風薫り 走れタチバナ アスコット

(前頁より)


こうして馬のことを書くと、いかにも憶良氏が競馬通のように見えるか
もしれないが、産湯を使って以来、一度も競馬競輪に行ったことはな
かった。
それは石橋を叩いても渡らないと言われる堅物揃いの清泉銀行員と
して当然のことであった。

ところが、ひょんなことからシティ勤めの英国紳士の一人に、
「タチバナさんは遠路はるばる日本から来られたのですから、話の種
にロイヤル・アスコットの競馬だけはご覧になってはいかがですか。
エリザベス女王もお見えになりますよ」
との勧奨をうけた。



ダボハゼのごとく何事にも興味を示す憶良氏のこととて、そうけしかけ
られて引っ込む訳にはいかない。賭け事に溺れなければよいのだと、
一日休暇を取って美絵夫人と出掛けることにした。

競馬に婦人連れとは何事かと驚かれる読者もいようが、そこがアスコッ
ト競馬のロイヤル・アスコットたるところ。

「ロイヤル」という言葉は日本ではロイヤル(王室)でない庶民でも使う
ので値打ちがないが、この国では「ロイヤル」とタイトルのつくものには
大変な権威がある。

アスコットはウインザー城から約6マイル(10キロメートル)南の鄙びた
村にある。
1711年のある日、アン女王は廷臣や侍女たちと郊外のアスコットでス
ポーツを楽しもうと考えた。アン女王は自らも馬に乗ると、
「皆の者!アスコットまで競争よ!」
と馬に鞭を当てた。
この時からアスコットの競馬は始まったのである。

王室が主役の競馬の性格は変わっていない。女王の持ち馬も出走す
る。
それより興味を引くのは、アスコットの競馬が行われる4日間、世界各
国から貴賓を招待し、このアスコット競馬をともに楽しまれるのである。
これ以上の王室外交はそうあるまい。

ロイヤル・ファミリーはもとより、貴族、騎士(諸君、英国にはまだ女王
より叙勲されるナイトの制度があるのだ)それに郷紳(ゼントルマン)た
ちが、着飾った夫人や令嬢を伴って、この競馬見物にやって来る。
ロイヤル・アスコットは上流階級の、初夏の社交場なのである。


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