レゲー・オア・ノット

アメリカン・ポエトリー・コラム (5)



野坂政司



 アントナン.アルトーが、ある書簡の中で、「作家の、詩人の《義務》とは、テキスト、書物、雑誌に卑怯にも閉じこもって、そこからもう出ようとはしないことではなく、反対に外に出て揺さぶり、公けの精神を攻撃することです。さもなければ彼はいったい何の役にたちましょう」(宇野邦一訳『神の裁きと訣別するため』ペヨトル工房、一九八九)と書いている。
 アルトーにとっては栄光となるだろうが、彼のこの言説がまず他ならない「書きもの」として読者に運ばれ、その後の「読み」の果てに、読者がテキストの外へ誘惑されるのは素晴らしい皮肉である。
 今世紀のアメリカ文学の出版状況の特徴のひとつとして、大小の差や、アカデミズム、アンチ・アカデミズム、コマーシャリズムなどの質的な違いはあるにしても、文学雑誌が大きな貢献をしてきたことを挙げることができる。中には、アルトーの批判があてはまるような作家、詩人が、雑誌の中に「卑怯にも、閉じ込もる」ことがあったろうし、現在もあるだろう。
 しかし、特異な作家、詩人を公の場に登場させ、他の者たちの意識の深部に正確な一撃を加える機会を提供した雑誌も多い。特に、五十年代以降は、優れたリトルマガジンが出現と消滅を繰り返している。
 ここにひとつの例をあげてみよう。マイケル・マックルーアが、「アルトーのために」という詩(それぞれ二十行ほどの長さの八篇の連作から成るもの)を書いており、この作品は、トーテム・プレスという小出版社から一九五九年に出版されている。
 今では幻のマックルーアのこの詩集について、実験的な文学に関わる詩人と作家たちの内輪の情報誌『ザ・フローティング・ベア(浮遊する熊) ニュースレター』をその二年後の六一年に発行することになるダイアン・ディ・プリマが、この時期にこの詩集の出版の手伝いをしていたことを振り返って、「それは、タイプライターで打ったものを、家で(ステイプラーで)はり合わせたのです……チャールズ・オルソンの『投射詩論』(一九五九)や、マイケル、・マックルーアの『アルトーのために』(一九五九)などは、実質的にお金を全く使わずにつくりました」(合本『浮遊する熊』一九七三、序文)と述べている。
 この版で読むことは難しいが、この作品は、『新たな書/拷間の書』(グローブ・プレス、一九六一)に収録されているから、アルトーとマイケル・マックルーアとの結びつきや差異を知ることはできる。
 さて、アルトーの作品がアメリカで広く読まれるようになったのは、早くても六五年にシティーライツが『アントナン・アルトー・アンソロジー』を出版してからであると言えるだろう。それ以前には、四九年に『ヴァン・ゴッホ』が訳出され、五三年には日本にも縁の深いシド・コーマンが編集していた『オリジン』十一号がアルトーの「シアター・アンド・イッツ・ダブル」を特集して発行され(このときの訳者はチャールズ・オルソンのいたブラック・マウンテン・カレッジのメアリ・リチャーズという女性で、この英訳は五八年にグローブ・プレスから出版された)、そLて五九年に『神の裁きと訣別するため』(トーテム・プレス)が英訳されていただけだと思われる。その他にも英訳されたものがあったかどうかは、わたしには不明である。
 ビート派のマイケル・マックルーアが「アルトーのために」という作品を書いていることや、『アンソロジー』がビート関係の書物の出版に関しては聖地であったシティーライツから出版されたことなどから、アルトーとビートの共振する精神の構造が示されているといえる。
「レイト・アヴァソギャルド時代のアルトー」というタイトルの対談で、宇野邦一氏と中沢新一氏はアルトーとビートの結びつきを見落とすことなく指摘していた。中沢氏はこう語っている、

 僕もアルトーは<アヴァンギャルド>と一括される流れの中ではちょっと特殊だなと感じつづけていました。むしろ僕は一九五〇年代のアメリカに発生したビートとの接近性すら感じていたんです。もちろんこの二つは、文化的にまったく違うところから出ているわけだけど、新しい主体化というテーマ、人問の身体のマイナーな領域の探求方法において、ほとんど兄弟のようなものを感じていました。とくにバロウズとアルトー。これはアメリカの詩の特徴でもあるんだけど、アメリカのビートの場合には、ヨーロッバのアヴァンギャルドが十九世紀にもっていたような、ある完全なテクスト体、多層的なひとつのテクスト体をつくりあげなければいけないという強迫観念がまったくないところから出発しているように思うんですよね。(『ユリイカ』1988年2月号)

アメリカの五十年代の詩壇では、アカデミズムの動きとして、詩的テクストを有機的で完全な統一体としての作品とみなす、いわゆる<ニュー・クリティシズム>があり、その風土の中からアンチ・アガデミズムの傾向として、ブラック・マウンテン派やビート派が台頭してきたわけだから、「ある完全なテクスト体、多層的なひとつのテクスト体をつくりあげなければいけないという強迫観念がまったくないところから出発しているように思う」と言うのは、少々言い過ぎだと言わなければならないが、発言の趣旨は正しい。

 この中沢氏の発言に続いて、宇野氏はこう語る。

 ビートに関しては、アルトーの『神の裁きと訣別するために』というラジオドラマのテープが、わりと早い時期にアメリカで聞かれて、ギンズバーグなんかの一種のフォネティックな詩の実験なんかにかなり刺激を与えたということを聞いたことがあるけどね。(同書)

この宇野氏の発言は情報としては興味深いのだが、もう少し精確なところを聞きたいものだ。というのは、「わりと早い時期にアメリカで聞かれて」という、その時期についてと、「ギンズバーグなんかの一種のフォネティックな詩の実験」にどんな刺激を与えたのかということが、わたしにはよくわからないからなのだ。でも、その辺の消息は、できるところまで自分で調べてみなければいけない。

 一九六〇年の春に、その綴りがCではなくKで始まる『カルチャー』という雑誌が創刊され、トーテム・プレスから販売された。創刊号に寄稿した詩人、作家の中には、ウィリアム・バローズ、チャールズ・オルソン、アレン・ギンズバーグ、ダイアン・ディ・プリマなどがいる。このラインアップ。オルソン=ブラック・マウンテン派とギンズバーグやディ・プリマなどのビート派に加えて、分類に収まりきらないバローズを含む、この高密度に凝集した陣容は極めて特異なものと言える。
 この号に掲載されているバローズの作品は「共謀」というタイトルの短い散文である。その冒頭に記されている注によると、この小品は、『裸のランチ』のオリジナル原稿にあったのだが、五九年にパリで出版された版では収録されなかった部分である。また、寄稿者の全員に関する覚書が付けられていて、それには、バローズが「この春にはパリを離れて、ニューヨークに戻るだろう」と書かれている。六十年、新刊雑誌『カルチャー』の編集者や読者にとって、バローズは、いわば、パリとニューヨークを「結び合わせる」メデイアであったのだ。ただ、五四年、五五年とパリでアルトーの作品に取り組んでいたシド・コーマンが、アンリ・ミショーやルネ・シャールなども『オリジン』で紹介したことに比べれば、バローズは危険なブラック・ホールのような謎めいたメディアではあったのだが。
 さて、この『カルチャー』の表紙の見返しにトーテム・プレスの出版案内が掲載されていて、前に言及したチャールズ・オルソンの『投射詩論』と、マイケル・マックルーアの『アルトーのために』、他四点が載っている。指摘しておかなければいけないのは、すでに出版されていたはずのアルトーの『神の裁きと訣別するため』がここに含まれていないことだ。現代アメリカにおけるリトルマガジンの貢献の歴史を、エッセイ、インタビュー、記録、写真などを盛り込んで特集した『トライ・クォータリー』、四三号(一九七八、秋)によると、トーテム・プレスが一九五九年に出版した点数は、雑誌『ユーゲン』の他に、十七点を数える。こちらの方では出版案内の中に合まれているのである。なぜ『カルチャー』に載せなかったかは、謎だ。
 さて、これまで名前を挙げずに通りすぎてきたある人物にここで登場してもらわなければならない。トーテム・プレスを設立して世の常識に痛撃を打ち込む書物を立て続けに発行し、アンダーグラウンド的な性格の小さな雑誌『ユーゲン』を発行して編集者を務め、また『カルチャー』では寄稿編集者のひとりとしてジャズ批評を担当し、さらに『浮遊する熊』では六一年の創刊号から六三年の二五号まで共同編集者としてダイアン・ディ・プリマを支えた人物、このおそろしく精力的なひとが、リロイ・ジョーンズ(現在のアミリ・バラカ)なのである。
 五十年代後半から七十年代までに彼が行った活動は、雑誌の編集、ジャズ批評、ブルース論、詩、小説、芝居の脚本、演劇グルーブの組織、民族主義活動家から社会主義活動家そしてマルクス・レーニン主義者へと変貌を続けた黒人文化運動の組織者、などの広範囲にわたるものだ。前に述べた活動はジョーンズの最初の時期、すなわち、五十年代末から六十年代初頭にかけてのほんの数年の期間のことなのである。
 その当時のリロイ・ジョーンズは、ポスト・モダン状況を切り開く当事者のひとりとして精力的に活動を開始しながら、その過程で、周囲の波長に合わない自分自身の意識を発見することになる、という立場にいたようだ。
 五七年に空軍を除隊して、ニューヨークに来た彼は、その前年に発表されていたギンズバーグの『吠える』に出会い、五八年には『ユーゲン』を発行し、ブラック・マウンテン派、サンフランシスコ・グループ、ニューヨーク派の詩人たちと次々に親交を結び、彼らの作品の出版にとりかかる。それまで読んでいたアカデミックな詩には嫌気がさしていたところで、不意に、これまでの詩とは違う、力強く、オープンな言葉に出会った、というわけだ。しかし、この興奮の後を追うように、違和感も生じ始めてきたのであった。七七年に行なわれたあるインタビューで、彼はこの時期のことを次のように言っている、

 ……わたしが前に述べた三つのグループ(ブラック・マウンテン、ギンズバーグ、ニューヨーク)は、既存のブルジョア的アカデミズムの詩とは対立していた、しかし彼らの作品には、結果的に、またもうひとつのブルジョア的アカデミズムのグループを形成した要素が含まれていた…わたしはこの三つのグループから学んだ、しかし同時に、わたしはそこから先に進む必要性を感じた、というのは彼らの関心が一般大衆が抱いている関心ではなかったのだ。彼らは革命を求めてはいなかった。(『バウンダリー2』一九七八、冬期号)。

 リロイ・ジョーンズは「彼らは革命を求めてはいなかった」と言い切っている。そういう彼はこの時期どの様な状況にいたのだろうか。ちなみに、アメリカ合衆国内では、彼がニューヨークにきた五七年に黒人の投票権を保護する公民権法が成立しており、五八年に創刊した『ユーゲン』を終わらせた六二年には、黒人学生のミシシッピ大学入学をめぐって暴動が発生し、『浮遊する熊』の共同編集者を降りた六三年には、ワシントンで人種差別反対の自由の大行進が行なわれている。これは、彼が〈黒人美学〉を説きながら黒人文化運動に取り組む前夜の時期である。『ユーゲン』と『浮遊する熊』の編集の仕事から退いた六三年に、緊張状態にあるキューバを訪れるということもしているのだが、この頃のリロイ・ジョーンズにとってアントナン・アルトーは重い位置を占めていた。一九八四年のインタビューでジョーンズは次のように語っている、

 わたしがアルトーを読んだときに気に入ったのは残酷演劇であり、彼の意見であり、彼の理論だった。興味深いとは思ったのだが、読んでから彼とは違うようにそれを使いたいと思った。彼はある意味でブルジョア的知性偏重に対して暴力をふるいたいと思っているようだった、それでわたしは社会に対する、つまり、抑圧的で人種差別のある社会に対する現実の暴力にそれを変えたいと思ったのだ。……アルトーは、わたしに言わせれば、ブルジヨア的感受性とブルジヨア的意識を盲目的に攻撃していた。わたしはそれをもっと公然と政治的なものに、もっと焦点を絞ったものにしたいと思ったのだ。(ウィリアム・J・ハリス『アミリ・バラカの詩と詩学 ジャズ美学』ミズーリ大学出版、一九八五)

 この発言には、アルトーが呼びかける声に過激に反応するジョーンズの攻撃的な構えが窺える。アメリカ詩の五十年代後半のアヴァンギャルドの内部では、ブラックマウンテン派やビートの連中、そして彼らの近くに存在していて深く交流しながらそれぞれ異なる思想圏にも半身を浸していたシド・コーマンやリロイ・ジョーンズ、このように個々の詩人による差異を抱え込みつつ、重層的にアルトーを受容していたのだ。

 少し時間を現代に近づけて、ジョーンズの違う面に触れて見たい。カシアス・クレイがモハメッド・アリと改名したように、リロイ・ジヨーンズは、六十年代後半に、イマム・アミリ・バラカと名を変え、さらにその後、「師」の意味の「イマム」を取り去ってアミリ・バラカと称している。それは、ブラック・パワーとブラック・ムスリムとが重なり合い、そこにアフリカ回帰の意識が交錯した、あの熱い時代の出来事だ。バラカの場合も、もちろん、この改名の背後には、節三世界の大海に向かって既存の民族主義を超え出ようとする精神軸に接合する彼の変心=変身への欲求が潜んでいる。

 七十年代前半に行われたあるインタビューで、この変名について尋ねられて彼はこう答えている。

 わたしに、アラビア人の名前であるアミール・バラカという名を与えてくれたのは、マルコムXの葬式を執り行ったムスリムのイマム(師)だった。わたしがアフリカ民族主義者になった時に、それをスワヒリ語に変えて、アミリ・バラカとした……自分の名を変えることによって、わたしは自分の自己認知や他の人たちのわたしの認知の仕方を変えてしまおうとしたのだ。アフリカ意識、ブラック意識、そこでわれわれはアメリカ名、奴隷の名前を取り除き、アフリカの解放に一致するアイデンティティーを引き受けようと望んでいた……。(ウィリアム・パッカード編『詩人の技術』パラゴン・ハウス、一九八七)

また、一九八四年には、「アフリカ美学の一部では詩人を司祭と考えるが、あなたはそれをどう思うか」と尋ねられて、バラカは次のように答えている。

 わたしが支持するのは、詩人が社会の中にいるというところだろう、つまり、詩人の機能は社会を解釈する者、社会を反映する者というものだ。わたしは形而上学としての司祭は支持できない。それがわたしの名前からイマムを除いたひとつの理由だ、なぜなら、わたしがアフリカに行ったとき、ひとがこちらはイマム・バラカですと言うだろう、するとわたしが本当の司祭だと思って、人々を祝福するようにわたしに望んだからなのだ。(ウイリァム・J・ハリス、前掲書)

名前は社会と主体が触れ合う界面にある。バラカの場合、この界面上で、多層化された異界(地理的、宗教的、歴史的、政治的、文化的異界)への視線が交錯・衝突する。六十年代後半のアメリカという巨大なテクストの中に書き込まれながら、バラカという名は、自らの内に、さらに遠い異界から差し込まれた横超の意識を織り込んでいる。

 さて、迂回ばかりしていて、なかなか先に進めないままここまで書いてきたが、実はここで書こうとしているのは、バラカとボブ・マーリーについてなのだ。というのも、奥成達さんに送っていただいた『ポエトリー・イン・モーション』というヴィデオテープを見ていたら、アミリ・バラカがボブ・マーリーについての詩を朗読しているのに出会ったからである。バラカとボブ・マーリーとの結びつきというのはわたしには意外なことだった。というのは、まず、七十年代以降のアメリカの黒人作家・詩人というと女性の活躍ばかりが目について、黒人の男性作家・詩人の活動についてとか、彼らとそのほかの分野、音楽、美術、舞踊の世界との関係についてとなると、バラカを合めて、かなり限定された範囲内でしか情報が伝わってこなかったという状況にいて、そこに、ヴィデオでボブ・マーリーを追悼するアミリ・バラカが飛び出したのだ。この詩は、朗読の冒頭で彼が言うには、「黒人文化のために働いて一九八一年に亡くなった二人、ボブ・マーリーとラリー・ニールについての詩である。ラリー・ニ−ルという人はリロイ・ジョーンズと二人で『ブラック・ファイアー』(ウィリアム・モロー、一九六八)というアンソロジーを編集しているが、そこにはラリー・ニール本人の文章も含まれていて、彼はこう書いている。

 詩が何であるかということについては、西洋の詩学よりは、マルコムXの演説の抑揚に耳を傾けるほうが、われわれは多くを知ることができる。ジェームズ・ブラウンの叫びを聴いて、それから自問してみなさい、おまえはこれまでに黒人の詩人があのように歌うのを聴いたことがあるのか、と。もちろん、ありはしない。なぜなら、ほとんどの白人の詩人のように、われわれはテクストに縛られてしまっているからだ。テクストは破壊することができるし、すくなくともそれによって誰も傷つきはしないだろう。鍵は音楽の中にある。われわれの音楽は、おそらく民話を除いては、いつもわれわれの文学の先を行っていた。

 テクストに縛られない声、その鍵としての音楽。〈黒人美学〉の中核をなすものがここにある。バラカも同じところにいたのだ。六十年代後半から七十年代のアメリカの黒人社会で文化運動の組織化を推進しようとするバラカにとって、「われわれの音楽」とはジャズであり、R&Bであり、ロックであった。思想の位相では、アメリカの黒人社会の深部から遠心的な視線によって中米、ヨーロッパ、アフリカを見据えていたバラカは、こと音楽に関しては、求心的な視線を「われわれの音楽」という内なるリズムに向けていたわけだ。七七年のインタビューで、それまでの十年間を振り返り、自分の耳がとらえた音楽の推移をバラカはこう述べている。

 この十年はジャズよりもリズム・アンド・ブルースの方がずっと強かった。ジャズはみんな形而上学的な、プチ・ブル的次元に入り込んで行った。もちろんリズム・アンド・ブルースも沢山そっちに行ったけどね。しかし、「ジャイアント・ステップス」のコルトレーンと「至上の愛」以後のコルトレーンとでは大きな違いがあるだろ、彼は東洋的宇宙論とかそのほかの秘教的観念に行き始めて、タフな街路の音、ほら、あの早いリズムを失うんだ、瞑想的な静寂の形式のようなところに進んで行って、現実性の火を失うんだ。で、その時、その時代にリズム・アンド・ブルースがしっかりと出て来る。(『バウンダリー2』一九七八)

 アメリカの近傍にあり、そして外部にあるジャマイカから見ても、この時期のアメリカの黒人文化はポップな音楽の輸出超過社会であり、そこに売り込んでいくのは非常に困難なことだった。ボブ・マーリーにしてもアメリカの黒人の間で人気がでるまでにかなりの時間がかかっている。彼自身がそのことを最も気にしていたらしい。

 一九七七年にリリースされた『エクソダス』はアメリカで大ヒットとなった。それはボブにとって何よりの慰めだった。彼は、アルバムが各黒人放送局で初めて何度も放送されたこと、そして、アメリカの黒人たちが彼の送るメッセージを受け取りだしたことがうれしかった。(スティーヴン・デイヴィス、『ボブ・マーリー レゲエの伝説』、一九八六、晶文社)

 この頃に、アメリカ黒人文化とレゲーが深く交差したのだろう。バラカは、すでに、一九七三年に詩集『アフリカ革命』を出版し、一九七六年には「サード・ワールド・ブルース」という作品を含む詩集『厳しい事実』を出版して、第3世界を照射する視線を広く遠いところまで伸ばしていた。一方、ボブ・マーリーが一九七九年に『サヴァィヴァル』を発表した頃というのは、スティーヴン・デイヴィスによれば、

 マーリーの関心事は、すでに、ジャマイカの一受難民としての考え方から、全アフリカ人の自由のために戦う一人の闘士の考え方にまで拡大していた。世界中の人々に黒人の存続(ブラック・サヴァイヴァル)と統一に関するメッセージを訴えることーそれがいまの彼の最大の野望であった。(スティーヴン・デイヴィス、同書)

 二人の意識が交わる経緯は、相互に違ったリズムをたどりながら別々にズレたままで運動してきた者たちが、ある時点で不意にアフリカヘの回帰という観念の同時性という舞台を共有することになった、ということだろう。この偶発的な状況の中では、それぞれ変わる速度が違うものが、つまりそれぞれが違う歴史過程を繰り広げる個別的なものが、あるところでは強くまたあるところでは弱くというように、相依的に結び合わされつつ多層的連関の複合体を成している。
 そこから先に抜け出て、その意識が日常的な身構えとして具体化するのは、外部と触れ合う不定形な運動のリズムに乗って加速度がつき、地域的に限定された狭い民族主義を抜け出て行く瞬間だろう。そこは異界が接し合う場であり、ポリリズムの声が響き合う場であるだろう。
 だからこそ、一九七六年のボブ・マーリーとザ・ウェイラーズにリード・ギターで参加したドン・キンジーが、七人の他のミュージシャンと共演することの難しさの中から、「それぞれが違うリズムで演奏するんだ。だから自分のリズムをしっかり保っていなければならない。自分のスタイルを簡素化し、一旦原点に帰ってまた円熟させ、うまく演奏しなければならないんだ」(スティーヴン・ディヴィス、同書)という認識に達したことは、必然的なことだと言わなければならないし、また同時にとても大事なことだ。アミリ・バラカもまたレゲーのその部分を聴いたのだろう。バラカは一九八一年に三篇の詩を載せた薄い詩集を「コンタクト 二」という出版社から発行した。それには『レゲー・オア・ノット』という題が付けられていた。(『gui 』vol.12, no.30 1990年3月 66-74頁)




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