電子の本ってなんだろう……と今さらながら考える


2000年のMACWORLD Expoの話題はMacOS XとおニューのiBook……。ところが、実際に歩いてみたら、Appleが一番熱心なのはDTVなんじゃないかと思えてきます。(いや、たぶんそうでしょう)ホームビデオをMacで編集して楽しみましょうってことなんでしょうか。iMovieスクールまで別枠でやってるくらいです。Macだけではないことですが、アニメーション、ムービー、DTMといったマルチメディア・エンターテイメント(というのでしょうか?)へと向かっている……インターネットも今年はバイプレーヤーになってしまったような気さえしてきます。(というよりは、もうベースとして定着したということかもしれません)
パソコンで「読書」するというスタンスは、この「みんなでエンターテイメント!」な会場でどう受けとめられるのでしょう。パソコンで「読書する」とは、どういう行為なのでしょうか。

会場の一郭を占めるMOSAのブース群の中に「サイバーブックセンター」主催の電子本横丁がありました。まっ赤な幟が他と違います。



これまでの横丁はカウンター形式とでもいうレイアウトでしたが、今回はちょっと違います。壁の前の棚にずらっと並べられた作品をお客とスタッフが肩を並べてのぞき込むといったあんばいです。



この形ですとちょっとお客が多くなると棚が見にくくなります。間口が狭い割に奥の物には手が届かないということもあります。これはマイナス点といってしまえばそれまでです。でも、お客とスタッフの距離がいやでも近くなるので、商品とお金のやりとりに追われるような単なる販売ブースでおわらないと考えれば、それもまたよしです。実際、こまめにお客に声をかけるという努力のかいもあり、そこに何があるのかが他のブースに比べてわかりやすかったことは確かです。ひとりかふたりのスタッフが暇そうにポツンと座っていて、何のブースだかわからん!というところをよく見かけるのですが、そういうことはありません。もちろん「そこに商品がならんでいる」というモノの持つ力も関係しているのでしょう。デモ用のマシンがないのが残念です。去年もありましたが、サイバーブックセンター製プリントアウト見本があってよかったです。(でも、あれはほんのさわりでしかないってことをわかってもらえるか、が心配)
棚にはなじみの作品、新作が肩よせあって並んでいます。「復刻シリーズ」は売れているようです。6枚ほどまとめて買っていった方もいました。(「これらは書籍の方はもう手に入らないですしね」と言ったら「これ持ってる。これも……」という返事……恐るべし)しかし、傾向としては2〜300円のものばかりではなく、むしろちょっと高いもののほうもしっかり動いているとのことです。またフロッピーによる作品が敬遠されるのでは、という懸念もはっきりとした形では出ていないようです。フロッピーがないから、というお客も中にはいたとのことですが、購入する・しないを大きく決定するほどの要因ではないのかもしれません。「結局、読もうと思った人はなんとかして読むでしょう」というスタッフの意見も、それなりに妥当なのかもしれません。

では、何があれば「読もう」と思うのでしょうか。
私がブースをのぞいて、真っ先に目が行ったのは(赤い幟は別として)右手のほうに張ってあったチラシでした。そこには
 <学研カメラ>
の5文字がありました。それは『Lens Vol.02 特集・魅惑の学研カメラ』というPDFによる作品でした。これが気になってどうしようもなく、話をしながらもちらちら見ていて「とりあえず先にアレください」と言っていたのでした。
これまでPDFの作品はサンプルとかマニュアル以外はほとんど見たことがありませんでした。でも、このとき、私にはそれがPDFだろうとTTZだろうと関係なかったのです。「学研カメラ」のコピーだけで十分でした。それをさらにMacで読むという行為への期待があったのも確かです。でも、それが電子本だろうと紙の本だろうと、私は手にとっていたでしょう。それは形式・メディアの違いでしかなく、内容への期待度には影響しないということを、思わず体験していたのです。「読もうと思った人はそれがどのような形であれ読む」という言い方も、あるいは成り立つのかもしれません。
もちろん、そんなお客ばかりではありません。T−Timeの特徴として一番に上げられることの多い縦書き表示の読みやすさにも、「縦書きになったからといって、そんなに読みやすくなるとは思えない」というお客もいます。文字の大きさが変えられるとかアンチエイリアスがかかるとか……でも、なかなか納得しません。そういう人にとっては、電子の本とは、ユーティリティソフトという範疇に入るのかもしれません。横丁に並ぶオリジナル作品を読むということとは別に、ユーティリティとしてのあり方もT−Timeにはある。そして、その見方をした場合、必ずしもそれに賛同が得られるとは限らない……どんなものでもそういうことはあります。ありますが……では、横丁とはその議論をする場としてふさわしいのでしょうか。単に「作品を売る」場としてだけでは成立しないのでしょうか。このCD−ROMの内容は何?という質問と同じくらい、あるいはそれ以上にT−Time使い勝手などの質問が多かったように思ったのは、私がいたときにたまたま耳でしょうか? そうでないとすると、はたして、多くの人が抱く「電子の本」のイメージはどのあたりにあるのかも気になります。
いったい電子の本は、どの時点で「本」になるのでしょう。フロッピーやCD−ROMのままでは、まだ本とは思えません。パソコンにデータをコピーしてファイルを開いた時、つまり文字なり画像が表示されたとき「本になる」のだとすると、ファイルそのもの・デジタルのデータの状態でもまだ本ではないということなのでしょうか? インターネットでダウンロードができる作品もあります。その場合、Webサーバでじっと待っているデータはダウンロードされるまでは本ではないのでしょうか。
そのことへのひとつの仮説(という言葉を思い浮かべた)が、「美しい暦」の作品群でしょう。袋とじの中にダウンロード先のURLが記載されていて、購入後アクセスしてもらうという形です。これは書庫のここに本があります、という道しるべのようなものです。その本を取りに行くという作業は購入者=読者にまかされます。インターネットに接続できるということが前提になっているので、それができないと読めないということになるのですが、フロッピーの場合もまたしかり。パソコンの環境のどこで折り合いをつけるかということへの提案でもあるのでしょう。ただ、豆本みたいな外観はそれ自体で完結しているように見えて「これが800円?」と言われたり、カタログと思ってそのまま持っていかれそうになったりと、少々扱いが難しいようでした。



この日、実は一番売れていたかもしれないのがT−Timeの1.0です。525円での特別販売。まだ使っていない人にはプラス2000円でバージョンアップできるというお買い得感もあってか、他の作品と一緒に買っていかれる方が何人もいました。



オリジナル作品が売れることが理想なのかもしれませんが、その入口のひとつとしてT−Timeが売れるということもやはり必要なのかもしれません。
買って帰ってインストールしたときに何を感じるか。それが単にソフトの使用感に終わらずに「新しい読書」との出会いになったとしたら……。もしかすると、この横丁の存在意義はそこにあるのかもしれません。常連の期待に応えることも、普及・浸透をはかることももちろんあるでしょう。しかし、横丁で一枚のディスクを初めて手にした読者のことを想うとき、その人に何かを手渡すことができるとしたら、それはメディア論でも方法論でも、まして技術論でもなく、一冊の本との出会いではないでしょうか。それは紙の本の場合となんら変わりはないはずです。そのために、横丁が開かれるのだというのは、もしかすると採算ベースという考え方からははずれるかもしれませんが、ひとつの(大甘かもしれない)理想です。
以前、エキスパンドブックに出会ったときの自分は、何を感じ、何を考えたか……それを今改めて考えても、どうもその後の事情などが加わってきて、まるきりの初めての気持ちそれ自体がなかなか見えてきません。今日も関係者とも一般の客ともいえない、なんとも中ぶらりんな気持ちで帰ってきました。
そして、今日買ってきた「電子の本」があります。私にも新しい出会いはまだ残っているのでしょうか。そう思って、パッケージを開けてフロッピーを取り出す……そのことを楽しいと私は感じています。

2000.2.19
つくいのぼる

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