこの3年間の連続的な洪水は、事実上枝葉的なものに過ぎない。フランソワ・チャン氏は、飢饉状態はほとんど政治的な問題から始まったと分析した。即ち、この50年間維持された共産政権の政策の産物であると同時に、他の理由を上げれば、共産政権はこの貧弱な既存の食糧資源までも、政治的忠誠心と秤にかけ、国民を社会的、経済的利用価値判断に照らして等差配給したためだ。従って特権層だけが住む平壌居住者たちと、党と軍の幹部たちは食糧配給の特恵を享受し、反面、出身成分や党性が良くなかったり戦略武器工場に勤務する事も無い人、外貨稼ぎに助けにならない場合、彼らは全く食糧配給を受けられないというのが嘘でない実態である。
 このような類型の飢餓事態は、地球上いかなる国でも探せず、これは戦争に起因したものでもなく、社会秩序の大変動を画策する狂気に満ちた革命と関連した事でもなく、構造的次元に伴う問題だというのが適切だといえる。
 これは、大部分の産業がたとえ破局に至っても、とにかく産業型の大多数都市化された国家で、これほどまでに不平等な事態が何のためらいも無く発生したという事実に注目する必要がある。
 最も深刻な事態に陥っている人々は、まさに政府や権力に対していかなる関心も見せず、破産してしまった国営企業で働いていた中小都市の勤労者と家族たちである。従って、この飢餓事態は経済の総体的な破産の結果によるものと見なければならない。
 そうして、このような総体的破産状況が続出しても、近いうちに政権がまさしく崩壊につながることなく、こうした間に数千数万の善良な一般国民たちは餓死することは明らかである。

 このリベラシオン紙の特集報道は、国際救護団体、国連、米国、日本などが北朝鮮に提供した食糧及び救援物資の転用問題により、関係者間に大きな波紋を引き起こすものと見られる。
 善良な国民大衆に一日3食の飯さえ食べさせられない社会主義国家を、世界の目はどのように眺め評価しているのかを見分けるのに先立ち、北に居住している私たちの兄弟姉妹が餓えて死んで行く、この現実の前で手をこまねいている私たちの立場を嘆き、私たちはどのように対処する事が適切な方法なのか、今後の希望が持てないだけである。

北朝鮮中央通信「全く根拠の無い戯言」
対北朝鮮救援物資軍転用事実否認


 北朝鮮は9月9日、国際救援機構から支援された対北朝鮮救援物資が上層部と軍部に転用されているとの(韓国)国内一部言論報道と関連し『全く根拠の無い戯言』と、これを否認した。
 北朝鮮はこの日、官営中央通信を通じて『(国際機構が送った)救援物資が上層部、軍隊に転用されているという戯言は、全く根拠の無い戯言』だと一蹴し『それは被害地域の人民たちに等しく届けられていおり、それを何に使おうと不正と言えない厳然たる事実』だと主張した。
 この通信は『現在、朝鮮で活動している人道主義援助機構は、自分たちが任された救援対象地域で特別な問題が提起されない限り、総て出かけて見ており、援助物資も該当地域にきちんと分配されている』。援助物資転用報道は『我々に対する国際社会の人道主義的援助を遮断させようという、不純な企ての発露に過ぎない』と報じた。
 中央通信は、国際支援団体である「国境無き医師団」(MSF)が活動上の制約のために、北朝鮮を去るほか無かったという報道と関連しても『「国境無き医師団」の活動に対して妨害した事は無い』として、言論報道を『事実に合わない謀略宣伝』と、非難した。

 この資料は、韓国の同和研究所(安應模 理事長)が発行している「月刊同和」(李敬南 所長・発行兼編集人)の許諾を得て、翻訳作成されました。
月刊同和 98年11月号 3

北朝鮮難民救援基金 訳(文責) 大山たかし

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北朝鮮難民実状報告書

実存する地獄「朝鮮民主主義人民共和国」その阿鼻叫喚の現状を証言する


 この報告書は、フランスに本部を置く人道的支援の国際的医療支援を広げている「国境無き医師団」が、昨年一年間中国在留脱北者たちの証言を集めて作成したもので、最近の北朝鮮実像を数々の脱北者と北朝鮮訪問者たちの口を通して赤裸々に記している。
「月刊同和」は、この報告書の全文を緊急入手し、愛読者たちに内容の加減をせずに、そのまま公開する。この報告書では、証言者たちの身上の安全を考慮し、彼らの身分を明らかにしていない。

(編集者注) 【韓国「月刊同和」1998年9月号】


証言T.
白山、北朝鮮脱出難民支援組織朝鮮族 押寄せる難民支援に目が回るほど忙しい


白山における北朝鮮難民救援活動

 私たち国境無き医師団は1996年以来、白頭山地方の小規模な北朝鮮難民支援組織に対して相当な関心を持つようになった。
私たちは北朝鮮を脱出した難民たちに主に集安と臨江、長白のような国境都市で接する事ができた。
 いったん、この難民たちが支援組織と繋がれば、国境から遠く離れた所に脱出する事ができ、そうした後に安全を探す事ができた。
 また、私たちは広い情報網を持っているが、最も重要な地域を挙げれば梅河口と柳河、通化、白山、松江河、二道白河などである。
 難民たちは、主に私たちの支援組織を助けてくれている家庭に身を潜めることになったり、彼らが望めば特別な隠れ場所に泊るようにさせた。
 一旦、難民たちが世話を受け、栄養と休息を取った後には、朝鮮族が多く住んでいる延吉、瀋陽、大連、青島など大都市に送り、職を探せるように手助けする。
 ときには、約八千元の費用がかかる戸口(一種の配給資格証・戸籍)を買う場合もある。また、あまりに幼い子供たちには彼らを世話できる家庭を求めてやっているが、それは簡単な事ではない。
 大部分の北朝鮮難民たちは皆、湿疹などいろいろな皮膚病を患っている。それで、昨年は私たちの宿所だけでも12歳から18歳の青少年30名を保護しなければならなかった。

 私たちは、96年以後国境を越えてきた北朝鮮難民が約5万から7万名になると推定している。私たち組織の助けだけでも数百名の脱出を支援した。特に、97年夏には難民の数が急激に増加し、子供たちを同伴する場合も次第に増加した。
 このような難民脱出増加の趨勢は、中国人たちに極めて強い反発を引き起こし、ついには支援を中止させるようになり、現在は誰も北朝鮮難民を助けないようになった。かえって、難民を助けた者は三千から六千元の罰金を払わなければならないからである。
 何週間か前、白山で難民を泊めようと迎え入れた夫婦が、助けたいと思ったその難民に殺されてしまった。強盗も増え続けている。ドアを開けないといって人々を非難する事もできない。
 昨年、難民が溢れていた最盛期に、北朝鮮人難民何百人かが中国当局に捕らえられ、黒龍江収容所に連行された(1997年8月)。平壌側は不快感を示し、難民全員が北朝鮮に戻されてしまった。
 何人かの難民は、褒賞金をねらう中国人たちによって密告され、またほかの難民たちは中国公安員に捕まったり、中国に浸透した北朝鮮側秘密要員に捕まったりした。北朝鮮要員たちは重要な商業活動に介入していた者や軍人、または責任ある席にいて脱北した者たちを探し出しているようであった。
 1997年9月には、ある夫婦が集安で捕まり、北朝鮮要員たちは彼らの口にくつわを噛ませ、家畜のように北朝鮮に引張って行った。圖們と長白では脱出者たちの鼻に針金を通したのち、ロープでくくって連れて行ったという。

朝鮮系中国人(46歳)の証言

 私はトラックで、穀物、必須医薬、子供用ミルク、衣類などを運ぶために、一年に何回も北朝鮮と中国を行き来している。
 私が北朝鮮を最後に訪れたのは97年8月であった。当時、北朝鮮の状況は非常に悲観的であり、大部分の子供たちは腹が大きく腫れ上がり、頭が大きく見え、髪の毛の色は褪色していた。通りには子供や老人たちの死体があり、硬く門を閉じた駅舎周辺には幾重にも取り巻いて座っている人々が見られた。
 ひどい状況であった。食糧は無く、医薬品はもちろんのこと、農地を耕作するにも、肥料も農機具も無い状態であった。家族構成体は完全に解体され、各自離散して生きる道を探しに出た。江界ではある母親が、飢え死にしないように自分の2歳になった子供を捉えて食べた。
 国際機構から支援した食糧が何処に行ったのか知らないが、一つだけ確実な事は、この地域には絶対に来ないということだ。

証言U.
両江道恵山、34歳の男性脱北者 食糧配給95年から完全に切れる


 私は97年7月、国境を越えて恵山からあまり深くない鴨緑江を渡ってここに来た。北朝鮮にいたときは国営企業の職員として働いていたが、特別な能力を持っておらず、できる事は何もなかった。
 私が勤めていた国営企業では、次第に生産が中断されると同時に月給も貰えず、申し立てもできない絶望的な状況になってしまった。食糧配給も91年から減り始め、95年からは完全に無くなった。そして恵山市では2年前から本当に何も貰えなくなり、私は妻と3人の子供を食べさせる方法が全く無かった。
 しかし、しばらくの間はそれでも耐え抜いた。周りには餓死する人々がいたが、私には他人事でしかなかった。しかし、しばらく後に5歳になった私の息子が結局飢えで死ぬと総ての事が変わってしまった。
 そうは言っても、私の場合だけが特別な事でなく、どこでも同じである。恵山はそれでも国境地帯なので良い方であった。平安北道雲山のような所では食糧配給が途絶えて5年になる。
 昨年6月、突然住民たちに一家族当り1Kgの米が配給された。この米がどこから来た物かと聞くと、『そのまま持って帰り、他の事は考えるな。』と言った。
 私は、国際的な援助だろうと思った。このような事はたったの1回しか無かった。以後、支援の大部分は軍と当局の上層部に行き、一般住民たちまでには決して下りて来ない。
 多少なりともお金のある人は商売を始められるが、貧乏な者は寒さ、飢え、病気の中で死んで行く。恵山でもコレラが発生した。病院は空っぽで、薬も食糧同様ただではない。解体された国営企業工場の勤労者たちが、機械を部品にばらして売り払ったように、医者たちも医療機器を売ってしまった。病院の薬は横流しされて市場で取引され、病院の薬品倉庫は空になってしまった。医者たちも生きなければならないからである。
 徐々に、多くの人々が食べ物を探しに都市を離れ田舎に行った。駅は人々で満ち溢れ、死んだ老人と子供の死体が幾重にも積み重なった。現在は、地方の駅舎は最初から門を閉めてしまうくらいで、通りに死体が転がっているのを見るのは日常的な風景になってしまった。
 暴力は慢性的になった。何も無ければ、生きるために盗むのだ。何かを得るにはこれしかない。正直な人たちが一番先に死んで行った。私の子供が死んだ後、私の妻は国境地域で小さな行商を始めて残り二人の子供を養っている。中国の朝鮮族を通して中国から入ってきた衣類を内地に売りに行っている。もちろん、生計を立てるためにあらゆる他の物も売っている。

証言V.
咸鏡南道北青出身 23歳の男性 既に家庭という垣根は崩れて久しい


 私は咸鏡南道北青市から来て、今年23歳です。4人兄弟で兄二人、妹一人でした。
 昨年の夏、北青の状況はますます悪化した。さらに、腸チブスとコレラで死んで行き、飢えで死んだ人々の死体が通りのあちこちに散らばっていた。
 都市地域の食糧配給は3余年前から途切れ、闇市場の価格はとてつもなく跳ね上がった。売払う物も残っておらず、隠し貯えていた金も無くなった。
 私たち家族は、互いに離れて生きる道を探す事に合意した。こんにち、北朝鮮の家族状況は、大部分これと同じである。各自、自分で生きるのだ。私たちの父母は、私たち兄弟の責任を取る事ができなかった。自分たちの生活にもゆとりが無かったためである。
 私が家を出た頃、既に父は栄養失調で苦しんでおり、とても虚弱で今はおそらく亡くなっていると思われる。私の兄と妹がどうなっているか分からない。私の隣家では、餓死しないように自分の娘を殺して食べてしまった。これは、私が直接目撃した事実である。
 食糧配給が中断された後、人々は放浪し始めた。以前は統制が厳しく、この地方からあの地方へと移動して行くことは非常に難しく、通行許可証が必要であった。しかし、最近はあまりにも多くの人々が動き回るので、住民移動は統制不可能になってしまった。
 そして私は、恵山に行く事を決心した。何故ならば、そこには国境地帯のために食べ物がここよりあるという話を聞いたからである。無条件に北への道をとり、時にはバスに乗る事もできた。しかし、毎日通っていたバスは週に1回しか通わず、また度々故障した。そして常に満員で、乗ろうとする人全員を乗せられなかった。それで、私は他の何千人もの人々のように、ただただ歩いた。
北青から恵山まで行く間、大人や子供の死体が道の両側にころごろしていた。腹が膨らみ頭も大きな子供たちとがりがりに痩せた人々もよく見かけた。
 恵山に着いて国境を越える事を決心した。国境を越えた向こう側には食べ物があると聞いたからである。川を越えても私を助けてくれるか分からず、人々が書いてくれた所に行って門を叩いた。
 そうやって、今私がここにいるのだ。ここでは、それでも北朝鮮系の人が北朝鮮人に対して関心を寄せてくれる。しかし、北朝鮮では他人の事など眼中に無い人ばかりになってしまった。

証言W.
平安北道雲山出身 24歳の男性 一人置いてきた妹に会いたい


 私の家族は父母と姉、私と妹であり、北朝鮮西部地域の雲山市が故郷である。
 97年2月14日、9歳になった妹と私が家を出かけていた間に火事で家が全焼してしまった。父母と姉は焼け死んでしまった。
 その時から妹を一人で世話しなければならなくなった。昼間は食べ物を探して歩き回ったが、何も得られずに帰らなければならなかった。親戚のおばに妹を預かってくれと頼み込んだが、その家族も食べるのが困難な状況で、そのうえ一人の家族を加える事は難しい事であった。
 それでも結局そのおばさんは妹を預かってくれ、私一人食べ物を探して次第に遠くに行った。雲山では、食糧援助は一度も無く、またいかなる援助に付いても全く聞いた事が無い。薬も病院から消えて久しい。犯罪が頻繁になり、人々を殺して食べ物を盗んで行った。人々は持って行ける物は全部盗み出し、大した物は残っていない。
 新義州で恵山に関した話を聞き東北方向に向かった。道すがら死体を見る事は日常茶飯事になってしまい、腹が膨れた子供たちを見る事も日常的になった。
 あまりにも長く歩き疲れ、腹を空かしてしまった人々は道路脇に横たわり、そこで死んで行った。今では北朝鮮住民の30%が餓死している。
 私は恵山から中国に行く木材運送トラックによじ上り、丸太の間に身を潜ませて国境を越えた。以前は国境を越えて捕まれば、送還されるなり死刑にされた。最近はそうではない。あまりに多くの人を銃殺しなければならないからだろう。
 北朝鮮国境守備隊に捕まったり、中国警察によって送還された人々は3部類に分けて見る事ができる。本当に何も無くて食べ 物を探して国境を越えて行った人々は、何度か殴られ留置場に1日2日間監禁されて釈放される。
しかし、金が少しあり中国から何かでも持ち込むのに成功した人々は安全部に罰金(現物)を払ってすぐに釈放してもらう。しかし中国人たちと実際に不法商行為をした人は監獄に送られ、全財産を差押えされる。
 妹がいなくて寂しい。今、妹はどこにいるのか。親戚のおばが妹を厄介払いしたのではないか心配だ。

証言X.
咸鏡南道高原出身 18歳の少年 家族の生計の為に幼い歳で鉱夫生活


 僕は咸鏡南道高原市から来て18歳です。母と父は病気で亡くなった。治療するお金が無くて父が先に心臓病で亡くなった。病院にも薬が無く、市場で買う事ができなければ生きられない。
 その後、母も長患いの末1年前に亡くなった。元々体が弱かったが栄養摂取ができず、適切な治療も無く、間もなく亡くなってしまった。そして、僕と妹だけが残された。
 3年前、父が死んだとき、僕は学校をそのまま辞めねばならず、幼い歳で家族を食べさせるために石炭鉱山で働き始めた。
 鉱山での仕事は本当にきつかった。そして、一日中へたばるほど働いたが、僕の月給では家族を満足に食べさせられなかった。毎月65ウォン貰ったが、市場では米1Kgも買えなかった。
 しかし、石炭鉱山は高原でもっとも恵まれた職場の一つであった。石炭は国を動かすのに重要な資源であったために、僕たちは他の大部分の職場よりも長期間月給を貰う事ができた。2年前までは、時たまトウモロコシとジャガイモの配給を受けた事があったが、その後は何も無かった。
 6ヶ月前、15歳になった妹と僕は互いに別れて別々に生きようと決めた。別々に生きれば食べて生きる道を探すのがもっと容易だと考えたからだ。
 恵山市は商売が盛んな所だと伝え聞き、北の方に向かった。恵山に到着した後、金をたくさん儲けて北朝鮮の故郷に戻り妹を探す考えで国境を越えた。

溢れる難民の波、空腹の軍人たちも国境を越える

 多くの北朝鮮人たちが数年前から国境を越えて来ているが、94年以後状況は急速に悪化している。
長白では一日に20人ほどが川を渡ったり、一か八か汽車に乗る。冬には凍り付いた30m幅の川だけが中国と北朝鮮を区分しているために、川を渡る事はとても簡単である。
 国境地方は内地よりも恵まれているために男、女、子供たちが他にする事無く、冒険をしに来る。軍人たちですら、腹一杯食べられないので国境を越えている。
 97年の夏は、難民の氾濫という点で危機的な時期だった。国境を越える人々が増加していた事実を、いろいろな消息通から伝え聞くことができた。
 「1997年の8月、9月に、私はこの目の前の道端で7歳から8歳の子供の死体を15体くらい見ました。その子供たちは餓死していたのです。」と、タクシー運転手が語ってくれた。「体力の無い者は中国までたどり着けませんし、通過して行く者にはまだ最低限の体力は残っているのです。難民に若い男が多いのは、そんな訳です。」
 一旦国境を越えて来ると、ある人々は山に行って洞窟や穴に潜む。そうしては時たま集落に下りて来て食べ物をくすねて来る。昨年8月には長白山中で飢死した28体の死体が発見された。
 夏が終わると、長白郷から松江河に至る道を明方に往来する運転手たちは、例外なく車に乗せてくれと哀願する難民たちと遭うようになった。彼らは車を止めるために、道路で車の前を塞いだりした。その後、当局は難民たちを厳重に取り締りはじめた。難民たちを助けるた運転手が現行犯で捕まれば、一万元の罰金を支払わなければならず、車も没収される。
 また、中国朝鮮族のところに避難場所を求める者もいる。何日間か保護を受け、体力が回復したら内地に向かう。職を探したり、女性の場合は結婚相手を探しながら、扉から扉へ我が身を売りに行く。ブローカーに頼る事もあるだろう。そして4,000元から5000元で売られて行く。

劣悪な交通手段、修羅場の中にもダフ屋が混み合う

 いま、北朝鮮の道路通行は自転車や軍用車輌、または恵山に物資を積んで運ぶトラックなどに限られている。他の人々は正式な道路でない他の道を歩かなくてはならない。
 時たま、既に満員になったバスが通り過ぎるが、数枚の銅貨とタバコ一箱で運転手が車に乗せる。50年代に作られたこの古いバスはあまりにも危険である。数週間前にはコンウィ里に到着する直前にバスが横転して50名が死んだ。
 また、窓ガラスが全部割れた汽車が、とてもまれに運行され、常に満員である。何人ものダフ屋が仕入れた乗車券は最高の値段で売られる。汽車に乗ろうという人々が多く、闇市場は盛業中である。
 汽車の手すりにでも登ろうとすれば、乗務員と機関士そして先に乗った人々にタバコを何本かやらなくてはならない。また、ある人々は汽車の屋根に登って旅行したりする。しかし、これ以外の大部分の人々は乗れないまま、何日も待ちながら駅前で死んで行く。
 あまりにも頻繁な停電のために鉄道運行が遅れ、わずか数キロ行くのにも何日もかかるのが普通である。北青から来た何人もの難民たちの話では、駅舎で汽車を待つ人々があまりにも多く、この頃は駅舎を閉鎖してしまったと言う。
 毎朝10余名の老人と子供たちの死体を駅舎から片付け出さなければならないので、駅舎を閉鎖してしまった。今は、駅舎の外で死んで行く。

北朝鮮内部の状況 炊事の煙が出なくても金日成銅像の照明はまばゆい

 張氏は30年間、定期的に北朝鮮に行き、木材と食糧を積んで来る運転手で北朝鮮内部の様子をよく知っている。彼はこのように証言した。『恵山に行くときには水と食糧、石鹸、燃料などをみんな持って行かねばならない。そこには何も無い。この前は私が身に着けていたベルトと履物を通りにいた男にやってきた。地面には寒さと飢えで死んだ死体がたくさん見られた。』と同時に『1994年以後、北朝鮮当局は食糧配給を中止し、食糧と医薬品に対する国際支援の話も全く聞いた事が無い。そして、当局から配給と月給が貰えなくなるや、人々は仕事にも行かなくなった。大部分の工場は門を閉ざし、工場の煙突からは煙の立ち昇るのが見られない。町の入口にある工場も、機械が粉々に取り壊されて売払われ、骨格だけしか残っていない。』と証言している。
 昼間は女たちが川岸に出て、下着を休み無く叩いている。石鹸を手に入れられず、真水でそのまま洗っているのだ。石油缶に水を汲みに川縁に下りて来た子供たちが、鴨緑江縁を偵察する武装軍人たちとすれ違う。日が暮れると住民たちが急いで家に帰るのは見えるが、どの家からも炊事の煙が出る所は無い。
 それでも金日成記念銅像だけが灯台のようにひときわ高く立っていた。この銅像の照明はあまりにも贅沢に照らし出されており、ずいぶん前にガラスが割れて無くなった窓から、こぼれ出るぼんやりした光からでも推察できる古い建物と好対照をなしている。

証言Y.
54歳 海外僑胞の歯科医、97年4月1日 飢の中でも官吏たちは安楽な生活


 私はカナダで学んだ韓国出身の歯科医である。現在は○○国籍を持っているので韓国の人々とは違って、北朝鮮を旅行することができる。
 北朝鮮問題は特別に気になる。何故ならば、韓国が分断されたとき私の家族の一部が北朝鮮に住んでおり、残りは韓国にいた。私の妹と従兄弟たちはまだ北朝鮮で生きている。
 私は10年前から○○で歯科病院を営んでいる。1991年以後定期的に北朝鮮を訪問し、平均1ヶ月以上滞在する。もちろん滞在中監視され、行動の範囲は制限される。
 北朝鮮の問題は何よりも先ず、構造的問題である。洪水と引続いた旱魃は北朝鮮が直面している困難の根本原因ではない。住民たちは窮乏の結果として現れる身体的機能障害(身長と体重の後進性)で苦痛を受けている。
 自然災害は構造的問題を拡散させ、潜在的危機の爆発に一種の触媒の役割をした。
 1991年から持続的に減少した食糧配給と月給で、毎年少しづつ状況が悪化していった。しかし、いくつかの都市では、まだ食糧配給がなされており、少なくとも私が知っているある幾つかの孤児院もまだ運営されているようだ。
 健康診療は実際、今はすべて有償である。薬品は市場で取引されており、金が無い住民たちは薬を使う事もできない。栄養失調はひどく、慢性的な現象である。免疫機能低下は、人々をあらゆる形態のウイルスとインフルエンザに極度に弱くしてしまった。結核とコレラ、腸チブスが流行した。最近の訪北時には、新しく造られた多くの墓を見た。
 交通手段も大変劣悪である。圖們から平壌まで汽車で行こうとすれば、停電のため1週間以上見なければならない。電気がとても貴重なので、私は普通圖們から○○まで自動車で行くが、当局が私に決めたルートに従わなければならない。
 この道を行く間は、死体が散らばっているのを見る事はできなかった。その代わり○○市の道端で、気力が尽きて横になった人々を発見し、私たちの車に乗せて<浮浪児収容所>に連れて行ってあげた。この収容所は放浪者やその他の難民たちを集めて置く一種の収容所で、自由が全く無く、給食も少しで、それも有ったり無かったりである。
 死人が多い駅にも深刻な問題がいろいろある。中朝国境を越えた人は男女、子供とさまざまである。川を渡りきれずに溺れた人たちの死体が土手に打ち上げられている。
 今、北朝鮮で最も良い生活をしているのは官吏たちである。政府当局者と軍の指導部層には何の問題も無い。海岸で海水浴をしたり、冬にはスケートをしている彼らの姿を見る事ができる。
 残りの住民たちの中でも、中国や日本に家族がいる人々は思い通りに暮らしている。親戚たちの助けで商売をする事ができるようになり、何とかやって行けるのだ。多くの中国人たちも北朝鮮との交易で金持ちになって行った。物々交換が交易の主要形態である。売れる物はすべて売られる。女性や子供といった人間も対象になる。二万元から四万元で結婚前の処女を売る人身売買も中国には存在する。
 北朝鮮住民たちは二年前に死んだ金日成首領に対する崇拝をいまだに続けている。彼らは、完全に小児的で批判意識が全く無く、金日成を<現人神>として崇拝している。
 私は北朝鮮体制が崩壊するしかないと考える。南と北の国境に移動する難民たちの動きがこれを語ってくれている。
 電気も石炭も無い。生活があまりにも苦しく、人々は生きるのに疲れはてている。当局は、これ以上かつてのように住民たちを統制できない。外国からの援助なしでは崩壊するだろう。工場は閉鎖し、工業地帯の煙突からは煙が全く上がらず、農地も農民も酷使された。種の一部は消費され、化学肥料は弾薬製造に転用されて調達もできないでいる。

証言Z.
中国延吉、延辺朝鮮族自治州代表97年4月1日 北朝鮮当局、他国もみな大変だと住民を騙す


 昨年の夏、私は休暇を過ごすために北朝鮮に行った。北朝鮮は中国観光客たちが度々訪れる、風景秀麗な所である。観光シーズンは4月末頃に始まり、秋まで続く。冬は観光するにはあまりにも寒い。夏、海岸では中国観光客と北朝鮮の官吏たちが海水浴を楽しむ様子を見る事ができる。
 北朝鮮の最も大きな問題は未だに食糧欠乏である。中国の無償援助と、友邦国の条件無し支援が中止された以後、状況は次第に悪化していった。食糧配給が続けられているが、極度に僅かな量である。
 最近は、米ぬか(籾殻?)やトウモロコシの茎と殻を煮たお粥で延命するほど、住民たちの食生活は酷くなった。トウモロコシの殻はとても鋭利で、これを混ぜたお粥を食べれば胃腸穿孔になり、死に至る。調査に依れば、このような原因で死亡した場合が多いという。
 北朝鮮住民は戦争準備という言葉に巧みに乗せられている。政府が住民に多くの努力を要求し、それを正当化する美辞麗句に過ぎないのだが。
 また、彼らは住民たちに、中国やロシアや韓国でも状況は(北朝鮮)よりも悪く、従って北朝鮮はさほど悪い状況でないと言い聞かせている。とにかく北朝鮮住民は外国人と話してはならず、人々は互いに監視し合い、外国人と接触すれば告発され、処刑される。
 延吉には伝統的に多くの北朝鮮人たちが家族たちに会いに来る。彼らの訪問は合法的な事であるが、最近はその数が大幅に減少した。おそらく現在、国境の向こう側で実施されている軍事訓練のためでないかと見られる。
 国境を越えて来る多数の女性たちは花婿候補を見つけようとして来るが、それもまた失敗する。ある女性たちは直接探しに出かけ、また何人かは仲人業者を通じたりもするが、いったん事がうまく運べば中国で合法的に生きて行けるように戸籍を取るのに七千元を軽く使う。
 また、ある人たちは中国国境地帯に食べ物やお金、または自転車を盗みに来る。私の妻の集団農場で、12歳と15歳になる子供二人に会った事があるが、誰も彼らを世話しようとしなかった。養子縁組するにはあまりに大きすぎるからだ。彼らは結局北朝鮮に送り返された。

証言[.
中国 圖們、北朝鮮物品販売商、97年4月2 日 国境地帯にあふれ出る北朝鮮内陸部の人々


 私の家族は咸鏡北道会寧に住んでいるが、1年前から消息が知れない。特に最近は彼らの状況については、何も知り得無くなった。
 国境を越えた北朝鮮側の状況について私が分かる事は、私に物品を持って来る商人たちから聞いた事だけである。その中には金日成バッチ製造工場で働く人がいたが、昨年20余個持って来て、未だにお金を取りに来ていない。
 私の考えでは、最近住民たちを動員して実施している軍事訓練のためでないかと思われる。そして、そのために抜け出すのができないのだろう。
 彼の他にも私に物品を売りに来る多くの人々がいる。切手や古い書籍、絵画と陶磁器など。最近は国境商業の大部分は中国元や米国ドルでなされているが、北朝鮮貨幣を持って来る場合もある。今やその北朝鮮貨幣は何の価値も無い。私はそれらを旅行中の韓国人たちに記念品として売るのだが、とても人気がある。
 まさに橋を越えた側にある南陽では、食糧配給が1年前から中断された。軍人たちだけがそれでも一人当り一日2食分づつ貰っている。国際支援という話は一度も聞いた事が無い。
 私に物品を持って来る人々の話では、道路脇と駅の近所では飢餓と疾病(コレラ)で死んだ人たちが転がっているのを、たくさん見る事ができるという。死体は夕方に軍用トラックが来て積んで行くという。

証言\.
圖們、中国教授、97年4月2日 国際機構の支援食糧、外国人確認後再び回収


 私の家族の一部は北朝鮮に住んでいる。私のおじさんが圖們に住んでおり、先週、南陽でその家族の1人に会った。圖們から橋一つ越えて見える南陽のある旅館に行ったのだが、そこにはそれこそ多くの人々が中国にいる親戚たちとの出会いを待っており、部屋の床に足を伸ばして座る事もできなかった。
 金が無い彼らは旅館の支配人と話を付けて、中国の知合いたちが来たら、物で宿泊費を払う。私のおじさんは、待っていた私の従兄弟のために旅館側に宿泊費を卵7個で支払ったが、その支配人は今まで一度も食べた事が無い極上のその卵を順々に食べてしまった。
 ある人たちは手紙で会う事を約束し、またある人たちは訪問の機会を待ったりする。手紙は国境で行商をする中国人たちの仲介で往来される。中国の親戚たちから支援を受ける人々は、あまりにも過ぎた配慮を警戒する。何故ならば、食べ物や売り物を持っている人々は飢えた人々の標的になっているからだ。
 南陽の家々からは物が持ち出されて空っぽになっている。殻だけしか残っていない。住民たちは売れる物は全部売ってしまった。大人たちはもう仕事をしない。子供たちは学校に行かない。軍人たちも空腹だ。これ以上動く力が無い人々が家に残っており、他の人々は食べ物を探しに出かける。南陽の工場で貰っていた平均給与は80ウォンであった。豆腐一丁が北朝鮮の金で24ウォンであり中国の金で1.2元だ。石鹸も靴下も靴も買えず、もっぱら薄い服だけだ。薬も無い。砂糖は非常にまれだ。
 かつては北朝鮮住民たちは、彼らの苦しさを表情に出さなかったが、今では北朝鮮体制を批判する人々がどんどん増えている。中国に親戚がある人々は生き残れるが、他の人々は方法が無い。
 国際支援だって?私の従兄弟の話では、昨年のいつだったか、当局が絶対に手を付けるなと命令しながら食糧配給をくれた事があったが、外国人たちが、住民たちに食糧配給がきちんとなされたか確認しに来て帰るや否や、当局は再び穀物袋に集めて行ったきり、援助に関した話は二度と出た事が無いと言った。

証言].
中国国境地帯のある孤児院長、98年4月3日 父母のいない孤児たちを捕食の対象にする


 私たちは数ヶ月前、朝鮮族から彼らを訪ねて来る北朝鮮の子供たちがいるのだが、どうすれば良いのか分からず、その子供たちを引受けられないかと言う電話を受けた。
 私たちの孤児院は中国民政局管轄にあり、勝手に子供を(特に北朝鮮の子供たちを)受入れるという事はできない。中国では孤児問題には必要以上に敏感になっている。しかし、昨年11月、18歳になる女子と、彼女の8歳の弟を受入れた事がある。この子たちは直接私たちの孤児院を訪ねて来たのだ。
 この時、姉のほうが話してくれた話は次の通りだ。
 『私の家族には25歳、18歳、15歳、8歳になる子供が4人おり、咸興近くの村の出身です。3年前父が飢えで死に、その後しばらくして母さえも病気で亡くなりました。姉の二人の子供たち(1歳、4歳)も飢餓に苦しんで順番に命を失いました。父母が亡くなるや、私は二人の兄弟を食べさせるために集団農場で働き始めましたが、食べて行く事すら満足にできませんでした。当局は要員たちを送り、私たちが収穫した農作物を受領し、再び公平に住民たちに分配するようにしたけれども、結果として収穫物の大部分は徴収官たちの袋に戻ってしまいました。』
 『生活はとても苦しかった。私たちは草と木の根を掘って食べました。その上、父母が無く、見捨てられた子供たちの命は本当に危険になりました。彼らを哀れに思わないのは勿論の事、捉えて食べる対象にしました。近所の人々は、誰も世話してくれない孤児を捉えて殺し、塩を振り掛けて食べました。私と弟は国境を越えて行く機会を窺いました。当局からは、国境を越えれば中国人と韓国人たちに殺されると聞かされていたので、妹は北朝鮮に残る事にした。』と語った。
 この子供たちが着いたとき、体がとても痩せ衰えており、寒さで皮膚疾患と凍傷に罹っていた。2ヶ月過ぎてやっと体力を回復し、体重も増えた。女の子に、結婚して中国に住みなさいと諭した。それが彼らに合法的な地位を獲得する唯一の手段であるためであり、彼らも以前の苦しい生活に戻る事は絶対にいやだと、また決してそうなりたくないと何度も語った。
 彼らは長い間考えていたが、そんな中、1月のある日、国境を越え北朝鮮に帰って行った。帰って来るからと約束した、北朝鮮に一人置いて来た妹に会うために。

証言XI.
ハンゲウン中国宣教師 一日中ずっと生き残るための苦悩で


 私はハンゲウン教会の牧師で、1992年以後毎年1月には北朝鮮の新義州にいる私の兄とその家族たちに会いに行く。新義州では食糧配給が96年に完全に中断された。95年度までは、それでも北朝鮮当局は時折トウモロコシの配給をしてくれた。国際支援といえば、私は二回も赤十字から送られた穀物袋を見た。誰でも見る事ができた。政府倉庫二間をぎっしりと満たしているのが、通りからすっかり見えた。
 私は兄に、どうして食糧が配給されないのかと聞いたが、彼は食糧配給という話は全く聞いた事が無いと言った。家族はもちろん、彼らの隣人と友達たちも、全く聞いた事が無いと言った。
 ならば、その支援食糧はどこに行くのか?その食糧の一部は戦争準備のために備蓄され、また一部は軍隊に供給され、一部は高位官吏と指導級人士たちが市場で他の品物と交換するため、商売目的で使われ、また一部は彼らの自己消費のために使われ、残りのごく一部が国際機構の目を欺くために住人たちに配給されるのだろう。そしてまた、一部は友邦国の武器と交換された穀物もあると聞いた。
 昨年9月、急に食べ物を要請する手紙を貰い、小麦粉とうどん、穀物を少しづつ持って新義州に行った。私が着いてみると、家族たちはこの1週間何も食べられず、がりがりに成っており、気力が尽きてふらふらの状態であったが、私が持って行った食物のお陰ですみやかに元気を取り戻す事ができた。
 私は北朝鮮に行くたび、必ず必要な常備薬などを少しづつ持って行った。去年の1月には、兄の近所の人が、持っていた中国貨幣の全部である10元を持って私を訪ねて来た。錠剤を買うために出せる限りのお金であった。彼は、私が薬を持って来たという話を聞き、娘を助けて欲しいと思ったのだ。
 闇市場に行けば、1錠が5ウォンから10ウォンで売られているのを見る事ができる。数多くの子供たちが腹がぽこんと出て、頭が奇形のように大きくなっているのを見た。人々は、しきりに咳をした。結核とコレラ、腸チブス、下痢、そして胃腸疾患と皮膚病が蔓延していた。
 5年前には新義州に市場が無かったが、現在は何でも買える唯一の場所である。あたかも磁石に引かれるように、人々は皆市場に向かう。餓えた人々は力無く道端に座っていたり横になっていた。大部分の子供たちは非常に痩せ細り、皮膚がドス黒くなり、あちこち傷付いたまま、服らしいものは身に付けていない。
 市場ではお椀一杯の米が20ウォンで売られている。現在、闇市場価格は途方も無く跳ね上がっている。米1Kgが65ウォン、トウモロコシ1Kgは35ウォン、角砂糖1かけら5ウォン、豆一握り5ウォンだ。乾いて硬くなった肉も1Kgで130ウォンもする。
 道端には死体があった。飢えと寒さのためである。服はほとんど着ておらず、靴下も無く、靴はもちろん無い。この1月、新義州に行ったとき7名の子供たちが凍死したのをこの目で見た。その子供たちは(寒さから)避ける所が無く、豚小屋で凍え死んでいた。ほとんど半裸の状態で、互いに抱き合い暖めあいながら、夜中に凍死したのだ。
 人々は最近、食べ物を得るためなら何でもする。この社会がどれくらい暴力的になったのか、外部の人たちは想像する事もできない。
 自転車を持っている人は、それを自宅の門の近くに置いておけない。自分の財産を守る唯一の方法は、その物の上で寝るほか無い。子供が食べていたパンを、より大きな子供たちが奪うのを見た事もある。何でも略奪の対象になった。
それでもお金を手に入れる人々がいる。富裕層はもちろん良い生活をしている。彼らはTV,冷蔵庫など家電製品一切と自動車を持っている。
 状況はどんどん厳しくなっている。水を汲みに行く事と暖房をする事、食べ物を探しに出る事と、食べ物を作る事などに一日の大部分の時間が使われている。
 子供たちはもう学校に行かない。20%くらいの大人たちは、今だに働きに行くが、これは当局によって強要されたり、100gの食糧配給を貰える可能性がまだある場合である。残りの人々はこれ以上食糧配給も無く月給も無いので、工場に出て行かない。工場もこれ以上当局の支援に依存してはだめだと、公然と語っている。自律的に工場を運営しなければならず、これ以上依存してはだめなのだ。
 農業をする人々も、やはり疲れきっている。彼らは、既に種の一部を食糧にしてしまった。酷使した土地に肥料も無く、耕す気力が無ければ、収穫量は著しく減少する。4月から9月までは(生産される食糧が無く)特に困難だろう。96,97年と同じように、このような状況では人間を食べたという話を聞いても、たいして驚くべき事ではない。
 最近、多くの人々が遠路の旅に出ている。背中に風呂敷包を背負い、数キロを歩く。バスに乗るにはタバコがなければならないので、それが無ければ乗れない。駅舎にも、とても多くの人々が集まって来ており、そこで死ぬ者が増えるとともに閉鎖された。
 中国に親戚がいる人々は、もしかすると彼らの支援を得られるかも知れないと、国境に行く。彼らは国境にある旅館で、家族の支援を受けたら宿泊費を現物で支払うと約束するが、多くの場合中国の親戚たちが、会う約束時間に現れず、北朝鮮の人間は国境を越えるほか無い状況になったり、旅館から追い出されたりする。
 ありとあらゆる難民がいる。男も女も子供もいる。医者二人と軍人一名も収容した。朝鮮系中国人にブローカーに引取られ、売られて行く女性もいる。私たちも、五千元で売られそうになった女性一人を収容した。北朝鮮で結婚し、子供が二人いる28歳の女性であったが、女性と子供を売買する組織に引っ掛かったのだ。
 北朝鮮当局は、戦争準備だという口実で住民たちを最大限捉え込もうとしている。抗日運動の歴史的逸話を思い出させると同時に、住民たちにより強くなれ、もっと忍耐しろと強制し、苦痛を押し付けている。
 住民動員、年例軍事訓練は40日間も続けられた。しかし、このような事は長続きしないだろう。二ヶ所の地域(義州)で、既に軍人たちが蜂起したという話を聞いた。軍隊でも兵士たちが空腹を満たせないでいる。数週間前に、7名の軍人が、当局に反抗する行為を企てたとして死刑に処せられた。
 現在、北朝鮮住民の15〜20%は飢餓で死亡したのではないか。良い生活をしているのは僅か5%であり、残りの人々は、生き残ろうと必死の努力をしている。

国境無き医師団(MSF)

 国境無き医師団(Medecins Sans Frontieres)は、戦争、内乱、伝染病、自然災害などで苦痛を被っている地球のあらゆる人々に緊急医療救護をする団体である。
 応急患者たちにより早く効果的に救護の手を差し伸べようと決心した何人かのフランス人医師たちによって1971年創設されたMSFは、民間非営利団体として政治、経済、宗教的権力から一切の拘束を受けない。
 現在、世界45カ国に2900人以上のMSFの医者、看護婦、その他医療要員たちが、毎年数百万の人々に希望と健康を与え、70余カ国でボランティア活動をしている。
 応急救護を要する地域と戦争被害地域でMSFは、基本的治療、手術、病院と診療所の復旧、栄養補給、公衆衛生プログラム運営、医療要員の教育をしている。また、一線病院、難民キャンプ、奥地の保健所で活動している。
 世界19カ国に事務所を設置、運営しているこの団体の本部はフランス・パリにあり、現会長はフィリップ・ピベールソン博士である。

 この資料は韓国、ソウル所在の同和研究所(安應模 理事長)が発行している「月刊同和」(発行・編集人 李敬南 所長)の許可を得て翻訳作成されたものであります。 ―― 訳者より――
 韓国「月刊同和」9月号より 国境無き医師団「北朝鮮難民実状報告書」 1

北朝鮮難民救援基金 資料 訳(文責) 大山たかし

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