Study 1: Historical
Perspective: Some Explanatory Factors
Chapter 4
Towards Crisis in Rwanda 1990-1994
General outline: main actors/main factors
Evolution of the conflict
Published by: Steering Committee of the Joint Evaluation of Emergency Assistance
to Rwanda
1986年のムセヴェニのウガンダでの勝利にウガンダに住むルワンダ難民と、ルワンダ系市民は貢献した。民族的には彼らはウガンダ軍の中で第3番目の勢力であった。ムセヴェニ大統領がルワンダ愛国戦線を支援していた証拠は記録されている。彼らはよく訓練され、志気も高かった。ルワンダ愛国軍の中の2500人はウガンダ軍の出身だった。90年の10月3日にはルワンダ軍によって、一時的にルワンダ愛国戦線は抑えられた。
ルワンダ愛国戦線は1959年から66年にかけてルワンダを逃れた難民によって構成されていた。ウガンダ、ブルンディ、ザイール、タンザニアに逃れた60万の難民にとって、故国に帰りたいという思いは何年にも亙って強く保持されていた。 1986年の政変により、ウガンダではツチ人の立場が強くなり、これがルワンダへの軍事的な侵攻に上手く働いた。他の要因はルワンダ愛国戦線が1988年8月の米国のワシントン難民会議で、彼らの目標達成に対する支持を得たことであった。
ルワンダ愛国戦線の即時の目標は難民の危機状況の打開ではあったが、彼らは8項目のルワンダの政治・文化を構造修正するプログラムを掲げていた。そのプログラムはルワンダ政府が非民主的で、腐敗に満ち、民族差別的であることを非難していた。そしてルワンダ愛国戦線は自らを多民族的な集団と規定していた。しかし、そのリーダーとメンバーのほとんどはツチ人だった。
何人かの識者はあの時期に軍事行動を起こしたルワンダ愛国戦線の思慮に疑問を呈している。というのは、国連高等難民弁務官事務所とアフリカ統一機構に仕切られた、ルワンダとウガンダの大臣間の30日間に亙る会議での三回目の合意、それは難民問題に具体的な解決をもたらすと考えられていた、そのたった2カ月後に侵攻は起こったからである。そしてその間ルワンダでは徐々にではあるが政治自由化の試みも始まっていた時期でもあったからだ。
交渉は上手くいったように思われていたが、ルワンダ愛国戦線にとってはもはや待ってはいられない状態だった。彼らにとっては交渉がルワンダ政府によって立ち往生させられているのに我慢できなかったのである。一方で、難民の本国送還と、ルワンダ国内の民主化と人権正常化の可能性が、今後彼らの攻撃の国際社会での適法性をへらすだろうと思われたので、この時期にわざわざ攻撃を仕掛けたという人たちもいる。
ルワンダの現政権の危機
ハビャリマナ政権はその17年の長きに亙って、MRND党と軍を柱に、ルワンダ愛国戦線の侵攻までは比較的安定していた。この事はその体制に批判がなかったという事ではもちろんない。70、80年代にハビャリマナに敵対した急進的なフツ人たち、例えばカニャレンゲエやバラヒニュラらは、90年代にはルワンダ愛国戦線の重要なメンバーとなっていた。他の反対派は、90年代に入って国内の反対派として大同を始める。
とはいうものの、ハビャリマナは一般的にはフツ人にもツチ人にも支持されていたと言える。しかし、その人気も1985年以降政治的、経済的な危機によってかげりが見え始める。問題が大きくなるにつれ、大統領は自分の党内からさえ非難されることが多くなっていった。国際社会と国内反対派からは政治的自由の要求を突きつけられた、一方で彼の支持者たちからは自分たちの政治、経済権益をなくす理由でそれに反対された。MRND党の兵隊であるInterahamweと、過激な、フツ人のみの政党(国家防衛連合=CDR)の創設は、この間の民族的な考えを端的に、つまり改革路線への反対を示している。
MRNDの中の過激派が公式には1992年3月に、フツ人過激主義を唱えてCDRを設立した。CDRは大衆的な基盤は持たなかったが、MRND内で民族的、政治的な問題について重要な影響力を持つようになった。その考え方は1989年以降の新聞「カングラ」、1983年7月以降のラジオ局「RTML」というメディアを通じて広がっていった。「カングラ」はその秘密警察とCDRとの太いパイプで得た重要な情報を使って、それを公衆に漏洩することで、人々の中の恐怖心を煽りたてようとした。彼らは大統領よりもCDRの過激イデオロギーに近寄っていた。彼らは大統領のアルーシャ会議での譲歩を、強制されたものとして非難することもためらわなかった。
92年7月と93年8月に、タンザニアのアルーシャで行われたルワンダ愛国戦線と国内野党との平和交渉で、確認されたルワンダ政治の自由化に対してハビャリマナ大統領が積極的にボイコットすることを忌避したことが原因で、94年の4月1日の彼の暗殺(航空機事故)が起こったと、多くの人は考えている。
経済的な危機
今述べたことは、長期政権とそれへの反対者の闘争という位相で捉えられる。彼らは、もはや一党独裁のもとで、権威化し、反民主的になった政府は、新しい政策などは採用できないと考えた。そして、体制内の汚職キャンペーンをメディアで展開し、そのことで力を得た。そして、ハビャリマナ体制は経済の回復に対する障害とも考えられた。事実85年以来の不況と、各地から出現したいろいろの野党は関連があると考えてもよさそうだ。80年代までルワンダは貧しくて小さな国といわれてきたが、経済的には健全で自給自足の国であった。インフレ率は年4%で、サハラ以南の国の平均である20%を大幅に下回っていた。また一人当たりのGNPはサハラ以南の国の平均よりも1%多い伸び率を示していた。
多国籍組織、双務的(ベルギー、フランス、ドイツ、アメリカ)、そしてNGO の援助はルワンダの発展に寄与していた。例えば91年双務的、多国籍の援助はGNPの21.5%と、発展的な支出の60%を占めていたが、これはアフリカの平均を少し上まるくらいだが、この地域の中では飛び抜けて高いものだった。ルワンダは都市対地方の人口格差のなさと、その安定した金融政策、政府と市民社会それぞれが取り組む森林再生計画、教育と公共医療サービスで、国際社会から注目されていた。国際的な援助は年々増え、71-74年には3500万USDだったものが、90-93年には3億4300万USDになっていた。これは1人あたり50USDになる。
しかしながら、経済問題は悪化していった。一つは土地の不足であった。すでに人口過密なルワンダの人口増加が、小作農の平均で0.7ha 以下の土地しか持てないような状況にした。一般的なやり方ではとても、普通の農民は期待した収穫量を上げられなくなった。一日1000カロリー以下しか摂取できない住民は82年では9%、85年には南部の飢饉で15%、93年には31%に増えた。だから93年までにルワンダでは今まで以上に援助食料に頼るようになっていた。当然この悪化は内乱の結果でもあった。93年の1月と2月のルワンダ愛国軍によるこの国の最も肥よくな地域への侵攻は、この国の人口の13%の人々を、そこから追い出してしまった。そして農業生産は15%も落ち込んだのである。このことがまた過激主義と民族的な抗争を引き起こす土壌を作った。
また、国内経済の限界だけでなく、国際的な経済情勢がルワンダを襲った。先ず、経営の失敗と、国際的な価格の下落で、生産コストがかかりすぎるため、1985年にはすべてのスズ鉱山を廃坑にしなければならなかった。スズはルワンダの輸出額の15%を占めていた。それ以上にコーヒーの国際価格の下落は深刻だった。コーヒーは輸出額の2/3を普通占めていた。86-92年の間にコーヒーの国際価格は75%下落した。結局、負債額は4倍になった。
そして89-90、91、93年と起こった干ばつである。また主要作物であるキャッサバとさつまいもを襲った病害のために50万以上の人が食料不足と栄養不良を経験した。増化する露骨で、大規模な政府の汚職構造、そして90年10月のルワンダ愛国軍の侵攻にともなって、軍事支出は劇的に増加した。ルワンダ愛国軍の侵攻以後の3年間は、それに対するルワンダ軍の防戦、ツチ人に対する報復、そして最も重要なことは、93年の内戦による国土の半分を占める北部地域における100万にも及ぶ人口の移動、これらが結びついて経済はめちゃくちゃになった。
国際社会はルワンダの経済危機に、寛大に対処した。援助額は2年間で60%増大し、つまり89年には2億4200万USDだったのが、一番多いときで91年の3億7500万USDとなり、これは大体93年まで続いた。この援助の画期的な出来事は90年9月の世界銀行と国際通貨基金の構造調整計画のルワンダへの適応だった。このことで、7つの双務的援助国と、アフリカ開発銀行と欧州連合からのものを含めて、その援助は2億1600万USDに達した。構造調整に消極的だったルワンダ政府は、コーヒーの国際価格の暴落や、貿易収支や国家会計の圧迫に見舞われ、積極的に対応し始めた。コーヒーの価格とルワンダ政府予算のつながりは、政府が「コーヒー平等基金」を通じて、コーヒー農家に対して固定的な価格で買い上げている長い歴史に起因し、国際価格がその固定価格を下回ったとき、助成金の増額という形で国家予算を苦しめた。87年以降のコーヒー価格の下落はその援助金の見直しを迫った。
91年6月に承認された以下の計画は、構造調整計画に沿うものであった。
以下に挙げるものをとおしての、経済における国家の役割の縮小の実施。
前者についてはコーヒー農家の価格引き下げと平価引き下げに関係しているだろう。ルワンダ政府は構造調整計画に従って、90年にはキロ当たり125ルワンダフラン(RWF)を、100RWFに引き下げたが、91年には一方的に115RWFに上げた。これは輸出額の減少と、地方の農民の政府への支持を得るために取られた。しかし、平価切り下げの恩恵はコーヒー農家にはもたらされなかった。実際には彼らの収入は減っていた。一つには売り渡すときの価格が徐々に下がっていたことと、重要なのは平価引き下げと金融赤字が90年初頭にインフレーションを起こしたことに起因している。
しかし何といってもこの時期の主要な地方での問題は、長引く干ばつ、病害虫、大量の住民の(内戦による)国内移動、による食糧不足であった。
農民が平価切り下げから何の恩恵を受けられなかった分、ルワンダ政府は地方と都市の福祉部門から思わぬ利益を受けていた。ルワンダ政府は平価引き下げによって、赤字を削減できたが、それでも同時に教育と健康部門の基本的な支出は維持することができたのである。それは、構造調整計画が健康と教育部門の受益者負担を高めたために可能となったのである。一方で政府は公共部門を社会的な支出で賄おうとした、計画のはじめには弱者の対する保護政策はあった。しかし、その支出は軍事費が抑制されていることが前提となっていたが、実際には軍事費は国内総生産に対して、89年の1.9%から、92年には7.8%へと4倍に上昇していた。またコーヒー部門への助成は92年には輸出額の46%を占めるようになっていた。これらは「社会安全網」に対して深刻な損害を与えた。実際に最貧層への医療予算は実際には25%しかつかわれることはなかった。
構造調整計画では公務員の削減が行われなかった一方で、公務員の賃金凍結が行われた。いくらかの公務員は経済の自由化と、外部からの援助によって活況を呈する私企業を手伝うことで、それをしのぐことができた。しかし多くの者にとっては、賃金凍結は、未来への恐怖を増加させた。2回の平価引き下げとともに彼らの実質購買力の低下、だんだん悪くなる経済、そして拡大する内戦と暴力、これらはその気持ちに火を注いだ。
援助国はルワンダへの経済援助をとおして、重要で潜在的な影響力を持っていた。「ケーススタディの2」で詳しく述べられているが、ほとんどの援助国は国内の人権状況に照らして援助を行っていたにもかかわらず、いくつかの援助国はルワンダ政府に代表を送り込んだ。90年代はじめに、増大する深刻な人権蹂躙があったにも係わらず、援助国は援助をやめようとはしなかった。
その代わり援助国がこの増加する市民の暴力に対して取ったのは、「明確な融資条件」を採用し、司法や、言論の自由、地方の人権擁護団体を支援することで、民主化を進めることだった。93年の終わり、94年のはじめになって、経済と国内の安全が著しく悪化したときになって、援助国は援助を削減したり、停止したりした。しかし、その措置は市民の暴力や人権蹂躙からというよりも、以下に述べることの結果だった。1;国内に増えつつづける土地をなくし、さまよう市民に対応するための人道的援助への要求が増えたため(これらは再構築された援助計画から導かれたものが多い)。2;国内の状況が悪化し、計画に対応し、それを実施する能力が政府に欠けてきたため。
国内の反対派:政治的な危機
一党独裁国家は発展にとって阻害になるだけのように思われてきていた。主に都市に住む反対派の政治家とルワンダ愛国戦線双方から、この考え方は広められていった。85年以来政府内の汚職の噂は増える一方だった(正式ではあっても下落する経済は以前と同じような利権を供給することができなかった)。そしてハビャリマナ大統領に政治的反対派は逆に力をつけていった。88年12月19日の選挙で99.98%の得票率で再選され、向こう7年間の任期を持ったハビャリマナ大統領ではあったが、国内の反対派の声は日増しに高くなる一方だった。
アフリカの各地で行われたようにルワンダでも90年に何回も政府に対する抗議デモが行われた。90年7月4日のストライキは警察によって抑えられ、9月1日は一党制を批判する文書が出版され、多くの人に受け入れられた。カトリックの大司教 Vincent Nsengiyumvaが(ローマ法王の強要によって)MRNDの中央委員会から辞職したのも重要な出来事だった。その日までは、カトリック教会と大司教はMRDNの伝統的な支持者でだったのだ。90年の4月、9月とローマ法王を訪ねる度に教会はルワンダ国内の政治経済状況について不満を漏らしていた。しかしながら不満は主に教会の低い階層の人に多かった。英国国教会もカトリックも指導部は、大統領とその政府に対して、最後まで連絡を取り合っていた。
89年の1月には一党制のもとで可能な政治改革を考えていたが、1年半後の90年の7月5日には、大統領は党と国家の分離に同意することになった。90年9月24日(まだルワンダ愛国戦線との戦闘は始まっていなかった)新たな政党の設立にたいする、国家憲章の制定のための国家専門委員会が作られた。改革への大統領の真意をはかることは難しい。しかし、このあとのルワンダ愛国戦線の侵攻は、正式の民主化を早めていった。
最初はこの委員会は2年に亙って審議される予定だった。しかし、軍事侵攻が新しい政治-軍事状況を作り出し、90年11月13日の演説で大統領は複数政党制を認め、次々に新政党が生まれた。91年3月初代大統領カイバンダ(Gregoire Kayibanda)が率いた MDR-Parmehutu の後継者を名乗るMDR(民主共和国運動)が結党された。ほとんどの発起人はGitarama-Ruhengeriやカイヤバンダたちの党派の流れをくむものだった。そのほかには、これらは以後重要な役割を果たすが、知識人のPSD(社会民主党)、南部を拠点としたPL(自由党)。この党は商業層、だから当然ツチ人のグループからの支持がの多かった。またPDCもあった。
ハビャリマナ大統領体制に反対するという以外にはこれらの政党の間にイデオロギー的な違いはあまりなかった。
正式に91年6月10日一党制は廃止され、一週間後に政党法が公布された。首相の地位が制度化され、国会選挙は大統領によって直ちに実施されることになった。6週間後の91年7月31日主要な野党、MDR、PDC、 PL 、PSDはこの大統領案の国会選挙を時機尚早だと公然と非難した。なぜならば、20年間政権を担当した与党MRNDに有利に働くのは目に見えていたからである。その代わりに彼らは、制度改革と、民主選挙の実施をめぐる代表者会議を要求した。
ハビャリマナ大統領はこれを拒絶した。小政党PDCだけは過渡期の政権への参加準備をしていた。 しかし、国会選挙は行われなかった。91年11月17日と92年1月8日のデモで野党はその政治的不満を表明した。このことはルワンダ愛国線に対してフツ人の政党による統一戦線を形成する大統領の希望を後退させものだった。
このことはハビャリマナ体制の中に、フツ、ツチ問わず、反対するものに対して暴力的な政策を用いる事の始まる事ともなっていった。92年4月6日国際社会と国内の圧力のもとで、新しい過渡期的政権が誕生した。この政権は主要な野党を含み大統領はハビャリマナであり、首相は野党MDRのDismas
Nsengiyaremye であった。
しかしながら、ハビャリマナ大統領と自分の党MRND、そして当然他の野党との関係は、ルワンダ愛国戦線との紛争を通じて、緊張したままであった。国内の野党は、今や民族的な敵として煽動されるツチ人やルワンダ愛国戦線に通じるものとして、猛烈に非難された。
国際社会
国際社会、特にベルギーとフランスの2つの双務援助国はこの紛争の期間を通じて、重要な役割を果たした。ベルギーは軍事的な介入を控えた。ベルギー政府は紛争の1カ月後駐留する軍隊を引き揚げた。ベルギー政府は民主主義化の機会を与えようとし、また平和交渉をさせようと努力した。ベルギー大使はDismas Nsengiyaremye首相による過渡期的政権の成立にも尽力した。
フランスは90年10月370人を派遣し、91年には減少させたものの、93年3月(つまりルワンダ愛国戦線の大規模な攻撃のあと)には670人になっていた。いくつかの国際組織は90年と93年にフランスは積極的にルワンダ政府を支援したと述べている。93年の紛争では、「フランス人がルワンダ軍を手伝って、ルワンダ愛国戦線領土に迫撃砲を打ち込んでいるところ」が観察されている。また「フランス兵士が首都の北40キロのルワンダ愛国戦線領土のByumbaに通じる道に配置されていた。しかしその地域にフランス人も、他の西洋からの帰化ルワンダ人も住んでいないのが確認されている」という報告もある。こういうわけだから、フランスは、チエックポイントに兵を配置し、ルワンダ軍を指導することで、ルワンダ政府を支援する重要な役割を担ったと、主張されるのである。そのほかには
ルワンダ愛国軍との紛争後にルワンダ軍の訓練を行った。
91-92年にかけて600万USDを軍備として回したこと。
第三者を通じて、同じ分の財政的支援を行ったこと。
ルワンダ愛国戦線が紛争の当初からフランスの戦線の離脱を要求したことは、驚くべきことではない。しかし、当然フランス政府は公式に紛争に積極的にかかわっていることを否定した。
アフリカの国家については、ウガンダの役割が論議された。タンザニア大統領は全期間を通じて、自国のアルーシャでの紛争当事者の平和交渉の設定等で尽力した。ザイールのモブツ大統領も紛争直後から停戦の道を探っていた。しかし、その後は2次的な役割を担った。90年10月に紛争が始まったとき、500人のザイール兵がルワンダ軍を援助するためにルワンダに派兵された。数週間後、ルワンダ人市民を虐待し、規律を見出したという非難の中、彼らは撤兵した。
国連をとおしての国際的な介入は、93年8月4日のアルーシャ協定の結果としてだった。各国政府や国際機関と同様に、人権組織もハビャリマナ体制のもとでの人権侵害を暴露し非難する報告を公にすることで、90-94年の間重要な役割を果たした。
国際社会がこの間のルワンダ情勢に与えた影響をはかるのは難しい。しかし、ハビャリマナ体制のもと少なくとも2000人が処刑されたという人権組織の非難によって、93年3月援助を停止するという脅威があったからこそ、ルワンダ大統領がルワンダ愛国戦線との平和交渉の再開を認めたのだろうと、多くの人は考えている。
紛争の激化
今まで見てきたように、90年に入ってからハビャリマナ体制は国内的にも国際的にも、自由化(つまり複数政党制の導入、人権の尊重、よりよい行政能力、そして難民問題の解決)を軍事的、政治的な圧力で求められていた。そのような改革は、一党制のもと、MRND、軍、地方と中央の政府、国営企業等で、利権を享受した支持者たちの特権と力を削減することでしか、実現できないのだった。だから、このリストラはこれらのMRND支持者たちからの反対が十分予想された。
これから、この紛争期間における、積極的な発展を検証する。つまり、体制と反体制の間の微妙な平和形成の過程を検証する。93年8月4日の協定に至った、過程と内容は今までとはいくぶん異なったステージだった。そして、今後起こりうる紛争に関して、重要な教訓を含んでいるので、このステージについてはじっくり検証してみたい。次に、何故このアルーシャ協定が平和協定と呼ぶに相応しくないのか、つまり政治的妥協と呼ばれるゆえんを明らかにする。 94年4月6日以後にルワンダで起こった悲劇に照らして、そのほとんどが体制支持者から行われた、改革への組織だった妨害を考えることにする。人権組織は民族的・政治的な想像の上での体制への反対者、それらへの恐怖心を体系的に利用したことを説明している。民族というものが、ついには異なる政治集団だけではなく、ルワンダ社会の主要な部分までをも毒してしまった。
アルーシャでの過程
90年11月以降、ルワンダ愛国戦線とルワンダ軍の間には戦闘的な行き詰まり状況があった。したがって、軍事的な解決は見えていなかった。92年4月(つまりルワンダ愛国軍の侵攻から18カ月後)、国内の政党間の紛争と、できたばかりの(ルワンダ愛国戦線抜きの)過渡期的新政権内のゴタゴタからいって、平和への交渉への道筋を見つけれるような状態ではなかった。たとえば野党Nsengiyaremye首相率いる政府が92年8月10日アルーシャでルワンダ愛国戦線と平和交渉の席に着くことを、ハビャリマナ大統領と与党MRNDは妨害した。ハビャリマナ大統領はMRND体制の威力衰退につながる、どのような平和交渉にも組織的に拒もうとした。その姿勢は大統領に対する国際的な圧力を生じさせた。しかし、根本的な要因は、ルワンダ愛国戦線の軍事的優位と、経済の悪化、国内難民(90年末8万人、Byumba攻撃後の92年5月35万人、そして93年2月95万人)の増加だった。
準備段階(90年10月-92年4月)
ルワンダ愛国戦線の侵攻の7日後に、ベルギーとタンザニアの調停のもと、ウガンダのムセヴェニ大統領とハビャリマナ大統領はタンザニアのムワンザで、アフリカ統一機構と国連難民高等弁務事務所による難民問題の会議と、両国間の88年以来続けてこられた対話をこれからも続けることを合意した。
ムワンザでは、両大統領はルワンダ愛国戦線と直接交渉することでも同意した。このことで必然的にルワンダ愛国戦線はハビャリマナ大統領によって紛争の交渉当事者と認められたことになった。それとともに重要なのは、ハビャリマナ大統領が日頃、親ルワンダ愛国戦線と非難し続けているウガンダ大統領との対話を、継続すると認めたことだった。
しかし、92年4月5日のルワンダ政府への国内野党の参加まで、ルワンダ政府とルワンダ愛国戦線の間の対話に重要な進展はみられなかった。平和を継続できるような根本的な解決への同意はなされず、たとえば停戦であるとか、そのような目先の問題だけが解決されていた。
停戦は、それが破られると、再び協議され、新しくされるという状態だった。以下年代順にみると、
90年10月26日、Gbadolite、ザイール:ベルギーの外交努力で
90年11月20日、ゴマ、ザイール:Gbadoliteでの協定を確認し、延期する
91年2月中旬、ダルエスサラーム、タンザニア
91年3月29日、 Nsele 、ザイール
最後の停戦合意は2度修正された。つまり 91年9月16日、Gbadoliteでのアフリカ統一機構のサミットと、92年の7月12日タンザニアのアルーシャで。アルーシャの合意ではルワンダ愛国戦線領土と、残りのルワンダ領土に安全地帯を設ける合意がなされた。
91年10月のゴマでの合意で、55人のアフリカ統一機構の停戦監視団がルワンダ入りする予定だったが、91年の9月たった15人が到着しただけだった。
基本段階(92年5月-93年8月)
過渡期的政権の成立の1カ月後、92年5月と6月、パリとブリュッセルで新しく政府に加わった野党PSD、PL、MDRとルワンダ愛国戦線の間で呼び折衝が行われた。そこでの合意は、アルーシャでの平和交渉の開始、Nsele停戦合意(91年3月)の遵守、を確認するに留まらず、ルワンダの民主化、政府にルワンダ愛国戦線を参加させること、軍の改革までもが討議された。
ルワンダ愛国戦線とルワンダ政府の平和交渉は92年8月10日、タンザニアと、タンザニア大統領ムゥイニ、大使ムプングェの尽力で始まった。オブザーバーとして近隣のブルンディ、ザイール、そしてベルギー、フランス、ドイツ、国連、アフリカ統一機構、セネガルが、連続するアルーシャ交渉に出席することになった。交渉は最終合意の1年前まで、以下の全体的なガイドラインが合意された。
法律の規則 (ここからは98.8/20以後の訳)
1992年8月18日の議定書によれば、ルワンダは国家の統一の原則、民主主義、多元的共存と人権に重んじるべきである。すべての市民はかれらの民族地域、宗教、性別にかかわらず同じ権利と可能性を持つべきである。暗黙の帰結は人の出身民族にしたがった権力と地位の分け前システムを撤廃することであった。すべての難民は帰国する権利を持つべきである。複数政党制を民主主義の基本の1つにすべきである。かつてザイールのNseleで提案されGbadoliteとアルーシャで確認された拡大された過渡的な政府の形成の合意を重んじるべきである。人権の保護は国家の委員会によって保証され、監督されるべきである。最初の議定書は短い期間で結論を出された。それは早い時期の交渉の結果の要約またはもっと一般的な原則の一覧として特徴づけることができる。状況はその合意とは、それに続く議定書のために異なっていた。真の権力の分配がその時危機にあった。
権力分担と過渡的な制度
テキストは以下の三つ(Communique 18/9/92; Protocol 30/10/92; Protocol
9/1/93)の議定書等の過渡的な制度(大統領、政治体制、議会、法廷について)と権力の分配についての条項を含む。
過渡的な政府はRPFをも含む21の大臣からなる。
5 MRND (防衛大臣を含む)、
5 RPF (副首相と内務大臣を含む)、
4 MDR (首相と大蔵大臣を含む)、
3 PSD、
3 PL 、
そして1 PDC
がその内訳である。
CDRはこのように排除された。
新しい政府は原則として意見の一致によって決定すべきであるとされた。
過渡的な国会は
MRND 、MDR、PSD 、 PL 、RPF からそれぞれ11人、
PDC から4人、
そしてほかに登録された政党からそれぞれ1人
のメンバーで構成されるであろう。
大統領のハビャリマナは国家元首の地位に留まる。 しかしながら、彼は首相と政府にある程度の権力を譲らなければならないであろう。大統領と国会の選挙は過渡的な政府の最後に実施されねばならない。国民投票についての新しい憲法を立案する委員会が作られるであろう。
三つの強調されるべき合意における要素
1)CDRの排除
2)大統領制から首相や大臣を中心とする議会制への権力制度の転換
そして
3)内閣が意見の一致をもって事にあたるというレトリックはあったけれども、少なくとも4つの政党に要求されている合意が国会での大多数の票決に至る
難民と国内避難民
1993年6月9日ルワンダ政府とRPFは93年2月に北Byumbaと Ruhengeriから脱出した約百万の難民と国内避難民問題の解決の合意に至った(Protocol
9/6/93)。
拡大された過渡的な政府の開始の6カ月後に多くの難民の本国送還地域を決定し準備すべきである。3ヵ月後には難民の第一陣がルワンダに戻るのを許されるべきである。難民の土地の権利については、過去10年間難民が請求していない場合は権利を放棄したものとみなすように。UNHCRとOAUに
難民帰還事業の経済問題を解決するための会議を援助国に開くように要請すべきである。
軍の改革
1993年6月24日政府とRPF(ルワンダ愛国戦線)の代表は明確な停戦の合意を得た。それはRPA=愛国戦線軍の(新設の)ルワンダ国軍への統合、それには憲兵隊の改編も含んでいた。RPAはそのうちの兵隊の数では40%、幹部ポストでは50%を占めるだろう。また、この拡大された過渡期の政府は少なくとも1年間のものである(後に最大22ヵ月となった)と明言された。国会選挙はその終わりに実施されることになった(Protocol
24/6/93)。
合意はKiniharaにおいて13000の兵士と6000人の憲兵に適用された。軍隊に関してこの事はその当時の兵士の数を比較すると重要な縮小を暗示するだろう。
ルワンダ国軍には28000の兵士、愛国戦線には20000の兵士がおり、90年以降両方ともその数は増えていた(93年8月の国連偵察団による)。
新設の統一国軍は旧ルワンダ国軍の指揮官が、そして改編された憲兵隊は旧愛国戦線軍の指揮官が指揮を執ることになっていた。そして、600の旧RPA=愛国戦線軍(武装した大隊)がキガリの新政府に参加する愛国戦線側の人たちを守ることと、一般的な首都の警備を認められていた。中立の国際軍(国連の青いヘルメット)または拡大されたGOMN
が国連監督の下で、すべてルワンダ、特にウガンダ国境付近、非武装地帯、キガリの治安を守るだろう。これらの国際軍は特に、過渡期的政府、過渡期的な議会、軍の改革、軍の解体、そして選挙の準備の開始を監督するよう求められていた。これらの軍隊の駐留はアルーシャでの合意の実行のための前提条件だった。
アルーシャ合意後の首相の選出 Kinihira において1993年6月に、 Faustin Twagiramungu(
MDR党 )を拡大された過渡的な政府の首相に指名する合意に達していた。しかしながら、そのとき、彼は彼の党から除名されていた。直接の理由としてはMDR党の議長としての彼が、その時点でハビャリマナ大統領の93年の7月17日にDismas
Nsengiyaremyeの代わりにAgathe Uwilingiyimanaを首相にするという決定に合意していたためである。法的には7月16日にDismas
Nsengiyaremyeの任期は切れるのだった。政治的に、大統領は Agathe Uwilingiyimanaの指名で
MDR 内の不和を利用し、そして主な野党を分裂させようとした。
1 番目の MDR党内派閥は Dismas Nsengiyaremye を中心とし、基本的な改革に反対していた(
いわゆるPowerGroupで、かつてのParmehutu思想を信奉していると言われていた)。
2番目の派閥は MDR党議長 Faustin Twagiramunguを支持していた。
1993年7月23日に、MDRの異例の党大会において、メンバーの大多数がその議長の除名と
Agathe Uwilingiyimanaを新首相にすることに決めた( Reyntjens,1994)。
これは首相およびKinihiraに存在している政党が2日後に有望な首相として Faustin
Twagiramunguを選ぶのを阻止しないであろう。しかしJean KambandaによってMDR党内に新しく形成されたPowerGroupにとっては、
合意はMDR党の承認無しのものである、アルーシャでの交渉者たちはMDR党の者が首相になることに同意しているにもかかわらず、どうして首相が自分たちの党から出ないのだと、論じた。
次に続く時期にもMDR党内の分裂は残っていた。各政党間にある非合意、それはアルーシャでの合意による暫定政権の開始を反故にしたかもしれないものだが、それに言及できなかった大統領への不満としてではなく、その分裂はあった。MDR党内の食い違いが、はじめは基本的に個人のの争いであったのに対して、その論争は民族問題に関わるものに独占されていくようになった。
Faustin Twagiramunguのような政治家は他の政治的、民族のグループとの妥協にたいして寛容だったにもかかわらず、
PowerGroup はもっともっと反ツチ人を主張するようになる。
非実行(1993年8月から1994年4月)
ハビャリマナ大統領とルワンダ愛国戦線議長 Alexis Kanyarengweによって1993年8月4日に署名された実際の
アルーシャ協定は上記の議定書、そして一連の異なった停戦テキストと条項のような、中間の、そして特別な協定を含んでいた。
すでに交渉の間に、いっそう基本的な質問が合意される前に、相当な遅れが見出され始めていた。大統領は多くの結論にたいして、やる気のなさを見せた。
ハビャリマナはいくつかの行事に政府と愛国戦線の間に協定にたいして拒否するか、あるいは同意を延期しだした(それは92年の11月中旬、93年の1月、6月、7月に起こった)。
協定の署名後に、多くの錯綜した要因が1994年4月6日までにアルーシャ協定の実行を妨害するのだ(その要因とは、国連軍の到着の遅れ、それぞれの政党内の内紛、大統領自身のやる気の無さ、彼の体制が大きな変革に対応していくこと自体であった)。
最終のアルーシャ協定の実施、つまりFaustin Twagiramungu政府は調印の37日もの後に(すなわち9月10日までに)国連軍(青色ヘルメット部隊)の到着を待って始まった。しかしUNAMIR(ルワンダへの国際連合援助ミッション)の権限がまだ国連安全保障理事会によって承認されていなかったから
Agathe Uwilingiyimanaの管理的(拡大された過渡期的)政府は実際に機能できなかった。
特に隣国ブルンディの選挙によって初めて選ばれたフツ系の大統領Melchior Ndadayeに対する、1993年10月20-21日のブルンディ軍内のツチ系兵士による虐殺の後では、一般的な政治状況はとても平和だとはいえなかった。
この事件は、引き続き起こるルワンダの悲劇の決定的要因となった、と多くの人は考える。
Lindenはこう述べている。
たぶん一つの事件として、協定の進展に反対の決意の強かった人々が勝利する引き金となったのは、皮肉にも1993年10月21日ブルンディの新しいフツ系の大統領、ツチ系の体制の民主化の過程で獲られた最初の果実ともいえる大統領の暗殺だった。
何万人もがこのクーデターの勃発で死んだ。そしておよそ70000人のフツ系ブルンディ人が南ルワンダに逃げた。
この事件はハビャリマナ周辺の人にツチ人は(ルワンダの)統一国家の政府においてフツ人が多数派を占める原則を心からは受け入れないという、考えを強固にさせた。
つまり、(われわれフツ人)過激派が正しいのだと、そしてアルーシャ協定は(譲歩の)やりすぎで、現実ばなれしていて、時期尚早だと。(Linden,
1995)
Lemarchandによれば
全ツチ系兵士による大統領の惨殺は、ルワンダのフツ人に強大で直接的な効果を及ぼした。その効果は明瞭かつ声高にこう言っていた、ツチ人を信ずるな。ブルンディ大統領の惨殺はアルーシャにおけるルワンダ愛国戦線との政治的妥協が実現可能だというかすかな希望をすっかり消し去ってしまったのだ。(Lemarchand,
1995)
(以下未訳)