壬生義士伝 浅田次郎著より  本書では候文で書かれています。
現代語におおまかにですが直してみました。
本書の主人公吉村貫一郎の上司である大野次郎右衛門が越後の豪農に宛てた手紙。
「義士」とはなにか?本書の最後の手紙は本書のテーマが書かれているような気がしました。

江藤彦左衛門殿
寒さ厳しき折 貴家の益々ご繁栄のことうれしく存じ上げます。
大阪での勤務以来ご無沙汰しております。
突然手紙にて大事なことを申し上げます。
大変失礼ではありますが、特別のお願い事にてお許し願います。
この度の奥州騒動については、ご存知のことと存じ上げます。
大変不本意ではありますが、私は逆賊を主導した者として罰せられました。
現在、盛岡城下の寺にて判決を待っている状態です。
この手紙が届くころには、すでに判決が下っていると思います。
この手紙は私の遺書と思っていただきたく、大変失礼ではありますが、
お聞き入れくださいますようお願い申し上げます。
この手紙を届けたものは、佐助といいます。
私のところに長い間、忠勤している中間です。
容貌は怪異ですが、この度の奥州騒動では、常に私と行動をともにしていたものです。
真面目な者ですのでご安心ください。
お願いは、寒い中、佐助に同行した少年のことであります。
この少年は、盛岡藩の偉い人の子供ではありません。
私の縁者でもありません。
ただ、私の家来、足軽の息子であります。
盛岡藩の偉い人の子供、私の縁者をさておき、
足軽の子供を貴家に養育をお願いしたく、よろしくお願い申し上げる次第です。
この少年の父は、吉村貫一郎といいます。
既に鳥羽伏見の戦いで亡くなっています。
1862年に、この少年の父は、盛岡藩を脱藩しています。
そのとき少年の母は、夫は死を覚悟しました。
二度と盛岡藩には戻ってこないと想いました。
未だ生まれてこない子供に父と同じ、貫一郎という名前をつけました。
したがって、佐助に伴っていった少年の名前は吉村貫一郎といいます。
後々、この少年の名前は変えないで、養育をお願いしたく存じ上げます。
色々とご無理なことをお願いしていますが、よろしくお願いいたします。
この少年の父は、本当の南部の武士でありました。義士でありました。
身分はわずかに「二駄二人扶持」でした。
しかし、その人格は「質朴誠実」「高邁潔癖」でした。
本当の武士道を身につけていました。
1834年に、盛岡城下上田組丁同心屋に生まれ、以来勉学、撃剣に励みました。
遂に盛岡藩校の講学助教、および剣術教授となりました。
その学識と剣術は、藩の中では抜きんでたものでした。
出世すべきでしたが、何とも足軽の身分のためうまくいきませんでした。
更に、藩財政が窮乏している時ですので、
講学助教および剣術教授の役料についても特に手当がありませんでした。
足軽の小禄で妻子を養っていました。
生まれながらの質素さにより、敢えて富を欲せず、貧しいことに不平を言いませんでした。、
他足軽の貧しさを思い、私をはじめとした上司にも頼りませんでした。
まったく貧しい生活をすごしていたのでございます。
重ねて申し上げますが、この少年の父は、本当の南部の武士でした。
義士でした。
1830年代の天保のとき、百姓は、飢饉に苦しみました。
その生活を思い、少年の父は自分の栄達のみを潔よしとしませんでした。
慈悲の心をもって貧しい生活に甘んじていたのです。
よくよく考えますに、学識や剣術の技量については、各人の努力精進によるものです。
それを評価できなかったのは、上司の私の不徳といたすところです。
まことにもって面目ない次第であります。
わたくしは、盛岡藩勘定方差配の役であり、多年奮闘し努力しました。
しかしね、藩財政を回復させることができませんでした。
百姓の苦しみを助けることができませんでした。
藩士の生活も同様でありました。
遂には、吉村さんはじめ、有能な藩士を脱藩の行動を行わせることになってしまいました。
この原因は、勘定方の私ひとりのためであります。
私は、朝敵として判決を待つ身であります。
錦の御旗に弓を引いたことは死に値するものと考えております。
死の直前に思うには、私の非力のため、貧しさを救うことができなかったことです。
百姓、領民、足軽、同輩諸士に対し只々、心からお詫び申し上げるところであります。
私の家は、代々400石の大禄を賜っていました。
組付足軽30数人を与えてもらっている身でした。
しかし、ただ、藩政の安泰に粉骨し、お殿様の安寧に奔走しました。
これは、間違っていました。
恐れ多いことですが、この度の幕府の政権交代の原因は、私の過ち同様に、幕府を守ることに力を入れ、
百姓、領民、足軽郎党の苦しみを救えなかったことによると思います。
すなわち、自分の身を守ることのみに専念したためと考えます。
幕府の政権交代、将軍家の災難、これは天罰と考えられます。
私の400石、幕府の800万石は、これは国民の汗と血によるものなのです。
武士は武士であることに優位をもってきました。
しかし、士農工商の分別は、まったく持って、武士の勝手な理屈でありました。
それに天罰が下ったと思われます。
1853年、黒船来航以来、外国人を受け入れない攘夷論がありました。
徳川幕府が開かれて260数年に、各家門は、代々世襲が重ねられ、士道は無くなってきて、
自分の身を守ることに汲々とした日々を送ることになってきてしまいました。
このような中、ただ一人、武士の鑑たるものがいました。
かさねてお願いいたします。
少年の父は、本当の南部武士でありました。
義士でありました。
私が、御家老楢山佐渡様はじめ、御重臣御方々にけしかけ、朝廷と戦った理由は、ただこのことだけでした。
少年の父、吉村さんは 命を懸けて惜しまず、奥様と子供のために戦いました。
吉村さんの行動を身分の低いものの賤しい行いと言う人もいます。
しかし、私がよく考えると、吉村さんの行いは、男子の本懐であり、士道の真髄と思われます。
私は、吉村貫一郎さんの武士の魂を南部の国と取替えたいと思います。
思慮のない、狂った行いといわれるのは承知のうえであります。
しかしながら、これから幕府が倒れ新政権になり、天皇のもと統一された国づくりがされても、
万一、一兵が妻子をさて置いて、国のために尽くすことになれば、それを義となせば、
必ず国は滅び、外国の奴隷となってしまうと思われます。
日本の国は、古来より義を持って、徳目つまり、仁・義・忠・孝など、昔から道徳の基本としてきました。
しかしながら、義の意味を忠義と定めた人がいたわけです。
これは詭弁であり大きな誤りであります。
義の意味するところは正義であります。人道の正義であります。
義が無くなれば、必ず人心は荒れ、文化・文明の興隆にかかわらず、国は危なくなります。
人道正義がないところに、何の繁栄と喜びがありましょうか。
日本の男子が命を惜しまず妻子に尽くすことは、けっして賤しいことではありません。
私は、後世の人々の為を思い信じ、母国南部、父祖の地、盛岡、郷土の山河ことごとく、
お殿様はじめ御家門、御朋輩 郷友皆々様 無論私の一族郎党の命を御一新の天皇中心の新政権に捧げます。
幸い城下の焼失は免れましたが、今後、国替え、減封の罰状となると思われます。
また、幸いにして生きていても、多くの人が、賊徒の汚名をうけることになり、
つらい生活を強いられることは明らかであります。 
しかしながら、南部武士魂の一滴は、苦難の後に残ったその一滴は、北上の大河となって、
新しい天皇中心の国を必ず正道に導きます。
吉村貫一郎さんは、「南部の桜は、岩すら砕いて咲く」とよく言っていました。
私は、その言葉を肝に銘じ、非力の身ながら過分の精進に努めました。
振り返ってみて、このようなことになってしまいました。
力の及ばないところであります。
しかし、個々の努力と精進について何ら悔いるものはありません。
岩を割って花が開く春は未だ来ません。
しかし、死力は尽くしました。士道冥利に尽きると思っております。
尊敬している友人、吉村貫一郎さんの最期は、誠に見事でした。
死に臨んで、五体をことごとく妻子に捧げ、血を一滴も残さなかった。
わずかに死顔に涙の一垂が残っていました。
何度も言いますが、この少年の父は、誠の南部の武士でした。
義士でした。
何とぞ江藤様、この少年を江藤様のもとに置いていただき、ご配慮のもと、御育ていただきたくお願い申し上げます。
心よりお願い申し上げます。
義士の血がいずれの日か、岩を砕いて多くの花を咲かせることを夢幻のごとく心に思い筆をおきます。
恐惶謹言 
1869年2月8日  大野次郎右衛門

本書の候文(抜粋)
謹啓 寒中之砌 御全家御揃益々御清穆ニ御座在ラセラレ候段 大慶之至ニ存ジ奉候
大坂在勤以来久々御無沙汰ニ罷リ過ギ恐入候処
突然寸翰ヲ以テ斯様大事御願申上ゲ 恐懼至極ニ存ジ上ゲ候
御無礼重々承知乍ラ 此段 拙者畢生之御頼事ト御忖度候テ
何卒御聞届願ヒ度 垂首合掌御願奉候
此度奥州騒動之一条ニ付 御風聞御座有ル可ク嘸々御心配御座候ヤト存ジ奉候
甚ダ不本意乍ラ 干戈之事不取敢落着 随而ハ拙者儀 逆賊首魁之大罪ヲ蒙リ
目下盛岡城下ノ寺ニテ御沙汰待受ケ致シ居候
此書状御尊台様許ニ届キ候頃ハ 既ニ御沙汰下サレ候可ク
拙者遺書ト御心得御座候テ 何々卒 御無理御無礼之段 御聞入願ヒ度 御願上奉候
扨 拙翰ヲ持参仕リ候者 名儀佐助ト申シ 拙家ニ永ラク忠勤致シ候中間ニテ御座候
容貌魁偉ニ候得共 此度ノ騒擾ニテハ常々拙者ノ馬口取ヲ相務候忠義者ニテ
宜ク御安慮下サル可ク候
御願之儀ハ 寒中盛岡表ヨリ佐助ニ同行罷リ越シ候少年之事ニテ御座候
此者弊藩縁故ノ御子息ニハ非ズ 無論 拙者系累ニテモ無之
只 拙者組付配下足軽ノ息ニテ御座候
主家縁故ノ御子息モ扨置キ 況ヤ拙者系累モ扨置キ
足軽輩ノ息ノ一身 御尊家ニ委候所以 万端御聞入御座有ル可ク候
此者之父 姓名之儀ハ吉村貫一郎ト申ス者ニテ
既ニ去ル鳥羽伏見ノ戦中 討死致シ候
文久二壬戌之年 盛岡国表ヲ脱藩ノ折 此者之母ハ決死ノ夫ノ帰盛セザルヲ察シ
未ダ生レザル一子ニ貫一郎ノ同名ヲ与エ候
依テ此者 姓名之儀 吉村貫一郎ト申シ候
重テ庶幾ハ御尊台 往々此者之姓名変ヘ不給 御配慮御養育賜レバ幸甚ト存ジ奉候
然者 斯様大事御願候ノ上 更成御無理申述候由 縷々説分申上候
此者之父者
誠之南部武士ニテ御座候
義士ニ御座候
身代僅 二駄二人扶持ノ小身ニ候得共 其人格質朴誠実 高遇潔癖ニシテ不賎
正ニ本邦武士道之亀鑑ニ御座候
去ル天保五甲午年 盛岡城下上田組丁同心屋敷ニ於テ出生
爾来 日々不怠勉学ニ勤ミ 撃剣ニ励ミ
遂ニ 藩校講学助教兼剣術教授方ノ大任務メ居候
其学識技倆 藩士中抜群ニ御座候テ 立身出世之段 可然処ニ御座候得共
何分足軽小身之出自ニ御座候テ 累進相不叶
併テ藩政窮乏之折柄 御役料等ノ御代物 別段之給フ不能
只 代々之小禄ヲ以テ妻子ヲ養ヒ居リ候
雖然 生来之質実分限弁エ敢テ富貴欲セズ 道ヲ得テ貧賤ヲ憎マズ
同輩之窮乏ニ鑑テ 拙者始メ 上司ノ情ニモ頼ラズ
赤貧洗フガ如キ窮迫切実ノ日々過シ居候
重テ申上候
此者之父者
誠之南部武士ニテ御座候
義士ニ御座候
天保年来 百姓領民飢渇シ 凍餒ニ輾転タル惨状ヲ察スルニ付
此者ノ父者 己一身ノ栄達ヲ潔シトセズ 仁慈之衷情ヲ以テ貧賤ニ甘ンジ居候
熟々慮ルニ 学識技倆之卓越ハ 遍ニ各人努力精進ノ賜物ニシテ
其質力ヲ評価不能ル段々 組頭拙者ノ不徳ト致ス処ニテ御座候 面目次第モ無之候
拙者儀
弊藩勘定方差配之御役目与リ候テ依リ 多年励努力致シ候得共
如斯 藩財政ノ恢復相不及 百姓領民ノ苦渋救済スル不能
藩士ノ生計又言フニ不及 遂ニ 吉村始メ有為之士ヲシテ 脱藩ノ挙ニ出サシメ候
多条罪禍悉ク 勘定方拙者一身ニ有之候
然者拙者 不倶戴天之賊ニシテ
天朝之御沙汰御待申上グ身ニ候得共 錦旗ニ弓引キ奉候処 随而ハ毫モ悔悛之情有間敷候
只々御役目不到処 万死ニ価フ大罪ト已存ジ居候
無論近々馘首之土壇場ニ臨ミ候テハ
拙者
非力ノ為 窮状救フ不能ル百姓領民足軽同輩諸士ニ向ヒ奉リ 衷心御詫申上候
抑々 拙家累代四百石之大禄賜リ 組付足軽三十余ヲ与ル身上ニモ不拘
只管藩政之安泰ニ粉骨 御殿様御家名之御安泰ニ已奔走致候事 大過謬ニテ御座候
畏多クモ此度御公儀幕閣失態之因 拙者之謬ニ同様
百姓領民足軽郎党ノ苦難毫モ酎酌不致候
多年幕府御安泰御家名大事ト執心罷リ越シ候処ニ御座候ト拝察仕候
斯如事 即 忠義ニ有間敷 只各々ノ保身ニテ御座候
愚拙儀
忠義ニ言籍テ不知保身計略仕候
然者幕府御顚覆 公方様御災難之顚末 悉ク天誅ト存ジ候
愚拙四百石之禄ハ民ノ脂 御公儀八百万石亦民ノ汗 民ノ血ニテ御座候
爾来仍之 武士ハ武士タル多年ノ優位保チ罷リ越シ候
況ヤ士農工商ノ分別等笑止千万勝手ノ理屈ニ御座有ル可ク
早速天誅下リ 武士相撃ツ処ト相成リ候
即 黒船来航以来 攘夷之論 世ヲ蓋ヒ候経緯 悉ク幻影ニ御座候
幕府開闢以来二百六十有余年 各家門世襲之代ヲ重ネ
士道喪レ 保身汲々タル獣群ト相成リ果テ候
乍併 蛮勇無能之獣中唯一人 赫々タル武士之亀鑑有之候
重テ御願奉候
此者未ダ少年ニ御座候共 此者之父者
誠之南部武士ニテ御座候
義士ニ御座候
拙者
御家老楢山佐渡様始メ御重臣方々指嗾致シ 
天朝ニ対シ奉リ干戈之儀ニ及シ理由 只々此一如ニテ御座候
此者之父吉村輩 身命不惜妻子息女ノ為戦ヒ候
此行イ軽輩之賎挙ト言下ニ申及ビ候者 多々御座候ト雖
拙者熟々思料仕リ候処 此一挙 正ニ男子之本懐 士道之精華ト思ヒ至リ候
依テ拙者
吉村貫一郎之士魂 南部一国ト 取替申シ候
妄挙狂気ノ沙汰 譏ハ万々覚悟之上ニテ御座候
雖然 向後 縦 御一新目出度相成候テ
御一統皇国御具現致シ候段万端相運ビ候得共
万一 一兵ノ妻子息女ヲ扨置テ滅私奉公之儀 以テ 義ト為ス世ニ至リ候ハバ
必至 国破レ 異国之奴隷ト相成果テ候ヤト拙者熟々信ジ奉リ候
本邦日本者 古来以義至上徳目ト為シ候也
乍併 先人以意趣 義之一字ヲ剽盗変改セシメ 義道即忠義ト相定メ候
愚也哉 如斯 詭弁天下之謬ニテ御座候
義之本領ハ正義ノ他無之 人道正義之謂ニテ御座候
義ノ一度喪失セバ 必至 人心荒穢シ 文化文明之興隆如何不拘 国危シト存ジ候
人道正義之道扨置キ 何ノ繁栄欣喜有之候也
日本男児 身命不惜妻子息女ニ給尽御事 断テ非賎卑 断テ義挙ト存ジ候
依テ拙者
後世万民ノ御為ト思ヒ定メ且ツ信ジ候テ
母国南部 父祖之地盛岡 郷士之山河悉ク
御殿様始メ御家門 御朋輩 郷友皆々様 無論拙者一族郎党之命 御一新皇国ニ捧ゲ奉候
幸イ城下焼亡ハ免レ候得共 爾後御国替御減封之罰状免不得
亦 幸イ一死免レ候得共 皆々様 賊徒之汚名蒙リ 辛酸嘗メ候ハン事必定ニテ御座候
乍併 南部士魂之一滴 苦難之後ニ残リ候ハバ
其一滴 北上之大河ト相成候テ 御一新之皇国 必ズヤ正道ニ導キ奉候
吉村貫一郎ノ常々申居候事
南部之桜ハ巌スラ摧キ咲クト
拙者
其一言肝銘致シ候テ 非力乍ラ過分ノ精進成遂了ヌ
省テ斯様始末 力ノ不及処ニ御座候得共 一個之努力精進ニ於テ一片之憾 無之候
巌割開花ノ春ハ不来ト雖 死力尽シ候事 士道冥利ト存ジ居候
畏友吉村貫一郎君之最後 誠見事ニテ御座候
一死ニ臨ミテ五体悉ク妻子ニ捧ゲ尽シ其亡骸 血一滴スラ不残
僅ニ死顔 涙一垂ヲ留メ居リ候
幾度言ニ不尽
此者之父者
誠之南部武士ニテ御座候
義士ニ御座候
庶幾クハ御尊台 此少年御膝下ニ留置給リ御配慮御養育之程
愚拙
平伏合掌致テ 依衷心 御願上奉候
義士之血脈 何日カ巌ヲ摧キテ万朶之開花致候御事 夢幻之内ニ慶賀致シ奉候テ
此而擱筆致シ候
恐惶謹言
明治二年己巳二月八日
大野次郎右衛門 拝
江藤彦左衛門殿
御侍史