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ー 切なる東京の未来像 ー 学生の時、授業中に、「21世紀の東京」をテーマに絵を描いた。ほとんどの子ども が描いたのは、ガラス張りの宇宙ステーションのようなビルが並び、ガラスのチューブ に車が走り、道路の上には宇宙船のようなものが飛び、そして青い空と白い雲が広がる 未来像であった。驚いたことに、今の手どもたちも当時と同様の絵を描いている。 ちなみに私は、まず水を描き、そこに船を浮かべて、釣りをしている絵を描いた。 その上に、やはり白い空と青い雲を描き、さらに、薄く黒い煙を書き入れたことを、 いまでも鮮明に覚えている。 |
おそらく、いつまでも釣りがしたいという願いと、便利さのためには多少の煙は仕方がないと考えたのだ ろう。その絵を見た友人は、テーマが理解できないらしく・首を傾けて笑っていた。いま思えば、釣舟屋 という商売柄、そんな絵を描いたのかもしれない。 つり人で連載中の『つり人浮世絵これくしょん』を見ても分かるように、江戸時代の町並みを描いた絵 には、たいてい海や川が人っている。江戸の町は水の町なのだ。それは東京も同じであるべきだし、この 先もそうであってほしい。 21世紀の未来に、水があって、魚がいて、釣りをしていたいと描いた私の夢を、今なら首を傾けた友人 も理解してくれることだろう。 私は、今回の原稿を、釣り人の皆さんはもとより、石原都知事への手紙のつもりで書いてみたいと思っ ている ー 釣り人が象徴する都市 ー
っていたし、時期になれば、大きなシロギスやハゼがたくさん釣れたという。江戸城の前から江戸湾で、 人と魚が、一緒に営みを築いていたよき時代だったのだ。 町の至る所に釣り人がいる。その光景こそが江戸の象徴だった。生き物がいるからイトを垂らすことが できる。それが環境を見る目安にもなっていた。 現在でも、城の前でかろうじて釣れるのはハゼくらいであろう。何年にもわたり生き残った江戸前ハゼ は、まさにブランドそのものであり、江戸っ子たちの洒落言葉である。 ー東京部の目の付けどころ−
もう一度言う。高層ビルからは、本当の価値は見えない。私は、石原都知事に江戸和ザオをプレゼント してもいい。そして十六万坪に招待し、我々と、一緒にゼロメートルの視点でハゼ釣りを楽しんでもらい たい。なんなら、隅田川の銀座界隈でシーバスを釣ってもらってもいい。まだまだ東京の自然は生きてい るのだ。 湘南には湘南のスタイルがあるように、江戸には江戸の歴史と文化がある。都営12号線を、自ら「大江 戸線」とネーミングした都知事は「今は東京であって江戸ではないしとは言わないだろう。たかが釣りで あっても、その光景は、健全な東京の象徴ということを忘れないでほしい。 また、東京湾の価値についても、もっと分かってほしい。江戸前ブランドという言い方は、確かに曖昧 かもしれない。が、栄養分に富んだ東京湾の魚がうまいのは、紛れもない事実であり、値が高いのも単な る見栄の問題ではない。 それゆえ、あまりにも高価な江戸前の魚は、なかなか庶民の口には入らない。有名な料亭へ運ばれ、セ ンセイと呼ばれる人たちが口にすると聞いている。何の魚をひと口、「やっぱり江戸前はうまいな」とご 満悦であると。にもかかわらず、今度は東京湾を食い物にしようというのだから、価値が分かっているの かいないのか、理解に苦しむところである。 庶民の目が届かない海の中は、最も公共事業がやりやすかったのだろう。だが、それが正しいかどうか を見抜く力を、国民は徐々に持ち始めている。この先、厳しい監視をくぐり抜けた、騙しのきかない公共 事業だけが行なわれていくはずだし、そう願ってやまない。 国鳥であるトキの絶滅を防ぐために、中国からトキを取り寄せたという国家プロジェクトのような報道 を見るにつけ、自分たちの将来と重ねてしまう。そして、中国から取り寄せたトキは、もしかしたら、以 前は日本にいたトキではないのかと、よからぬ想像をしてしまう。住む環境にない日本に見切りをつけ、 中国に渡ったトキだとしたら……。 「ハゼはどこかに移るでしょう」 12月の議会で発言して話題になった石原語録のひとつだ。十六万坪を埋め立てても、ハゼはどこかへ行 くと言っているのだ。この発言でどれだけの江戸っ子や釣り人が悲しみ、そして大笑いしたことか。 しかし、笑い話ではすまされない。我々、海に生きる業者として一体何ができるのか。 以前から多少なりとも行動してきたが、問題の大きさから考えれば、何もしていないにひとしい。 何度か海上デモも行なった。が、それによって十六万坪の見えない価値まで伝えることができたのかと、 自問することもある。業者の死活問題が先行しすぎてしまった気もする。 その後、同業者を集め、区や都議会に対して何度も陳情したが、いずれも不採択とされた。都庁や運輸 省にも足を運んだが、なにひとつ前進せず、自分の力のなさに情けなくなった。補償を考えての行動と思 われたこともある。しかし、何もしない人は別として、何かしらの行動を起こしている人は、1円の補償 も考えていない。
に、「銀行税」ともいえる外形標準課税構想をプチ上げた。学識者の間でもけんけんごうごう賛否両論が 渦巻き、喧々鷺々の大間題ゆえ、軽々しく口をはさむことではないが、新聞などでは、早くもポピュリズ ム一大衆迎合主義)であると叩かれている。しかし、大衆に迎合して何が悪い、というのが正直な感想だ。 誰だって、銀行ばかりが手厚く保護されている現状を腹立たしく思っていたはずだ。 大英断がどうかは分からないが、大ナタを振り下ろすことはできる人だと思っている。それは、役人を 小馬鹿にする発言からも分かるとおり、市民感覚に近い美意識があると思われるからだ。カジノ構想もお おいに結構。日本唯一の公認カジノなら、人も通わぬ有明の最奥部だって大変なにぎわいになるのは間違 いない(私は絶対に行かないが)。新たな埋め立てなどしなくても、空き地はいくらでもある。 大衆は埋め立て中止を望んでいる。埋め立てを望んでいるのは、都知事の嫌いなお役人と一部のゼネコ ンだけだ。都知事の美意識を私は信じたいし、失望させてほしくないのである。 雑誌”釣り人”2000.4月号より、転載。
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