ここにはもともと、明治41年旧8月に建立された飛び狛犬が一対いたようです。
上の写真右↑は、完全な形で残っている阿像のほうです。実に見事な作品で、これだけのものを刻んだ石工が誰なのか、知りたいところです。もしかすると小松寅吉門下の石工、例えば息子の布行かもしれません。場所柄、小松一派の石工である可能性は高いでしょう。
ところが、吽像のほうが台座から落ちたのか、壊れてしまい、和平の石工房に再建の依頼があったようです。
和平はすでに80代半ばで石を彫る力は残っておらず、孫の登に指示を出しながら彫らせた、ということを、今なおご存命の和喜氏(和平のお孫さんで、兄・登と一緒に和平のもとで石工修行をしていた)が語っているそうです。
吽像(写真上左)の台座には石工・小林登の銘がしっかり刻まれています。
几帳面な性格が現れた、実直な出来です。しかし、惜しむらくは、躍動感に欠け、もとの石の形(四角い石材)がうかがえます。
小林和平は生前、常々こう言っていたそうです。
「四角のものは曲尺をあてれば誰でもできるが、彫刻はそうはいかない。持って生まれた才能が必要だ」
登が彫った狛犬の隣には、胸から上だけ残った先代が今なお並んで置かれています。もしかすると、ここに先代を置かせたのは和平なのかもしれません。もしこの先代狛犬を小松門下生の石工が彫ったのだとすれば、和平が先代に敬意を払ったのも当然でしょう。
「登よ、この先代狛犬の出来をよく見よ。いつかこの先代狛犬を凌駕する狛犬を彫ってみろ。俺はもう長くはないが、俺の死後も、この先代を見て腕を磨き続けろ」と言い残しているような気がしてなりません。
ここには、石工という辛い仕事を継いでいく男たちのドラマが残されています。