【2003年3月】

3月28日(金)  藤岡弘、探検隊
水スペの「川口浩探検隊」といえば、嘉門達夫が歌にまで歌った素晴らしい「や」番組だった。
そして今度は「藤岡弘、探検隊」である。
ナレーションは相変わらずの田中信夫であったが。

しかしこういう時代にはムリあるな。
浩のころは、世の中がもっとかわいげがあった、
でも弘の生きている今は、探検なんてゲームでもできるし映画もそんなのばっかりだ。
さてどうしますかね?

3月22日(土)  戦争、報道、テレビ、NHK、それで
しかし、江畑謙介、生きて居ったのか。
91年の時に「地上戦になれば泥沼になる可能性がある。ベトナム戦争なみに死傷者がでる」などとあの顔で言うので、こりゃたいへんだな、なんて思っていたら、その2日後に戦争が終わったのだった。クラウゼヴィッツとかだっけかな、勝ち戦になればはじまる前の心配事は思い出せなくなる、とか言っていたがそうなのだ。あの時もいろんな懸案事項が山積していたが、終わってしまえば誰もその時のことなんか覚えちゃ居ない。ただ江畑謙介の不気味さだけは忘れたくても忘れられなかった。
この度、またNHKの出演は江畑にとってはいいことなのかわからないが、相変わらずの不気味さ、そしてさらに磨きがかかったベレー帽のような髪型。10年以上のあいだに謙介にも確実に変化があったことは、頭を見ればわかるのだった。

3月19日(水)  おしん

「おしん」の再放送をついつい見てしまった。
なんと無茶苦茶な話だ、と思う。

が、戦後になるまであんなふうに東北の寒村で暮らす小作人の生活は苦しかったのであったことが事実であれば、「昭和維新」という革命に走った人々にいまさらながら思いを馳せるのである。

都市では資本家たちが国の富を独占し、貧困対策に力を貸そうともしない。それを看過しつづける政治家ども。同じ国に無数のおしんがいる。その事実に目をそらさなかった人たちがいる。たまたま右と左にわかれたけど、目的は同じだったのだ。

わけのわからないことになってきたが、強烈な現世の問題意識が政治意識の原点であり、それに右も左も関係ない。今の政治がだめになったのはその問題意識が持てないこと、いいかえれば社会のことよりみな自分のことでせいいっぱいだからだ。他者へのまなざしとか共同体への帰属意識なんてことよりも先に、自分なのだ。
遠い国で戦争がはじまろうとしている、のだが。

3月15日(土)  (無題)



3月12日(水)  ○「ぷっつん5」のころ
○「ぷっつん5」のころ
今やすっかり大画伯となって文化人になった片岡鶴太郎。
今や、というのは多分に皮肉である。
81年の正月1月1日、ビートたけしの「オールナイトニッポン」を聞きながら私は新年に突入した。「初春や、もちで押し出す二年グソ」の一声とともにはじまった番組は、まだ「たけし軍団」なんてものはなく、大田プロの売れない若手芸人が都内各所をリポートするみたいな感じの内容で、なにが面白いのかわからないが「ぎゃはは」という絶叫ばかりがうるさいだけだった。
そこに鶴太郎もでていたのだが、寒空にズボンを脱がされ尻をだしながら「やめて、やめて」のだった。なぜかこのことが妙に印象に残っている。いじめられている者というのはもっと必死に悲しみを訴えるものだが、鶴太郎の「やめて」はいやがっていながらよろこんでいるように思えたのである。名もなく芸もない若手が目立つにはこうこともありなんだな、と分かるのはそれから少したってである。
その後の2、3年でマッチやら近藤正臣、浦部くめこなんかの物まねで「ひょうきん族」にでるようになった鶴太郎はあの夜の鶴太郎の延長だった。鶴太郎劇団なんての作ってちょっと偉そうになったが、相変わらずバカであった。
さらに2、3年後、鶴太郎もピン立ちした。「ぷっつん5」のほかにもバラエティのレギュラーがあったが、さんまと「男女7人夏物語」にでるなど俳優方面にも進出していった。ちょうどたけしが講談社に討ち入りして、そのみそぎとして一時的に芸能界から姿が見えなくなろうとする時期に鶴太郎は確固たる地位を得た。
たけしが出演しなくなってから「ひょうきん族」は傾いたのだが、そのころから鶴太郎の姿も消えた。それまでは「たけちゃんマン」のなかで熱いおでんを食わされたりかけられたりする役ででていたりしたのだが、そのたけちゃんマンがでなくなったから出てくる必要もなくなった、といえばそれまでだが、これは鶴太郎にとっては喜ぶべきことだったろう。
同じ太田プロで、たけしの舎弟として見られることが彼をテレビで人気者にしていったのは疑いようもないのだ。それはあの正月のオールナイトニッポンを例にあげるまでもない。しかしその後「おでん」ネタでは露骨に本気で怒っている様をさらした。テレビにでてみんなにみられてよかった、ということではもはやなく、「仕事くらい選ぶ」タレントの顔で怒っていた。このころになると以前のようなメリットがない以上たけしは頭のあがらないやっかいな先輩でしかなかったのではないか。あの怒りの表情をみるとそんな意地悪な想像をしたくなる。テレビでは見せてはいけない顔だった、芸人にとっては。
自分の城である「ぷっつん5」ではあたかもたけしのように振舞っていた。当時、直感ではあるが以上のようなことで、たいへんわかりやすく「それほどの人間ではない」という結論を鶴太郎につきつけていた。まあ、本人には届いていないが。売れなかった時代に必死にやったことをおまえは覚えているのか、そういうことを大切にしろ、と言ってやったんだが、まあ、大きなお世話で届いているわけがない。
というわけで、ようやく書きたかったことに行き着きそうなのであるが、ようは土曜の5時あたりの、「これからどうするか、なにかしなくてはいけないのではないか」と考えても仕方がないことを考える時間、裏をかえせばせっかくの土曜日になにも予定がなくてこのまま夕飯⇒ひょうきん族⇒土曜ワイド⇒ベストヒットUSA⇒ラジオか「オールナイトフジ」という展開がむなしく見える時間に「ぷっつん5」が目に入るときの寒寒した感じがいやだった。鶴ちゃんを見るほかなくなることを一番おそれていたのであった。

3月5日(水)  ぷっつん
■ぷっつん5
ぷっつん女優なるものがいた。
藤谷美和子とか石原真理子とか。釈由美子はこの系統ではないかと思ったのだが、誰もそうは呼ばないので、この言葉がもはや死語か私の解釈が間違っているのかのどちらかだろう。

3月4日(火)  ○サンストな日々
○サンストな日々
FMはその当時の中学生にとっては重要な洋楽情報リソースでありました。ただNHK−FMというのは敷居が高く、特に夜なんかどんなマニアな時間なんだ、って感じでした。ところがあの当時の成長力は凄まじく、高校になるとあってけなく、そのマニアな時間の視聴者になっていました。「宝島」とか「ロッキング・オン」とか「DOLL」とかで活字の情報を、サンストで音情報を得るみたいな感じだったか、大げさにいえば。
月・佐野元春
火・坂本龍一
水・甲斐よしひろ
木・渋谷陽一(その後山下達郎)
金・渋谷陽一

月のDJ然とした感じと比べて、火のまったりした感じの落差はそれだけでおかしかったものです。
水はほどんど聞かなかったので記憶があいまいですが、話が熱くなると机をたたく音がやたらうるさかった。
渋谷氏は「若いこだま」って番組をその前にやっていて、それがスネークマンショウでネタにされていたのをあとで知ったが、あんな感じで、知ったかぶりでゼッペリン命、それでもいろいろ知るにはためになったな。スミスをはじめて聞いたし、アズティックカメラもそう、とにかくイギリスとかアメリカではやっているちょっとお洒落な感じの音楽を紹介するのでありました。あとはゼッペリンとストーンズ。金曜だけになってからすこし真剣になったかな。
達郎氏の番組でかかる曲はマニアすぎて、その当時の私の耳にはなじまなかった。今はわかるようになったけど。
火には宅録(いわゆるデモテープ)を紹介するコーナーがあり、時々とんでもないのがでてくるのが楽しみだったですね。