
現代マンガ資料館の視点A
私たちは新しい「貧困」を育てつつあるようです。
1 いじめの深刻化に見える危機洞察力の弱体化
学校においていじめられた子どもの自死を契機にしていじめがあらためて社会問題化した。 自死の続出という段階において社会問題化するということこそが私には最も深刻と思われる。つまり、自死によって問題がいじめられた子どもをとりまく関係者の問題にようやく転化したわけで、いじめられた子どもの関係者に対する強い絶望・不信感の存在を推測できるからである。 いじめは個人対個人の対決という構図をとらない。 いじめる側は、首謀者(中心的存在で扇動者)を軸にしていじめる対象を集団として包囲し、傍観するもの(事態に距離を置く存在、いじめられ側の決して味方ではない)も含めて、個々の成員に役割を与え組織的に攻撃を展開する。事態をリードする力、主導権はいじめる側が終始掌握する。 包囲下でいじめられ側には事態打開のきっかけすら与えられない。普通、「口をきくな」というようにコミュニケー ションが遮断されるからである。第三者に事態を掌握されないための隠蔽行動(バラしたら報復するということをほのめかすなどのことは常套手段)も当然行われる。いかなる抵抗も攻撃のエスカレートという形で報復される、といじめ られる側に思わせることも攻撃の必須事項だろう。だから、必死の思いで教師に相談したところ、教師の不用意な行動から相談がバレれてしまい攻撃がエスカレートした、というようなことはパターンになっている。どんな唐変木にもいじめの事態が見えるようなことはまずないと考えるべきだろう。自死が社会問題化した段階でいじめの統計的データ はむしろ減少ということになっていたようだ。 このように、攻撃は集団的(集団性)・組織的(日常性)でかつ執拗(持続性)。そして、終始一貫アンフェアである。い じめは、かぎりなく犯罪の要素を帯びて展開するのだが、日常性、持続性、そして集団性から、個々の加担者にとって恥ずべき行為であることの意識が軽減される。 したがって、罪の意識もなく、抵抗(耐える)すればするほどおもし ろがって攻撃がエスカレートされ、いじめられる側からのコミュニケーションは遮断され、いじめる側が設定した土俵での対峙を余儀なくされる。つまり、放置されると、行き着くところまでいってしまうという推移をたどることになる。 したがって、自死を「甘えている」などと批判する見方はどうか。また、「相談してください」という呼びかけもいまさらながら白々しい。相談を待つのではなく、発見して断固として介入することが必要なのである。先に述べたように、せっかく相談を受けながら、杜撰な対応でかえって事態を深刻にしたケースも少なくないようだ。勇気をふるって相談 したところ「いじめはいけない」という訓話をしてこと終われり、なんていう無定見・無神経はどうしょうもない。 リスク回避という要領(泳ぎ方)が大きなうねりになっている昨今の社会だから、「君子危うきには距離を置け」ではあるまいが、上手にかわすことが体質化して危機と真っ向から向き合わないために危機的状況の経験が蓄積されず、危機を洞察する力が弱体化しているのではあるまいか。自死の続出という段階において社会問題化する という事態こそ深刻な危機を語っているとみるのは、事態をこのようにとらえるからである。(2006・11・29) |
2 量と質という問題(いじめに関して)
いじめの激化にかかわって学級定員をさらに減らすことで解決しうるというような意見を聞いた。教育条件の整備がマイナスに働くことはないだろうが、それで問題が解決すると私は思わない。 量は必ずしも質に直結しない。たとえば、40人学級でいじめの存在が見えなかった職員が20人学級になったとたんに見えるようになったというように単純ではないだろう。どちらでも気がつく職員はいるし、どちらでも気がつかない職員はいる。いじめの存在が見えるか、見えないかは人間集団の観察における質の次元の問題だから、量的前進が質に深くかかわるとはいえ、簡単には転化しないと考えるべきだろう。 水(液体)が加熱(量的増加)され100度Cの段階で水蒸気(気体)に変化するというように単純ではない。ハゲるという現象に近いと考えたら理解しやすいのではないか。髪がしだいに失われるという量的減少のある段階でハゲるという質的転化が起こるのは間違いないのだが、この進行を見通すことは湯を沸かすほどに単純ではない。ましてや人間集団の観察においておやである。 いじめの激化とそれがもたらした悲劇を食い止めることができなかった背景として学級定員などの教育条件の問題を指摘することもできるだろうが、またできないとも考えるべきだろう。おかれた状況でベストをつくすという問題は人間社会では不可避である。生起した事柄に対して、環境条件の立ち後れを指摘して弁護する場合、同時に、そのような条件を前提にして、なお悲劇を食い止めるために何が不足していたのか、省察することが求められよう。 さて、いじめの増大という量的拡大現象が、ここにいたって自死の増加という質的変化の段階に達したと考えたら、事態は深刻である。どうしてここまで進行したのだろうか。 質的に転化しないと問題化しないということも、先に指摘(いじめの深刻化に見える危機洞察力の弱体化)したが、このことこそが深刻である。いじめられた子が自死した背景に周囲のこの鈍感、あるいは事態を見透す力の貧困に対する絶望があるかもしれないからである。少子化問題とこの問題がここでクロスする。進行段階(量的拡大)では問題化せず、いよいよ崖っ縁(質的変化段階)というところでようやく問題化する。しかし、時間をかけた量的進行段階のメカニズムは事態の構造化ともいうべきもので、いまさら小手先の対応では歯が立たず、解決の決めては容易に見えない。 見えるものにこだわり、見えにくいものを軽んじたつけが、一種の制度疲労として顕在化しつつあるという懸念を払拭できない。いじめの問題でこれをみれば、テストの結果はだれにでも見える(評価しやすい)が、いじめるものといじめられるものを軸にした人間集団の問題は簡単に見えない。そして、悪いことに見えるものに対しては、受験技術がその典型だが、徹底して技能を磨くためのシステムが存在する。時間は定量だから、その分、見えないものにこだわる時間は割愛される。このようなシステムが親子二代ほどの時間機能(量的拡大)すれば、新しいものを生み出す(質的転換)時間としてたっぷりであるかもしれない。(2006・11・30) |
3 現代社会における「要領」の社会化といじめ対応力
拝啓 藤山寛美様 過日、木津川計(上方芸能編集長)さんの講演を拝聴する機会がありました。 さまざまな文化の分野で国民的人気を得たものには優しさがベースにあるとしていくつかの事例が紹介されました。紹介された事例の中で、私の場合、あなた様(の優しさ)が「愚直」な生き方を大変大事にされていたというところがとくに印象深いものでした。舞台を懐かしく思い出しながら、現代社会と優しさ、そして愚直のことをあらためて考えるきっかけになりました。ありがとうございました。敬具 愚直の対極にあるものが、私は「要領」と考えています。「軍隊は要領」、「人生は要領」という場合の要領です。つまり、一種の泳ぎ方のノウハウです。たとえば、軍隊では、上官の褌などを率先して洗濯し、あいつは便利なやっちゃ、かわいい奴や、というような評価を得て兵営生活を楽に過ごした、というような次元のものです。しかし、この要領のベースに競争があることは否めません。それができない同年兵をある意味出し抜くことで評価を得ているにすぎないことがわかるでしょう。誰もがこのような要領をかましたら、兵営はとんだ喜劇の舞台です。しかし、新兵のこのような要領はまだかわいらしいものです。 要領と地位・権力が結びつくと、とたんにそれは怖いものになります。たとえば、1945年夏の満州。ソビエト軍の侵攻によりさまざまな悲劇が起こりますが、ソ満国境地帯の開拓団はとりわけ筆舌しがたい苦しみを受けます。しかし、一部の人々、たとえば関東軍高級軍人の家族の場合は、護衛役の憲兵付き特別列車を編成して脱出(つつがなく本土帰還)をはかったということです。要領と権力が結びついた時の怖さを示す一例です。硫黄島の栗林兵団は、愚直に、創造的に戦闘を展開し、アメリカ軍にも高い評価を得ていますが、硫黄島と満州を比較すると、仕事師(軍人)として要領が愚直の足下にも及ばない好例と私には思われます。要するに、要領は自己本位を本質とし、自分中心に上手に世の中を泳ぎ渡る方法にすぎないからです。 さて、昨今の社会を振り返ると、受験競争が要領と深くかかわっています。受験競争における成功が一定の社会的ステータス(地位)と力に結びつくとしたら、要領の出番です。戦後社会では高等教育の大衆化が進み、受験競争はかってない大衆的競争として展開しましたから、要領は、きわめて大きな広がりを有しました。このため要領の色彩が濃厚な同質的集団の形成がかってなく広がっていると私は推測し、要領の社会的構造化(社会化)と考えています。要領と力の結びつきが怖いものだとしたら、学歴社会は常に一種の怖さを内包したものだと私は思います。知事の同質的犯罪の広がりは一例になるかもしれません。また、高校における未履修科目の問題、要領という視点からも十分分析の対象になりえます。たとえば、要領は、見えるものにこだわり、見えにくいものを軽んじます。受験にこだわり、受験にとって副次的と思われる科目(この科目の持つ可能性は見えにくい)について軽んじてしまった結果が未履修問題、というふうに見ることができるでしょう。この動きが、特定地域の特別な出来事でなく、時間的にも空間的にも広がりを持つことは深刻です。金太郎飴(同質)的世界の広がりを示しているように思われるからです。要領が社会化した現れと私が思う理由です。いじめの問題に関しても要領の社会化を物語ると思われる現象が一般的に見られるようです。たとえば、事態を解決するための対応ではなく、うまくかわすための対応、隠蔽はひとつの到達点でしょう。(2006・12・17) 「怖さを内包した社会」、2008年9月の状況はまさにこのような状況を示しているようです。たとえば、食の安全の崩壊。 有害物質を体内に取り入れても、ただちに問題が顕在化するわけではないからやっかいです。さまざまな分野で進行する危機は少しずつ蓄積されることで、ごく自然に私たちの生活に同化して、いわばひとつの環境とでもいうべき存在になっているようです。 世界的規模での競争の激化は、競争の全体規模の拡大のみではなく、あらゆる部分(地域)における競争をも深化させつつあるようです。大都市部と地方、地方都市における中心商店街の厳しい状況と新興ショッピングセンターの競争、複数商店街が複合的に活動する地域では明らかに商店街間の優劣が拡大するなど、金太郎飴のようにどこを切っても競争の激化という流れが見えてきます。たとえば、空き店舗が生じてもすぐに新しい借り手が生まれる商店街といつまでも借り手のつかない商店街、これは競争の重要な到達点をはっきりと示しています。地価が収益性とのかかわりで決まるという合理的なシステムが浸透するなかで、この到達点は資産における優劣という展開につながり、逆資産効果をさらに激しくする要因になります。競争のこのような環境化は、それが競争の所産であることをかえって見えにくくしていて、危機感の空白、さらには風化とでもいうような展開につながっていきます。総力をあげるべき競争段階というわけですが、競争が複合的性格を有し、つまり隣の商店街との競争、そして近郊にできたショッピングセンターとの競争、またごく狭い生活圏ごとに次々生まれるスーパーによる商店街包囲との競争、さらにはグローバルな競争(外国産品との競争)、世界的価格騰貴の地域的反映という形での競争、このような多種多様な競争下にあることから、全面的に対応することが極めて困難になりつつあるのではないか。経営不振による廃業がさらに急速に増大するであろう嵐の前夜にありながら、危機感の乏しさを感じるのは、事態の複雑性に要因があるように思われる。 (2008年9月10日) |
4 森を見て木を見ることについて
(全体の部分への反映としての学校におけるいじめ)
だれが言い出したか、「勝ち組と負け組」という言葉。身も蓋もない言い方である。社会の実情を指摘するというよりも、煽る役割に傾斜した用語であるというべきだろう。 「負け組」の存在を前提にして敗者の復活のための条件整備というイメージの「再チャレンジ」という言葉が関連して登場することで、身も蓋もない用語だがその妥当であることが定着しつつあるようだ。 「勝ち組と負け組」の言葉は社会の現状を指摘したものなのだから、まだ競争の途上段階である教育の場に直接かかわる言葉ではない。しかし、すでに教育は競争の基幹的役割を果たしているのだから、学校現場においても競争を加熱させる役割を果たすことになると考えるほうが自然だろう。つまり、 社会の現状は全体の動きが部分に反映されるという形で教育の場に反映される。ただ単に反映されるだけでなく、より鋭く反映されると私は考える。たとえば、次の歴史的事例のようにである。 明治維新により近世封建社会が瓦解し近代社会がスタートしたが、変化する時代を象徴する言葉のひとつに「立身出世」という言葉があった。たとえば、農民の子どもも身を立て世に出ることができる新しい時代の到来というようにである。このように 「立身出世」という言葉は、その初期には封建制度からの解放という積極的、前向きの意味を有したが、この新しい時代をにない、象徴ともなったのが近代学校制度である。「身を立て名を上げる」という言葉が卒業時の歌(ほたるの光)に明記されるように、社会の動きは学校教育と重なって展開することになった。 全体の動きが部分に、より鋭く、より典型的に反映された事例である。 「立身出世」と比較すると、「勝ち組と負け組」の歴史性はどうだろうか。 先に身も蓋もないと述べたが、封建時代からの解放を意味した「立身出世」の歴史性とは逆に、「勝ち組と負け組」という新たな区別により、負け組になることの不安、恐怖を持ち込み、過度な緊張、プレッシャー、ストレスを持ち込むという後退が私には感じられる。いうまでもなく問題の本質は言葉の問題ではない。「勝ち組と負け組」という言葉を通して、負け組とみなされかねないもろもろの社会的現実、たとえばワーキングプアという存在、あるいは不安定雇用で働かざるをえない人たちの存在などの現実が学校に持ち込まれる、ということになるだろう。いずれにせよ、学校がさらに過激な緊張、プレッシャー、ストレスにさらされかねないということであり、これは十分いじめを激化させる土壌たりうるのではないか。 森の動きが木々のあり方に深くかかわるという関係は、いじめの場合も例外ではなく、むしろより鋭く反映される、と私が思うところを整理してみた。学校におけるいじめの激化を通して、森のあり方を問うことこそが重要なのであろう。 (2007・1・2) |