寺山修司記念館

1997年7月27日開館

三沢市立寺山修司記念館

小中学生100円

高大学生200円

一般530円

1997年7月23日 毎日新聞より

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100年たてばその意味わかる

三沢と寺山

三沢市といえば、青森の空襲で焼け出された寺山と母のはつが、父の実家をたよって疎開したところである。当時は古間木といわれたところである。

しかし「誰が故郷を想わざる」では戦争が終わってから移り住んだとしているが、実際には昭和20年7月28日の晩の青森大空襲により家を失った直後に移ったらしい。

父の実家の「寺山食堂」の2階の12畳で生活を始めるが、まもなく戦争は終わり、父の戦死をしることとなる。「誰が」にはその時母は鋏で自殺をはかり、小学生の寺山はそれを客観的に見ていたという。ここでの生活は2年続くが、米軍の基地で職を得た母は、もともとそりのあわなかった寺山家をでて、同じ市内で親子二人の生活を始める。

寺山の死後、その記念館の設立を夢みて、寺山の遺品、資料をまもっていた母は、絶対に青森には帰りたくない、だから記念館も東京でといって譲らなかったという。しかしその死後の1週間前に、寺山の永遠のパートナーでありはつの養子でもあった九条今日子にすべてをゆだねた。三沢市での記念館実現は、その後九条の奔走によるところが多いと想われるが、このように彼の仕事が記念館として纏められたのは寺山自身は墓の下で喜んでいるのではないだろうか。

記念館概要

遺品は1万2千品に及び、すべて三沢市に寄贈された。それを受けて三沢市は6億5千万で述べ床面積833平方メートルの記念館を建設した。設計は渋谷天井桟敷もてがけた栗津潔。

館内は「市街演劇」をテーマに、「大山デブコ」などの舞台装置を再現。11基の木製机をならべ、その引き出しに生原稿や生活用品などの遺品を200点配置する。

館長は「寺山食堂」の四男で寺山とは同じ年の寺山考四郎氏。
考四郎氏は、寺山の父の兄義人の四男で、寺山の従兄弟にあたる。

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